第28話 少女

 俺と向坂は、もうすっかり暗くなった駅近くにある公園の中を歩いていた。公園の街灯はかなりの光量で道を照らしているので歩く道は昼間のように明るい。


 散歩する人、ランニングする人、近しい男女が仲睦まじくする姿……


 思い思いの風景が俺達の目の前を通り過ぎていった……



 ……… ……… ………


 俺が向坂のことを一人の特別な女性と意識してから、その想いを伝えることを躊躇ってきた。


 向坂と言う女性は確かに容姿はモデル界にあっても一目置かれる程であり、また彼女の頭脳は難関私大K大学においても群を抜いていた。表向きのスペックでは、彼女は最上位に君臨する”女神”という属性すら彷彿させる。


 しかし俺は彼女がそんなハイスペックすぎるから……というような上っ面の理由で前に出ることを躊躇していた訳ではない。


 俺が怖れたのは格差ある女性に踏み込んで撃沈することではない。そうして恥をかくことなんて全くもって恐くはない。


 俺が恐れたもの……


 それは彼女が抱える「闇」の存在だ。


 向坂の周りにいる男が感じたのはその闇の持つ「魔性」とも呼べる魅力だ。


 しかし俺はそういった得体のしれない「魔性」を向坂から感じたことはない。


 それでも俺は向坂の背後にいる「闇」の存在を無意識に感じとっていたのだと思う。だから俺はその「闇」に踏み込むことに恐怖した。


「闇」に不用意に踏み込むことは危険であり、その危険は時に「命の危険」を伴うということを深層心理学を学ぶ俺は十分すぎる程に知っている。


 だから足が竦んで……前に出ることをためらった。





 いままでに向坂は事あるごとに寂しい顔を覗かせた。


 思えばそれは決まって俺が彼女に踏み込む事をためらった時であった。田尻のサークル説明会の帰り道、向坂の部屋、そして田尻から俺との関係性の弱さを指摘された時。


 そんな時、いつも彼女は俯き、悲痛な表情を見て……最後には諦めたような寂しい顔をした。


 俺は彼女のそんな心の声を感じとって……俺は向坂が泣き続けている夢を見たこともあった。


 向坂は俺が踏み込む事をずっと待っていた。


 そんな辛い顔をしながら……心ではきっと涙を流しながら……苦しい顔を笑顔と言う仮面で偽って……ずっと、ずっと我慢強く待ってくれていた。


 それなのに……


 俺はあまりに不甲斐なかった……


 向坂が田尻に俺との関係性を突き付けられた時……


「私がなんとかします」


 とまで俺は向坂に言わせてしまった。田尻も呆れた顔でそれは向坂の仕事ではないと言った。


 そうだ。その仕事は俺がまずやらなければいけない仕事なんだ。


 森内が言っていたようにここには難しい理屈を持ち込む必要は一切ない。


「闇の恐ろしさ」


 なんて曖昧模糊なもののために彼女にあれ以上……寂しい顔をさせてはいけない。




 男なら愛する女性にあんな顔をさせてはいけないのだ。


 俺が不甲斐ないという理由だけで向坂を苦しめるなんてあってはならない。


 俺は二度と向坂にあんな顔はさせはしない。


 俺は二度と向坂を泣かせはしない。





 だから……





「向坂……」




 俺がそう言うと向坂の肩がピクリと動いた……




 そして無言のまま俺の顔を見た。




 向坂の真剣な眼差しは、あまりに真っすぐで……そして間違いなくその瞳は何かを期待していた。


 その瞳を見て……俺は安心して言葉を繋いだ……





「俺……向坂のこと……好きだよ」





 向坂の大きな目がもっと大きく見開いて……




 向坂の口元は……



 みるみるへの字に歪んで……




 その真っすぐな瞳からは涙が溢れだした。




「……知ってた」




 向坂はそう一言……泣き声で呟いた。




「え?知ってた?」




「ウソ……ホントはずっと怖かった」


「怖いって……何が?」


「義人が離れてしまったらどうしようって」


 おそらく俺がいちいち向坂のことで落ち込む時、ことさら明るく振舞っていたのもきっと不安の裏返しだったのかも知れない……


 そんな彼女の気持ちも知らずに。彼女の気持ちに目を向けず、俺ばかりが独りよがりな行動を取り続けていたのだ。


 情けない。


「でもよかった……ホントによかったよ」


 向坂の言葉は舌足らずな幼い子供が母親に言うようだった……そしって口をアヒルのように可愛らしく歪めて……また泣き始めた。


「不甲斐ない俺で済まなかった……でも……もう間違えない……俺は……」


「……」


 向坂は涙でグチャグチャになった顔を俺に向けて……綺麗に輝く瞳を俺に向けて俺の言を待った。


「俺は向坂に一番近しい男として向坂を闇から救ってみせる」


 ”闇から”という語彙を敢えて含めたのは、深層心理学を知る向坂ならその覚悟が伝わるとおもったからだ……


 それは「命を掛けて護る」という意味だから。



 向坂は……聡明な向坂だからその意味を直ぐに理解してくれた。




「うぁああああ~……」


 向坂は、立ち呆けたまま……まるで子供のように……向いて大声で泣きじゃくった……




 俺は向坂に近づき……今度こそは俺の方がそんな彼女をしっかり両腕で抱きしめた。


 向坂は顔を俺の胸にうずめたまま……ずっと、ずっと子供のように泣き続けた。



 向坂は不安だったのだ……ずっと、ずっと俺に会う以前から……ずっと。


 向坂と言う女性はホントは実はこんなにも幼い少女のように純粋で無垢な少女のままだったのだ。


 彼女がいつもふるまう大人びた仕草、作り物のような笑顔、そんなもので身を固めて生きていくしかなかったのだ……あの地獄のような環境で。



 …… …… ……


 向坂は、散々に泣いた後……少し恥ずかしそうに伏し目がちに俺を見た。


 その顔は、モデル然とした大人の女性の顔ではなく今までに見たこともない一人の少女の顔がそこにあった。


 ああ、これが……これがホントの向坂雪菜という女性の顔なんだ。


 俺はようやく……今になってはじめた彼女の本物の顔にたどり着くことが出来た。







「私も義人が好き」





 向坂もはっきりと……言葉にしてくれた。





「知ってたよ」



「だよね……私、結構分かりやすくアピールしてたから」


「アレで”友だちとしか思ってない”なんて返されたら一生、女性を信じられなくなってたところだよ」


 俺はそう軽口を言って、二人で笑いあった。






 会話が途切れると自然と俺は向坂の肩を引き寄せ……







 唇を合わせた。






 俺は……ようやく……ようやくスタートラインに立つことができた。







「ゴホンっ!」






 え?ウソでしょ?



 横目で声の主を見ると……



 犬の散歩をする老人だった。



 な、なんだ……


 俺はほっと胸をなでおろした。



 不覚にもあのタイミングで、一瞬小杉先輩の顔をおもいだしてしまったことが心底悔やまれる。


 せめて森内の顔だったらよかったのだが……いや、それは向坂的には、もっとまずいのか?ならやはり小杉先輩……オエっ!!







 ホント、あの二人邪魔。

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