おやすみ、ネオンテトラ

伊奈

おやすみ、ネオンテトラ

1


 八月十六日。憂鬱な模試結果が届いた日。香織と遊ぶ約束をした日。そしてネオンテトラが死んだ日。

 部屋に入った途端、香織は小さく「あっ」と声を上げた。目も口も丸く開いて、そのままぽかんとしてしまっている。どうしたのと声をかけると、慣れない英単語を発音するみたいに香織はつぶやいた。

「……死んじゃってる」

「えっ、何?」

「ネオンテトラ」

 そう言うと彼女はゆっくり前方の、台の上にのった一抱えぐらいの水槽を指さした。水槽の中はエアーポンプの吐き出す泡が水草を揺らしているくらいで、特に何もいない。いや、おかしい。たしか前に、あの水槽で香織が小さな熱帯魚を飼っていたはずだった。

 その時ふと、水面に浮かぶ青い小魚に気がついた。水面にいたので、角度的に見落としていたらしい。横ざまに倒れてさざ波に揺れる姿は、生きていた頃からは考えられないくらい無残で、惨めだった。

 死んじゃってる。当たり前のことを私がつぶやくと、香織は黙ってうなずいた。十七歳の私たちが今できるのは、それくらいだった。

 八月十六日、本当は香織の部屋で暑さをやり過ごす予定だった。中学で香織と仲良くなって以来、よく互いの部屋に上がり込んではだらだらと遊ぶのが私たちの付き合いだった。今日だって貸してもらった漫画の続きを楽しみに、香織の家に来たのに。それなのに、微妙な雰囲気になってしまった。ネオンテトラが死んだ、それだけで。

 しばらくして香織は重い動作で一歩踏み出すと、エアーポンプのスイッチを切った。ぱちりと軽い音の後にポンプの泡は止まり、水槽は一気に静かになる。なんとなくそれで、ネオンテトラが死んでしまったとまた思い知らされた気がした。

「ごめん、後片付けするね」

 香織は無表情のままそう言った。青白くて、蝋を薄く塗ったような顔だった。ぱりぱりと、無理やり動かしている口元の蝋が剥がれ落ちる幻聴が聞こえる。

 別に、と私は答えた。そして、かわいそうと付け足しで言った。でも香織は首を横に振った。

「そうでもないよ。最初の頃はもっとたくさん飼ってたから、死んじゃうのは初めてじゃないし」

「そうなの」

「うん。まあ、この子が最後の一匹だったんだけどね」

 香織はティッシュを何枚か抜き取ると、それを丁寧に折りたたみ霧吹きで湿らせる。そしてネオンテトラを手で慎重に掬い上げると、湿らせたティッシュの上に横たわらせた。

「埋めなきゃね、この子」

 そうか、埋めるのか。妙な所で私は安心してしまった。良かった、このネオンテトラはちゃんと弔われるのだ。そう思ったら、この気まずい状況も少しはなんとかなる。

「どこに埋めるの? 庭?」

「んっと、どうしよ。そこでもいいんだけど」

 疲れた感じで香織はうつむいた。何か考えるように目をつむりじっとしていたけど、やがてゆるゆると顔を上げる。

「……日和さ、急だけど、ちょっと遠くに出掛けない?」

「え、いいけど……。どこに?」

「海の見えるところ」

 香織はもう一枚ティッシュを抜き取ると、また綺麗に折りたたんでネオンテトラの亡骸に被せた。


2


 小学生の頃、私は生き物係をやっていた。別にやっていたのは特別なことじゃない。花に水をやったり、校庭の隅の小屋で飼っていたウサギの世話をしたりの、黒板係や給食係と同じくらい、単純でささやかな係活動だった。

