第34話 魔事
俺は想定外の”再告白”でいやな汗をビッショりとかいて、ようやく社長室から解放された。
向坂はこの後、一本だけできる撮影があるらしいので、その打ち合わせで社長室に残った。
さて……肝心なことを整理しよう。
上條社長やMISAKIは向坂のあまりの変化に驚いたといっていた。いやそれは確かにそうなのだろう。でなけばコストをどぶに捨ててまで撮影を中止にするはずがない。
ただ俺の実感としては、向坂の変化がそれほどのものとは、どうも思えなかった。
さっき会った向坂は……全く持っていつもの向坂だった。
想像できることは……
彼氏となった俺の自惚れが許されるのならば……
向坂は俺の前ではいつだって、今日のような表情や振る舞いをしていた。
しかし俺以外……特にこのスタジオでは分厚い仮面を被っていためにその素の向坂の表情を皆見たことがなかったのだ。
それは近しい距離にあった上條社長やMISAKIですらもだ。
だから皆が驚いた。
思い出してみれば……俺が初めてこのスタジオに来た時に向坂と俺のやりと入りを視て驚いているスタッフが大勢いたではないか。
きっと、今回の驚きも同じ種類のものだ。
やっと向坂はこのスタジオでもいつも俺に向けている素敵な人間らしい女性として振舞うことができるようになったのだ。
この俺だけに見せていた向坂はもう俺独占ではないと思うと……ちょっと寂しい気もする
いやいや……ちょっとこの独占欲はキモイか?
俺は、エレベータで一階に戻って、待たせていた逆井の姿を探した。向坂も撮影まで時間が少しあるので後から顔を出すと言う……全く逆井ごときにそんな気遣い必要ないのに律儀なヤツだ。
トンッ!
と背中を叩かれた……
振り向くと……
「よう、櫻井!……ってそんな露骨にいやな顔するなよ?誰だと思ったんだよ?」
「いや、今回は逆井だと思ったよ」
「え?じゃあ前は違ったのか?」
「どうでもいいだろ?……そんなこと」
ホントこのやり取り毎度で疲れたよ……
「……で、向坂さんは?」
「間もなく来る」
「そうか……でもそうやって向坂さんの行動把握してるとか、”お前ストーカーかよ!”って突っ込むぞ?」
「そこは彼氏かよって突っ込めよ」
この”くだり”も毎度、毎度でウンザリだが、今日の俺はいつも通りではないことを改めて思った。
「まあ、実際……彼氏だからな」
こんな俺でも、やはり口に出して言いたかったのだろうか?思わず”逆井ごとき”に真実を話してしまった。
しかし……
「アハハハ……だったらいいのにな?」
まあ当たり前だが、逆井は全く信じていない。
別に”逆井ごとき”に信じてもらおうと、説得のパワーを使うのも勿体ない。
適当にスルーしようと思ったが……そうもいかなくなってしまった。
「あ、向坂さん!」
逆井が目ざとく向坂を見つけてしまったのだ。
今の向坂と俺が顔を合わせれば……なんとなくどうなるか、その風景が想像できてしまう。
「こんにちは、逆井くん」
そう言って、向坂は微笑んだ。
その笑顔は、いつも逆井に見せる貼りついた笑顔ではなく、自然の笑顔だった。
なんだ!その変化!?何か心境の変化でもあったのか?
あったよね……知っててボケてみました。
「な、なんか今日は一段と綺麗だね……さては恋してるな?」
向坂の変化には、”さすがの逆井”でも気付いたようでドギマギと照れてしまった。
素で見せる向坂の笑顔の破壊力は相変わらずハンパない。
クソ!その笑顔はいままで俺専用だったのに!
……ってまたキモイ独占欲……自重、自重。
「あ?逆井くん分かる?」
「おい、向坂、そこは否定してやれよ……逆井ショック死するぞ?」
いつもの調子で突っ込むと向坂は不満げに〝ジト目で〝俺を睨んだ。
な、なんでそんな顔するんだよ?逆井にバラしたら面倒だぞ?
俺は話題を変える事にした。
「この後の撮影とか……大丈夫なのか?」
「う、うん……しゃ、社長と相談して、次は大丈夫だろうって……」
って、いきなりカタイ!……カタイよ向坂さん?……表情カタイよ!?
