通り過ぎる暴風、残される種

 優作の部屋の前に立つアン。いつもならこのまま扉を開けるところだが、今日はその気になれない。というのも、優作の部屋から物凄い負のオーラが出ているからだ。アンは決して他の人の心に配慮をする性格ではない。しかし、人が発するオーラや魔力に関してはかなり敏感だ。アンは感じ取った。優作がとても落ち込んでいる。また、何か挫折するような経験でもしたのだろうと。なら、いつも通り励ませばいい。何ならもう一回空を飛べばいい。アンは一度深く深呼吸をし、力を込めてドアノブをガチャリと回した。

 優作の部屋は電気が消されている。目が慣れていくと同時に、部屋の中の様子を認識できるようになっていく。見るとカーテンがしっかりと閉められている。部屋はあまり散らかっていない。その部屋の奥で、無気力そうに椅子に座る人影。負のオーラを出しながら、生気を感じられない人影。間違いない。優作だ。

「……優作?」

刺激しないように、そっと声をかける。

「……」

彼に反応はない。それにしても、このパターンは見たことがない。いつもなら毛布にくるまるはずだ。こんな、干からびたように椅子に座るなんて何かがおかしい。今までのような励ましが使えないかもしれない。だが、いつもと違って閉じこもっているわけじゃない。話ができる分、いつもより楽かもしれない。

「優作!」

先ほどよりも強く声を放った。正直、弱っている相手に合わせてこちらも弱くなるなんて性に合わない。それに、ずっと弱く言っていたところで反応しなければ何も進まない。

「……アン、……なのか?」

かすかに見えるシルエットから、かすかな声が聞こえた。彼が反応した。

「そう! 私だよ! アンだよ! 優作! 何があったの?」

「……正直、よく分からないんだ」

「じゃあなんでこんなに落ち込んでいるの? 原因がないのに結果があるわけがないじゃない!」

「……やっぱり、アンは天才なんだな」

「え?」

「俺は、初めてアンの凄さが分かった気がする。俺なんかは、どう頑張ってもアンの足元、いや、足元まで到達するだけでも光栄だって思えるくらい、何にもできないんだ」

アンは、優作のことが理解できなかった。なぜ、急にこんなことを言うようになったのか。この時の優作の感情は、以前の彼を苦しめていた感情とは違った。不安に駆られ、焦り、更に不安になる連鎖。それこそが優作を縛るものだった。今の優作は、別のものに支配されている。同時にアンは、この優作の感情に見覚えがあった。ありすぎた、と言ってもいいかもしれない。アンが都市の壁を越え、異世界の壁を超えて逃げおおせた感情。城壁に閉じ込められていた時、うんざりするほど向けられていた感情。蘇るあの時の記憶。並木家の居心地の良さによって忘れていたものが、一気にアンの中に蘇ってきた。

「つまり……、何が言いたいの?」

アンの声が、一段階低くなった。しかし、優作はその変化に気が付かない。

「俺はずっと、アンは別の世界の人間だと思ってた」

「え?」

意外な場所を突かれた。この流れなら、次に来るのは必ず罵声だった。それなのに、優作は違った。

「そ、それは……、当然でしょ? だって、私は異世界から——」

「そういうことじゃねぇんだよ」

「じゃあどういうこと? 今、私と優作は同じ世界にいるじゃない?」

「同じ世界にいるようで、ずっと違う世界にいるんだよ」

優作は、ずっと意味が分からないことを言い続ける。アンはその言葉を必死に解釈しながら、優作と会話を続ける。

「俺は魔術を学んで、初めてアンと同じ世界に行けたと思った。初めて、アンをもっと理解できると思った。アンみたいに、いろんなことができるようになると思った。アンみたいに、大きな存在になれると思った」