 たぶん、季節は秋くらいだったと思う。飼っていたウサギの一羽が死んだ。それを最初に見つけたのが、餌をあげるために朝一番で登校した私だった。

 変だなと思ったのはウサギ小屋に入って、一羽だけ姿が見えなかった時だった。いつもは生き物係の足音がしただけでもみんな動き出し、今か今かと入り口辺りまで集まってくるのに。気になってウサギたちの掘った穴をのぞき込むと、そこに小さくなったウサギの亡骸があったのだ。

 泣きじゃくる私に先生たちは、体が弱かったし寿命だったんだよと優しく諭した。私たち生き物係にお世話されて、きっと幸せだったよ、と。しかしクラスで一番発言力のある女子は、ストレスのせいだとしきりに言った。殺されたんだと噂する男子もいた。誰かがイタズラで、毒入りの餌をあげたんだ、と。

 ウサギはなぜ死んだのか。真相は全く分からないまま、その日の内に私たちはウサギの埋葬をした。学年主任の男の先生がウサギ小屋の横に穴を掘り、クラス全員でウサギの亡骸に土をかけた。最後、先生にうながされて黙祷をすると、誰かの嗚咽が聞こえた。私も目の奥がじんわりと熱くなって、閉じたまぶたの隙間から涙がこぼれるのを感じた。

 一分経って目を開けると、にじんだ視界の中でこんもりと盛り上がった土のふくらみを見た。自分が死なせたわけじゃないのになんだか申し訳なくて、私は再び手を合わせると死んだウサギの冥福を祈った。

 もう二度と、ウサギの世話をしたくない。ふと、そんな想いが胸の内に浮かんだ。同時に私の中にいた何かも、ひっそりと死んでしまったような気がした。確かにそう感じたのだ。さっきまで朗らかに、なんの憂いもなく生きていた私が、暗い土の中でウサギの死骸と一緒に眠る姿を。きっと死んだのは、私の中の幼すぎる私だ。

 それ以来、私は生き物が少し苦手だ。


3


 ねえ。第一志望、判定どうだった?

 電車の座席で香織が、なにとなしと言った風情で訊いてくる。

「……C判定」

「えっ、すごいじゃん。日和の第一志望、偏差値六十五とか、そんな辺りだっけ? 高二でC判定なら、充分行けるじゃん」

 充分行ける、のだろうか。本当のところは、全科目合計であと十数点取りこぼすだけでDに下がってしまうくらいの、ギリギリのC、だ。

「そうかな。これから冬にかけて、どんどん周りの偏差値上がってきちゃうんだよ。やっぱ厳しいんじゃないかな」

「いやでもさ、今まさに必死に勉強している三年生とか、後がない浪人生を押さえてのCだよ。すごいよ」

 まあ、そうだね。差し障りのない返事だけして、私は視線を落とした。目の前には私と香織の白い膝が、赤いシートの上で行儀良く並んでいるのが見える。今日の格好はお互い、デニムのショートパンツだ。学校ではスカートだし、今なら足が出た格好でも特に違和感なく履きこなせる。でも数年も経ってしまえば、こんな短いのは着れなくなってしまうだろうなと思った。

「香織の方はどう?」

「私は、もうちょっと志望校下げた方が良いかな。塾の先生はまだ下げる時期じゃないって言うけど」

 英語がね、いまだに足を引っ張ってんの。去年の冬から頑張ってるのに。唇を尖らせてぼやく香織は、少し可愛い。思わず目を惹かれてしまう小動物のような可愛さが香織にはあると思う。実際、香織にはカズヤくんというサッカー部の彼氏がいる。

「私も、まだまだ志望校下げる時期じゃないと思うよ。英語は一番最後に伸びる教科だっていうし」

「でもさ、しんどいじゃん。志望校を変えずに努力して、模試の結果に一喜一憂して、心も体もボロボロになって合格したところでさ、なんか違うじゃん」

 何事もね、程度を知るというのが肝心なのですよ。妙に達観した感じで香織はつぶやくと、ふうと長く息を吐いた。ふと私は、香織が前に抱えた小さなショルダーバッグの中身、ティッシュに包まれたネオンテトラの死骸のことを思い出す。

