第8話 誘引
俺は朝一に、一般教養科目である「社会学概論」の講義を睡魔と闘いながら、今なんとか聞き終えたところだ。
午後予定していた講義が休講となったため、このまま自宅のアパートに戻ろうかと思案していると、滅多に鳴らないスマホに着信があった。
発信元に「向坂雪菜」の文字を見つけて、未だ抜けていなかった眠気は一気に吹っ飛び、ハイテンションになった俺は電光石火の勢いで電話に出た。
「え?出るの早いね?」
しまった!あれ程「即レス」は気を付けようと思っていたのに着信が来るのが想定外過ぎて、またやってしまった……
焦りつつも向坂の声を聞くと、つい頬が緩む。
向坂との衝撃的な邂逅は一週間前。それ以降何度か向坂と顔は合わしていたが、スマホへ着信があるのははじめてだ。だからテンション上がりまくりの即レスも致し方ない。
ただ、流石にこれだけでハイテンションになってニヤついていることを向坂に悟らせるたくはない。
「いや、たまたまLINEチェックしてただけから」
声のトーンを高性能イコライザーで調節するイメージで、極力平静さを装って応えた。
「アハハ嘘だ、嘘だ!声のトーンがわざとらしい!」
なんだよ、俺のイコライザー全然性能悪いじゃんかよ?それとも故障中か?
声のトーンとか読むなよ。だから鋭すぎるんだよ。この娘は。
「ほら、そこは、分かってても気づかないふりが正解でしょ?」
苦し紛れに反論すると、
「義人くんにはそんな事はしたげないよ?あ、これ私的に特別視しないと言う、私の特別な対応だからね?」
何だよ。そのややこしい言い回しは。特別な対応とか言うなよ。勘違いするだろうが。
「あーっ、もう分かったよ!降参!向坂の特別な心遣いに感謝感激!」
もうヤケクソだ。勝てる気がしない。既に疲れた。
「フフ、やった!」
向坂は嬉しそうにリアクションした。
「で、何?」
気を取り直して、俺は会話を普通のテンションに戻した。
「義人くん、今日の予定は?」
「午後休講になったから暇になった」
「じゃあ、これから会おうか?」
「え?え?なんで?」
「なんでそんなにドギマギしてるのよ?」
「いや、滅多に女性からお誘いいただけないものですからね、残念ながら」
「そっか、嬉しいんだ」
「バッカ!想定外だったというだけだよ」
「そうか嬉しくはないと」
「だから急に声のオクターブ下げんなよ、マジでこえーから。そうは言ってないだろ?」
「じゃあ、やっぱ嬉しいんだ」
そう言って向坂はクスクスと笑った。
ああ、もうこれ以上こいつのペースにはめられてたまるか。
もうこの話題ぶった切らないと。
「向坂はもう大学にいるのか?」
「うん」
「あれ?おまえ今日は仕事で来れないって言ってなかったか?なんでこんな朝からいるんだよ?」
「義人いまどこ?」
なんだよ、そこスルーかよ。
「俺は今、B棟の401で社会学講義が終わったところだけど……あれ?」
「何?」
「今、義人って、いきなり呼び捨てした?」
「いちいちそういうの反応しないでよ。それはさすがにウザい」
し、しまった!今のは自然にスルーだよな、気づいても。きっと意識的にやってる向坂のことを思えば。
「ああ、ちょっと自意識過剰すぎた」
「まあ、義人らしいと言えば義人らしいんだけど」
「だいたい向坂も唐突過ぎるというか、名前呼びでの駆け引きはもっとナチュラルにやってくれよ」
「駆け引きとか言わないでよ。私があざとい女みたいじゃない」
「え?違うの?」
「マジ義人ムカつく!」
そうスマホから向坂の声が聞こえたが、その刹那「ペチ」と、後ろから頭を叩かれた。
振り返るとスマホを耳にあてたままの向坂が不貞腐れて立っていた。
スマホで会話をしながらここに向かっていたのだろうか?にしても来るの早くね?
