第2話:重なる


 例えば、例えばだけど、私がそれを望んでもいいのだろうか。

 緑はもしかしたらそこまで考えていないのかもしれない。

 難しく考えてしまうのは、始まりが原因な気がしていた。

 始まりが歪すぎて、どうしたらいいのか分からずに、3週間ばかりの時間が過ぎ、何事もなく、いい年をこいた二人がここまで来ているのはどうなのだろう。

 童貞でもなければ、処女でもないのに。

 抱き合って、キスして、おやすみ。

 私だけ……そういうことを望んでいるんじゃないかと不安にもなるし、私には魅力がないのかと不安にもなる。

 だけど今さら、裸を曝け出すことに抵抗を覚えているのも事実で、とにかく恥ずかしい。

 なので言葉にして表すには、何とも言い難い話だったのだ。







 新の質問は実に答え辛い問いかけで、考えちゃいないわけでもないけど、どうしてもすぐに言葉は出てこなかった。

 俺達はまだ行為をした事がないから。

 そりゃしたいさ。好きな人と繋がって愛して愛されて、二人だけの形を作り出すものなのだから。

 子供だって欲しいさ。人の子でもあんなに可愛いと思うんだから、瑞希との子なんて最高に可愛いじゃないか。


 だけど、俺だけがしたいって思っているのかもしれないと考えると、中々進み出せないのも事実だった。

 歪に始まった俺達の関係は簡単なことなのに、その一歩を踏み出せずにいた。

 魅力がない訳がない。

 俺が一体今までどれだけの理性と戦ってきたと思ってるんだ。他の男とは違うのだ。


 求め求められて、お互いの意思があってこそのもの。

 けれど現実はそう上手くもいかなかった。

 セカンド童貞という不名誉を自慢げに言っていただけはあると思う。まさしく童貞そのもので、どうしたらいいのか分からなくて、結局そのまま寝てしまう。


 この繰り返しばかりで、タイミングは毎日あったのにも関わらず、ずるずるとここまで行為に及ぶことはなかったのだ。

 こうやって考えることは出来ても、いざ直面すると心臓はこれでもかとバクバクするし、変な汗を掻いてしまうしで、本当に情けない。……童貞かよ、まじで。


 だからこそ、新の問いかけに応えることが上手くできなかった。

 きっとそんなつもりで聞いたわけではないと理解していながらも、言葉にするのは難しかったのだ。






 聞いてはいけないことを聞かれたわけでもないのに、シーンと静まりかえってしまった。

 私も緑も質問に応えることが出来ず、妙な空気だけが車内を包んだ。


「別に変な意味で聞いたんじゃないんだよ」


 そんな空気を察してか、新君はまた口を開いた。


「ただね、これからの事を考えたら、2LDKじゃ狭くなっていくんじゃないかなって思ったんだ。二人が子供はいいって考えてるならそれでいいんだけどね? でも人生は何が起きるかなんて分からないから。一応頭に入れといて、家探しをした方がいいんじゃないかなって。選択肢はだけじゃないんだから」


 彼の言葉は私達の事を考えて言ってくれているとすぐに理解できた。

 これから先のことは誰にも分からない。だけど、少しばかり先を見て選んだ方がいいのではないかという提案なのだろう。

 彼から見て、私達は直近のことしか考えていないように見えたから出た発言だと思った。

 その通りで、私達は先の事を考えていなかった。

 確かに子供が出来たら、2LDKじゃ狭くなる。間違っていない。

 でも、私達はそれ以前の問題だから何とも言えないわけで。


「子供ね……私は欲しいかな。やっぱり好きな人との子だからね。緑はどうなのかな?」

「えっ? っと、まあ子供は好きだけど……そうだな。それも頭に入れておくべきことだと思いますね、はい」

「なんで敬語なの」

「いやあ特に他意はないんだけど……」


 緑もまた、私と同じことを考えていたんだろう。

『俺達はまだそもそもしていないんだが』と。


 大人なのに高校生みたい。

 付き合って3ヶ月でする。みたいに、時間の経過に縛られて、誰かが作ったかも知らない暗黙のルールに乗って、事の順番を守っているみたい。


 私達は大人なのに、まるで子供だ。

 然るべきことをしてすればいいのに、時間という概念に囚われて、その機会を棒に振っているだけ。何もしてはいけない事ではない。ましてや高校生じゃないんだから。しっかりとその知識は持っている。