 誘われるがまま外に出たはいいけれど、香織が乗り込んだのはほとんど利用したことのない、下り方面の電車だった。見慣れない緑の景色が車窓を過ぎていくたび、妙な居心地の悪さを覚える。車内が落ち着かないくらいガラガラに空いているのも、行く先が通学定期券外で乗車料がいくらになるか分からないのも私を不安にさせた。

 それにしても、なぜよりによって海なのだろう。普通だったら庭先とか、そういうところで充分なのに。私は香織に、ねえと声をかけた。なに? と、普段と変わらない態度で香織が顔を向けてくる。とてもじゃないけど、ショルダーバッグにネオンテトラの死骸を入れているようには見えない。

「……なんでさ、海の見えるところまで持ってくの、それ」

 あぁ、この子? 香織はバッグをそっと、慈しむように撫でてみせた。

「私、もし自分が死んじゃったら、海の見えるお墓に埋めてほしいんだよね」

 死んじゃったら。軽々しくそんなことを言わないでほしい。死ぬことについて考えるのは、苦手だし嫌いだ。

「だからさ、この子も海の近くに埋めてあげたいなって思ったの。ていうか、人間ってみんなそうじゃない? 薄暗い山の中とか、息苦しい都心の片隅とかじゃなくてさ。どうせ最後なら、綺麗な海の見えるところに埋められたくない? この子もさ、きっと海の見えるところに埋められたがるよ」

「まあ、分かるけど。でも、ネオンテトラって淡水魚でしょ? 川の方がいいんじゃない?」

 くだらない冗談で場をごまかし、私たちは電車に揺られ続ける。早く、電車が目的の駅まで着けば良いのに。

「……日和はさぁ、ペットとか飼わないの?」

 笑い終わって、香織がぽつりと尋ねてきた。

「たぶん、飼わないかな」

「なんで? ネオンテトラじゃなくてもさ、犬とか猫とか可愛いよ」

「でも、いつか死んじゃったらかわいそうだから」

 そうだね。香織はうなずくと、深く沈み込むようにして座席に座り直した。


4


 前に香織の家へ遊びに行った時、私たちはなにげなくネオンテトラの水槽を眺めていた。確かその頃はまだ十匹くらいのネオンテトラが残っていて、優雅に泳いでいたのを覚えている。

 頭から背にかけての濃やかな青。腹から尾にかけての目が醒めるような赤。緩やかで、それでいてわずかに緊張感を孕んだヒレの動きは、ずっと眺めても飽きさせない。

「可愛いね」

 素直につぶやくと香織はうなずいて、そうだねと返した。もっとよく見ようと水槽に顔を近づけると、その気配を察してネオンテトラの群れがビクリと泳ぐ向きを一斉に変える。その怯えた感じも、少し可愛い。可愛いとかわいそうは、どこか似ていると思う。

「……この子たちってさ、熱帯魚なんでしょ? 遠くの熱帯地域、例えばアマゾンとかから、はるばるここまで来たのかな」

「いや、前に調べたんだけど、ネオンテトラのほとんどって香港とかタイで養殖したヤツを輸入してるんだって」

 へえ、そうなんだ。私はまじまじとネオンテトラの群れを見つめる。暖かく安全な水槽で生きられる代わりに、生まれた時から鑑賞目的で育てられて、狭い世界の中でしか生きられない小さな魚。私はくちびるだけで、可愛いとつぶやいた。

 香織が餌の袋を取り出し、あげてみる? と訊いてくる。私は袋の中身の、砂とか土みたいな顆粒をひとつまみ取ると、水面にそっと振りかけた。途端にネオンテトラたちは餌に向かって泳ぎはじめ、口をパクパクさせ始める。みんな、餌を食べるのに忙しそうだ。