現れた向坂は、はじめ身長は俺より高いと思ったが、目線は俺よりもやや下にある。8頭身スタイルだから実際の身長よりも背が高く見えていたのだろう。
それにしても透き通るような肌に控え目に施されたナチュラルメイク。その容姿は息を飲むほどに美しかった。
今更ながら「別世界の存在」と言うことを思い知らされる。
至近距離に彼女を見てしまえば、いままでスマホで自然に会話していたのが嘘のように思えて、急に緊張してしまった。
「ああーっと」
「はい、そこで緊張しない!」
「いや、無理。もうちょいその容姿に慣れるまでリハビリ期間くれ」
「なにそれ?さっきは随分調子に乗ってたみたいだけど?」
「調子に乗りました。反省しきりです。てか、来るの早すぎない?」
「べ、別に義人の講義が終わるのを待ってた訳じゃないからね?」
いやいや、自分からそれ言ったら〝待ってた〝って言ってるのと同じだから。
珍しく動揺して、今日の向坂はなんなんだ?
滅多に大学で見かけない向坂が朝から大学いるのが、そもそも不自然なんだし。なんで俺を待ってんだよ?ストーキングなの?いや、それは俺がやっても向坂が俺にやる訳ないな。
って俺はやる可能性あるのかよ!
俺は少しの間、押し黙ってしまった。
「何なの?」
向坂は俺の沈黙に不安げな視線を向けながらたずねた。
「いや、色々ついて行けず混乱してるんだよ」
「そんな深く考えないでよ。とりあえず、一旦大学出ようか」
向坂は誤魔化しながらそう提案した。
まるで分からん。いちいち反応し過ぎる俺が悪いのだと思うが、色々解せない。
朝からすでに疲れたよ、全く。
「で、何処か行く当てあるの?」
「うん、私の仕事場」
「は?どういう事?」
「これから撮影あるから、付き合って欲しいんだけど?」
「え?何それ?意味わかんないんだけど?」
「まあ、職場見学?」
「なんだよ、その雑な説明。俺モデルとかなる気ないんだけど?」
「アハハ、義人がモデルとか、ちょっとウケる」
あ、今、素で馬鹿にしましたね?俺だってプロのスタイリストがついて頑張ればもしかするともしかするとだぞ?いや、ないな……すいません調子にのりました。
「何で?俺が付き合う意味あるの?」
「あるの」
少し拗ねたように向坂は断定した。
反論を許さぬ物言い。
しかしその言いようが逆に「言外」の意味を濃厚に匂わせてしまっている事に向坂は気付いているのだろうか?
俺は探る様に向坂の表情を凝視した。
向坂はそんな俺の詮索に気づいたのか居心地悪そうに眼を逸らした。
冷静に考えて普通の大学生でしかない俺がモデルの仕事に付き合ってどうしろというのだ?
まさか向坂が俺に自分の美しいモデル姿を拝ませたい訳でもあるまいに。
そもそも、大学内では既に周知になりつつあるが、向坂が人気モデルYUKINAという事実は、向坂にとってあまり触れて欲しくない話題のはずだ。
それを先日会ったばかりの俺をその撮影現場に誘うのはどう考えても不自然だ。
どういう事だ?俺に何を期待している?
