縁と思いと見えない壁(後編)
教授はいつも通り言葉を口から垂れ流している。受け止める者が何人いるのか見当もつかない。そんなことも気にせずに、講義はすすすすと続いていく。
そんな中、周りと明らかに違う雰囲気で授業を受ける学生が一人。机の上に広げたノートをじっと眺めている。
周りの人間は、みんな同じように見える。無気力で、飽きていて、ずっと小さな画面を見ながら時間を潰している。彼らは未来を見ているのだろうか。みんなは不安を感じないのだろうか。
自分はずっと、こう考えていた。みんな不安に駆られ、必死に生きているものだと。そして、一部の人間はそんな恐怖を顧みず、積極的に挑戦して成功する。成功者はすべてを独占し、世界を変えていく。そして不安に負けた者は変化についていけず、すべてを奪われ、暴風に吹き飛ばされる。
俺から見て、アンは成功者だった。恐怖を感じず、挑戦し続ける。嫉妬を抱いていたことだってある。羨んだことだってある。
そのせいで、自分はアンを大きな存在として見すぎてしまった。そしてこのざまだ。
取り返しのつかないことをしてしまった後、出来ることは考えることしかない。考えても結果は変わらないし、満足出来るわけでもない。だが、何もしないより心は楽になる。
ぎいぃぃぃ……。
優作のリュックサックのチャックが静かに開き始めた。その小さな穴から、モフモフとした体が、少しずつ姿を現していく。
ルーズベルトだ。呼んだつもりはないが、勝手に出てきたのだろうか。
もぞもぞ……。
ぽんっ!
リュックの中から、かわいらしい頭が飛び出した。その瞳はまっすぐ自分を見つめている。うるうると、くりくりとしたかわいい目。彼は、自分を憐れんでくれているのだろうか。
ルーズベルトもまた、アンとの思い出の一つだ。毒ガスで満たされた部屋、目の前で繰り広げられる魔法バトル。様々な感情が入り乱れた、刺激的な時間だった。
小さなクマの人形は、こんな状況でも自分に心を向けてくれている。そう思えたとき、とても——。
……俺にやさしくしてくれるのは、“人形”だけなのか?
ゾッとした。今まで自分に向けられるやさしさを気にしたことがなかった。だが、そもそも自分には、本当にやさしさが向けられているのか。
改めて周りを見てみる。周りにいるのは同じような人たちばかり。だが、自分とは確実に違う。こんなに近くにいるのに、何かが違う。
ここには、何か“壁”があった。自分の周りを囲む四角い壁。自分は、この囲われた中にいる。壁を越えようとする人間はまずいない。外側からも、内側からも。唯一越えようとしてくれたのは、暴風のような魔法使いただ一人。自分が失ったものが、改めて大きなものだということを痛感する。
時間はそのまま過ぎ去っていく。それぞれの人間は、それぞれの時間を過ごしながら、なにかかしらの動作をしていく。誰が何を考えているのかなんて分かるわけがない。だって、自分の周りには大きな壁があるのだから。壁に隔離された世界。その小さな世界に、自分は一人。
はぁ……。アンは言っていた。自分はもともと別の世界にいたと。だから自分は邪魔者だと。確かにアンの行動は、自分にとって理解できないことが多かった。だが、別の世界にいるというのなら、自分だって同じだ。自分だって、隔離された別世界の中にいる。
なぜ自分は、アンの苦しみを理解できなかったのか。自分も同じような気持ちだったはずなのに。
ガサゴソ……。
ん? 隣から、何やら物を物色する音が聞こえた。うるさいな。考えにふける中、横槍を差されたようでちょっとした不快感を覚えた。
人間関係で苦労しない確実な方法、それは、人間関係を作らないこと。気にしたところで精神をすり減らすだけだ。別に自分が何か出来るわけじゃない。
ガサゴソガサゴソガサゴソ……。
うるさい……。自分は、今、こんなことに気を取られている場合じゃないんだ。優作は必死に気を紛らわそうとする。隣の人間を認識しないために、もがく。
もがくということは、当然ながら何も解決しない。もがけばもがくほど、泥沼にはまっていく。優作が無視しようとすればするほど、優作の注意の中に隣の人間が染み込んでくる。
——ああ、限界だ。
優作は隣の学生を見た。
そこにいたのは、筆箱の中を漁り、何かを探している学生だった。机を見ると、何やら書類のようなものが置いてある。薄くシャープペンで文字が書かれているので、恐らく下書きをしてから、ボールペンか何かで本書きをしようとでもしていたのだろうか。ならば、探しているのはボールペン、といったところだろうか。
少しすっきりした。
隣がどういう理由でうるさいのか、理解できただけで、かなりストレスが減る。それにしても、お隣が書いている書類はどのようなものなのだろうか。何か大切なものなのだろうか。もしかしたら、自分も何か……。
落ち着け。こうやって考えたら、更にストレスがかかる。冷静に考えろ。自分が相手に何か出来るわけがないだろ? 考えても無駄だ。気の毒だが、お隣は自分の過失によって何かかしらの代償を払うんだ。当然だ。何も憐れむ必要もない。
そのようなことを考えながら手元に視線を移すと、自分の手には、ボールペンが握られていた。
……バカみたい。優作は、自分の頭に浮かんだ愚かな考えを、一度追放した。
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