「この子たちってさ、こうやって餌をあげないとすぐ死んじゃうんだよね」

 慌ただしくなった水中を眺めて香織はこぼす。見るとその頬は水に反射した光を浴びて、さざ波の模様を映していた。長い睫毛は柔らかい曲線を描き、わずかに開いた口からは密やかな吐息が漏れる。可愛い、と私は思った。

「あつらえられた水槽の中で、与えられた餌で生きながらえて、ずっとずっと愛でられるのってさ」

 香織の目が私の方を向く。その瞳は吸い込まれそうなくらい深い色をしている。水深何メートルだろうか。じっと私も見つめ返していると、香織がふにゃりと笑った。無邪気な笑い方だった。

「なんか、私たちみたいじゃない?」


5


 降りた駅は真夏の蝉時雨にあふれているくせに、なんだか妙に寂しいところだった。みすぼらしい駅舎を見るにどうやら無人駅らしく、線路の脇に夏草が深く生っているのもひなびた感じだ。

 この駅で降りたのは私たちと、地元民っぽいおばあちゃんの三人だけだった。私たちが改札を過ぎると駅舎はさっきよりがらんとしていて、遠目なら廃墟なんじゃと思うくらいだった。

「たぶん他の乗客はこの先の、もっと開けたビーチの方に行くんだと思う。そっちの方が景観が良いし、観光のお店とかもあって栄えているから」

「へえ、詳しいね」

「この近くに親戚の家があるの。だから色々とね」

 言い訳みたいに説明しながら、香織は人気のない駅前通りを早足で進んでいく。遅れてはぐれないように私は必死についていった。

「じゃあ、そっちの方に行かないの?」

「人がたくさんいるとこだと、賑やかすぎてお墓に適さないんじゃないかなって思って。ここからだったらもっと静かなとこに行けるし」

 あと人前で死んだ魚を埋めてたら、ちょっとヤバい子になっちゃうし。茶化した感じで香織は言うけど、私は笑っていいのか迷った。友人だから何も言わずに付き合っているけど、今の香織はちょっと変だ。

 いや、もともと変と言えば変なのかもしれない。どんどん先へ行ってしまう背中を追いながら私は考える。なんか時々、意味深なことを言うし。緩いというか、いい加減なところがあるし。でも人当たりが良くて可愛いから、あんまりそれを気にする人もいない。皆から愛される人って、そういうところで少しうらやましい。

 しばらくずっと歩いていると、右手に細くて急な坂道が現れた。香織が何も言わずにその坂を下りていくので、私も仕方なくその後に続く。こうやって外を出歩くと分かっていたなら、コンバースとか履いてくれば良かった。ヒールのあるストラップサンダルだと足首が疲れてしまう。