 やってしまえば、それまでで。時間がどうどか関係なくなるし、それから恥じらいはなくなってバンバンやるのには変わりはない。

 現実は時間が空けば空くほど、逆にしづらくなっていく。

 まだ、まだもうちょっと経ったらなんて、何も意味はない。

 結果はどうしたって変わらない物なんだから。


「新君の言う通りだね。私達だけ、じゃないかもしれないし。もっと考える必要がありそう」

「まあ焦らずじっくり選んでいけばいいさ。今すぐに家を出てけなんて言われている訳じゃないんだしね」


 新君の言葉にうんうんと頷くと、緑は「俺だけじゃないんだよな」とポツリ呟いていた。


 その言葉を聞いた私はギュッと肯定の意味で握る手に力を込めた。







 二軒目の物件に辿り着いた。

 オートロック完備のマンション。

 玄関にはよくありがちなインターホンがあり、その反対には管理人室があった。

 新はその管理人に話をして鍵をもらうけどと前置きして、


「2LDKと3LDKどっちもあるけど、どっちが見たい?」

「そうだな、3Lの方を見ていみたい。瑞希は?」

「私も3LDKの方がいいかな」

「じゃあその鍵も貰っておこう。最初に見るのは2LDKからだけどね」


 今の言葉はさっき言っていた下を見てから上を見れば、後者の方がより良くみえるというやつだろう。


「意外と仕事できるのね、彼」

「知らないだろうけど、あいつはあんなんだけど親からはすごい信頼されているんだぞ。今日は皆外に出て他の社員がいなかったけど、皆年上でなベテランなんだ。でも、それでも契約件数はあいつが一番なんだ」

「適当に見えて、ちゃんとしてるものね。私達のこと考えてくれてるし」


 ほんの少し頬を染めてこちらを見てきた瑞希に俺はドキッとしてしまった。


「そ、そうだな。寄り添ってくれてる気はする」

「楽しみだね? これから」

「おおお、お前っ、それはどっちだ!?」


 2つあることを分かってて言ってないか!? どっちとも捉えられる話し方してるだろ!?


「どっちだって、これから家を見るしかないじゃない」

「ああ、そっちね」

「まあ夜もだけど……」


 …………っ!? 聞こえてるんですけど、ねえ、そういうことだよね……?


「お待たせー……ってどうしたんだ二人とも」


 俺は瑞希から目を逸らし、ポリポリと赤く火照った頬を掻いていた。新の言葉に後ろを振り返ると、瑞希は蹲って背を向けている。

 隠しているつもりかもしれないが、耳まで真っ赤になっているので隠しきれていない。

 自分で言って、自分で自爆したんだろう。

 聞こえていないと思ってるが、恥ずかしくなったんだろうと推測してみる。


「……瑞希、行くぞ? ほら立ちな?」


 しゃがみ込んだ瑞希に手を差し伸べると、振り返ってまた顔を隠した。


「……見れない。緑の顔が見れない……」


 相当大爆発してしまったみたいだ。全然立ち上がる気配がない。

 だから仕方なく、ちゃんと聞いていないことを伝えるとしよう。これを言ったからと言って、彼女が立ち上がるとは限らんが。


楽しみなんだろ?」

「……そうだけど」

「じゃあ行こうじゃないか。俺も早く見たいから」

「……うん。行く」


 ようやく手を取ってくれたので、ぐっと引き寄せ立ち上がらせた。


「ありがと……」

「どういたしまして」


 それから俺達はぎこちなさを残しながら、新の後ろをついてエレベーターに乗り込んだ。







 集中して部屋を見ることが出来なかった。

 気が付けば、どっちの部屋も見終わっていて、3軒目は行かずにそのまま家まで送ってくれることになっていて、ハッと現実に帰って来た頃にはもう既に家の前だった。


 時間も結構経ち、日も傾き始めている。

 やばいやばいやばい。どうしよう……緑はああは言っていたけども、絶対聞いていた。だって、あの反応はおかしいもん。

 もぉーう! ばかばかばかばかぁー!! 何言ってんのよ私ぃーーーー!!