怪訝な顔で凝視された向坂は、ついに顔を背けた。そして向坂はこれ以上この話題をする事を許してくれなかった。
白々しく向坂は話を逸らす様に心理学の話題をし始めた。
俺もこれ以上詮索する様な野暮はしない。向坂が急に始めた、そのわざとらしい心理学ネタにまんまと乗せられる事にした。
まあ、これはこれで楽しい会話だから良いんだけど。
向坂の仕事場は渋谷、道玄坂にあるという。だから向坂と俺は大学最寄りの高田馬場駅から山手線に乗り渋谷に向かった。
列車の中では向坂とは心理学の話を続けた。向坂も敢えてモデル関連の話題は避けているようだった。
渋谷駅のハチ公口を降りると相変わらず凄い人ごみだ。渋谷の駅前は平日も休日もない。いつ来てもこの有様。
その人混みの中にあっても向坂の存在感は群を抜いていた。すれ違う誰もが向坂の姿を凝視した。男に限らず女性までも。
道玄坂を上っている途中、「YUKINAさんですか?」と声をかけてきた二人組の女子高生がいた。
向坂は、否定するかと思ったが素直に「はい、そうです」と明るい笑顔で対応していた。いままで俺の前では見せなかった外向きの笑顔にちょっとビックリした。先日、逆井に見せた笑顔ともまた違う。
「一緒に写真いいですか?」
「ゴメンね、写真はちょっとダメなんだ」
「あ、そうですよね。すいませんでした」
モデルだから安易に写真取られちゃまずのいか?
女子高生も分かっててダメ元で聞いているんだろうな。
向坂は申し訳無さそうにしつつも、求められた握手には笑顔で快く応じていた。
女子高生二人は「ヤバイYUKINAに会えた」「超キレイ」「泣きそう」と燥ぎながら去っていった。その一人は感激のあまり涙ぐんでいた。
勿論、俺に対しては「何でこんな冴えないのが隣にいるんだよ?」という侮蔑の表情を落としていったのは言うまでもない。ジョシコウセイミサイル、ちょっと威力ありすぎました。
俺は女子高生が涙ぐむほどの憧れの存在であるという現実を目の当たりにしてしまうと流石に隣にいるだけで怖気付いてしまう。
「YUKINAちゃんは、優しいな?向坂ちゃんになると俺には全然優しくないのに」
今なら許されるだろうと思い、少し冒険気味に茶化してみた。
向坂は今のやり取りを見られたのが恥ずかしかったらしく、珍しく耳まで真っ赤にして俺を睨みつけた。
「でも、さすがプロだな。大したもんだ」
俺は素直に彼女の対応を賞賛した。
すると向坂は不意をつかれた様にキョトンとした。
「な、何よ、急に褒めたりして」
「素直な感想だよ。マジ惚れそうになったわ」
これくらいの返しで向坂を揺さぶれるとは思っていなかったが、果たして軽く反撃された。
「あれ?もう私に惚れてたんじゃないの?」
はい、撃沈。
”サキサカミサイル”は”ジョシコウセイミサイル”よりも数段威力がありました。
さて、俺たちは向坂の先導で道玄坂を少しのぼった路地に入り、ようやく撮影スタジオに着いた。道玄坂といえども少し路地には入ると人通りは極端に少なくなる。
「ここ?」
「そう……」
目立たない立地だが、予想以上に立派な5階建てのビルだ。
ビルの入り口には「Kプロダクション」「Kスタジオ」と上下に並んで表記されてたプレートが掲げられている。
「これがお前が所属する……プロダクション?スタジオ?」
「ええ、私が所属する事務所……といっても私はこの専属スタジオでモデルの仕事をするだけだけど」
なるほど、スタジオを立ち上げて、芸能プロダクションまで職種を拡大しているとか……そんな感じか。
ただ、何だろう。
さっきまでは軽口叩いていた向坂のテンションが急に低くなった。まあ仕事が楽しいなんてやつはそうそういるもんではないと思うが……
いや、それにしてもちょっと表情が暗すぎる。
俺は否応なしに俺が向坂と初めて会った日、俺と連絡先の交換をした後に早々にカフェを後にしたときに一瞬見せた暗い表情を思い出した。
たしかあの時はLINEをチェックしてるときに急に表情が激変した。
つまり今の浮かない顔から想像するに、あの時もこのスタジオに関係する連絡だった可能性が高いな。
「浮かない顔だな?」
俺は思ったままを口にした。
「まあ……ね」
否定しないのか。
「で、俺はどうしてればいいの?」
「私のこと、ただ見ててくれるかな?」
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