「あ、潮の匂い」

 香織が嬉しそうにつぶやいた。たしかに頬をなでる風が少し変わった気がする。ちょっと生臭くて湿っぽく、でも懐かしい感じだ。

「なんか海に行くの、久しぶりだな」

「そうなの? 私、夏休みになると必ず家族でここらへんの海行くよ」

 ここら辺の海、あんま綺麗じゃないけど穴場スポットがあって楽しいよ。そう香織は軽やかに笑ってみせる。海ではしゃぐ香織は、きっと可愛いだろうな。

「へえ。彼氏と二人で行ったりとかはしないの?」

 その時、前を行く香織の足が急に遅くなった。勢い余ってぶつかりそうになった私は、慌てて横に避ける。香織は私の方を見ると、少し困ったように苦く笑った。

「あー……、言ってなかったけど。カズヤとは別れた」

「えっ、ホント?」

 まぁ、と香織は曖昧にうなずく。今までそんな気配、全然感じなかった。彼氏と別れた直後だったら、もっと落ち込んだりする気がするのに。

「いつ? 夏休み前までは普通だったよね?」

「んっと、三日前? うん、そう」

「なんで別れたの? 普通に仲良さそうだったじゃん」

「仲は良かったよ。ずっとね。でも、なんかさ」

 うまく言えないな、と言って香織は眉間に皺を寄せる。英語の問題を解いていた時でさえ、こんな苦い表情はしてなかった。

「……冷めた、って言うのかな。いや、違うな。先が分かっちゃった、って気がする。どうせ、こうなるんじゃないの? って感じ」

 とぼとぼと、危うい足取りで香織は坂道を下っていく。足を踏み出すのと同じ速度で、話すことをまとめているようだ。私はその歩幅に合わせて、ただただついて行った。

「なんかさ、高校で初めて付き合った人と一生添い遂げられる人って、どんくらいの割合なのかな」

「……さあ。たぶん、かなり低い気がするけど」

「私もたぶん、低い気がする。だって、今の歳で一生の相手とか想像できないじゃん? 私も相手も、全然馬鹿で、世間知らずで、それなのに運命の相手を見つけちゃいましたとか、そんなのあり得なくない?」

「分かるけどさ、そういうの抜きにして相手を好きになっちゃうのが、恋愛なんじゃないの」

「そう。そうなの。だからこそ、急にそんなこと考え始めちゃった私はもう、恋とか好きとかとは離れちゃってるんだと思う」

 日和は、恋したことある? 急に香織に尋ねられて、私は口ごもった。十数年間生きてきて恋したことは、あるにはあると思う。同級生の運動のできる子とか、優しかった保育園の男の先生とか、まあそれなりにだ。でも今思えば、全て他愛のないというか、オママゴトのような感じだ。

 その時だった。ずるずると歩いていた香織がふと立ち止まった。そして、見えたと少し嬉しそうな声で、秘密事のようにささやく。香織の視線は坂の先を見据えている。確かにそこには真夏の日差しを跳ね返す、海の鈍い青が光っていた。


6


 私は、香織ほど可愛くないし、人付き合いもマメじゃない。それでも一度だけ、男子に告白されたことがある。

 相手は中学の時のクラスメイトだった。二年生の時の一月、急に放課後の教室で呼び出され、前から好きだったと言われたのだ。あまり接したことのない人だったので、かなり戸惑った覚えがある。

 なにか気に入られるようなことをしただろうか。例えば、クラスで多少しゃべりはしたかもしれない。おはようとか、テスト面倒だねとか。でもそんなことで好かれたところで、私はその人のことは何も分からない。クラスでも普通で平凡というか、出しゃばらず、だいたいは他の男子とつるんでいる。そしてたまに下らない冗談を言い合っては、ヘラヘラと笑っている。彼の印象なんて、そんなものだった。

 困って何も言えない私にお構いなく彼はしゃべり続ける。なんかさ、頭良いのに偉ぶらないところとか、いいなって思ってて。あと、あんまりクラスでも目立ってないけど、お前結構可愛いし……。とか、そんな調子で。

 たぶん、男子と面と向かって可愛いと言われたのは初めてだった。だけど全然、ときめきもしなければ嬉しくもない。偉ぶるとか目立つとか心底どうでもよかったし、お前呼ばわりする無神経さもカンに障った。正直、馬鹿なんじゃない? と思った。たいして親しくもない女子に突然告白して、上っ面で気の利かないお世辞を並べたところで、付き合おうってなる? 楽しそうに話している彼に反して、私はだんだんイライラしてくる。

 だからさ、付き合わない? 相手が言い終わったところで、絶妙に気まずい沈黙が流れた。私がだんまりなのに焦ってか、向こうはなにかしゃべろうとしているみたいだった。それを遮るように、そしてなるべく嘲るような調子で、私は言う。

「……えっと、なに? バレンタイン狙い?」

 相手の顔が凍りついて、血の気が引いていくのが見てて分かった。やっぱりだ。恋愛とかに関心のある浮かれた奴らは、イベント前には色めき立って彼氏とか彼女を作りたがる。一月という時期をみても、バレンタイン前に彼女が欲しかったんだろうなという感じだ。