「おい瑞希、いつまで車に乗ってんだ。降りなさい、新が困っちゃってるだろ」

「ひゃいっ!? あっ、ごめんなさいっ! 今日はありがとうございました!」

「どーいたしまして、今日はありがとうございました。……まあ頑張ってね」


 私を茶化す様にニヤリと笑った。


「なっ、なんのことかしらっ!?」

「俺が名付け親になる日も近いかな? 考えておくよ……いい名前を」

「ななななっ!? にゃんのことかかしら!?」

「なーんてね……まあ楽しんで……ぷぷっ」


 こいつ、ほんと嫌な奴だ。

 今さら叩かれた仕返ししてくるなんて! くぅー!! 今日の所は勘弁しといてあげるわっ! 今度は容赦しないからねっ!

 という、睨みをきかせて車から降りた。


「何話してたの?」

「えっ!? 何にもないよ? ほんとだよ? 話してないよ」

「それは嘘にもほどがある。外にまで瑞希の声聞こえてたし」

「とにかく! なんでもない! 帰るよ!」

「いやもう家なんですけどね……」


 階段を上がり、家の中に入った。

 玄関を開けるとすぅーっと鼻に通っていくこの匂いが堪らなく好き。

 緑の匂いがするこの部屋は少しだけ私の匂いも混じっているのだろうか。自分では自分の匂いは分からない。


「やっぱこの家が落ち着くな。こんなに狭くても長年住んでると愛着も沸くもんだ。うんうん、この匂い。瑞希が来てから少しだけ匂いが変わった」

「そうなの? 私にはわからない」

「まあ自分の匂いだからな。俺もこの匂いが俺の匂いかと言われたら、分からんし」


 少しだけ私が混ざり合っていることが嬉しい。

 それに私だってこの家がやっぱり落ち着くし、愛着も沸いてきたからこの家から離れるのは私だって寂しいもの。


「今日はこのあとどうする?」


 ベッドの上に腰かけた緑は何となく聞いてくるけど、それはどういう意味なの? もう……そういうことなの?


「えっと、ちょっとその、まだ心の準備が……」

「……あっ、そういう意味じゃないんだけど……」


 違うのかよ! いや、違くていいんだけど、まだ明るいし……。

 また妙な空気感になり、静寂が訪れる。

 その空気に耐えられない私は話を逸らすためにあることを尋ねた。

 これは私にとっても大事なことで、これから使うものにもなりえるから。


「……緑は何色が好き?」

「はい? なんでまた?」

「いいから教えて?」

「うーん、そうだなぁ。やっぱり水色かな? 青系が好きかな」

「へぇ……緑じゃないんだ」


 水色ね……あったかなぁ……青系でもいいなら、紺色が……あったような、なかったような……?


「安直すぎないか? 自分の名前が緑だからって、緑が好きとは限らないと思う。まあ嫌いじゃないんだけどね?」

「そうだよね……あははは……」


 考え事してたから何言ってるのかよく分からなかったけれど、とりあえず確認してみよう。

 押し入れを開け、衣装ケースを漁っていく。

 綺麗に纏めているけれど、奥の方まで敷き詰められているから探しにくい。なので四つん這いになって、ぐっと手を伸ばして引きずり出していくと、


「瑞希……パンツ、パンツ見えてるから……」


 ……っ!? 

 そのまま正座に戻して振り返ると、明後日の方向を見ている緑は気まずそうにしている。


「見た?」

「違う。見えてしまった」


「何色だった?」

「なんかエロいレースの黒」


「じっくり見てんじゃないわよ!」

「見せてきたのは瑞希。俺は悪くない」


「そうだね……どうせ見られるものだからね……減るもんじゃないわね」

「ありがとうございました」

「どういたしまして」


「え?」

「え?」


 なによその顔。なんで驚いた顔してるのよ! 


「怒られないだと……? どうした瑞希? 大丈夫か?」

「どんな心配の仕方よ!」

「だっていつもだったらキレるじゃん……前は叩かれたし、タオル飛んできたし、すっごい怒ってたからさ。なんか変わったなって」


 あの時と今は状況が違うじゃない。それにこれからは一糸纏わぬ姿を見せる事になるんだから、パンツくらい見られてもね? 