そんなんじゃ”さすがの逆井”でもバレるぞ?…
「ん?どうしての向坂さん?」
やはり”さすがの逆井”も向坂の様子がおかしいことに気付いてしまった。
そう聞かれて、向坂のがウロウロ泳いで最後にすがるように横目で俺を見た。
「義人……まだ、逆井くんには言ってない……よね?」
「だって、まだ昨日の今日だろ?……”逆井ごとき”に、”いの一番”に報告することもないだろ?」
「ん?……何の話だ?」
「まあ、またお前に絡まれるのも面倒だから言っておくか……いいよな?向坂?」
「……うん……私は別に……」
「え?ナニナニ?……」
逆井は、最も逆井が聞きたくない衝撃の事実とはつゆ知らず、前のめりになって目を輝かせた。
「だから……俺と向坂が付き合うことになったと言うこと」
「……いや、もうそのネタは俺もそろそろ飽きたから」
逆井は興醒めしたように、取り合わない。
ホンッとお前ムカつくよな~
だからお前を説得するパワー使いたくないんだって!!
「だから今回のはマジでネタじゃね~よ」
「はいはい……櫻井は妄想で向坂さんと付きあってるんだよな……寂しい男」
「向坂……お前の彼氏を教えてやってくれ」
俺はこれ以上”逆井ごとき”にパワーをさきたくないので向坂に丸投げした。
すると……普段”よそ”では見せたことないような”あわて顔”で向坂は真っ赤になってしまった
向坂の顔をみた”さすがの逆井”も……ようやく気付いたようだ。
向坂の顔とは対照的に逆井は顔面が蒼白になってきた。
「お、お、お……おまえ……まさか!!」
逆井はもうまともに声も発することが出来ないくらいに衝撃を受けているようだった。
「さ、さ、向坂さん……ホントなの?」
「うん……まあ、この人が私の彼氏になりました」
ハニカミながらも向坂ははっきりと逆井に伝えた。
それを聞いた逆井は夢遊病者のようにフラフラと数メートル歩いて、空いている椅子にドサッと座りこんで放心してしまった。
まあ、普通はそのリアクションだよな。
俺のような平凡な男が、まさか向坂のような天上人と付き合うとは誰もが思わないだろう。
きっと逆井一人に伝わるだけで、その情報は一気に学内を駆け巡り直ぐに皆の知るところになるはずだ。
だから、今後も何かと学内ではいろんな視線が向けられることになるかもしれない。
まあ、そんな視線はきっともう向坂を苦しめることはない。
俺は、彼氏として、恋人として向坂に視線を送り続ければいいのだから……
…… …… ……
向坂は今日、唯一できることになった撮影に向かった。
逆井は、もう向坂にも会えたし帰るのだろうと思ったが、もう少しスタジオにいたいと言う。まあ、もう滅多にこんなところこれないだろう。この芸能界という華々しい世界は普通の大学生とってそれこそ異空間であり……あの千葉にある夢に国で過ごすよりよっぽど夢の世界を感じる事が出来るのかもしれない。ここを離れがたいという気持ちも分からないではない。
俺は逆井から根掘り葉掘り聞かれるのも煩わしいので、向坂の撮影が終わるまでビル内にあるコーヒーショップで時間を潰すことにした。
ただ……
ゆっくりする間もなく、またもスマホに着信があった。
”あれ?また上條社長だ……なんだ?”
やっぱり向坂の撮影が上手くいかなかったのか?……また俺に八つ当たりとかやめてほしいんだけど?
「櫻井……YUKINAはまだそっちにいるのか?」
「は?……とっくに撮影に向かいましたよ?いないんですか?」
「ああ……撮影がまもなく始まるのに姿が見えない」
え?!
どういうことだ?
「そ、そんな……もう撮影室に向かって随分時間たってますよ?」
向坂がまだ撮影室にいないというのは明らかにおかしい。
何があった?
あまりの焦燥感で血の気が一気に引いた。そして今になって肝心なことが俺の思考からすっかり抜け落ちてしまっていたことに愕然とする。
し、しまった……なんで彼女を一人にさせてるんだ俺は?
なに呑気にコーヒーなんて飲んでんだよ?
俺はこのスタジオに何をしに来たんだ?