 内心、くだらないと吐き捨てる。彼からすれば本当に、前から私のことが好きだったのかもしれない。でも、急に可愛いと言われて告白されたからって、それで付き合うほど私はお人好しじゃない。せめて、それなりに親しくなってからにしてほしい。じゃないと、怖い。どうでもいい人だけど、どうでもいい人からの好意はどうでもよくない。急に自分のスペースに踏み込まれるような、そんな恐怖がある。あと正直、顔も性格もそんなに好みじゃない。私と彼は、何から何までズレていた。

「ごめん。私、全然あなたのこと好きじゃないから、無理かな。バレンタインも友達にしかあげない予定だし」

 言葉というより、棘を吐くような気持ちで私は言う。彼は何も言い返さず、ただただ呆然としているみたいだった。きっと、私なら付き合ってもらえると思って疑ってなかったんだろう。そう思われていたことが、なんだか無性に腹が立つ。馬鹿にするな。

 じゃあ、悪いけどそういうことで。私はその場で回れ右をすると、乱暴に足音を立てながらその場を去る。一刻も早く家に帰って、お風呂に入り眠ってしまいたい気分だった。恋愛とか、男子とか、バレンタインとか。そういう浮かれたものにさらされた身体を、早く浄めたくてしょうがなかった。


7


 坂を下りた先は急に落ち込んでいて、ちょっとした崖みたいになっていた。そこから見下ろす海は確かに綺麗で、私たちはしばらく黙ってその景色に見とれていた。

 海の鈍い青、陸に打ち寄せる泡立った白波、焦がされた肌にまとわりつく潮の匂い。こういうの、悪くないな。そんなことを思いつつ、私は横の香織をちらと盗み見る。

 たぶん、香織は私よりもたくさん告白されたことがあるだろう。いっぱい人に好かれて、カズヤくんと付き合ったりもして。それに比べて、私はなんだか冴えない。

 中学二年の一月、あの日を思い出すたびに、喉の奥が少し苦い感じになる。本当、告白されたあの日は最悪だった。家に帰ってからも意味もなく涙が出たし、告白してきた彼やクラスの男子の顔がまぶたの裏に浮かんできて恨めしかった。

 たぶん、あの頃の私はずいぶん潔癖だったし、子どもだったのだと思う。好きじゃない男子に告白されたというだけで、なんだか酷い侵害を受けた気がしたし、自分が軽く見られたと感じた。冷静に断れば良いだけなのに、勝手に被害者意識を強めて、攻撃的になったりして。ちょっとアレルギー反応が激しすぎる。

 あの後も徹底的に彼のことを避け、無視し続けたけど、思えばちょっとかわいそうなことをした。まあ、付き合うのは絶対ないけど、もうちょっと穏やかになれなかったのかな。

 軽い自己嫌悪に陥ってると、ねえと肩を叩かれた。振り向くと香織が心配そうに私を見ている。

「どうしたの? なんか、怖い顔してたよ」

「あー……、ちょっとヤなこと思い出してた」

「なに?」

「昔、好きでもない男子から告白された時のこと」

「あ、やっぱ日和もそういうことあるんだ」

 日和、可愛いからね。香織はうなずくと目を細めた。可愛くないよと返しても、照れてると笑ってじゃれついてくる。なんかそう言われると、本当に照れてきてしまって困った。

「……香織もあるんだ?」

「何回かあるよ。まあ、『ごめん! 友達として見てたから、付き合うのはちょっと……』って、やんわり断るけど」

 あれって気を遣うから、メンドイよね。香織は大げさなため息を吐いてみせる。私なんかは男子にどう思われようが構わないけど、人当たりが良い香織はこういう時に大変なのだろう。

「大丈夫? 粘着されたりとかしない?」

「まあ多少はしつこい感じになることもあるけど、そういう時はとにかく逃げ切るしかないかな。会ってもあからさまに気まずい顔で接したり、友達に頼って諦めさせたり。でも大体、夏休みとかクラス替えを挟んだら割と平気になるよ」