「いつかは見られるものを今さら恥ずかしがっても仕方ないじゃん……私は今日がその日だと思ってるんだけど……」


 そう言うと、緑は驚いた顔で固まってしまった。


「緑?」


 声を掛けると、我に返った。


「ああ、ごめん。もしかしてさっきの聞いた色って……」

「……うん、そうだよ。水色、だよね?」

「……俺、ゴム持ってないけど……」

「ふふっ、ばかだなぁ緑は」

「何がだよ。買ってくるよ」

「要らないよ」


 私は緑との子が出来てほしいから、そんなものはいらない。

 






 まるでえっちなお店に来たみたいに、瑞希がシャワーから上がって待っている自分。

 これほどまで緊張ってするんだろうか。

 まあ行ったことがないから分からないんだけどね。


 それにしても避妊しなくてもいいということは、俺との子が出来てもいいってことだよな……何だろう、めっちゃ嬉しい。

 俺だけじゃないって事がさらに嬉しさを増させた。

 


 そして浴室から流れるシャワーの音を聞くたび、胸がバンバンと骨を砕き、肌をも突き破ろうとしているくらいに跳ねていく。


 流れる音が止まって、出てくるかと思えば、そうではなくて。

 また流れては止まってはを繰り返すたび、心音は激しく動作する。

 そんな緊張をほぐすために俺は缶ビールを一気に飲んで、またもう一本飲む。

 酒でほぐそうとする当たり、俺は情けない童貞みたいだ。


 ——ガチャリ。


 浴室の扉が開き、パーテンション越しに見える瑞希の頭。

 そんな当たり前にありふれた光景なのに、ごくりと固唾を飲んでしまう。

 タオルで身体を拭く音が耳に入り、それが終わればしゅるりと絹がずれる音がする。

 音だけで何をしているのか分かってしまうのが、いやらしい。

 ああ! 変態だよ! 想像してるよ! もう!


「お風呂あがりましたー」


 ショートパンツから伸びる脚は細く白く綺麗で、引き締まった身体は見慣れているはずなのに、『これからするんだよ』と言われてしまえば、それなりにえっちなもので。


「なにじろじろ見てるの? もしかしてそそった? 堪らない?」

「ばっか、お前。そんなの当たり前だろっ……魅力がありすぎて困ってんだよ」

「そ、そうなのね……よかった……」


 バスタオルで恥ずかしそうに顔を隠しながらも、隣へちょこりと座った。


「ビール飲んでたの? しかも2本も」

「だって緊張するんだもん……」

「それは私も同じだよ。だから私も飲んじゃおっかなー」


 座って間もない瑞希を立ち上がらせるのはあれなので、俺が立ち上がって冷蔵庫から2本取り出して、1本を瑞希へと渡した。


「ありがと」


 カシュッとプルタブを引き、「乾杯」と缶をぶつけてグビっと呷る。

 ホップの苦みが口に一杯に広がり、アルコールが染みわたっていく。

 3本目だけあって、良い感じにほろ酔ってきている自分は先ほどまでの緊張はなくなっていた。


「うへぇ……おいし」

「瑞希ってさ、お酒弱いよな。この前もすぐ寝ちゃったし」

「うん。昔からね、飲むと眠たくなっちゃうの」

「そ、そうなのね」


 じゃあこのままあなたは寝るんですかと? 聞きたくなったが、言うだけ無駄だと思ったのでやめておいた。


「ねぇ緑」

「……どうした?」


 肩に頭を預けた瑞希はいつもより優しい柔らかい声音で俺の名前を呼ぶ。


「緑はさぁ、避妊しなくていいって言った時、何を思った?」

「俺は瑞希が好きだから、覚悟はできてるっていうか、瑞希との子供なら嬉しいって思ったかな。俺達は結婚してるわけだし、お互いに好きなわけだから、ね?」


「買いに行くって言ったのは?」

「あぁ、それはあれだ。ちゃんとした方がいいのかなって思っただけで、出来たら困るとかじゃない。瑞希がどう考えてるか分からないから、ああやって言ったまでだよ」


「良かった。これでもし、俺は子供なんていらないとか言われたらどうしようって思ってた。私だけじゃなくて良かった」


 嬉しそうに笑う瑞希の頭をぽんぽんと優しく手を乗せる。


「緑、好きだよ。すっごく大好き」


 肩から頭を外し、見つめ合った。


「俺も好きだよ」


 そう言って唇を重ねる。


 浅く、深く、を繰り返し、時折漏れる吐息交じりの声。

 そのまま布団に倒れ込み、瑞希の上に覆いかぶさって、またキスをする。


「……っはぁ……緑、電気……消して、ほしい……」


 とろんとしたまなこでお願いしてくる瑞希は艶めかしくて、もっと見ていたくなる。


 だから俺はもう少しだけと言って——唇を重ねた。


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