「私……、みたいに?」

「だけど、無理なんだ」

かすかに、優作の声が震えた気がした。

「俺は、やっと根を張ることができた。才能を見つけることができた。だけど、アン。俺の才能なんて、結局この程度なんだよ。俺はどう頑張っても、アンみたいには——」

「そんな小さなことで悩んでどうするの?」

アンが優作の言葉を断ち切った。

「前、一緒に見たじゃない! この世界を遠くから。その時知ったじゃない! この世界の狭さを! 自分たちが、どれくらい小さな世界に——」

「俺とアンは、根本が違うんだよ」

ぶつっとした優作の言葉が、アンの勢いを止めた。

「あの時、俺は広い世界を知った。俺も、もっと変わらないといけないと本気で思った。必死に頑張った。おかげである程度魔術も使えるようになった」

「じゃあ何に困る必要があるの? これからも頑張っていけばいいじゃない!」

「どう頑張っても、俺は“大陸を駆ける風”にはなれないんだ。吹き飛ばされる小さなものなんか気にも留めず、気の向くままに動く大気の流れ。そんなものにはなれないんだよ。俺がなれるのは、大樹だ。大樹になれれば大成功だよ。深く根を張り、何事にも動じず生き残り続ける樹木のような強さがあればよかったんだ。どこまでも自由を求める強さなんて、俺には必要なかった」

優作の言葉が、この時少しだけ強く感じた。勢いはないが、静かに動く強さ。自由を求める強さとは全く違う強さをアンはしみじみと感じていた。

「俺は分かっていたはずなんだ。俺とアンは違う。考えも、性格も、境遇も全く違う。それなのに、俺はアンに憧れてしまった。目指したところで無謀で、ただ苦しむだけなのに。俺とアンは、住む世界が違うのに。幻想に浸ってしまった」

この時、アンは優作が言う“世界”という単語の意味を理解した。彼が言う“世界”とは、精神的に分けられるもの。気が付いたら形成されている、人と人を阻む何か。アンは、初めてこの概念を理解した気がした。


 同時に、アンはどうしようもない疎外感を感じた。もしかしたら、ロイランにいた頃からずっと感じていたのかもしれない。それの実態を、初めて理解しただけなのかもしれない。

「そっか。そういうことだったんだ」

「?」

アンの目からハイライトが消えた。明らかに様子が変わったアンを見た優作は、自分の心配事が一瞬で吹き飛んでしまった。

「私は、ずっと別の世界にいたんだね。他の多くの人間がいる世界とは別の世界。その世界で当たり前なことをされたところで私が嫌気を差すのは当然だし、私がいいと思ったことが本当にいいことというわけじゃないんだね」

言い終わったアンは、それからしばらく黙り込んだ。その雰囲気によって、優作は威圧されたように黙るしかなかった。

「……つまり、私は、邪魔者だということ?」

沈黙を破ったのは、暴風のような自由人から、絶対に聞くことができないような衝撃的な言葉だった。

「……え? アン、ちょっと待ってくれ! 俺は——」


 ゴゴゴゴゴゴゴ……。


 外で大きな風が吹き始めた。少しずつ風は大きくなり、家全体を揺らすほどの力にまでなった。この感じ、覚えている。あれは、アンが初めてうちに来た時、とんでもない暴風雨を巻き起こした時のものだ。

 まさか、感情によって、勝手に発動してしまう魔術でもあるのか? それともアンの特性なのか? よくわからないが、ただ一つ言えることがある。


 アンが、悲しんでいる。


 これだけは分かった。何かフォローしないと。別に俺は、アンを悲しめたいわけじゃない。ただ……。

「私は、ロイランの連中や優作の世界にとって、邪魔者だったってこと? ロイランではずっと異物のように扱われた。ここに来てからも私は、余計なことばかりして、幻想を見せて、ただ優作を困らせる、邪魔者だったってこと?」

「……あ」

優作は反論できなかった。確かに優作は、アンに何度も振り回された。アンを邪魔だと思ったこともあるし、余計な奴と思ったことだってある。

「……そうなんだね。私は、ずっと邪魔者だったんだね。風のように、どこかに留まることなく、勝手に過ぎ去っていくのが正解だったんだね」

「待ってくれ! そんなこと——」

「ありがとう優作」


 ドビュゥゥゥゥゥウウウウウウッ!


 風によって勢いよく窓が開けられた。優作は言葉を発しようとしたが、その前にアンは風に乗り、そのまま窓から出てしまった。

「そ、そんな……」

暴風の轟音が止み、部屋が静寂を取り戻した時、残っていたのは、風に吹き飛ばされた本の数々と、ただ茫然と立ち尽くす一人の学生だけだった。

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