「えっ、そんな感じなの? 嫌じゃない? そこまでしなきゃならない人って、ちょっとウンザリなんだけど」

「仕方ないよ。私も飽きるまでは結構執着しちゃう方だし、『嫌いになって』とは言えないじゃん。私、嫌われるくらい酷いことできないよ」

 まあ、そうなんだけど。あっけらかんとした香織の言葉は、ちょっと釈然としない。けど、私自身もどうするのが正解なのか分からないから、黙ってうなずくしかなかった。

 ねえ、そろそろ掘ろうよ。中途半端に空いた隙間を埋めるように香織が言った。それで私も思い出す。そうだった。ここまで来たのは、ネオンテトラのお墓を作るためだった。

 おもむろに香織は歩き出すと、近くに植わっていた木の下でしゃがみ込む。確かにそこならほどよく地面が湿っていて、掘るにはちょうど良さそうだった。海もちゃんと見えるね、と香織も満足そうだ。

「どうしよ。手で掘ったら爪割れちゃうかな」

「あれだ、石とか枝でやろ」

 適当に拾ってきた石を片手に、私たちは穴を掘り始める。石だとかなり効率が悪いし、ひたすらに地味な感じだ。華の女子高生がなにやってんだか、と少し悲しくなってくる。

 ちりちりと首の後ろが焼ける感じがしてきた。顔を上げると、香織も首筋に汗をかいている。なんか、馬鹿みたいだ。一匹のネオンテトラのために、こんなに苦労して穴掘りしてなんの意味があるんだか。それでも、香織がやりたいなら仕方がない。黙々と二人で固い地面を、掘るというより削り続ける。やっと手のひらが入るくらいの深さになったところで、香織が手を止めた。

「……ねえ、つまんないこと話して良い?」

 なんだかさっきの香織とは打って変わって、沈んだ声だった。ぼたりと、血を吐き出すかのような感触だ。思わず私も手を止めたけど、ちょっと怖くて顔は上げられなかった。

「……なに?」

「ほら、アレ。カズヤと別れた理由」

 他人のことなのに、ぎゅっと心臓が軋む。いいよ、となるべく素っ気ないフリで返して、私は再び穴を掘る手を動かした。じっと聞いてるより、何かしながら聞き流した方が楽だった。香織は少し迷っているみたいだったけど、しばらくして遠慮がちに口を開く。

「……夏休み入ってすぐかな。親が旅行でいないって言うから、カズヤの家に泊まりに行ったの」

 へえ、と薄っぺらな返事をして、私は手を進める。嫌だ。なんか嫌だ。私、香織の口から、そういう話は聞きたくない。

「なんか、予感はあったし、私も別に嫌じゃなかったから。むしろ、恋人っぽくって良いじゃんって思ってた。だから、その、」

「……分かるから。いいよ、もう」

 無理矢理に、強引に私は言葉を遮る。たぶん香織は言いたくなかったし、私も聞きたくなかった。穴を掘る手に力がこもる。ごめんね、と情けない香織の声が、浅い穴の底へ落ちていった。

「……それでね。朝になって、なんとなく思ったの。なんか、一通り終わっちゃったなって。制服デートとか、キスとか、やること全部終わって、じゃあこの後どうしよ? ってなった時、なんとなく、もう終わりだなって感じがした。だってこの先、どう頑張ったって私たち別れるよ。まだお互い、十七歳だよ? ずっとこのまま付き合うって、なんかあり得ないし気持ち悪いって思った。そんな純愛じみたことできるほど、私は綺麗にできてない。もっと他の人とも付き合ったり別れたりして、色んな波に揉まれて、そうやって生きる方が似合ってると思った」

 私、変かな。香織のつぶやきには水っぽい音が混じっている。思わず顔を上げると、香織は静かに涙を流していた。もう一度、変かなと香織がつぶやく。私はその目を見ながら、変じゃないよと慎重に言った。香織は変じゃない。ただ、聡かったのだと思う。先を見通すのが早すぎた、それだけだ。