田尻の警告を伝えにだろう?
だいいち……向坂に田尻の警告を俺は伝えていないじゃないか?
ここにきた”ようやく”俺は自信の異常に気付き始めた。
いつもは慎重すぎる程に慎重な俺がそんなことすら意識から抜け落ちている。
おかしい……いつもの俺でない。
俺はうすら寒い恐怖が心の底から湧きおこってくるのを感じた。
マズイ……やられたというのは?俺は?
俺は急に夢から醒めたように現実に戻された。
スタジオに来てから俺は何をやっていた?
渋谷駅で逆井に会って……MISAKIと話をして……上條社長と話をして……なんとなくフワフワと居心地のいい会話ばかりが続いていた気がする。肝心のことがすっかり俺の思考から抜け落ちてしまうには”作られ過ぎている”状況が俺の身次々と起きていた。
この感覚は知っている。
この浮ついて、地に足がついていない……何かに酔っているような危うい感覚。
大きなミスをするときには大抵こういう時だ。
まずい……魔だ……
俺としたことが魔に差し込まれてしまった。
向坂のいつもと変わらない顔に……警戒心をすっかり奪われてしまった。
忘れていた……
闇は……
”向坂本人”から発せられていることに。
向坂の変化に気づけなかったのは……俺がそれに気付けない程に魔に付け入られていたということだ……
あんな浮ついた状態で……表情の機微を見抜けるわけがない。
それを俺だけ知っていた向坂の顔とか……アホか俺は!?
「社長……すぐに探します……だから向坂が見つかったらすぐに連絡をください」
「ああ分かった……なんだ櫻井?何をそんなに慌てている?」
「いえ……大丈夫です……とりあえず切ります」
まずいぞ……絶対にまずい。
何か起こる……
「あれ?櫻井?どうした?……血相変えて?」
「さ、逆井!……向坂見なかったか?」
「え?向坂さん?ああ……向坂さんならさっきちょっと見栄えのいい男と話してるの見かけたぞ?……ちょっと向坂さん困った感じだったけど?」
と、東郷だ……あのバカ!まさか自分から俺たちのこと説明に行ったのか?
何やってんだよ……
そうだ……先に俺が田尻の話を、田尻の警告を伝えておけば……
「悪い、逆井、向坂を見かけたらすぐに連絡くれ。そして申し訳ないが向坂を一人にしないでおいてくれ」
「おい!櫻井?ナニ言ってんだよ?意味わかんね~ぞ?」
「いいから!!……頼む!そうしてくれ!」
「ああ……ああ、分かったよ」
逆井は怪訝な顔をしたが、俺の慌てぶりから何かを悟ったのだろう……最後は俺の話を聞き入れてくれた。
向坂……どこにいる?
クソっ!!
当てもなく探しても見つからない……どうしたらいい?
そうだ撮影室だ……まずそこへ向かってみよう。
向坂はそこに向かったはずだから。
どこだ?
撮影場所は?
すると幸いなことに……MISAKIの姿を見つけることができた。
俺はMISAKIに近づき、声をかけた。
もうさっきのような軽口をたたいている余裕はない。
「突然済まない……向坂……いやYUKINAはいまどこかわかる?」
「どうしたんですか?そんな怖い顔して……」
「悪い、ちょっと急いでるから……」
「な、なんですか……ゆ、YUKINAさんなら3FのC撮影室だと思いますよ……」
「す、すまない……助かる」
MISAKIは賢くて目敏い女性だ。不信感全開の顔をしつつも即座にこちらの聞きたいことを的確に話してくれた。
俺はエレベータで三階まで行き、C撮影室を探した。
……それほど広くないフロアーなので、俺はすぐにC撮影室と書かれた扉を発見した。
スタッフも向坂を探しているはずだ。ここまできたら勝手の分からない俺が一人で探すより、撮影スタッフと一緒に探したほう効率ががいい。
いきなり扉を開けるのは、流石にまずいと思い、俺は撮影室の扉をノックした。
もともとノックをするような扉ではない。ノックしても曇った音しかしない。これではとても中まで音が届いている気がしない……
どうする?開けるか?
俺が扉のまえで逡巡いていると……幸いなことに少しして扉が静かに開いた……
そして、扉から出てきたのは……
なんと……
東郷だった。
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