「……日和はさ、今の自分が好き?」

「……なにそれ。どういう質問?」

「いいから。日和は、十七歳の自分が、好き?」

 まあ、好きだけど。そう答えると、香織はふにゃりと笑った。

「私も今の自分、割と好きだよ。日和みたいに好きでもない人に言い寄られたり、電車でもじろじろ見られたりするけど、それでも好きだよ。だって今の私たちって、最強だと思わない? 一番可愛がられて、たぶん受験前で一番遊べて、失敗しても大目に見てもらえて、毎日ご飯も食べられて、暖かいベッドで眠れる。最高の時期だよ。もちろん学校に行かなきゃいけないし、お金もない。ちょっと不自由なこともあるけど、私は結構満足してる。でもね、もうそろそろ終わっちゃう。いや、違う。死んじゃうんだと思う」

 急に香織は肩にかけていたバッグを開くと、中からティッシュの包みを取り出した。ゆっくりと開かれたその中には、ネオンテトラが横たわっている。きらきらと、青い鱗が目にまぶしかった。

「私ね、この子が死んじゃったのを見た時、自分も死んじゃった気がしたの。水槽の世界しか知らないけど、綺麗で愛されていたこの子と一緒に、十七歳の私は死んじゃったんだって。もちろん私はまだまだ生きてるんだけど、何年かしたら十七歳の頃みたいに生きられない。受験とか、就職とか、もっと色んなことを経験して大人になって、それで例えば、駅で十七歳の女の子とすれ違った時、なんか少し絶望する。そんな気がする。いつの間にか十七歳の私は後ろで死んでいて、その遺体を眺める私は、もう変わっちゃった私なの。今の私じゃないの」

 だから、ちゃんと弔ってあげたかったの。香織はネオンテトラの死骸を、ティッシュごと慎重に穴の中へ下ろした。穴はいつの間にか、その包みがしっかり収まるくらいの大きさになっていた。

 日差しは相変わらず照りつけてくる癖に、なんだか背筋がうっすら寒い。十七歳の香織は、死んでしまったのだろうか。このネオンテトラみたいにはもう、生きられないのだろうか。

「……私も、十七歳の私も、死んじゃうのかな」

「たぶん、そうだよ。だって私たち、もう受験とか、進路とか、真剣に考えなきゃいけない時期だよ? もうこれ以上、自由に恋したり、馬鹿なことやってはしゃいだりできなくなっちゃう。たぶん」

 それを聞いた途端、実感が爪先から襲ってきた。なんか、めまいがする。ぐらぐらと揺れる視界の隅で穴の底をちらっと見た時、私は息をのんだ。そこにいたのはネオンテトラの死骸じゃない。小さな香織と私が、静かに横たわっていた。

 瞬きをするとその幻はすぐに消えたけど、その光景は脳裏にしっかりと焼き付いていた。なんだったのだろう。考えるより先に、諦めに似た寂しさが胸の内を占める。たぶん、そうだ。きっと私も、死んでしまう。

「……ちゃんと、お墓作ってあげよう」

 私の言葉に香織が静かにうなずく。そうだ。ちゃんと埋めて、弔ってあげよう。私たちにできるのはそれだけだ。

 ネオンテトラの死骸に二人で土をかけると、穴はすぐに埋まってしまった。そこを綺麗に手で均し、小さな石を乗せてあげる。これできっと完成だ。ささやかだけど、私たちにとって大切なお墓だ。

 どちらともなく手を合わせ、私たちは目をつむる。祈り終えて薄く目を開けると、まぶたの隙間から木漏れ日が差し込んでくる。湿った土の匂いも、穏やかな海の色も、ささやくような風の音も全てが心地よかった。

 十七歳の最期に見る景色がこれなら、悪くないな。もう一度目をつむると、私は頭の隅で願う。

 おやすみ、ネオンテトラ。どうか安らかに。

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