周回遅れの夏

@kyu32-1

第1話

 始業式の日、今年の夏休みはありません、と先生に言われた。誰も文句を言わなかった。俺はむしろ、ほっとした。

 本当なら高校生活最後の夏。受験生ではあるが貴重な青春の1ページを刻むはずだった。それが、新学期が始まるのが6月にずれ込んでしまったために、8月も夏休み返上で授業がある。さすがにお盆期間は短い夏休みになったが、どこに出かけるでもなく、今日は朝から期末のレポート課題を家でやっている。

 18時、冷房代がかかりすぎるからこの時間には切るようにしている。窓を開け、自分の部屋からベランダに出た。

 目の前の道路を見下ろす。いつもと同じ時間に、彼女は走ってきた。大きなストライドで、後ろに一つに縛った髪を揺らしながら。俺の家の前を通過し、近所の川沿いを走るのがコースになっている。猛暑日の今日も、かわらず家の前を走り去るのだろうと思って見ていたら、家の前で急停止した。

 そして、2階にいる俺を見上げて言った。

「いつまで走ればいいの!」

 多分、汗じゃないものが彼女の頬を伝っていた。



 小学校からの同級生である彼女、山本は昔から足が速かった。出席番号で一つ前の俺、山田もまあまあ速くて、2人でいつも運動会のリレーの選手を務めていた。

 中学で俺は陸上部に入るつもりだった。足が速いってキャラで自分は行くんだと決めて、入学式の次の日には早速見学しに行った。山本はどうするのだろう、そう思って、初めて違うクラスになった彼女を放課後捕まえて聞いてみた。

「陸上部、入らないの?」

 普通に、聞いてみた。

「だって、そんな本気でやろうって思わないから」

 首を横に振ってそう答えた。足は速いがそれを得意げにしないのが彼女だった。目立つのも嫌いで、運動会のリレーもどちらかというと面倒くさそうにしていた。

 しかし俺はそのとき、もったいないなと思った。地区のいくつかの小学校が集まって行う記録会に出たとき、一番速かったのを知っていたから。

「山本なら絶対に市大会行けるよ。だから一緒にやろうよ」

 俺はそう言った。他意なんてなく、ただ、目の前の友達が走る姿を見たかった。

「考えておく」

 普段からあまり感情を表に出さない彼女が、少しだけ笑ったように見えた。結局、入部の締め切り直前になって、山本は陸上部にやってきた。


 練習が始まるとすぐに俺は挫折を味わった。小学校で1番速い奴らが集まった状況で1番遅いことが判明したのだ。対照的に山本は、1年生の中では誰よりも速かった。段々と、2人の道は大きく分かれていった。中距離をメインにした山本は、最初の大会ですぐに地区優勝し、あっさりと市大会に出場した。その後も順調にステップを踏み、2年で県大会、3年では関東大会出場を果たした。一方の俺は、自分が走るのは早々に諦め、ほとんど記録係と化していた。山本と話すことも少なくなっていった。


 関東大会の帰り道、久しぶりに話しかけた。

「高校はどこに行くの」

 すでに県の陸上界ではちょっとは名の知れた存在になっていた山本には、いくつか強豪校から誘いが来ているという噂があり、進路が気になっていた。

「S高に行く」

 素っ気なく、彼女は近所の公立校の名前を挙げた。意外に思って、

「強いところへは行かないの。山本なら絶対に全国行けるよ」

 そう言ったところで、目が合った。怒っているというか、思い詰めているというか、見たこともない険しい表情でこっちを見つめ返してきて、俺は言葉が出てこなくなった。

「行くよ、全国」

 彼女はつぶやいた。次の日から夕方にランニングをするようになった。


 2人ともS高に進学し、山本は陸上部に入った。部員はほとんどおらず、実質、一人の活動になっていたが、それでも各大会で勝ち進んだ。2年ではインターハイ出場を逃したものの、来年は必ず全国行くだろうなと、帰宅部の俺は去年の県予選をスタンドから見ていた。

 2020夏のインターハイ日程が発表されるとすぐに、俺はカレンダーに予定を書き込んだ。静岡で開催される陸上競技をスタンドで見るつもりだった。しかし、春から広がった新型コロナウイルスの影響で生活は一変してしまった。学校が休みになり、オリンピックは延期となり、世の中は外出自粛になり、インターハイも中止になった。

 そのうち学校が再開して、部活も行事もなくただひたすら勉強の遅れを取り戻す日々が訪れた。高3でまた同じクラスになった山本は、俺の後ろの席で何を思ってこの毎日を送っているのか、振り返ればすぐそこにいるのに何も話しかけられなかった。彼女は、相変わらず走り続けていた。短い夏休みの今日、家の前で止まるまでは。



「いつまで走ればいいの!」

 普段、感情的になることのない山本が泣いているのも、その言葉の意味も分からなかった。とにかく追いかけねば、と思って、急いで2階から降りて、玄関でサンダルをつっかけて、外に置いてある普段は使わない自転車を引っ張り出した。走っても絶対に追いつけないから自転車だ。


 人も車も通っていない住宅街の道を抜け、川沿いの直線に出たとき、背中が見えた。

「山本、待てえ」

 こっちはほとんど運動していないから、息が上がってしまっている。そのうち、だんだん背中が近づいてきた。走るスピードがだんだんと落ちていき、やがて歩き始めた。ようやく追いついたとき、彼女は立ち止まり、振り返った。

「体、なまってんじゃないの?」

 もう泣いてはいなかった。

「ああ、そうかも、ね」

 肩で息しながら俺は答えた。


 山本が前を歩き、俺は自転車を押しながら後を歩く。この距離は感染予防のためではない。

「今日で走るのやめようと思う」

 前を向いたまま、先に彼女の方が口を開いた。何を話そうとしているのか、分からなくて何も言えなかった。

「陸上、誘ってくれてありがとね」

「それって、中学の時の」

 一緒にやろうよって言ったあの件か。俺は途中でドロップアウトしてしまったが。

「途中で山田、走らなくなっちゃったけど」

 それを根に持っていたのか。

「ごめん。俺のレベルじゃ全然通用しなかったわ、山本と違って」

 冗談めかして言ってみたが、相変わらず振り返ってはくれなかった。

「本当は、陸上は中学で辞めるつもりだったの」

「そう、だったんだ」

 だから強豪校には行かなかったのか。しかし、なぜ。

「最初は、楽しく部活ができればいいなって思ってただけなんだけど、気づいたら、私だけずっと先を走ってて、何で走ってるんだろうって、寂しくなって」

 俺は自分が陸上に誘ったのを忘れていた。そもそも彼女は、走るのは速いが好きではなかったのかもしれないと今更ながら気づいた。

「誘っておいて、何かごめん」

「本当にそうだよ。なのに、誰かさんが『全国行けるよ』なんて無責任に言うもんだから、やめられなくなっちゃったじゃん」

 何も言えなくなった。また沈黙が訪れた。川沿いの道にいつもの気持ちいい風は吹いて来ない。

「私、速かったでしょ。自分で言うのもなんだけど」

 自慢げに言うことなどなかった彼女が、自嘲気味に言う。

「だからこの際、インターハイまで行ってやろうと思って続けることにしたの。でもそれがなくなっちゃって、止まるタイミング見失って」

 彼女の声はだんだんと小さくなっていった。歩くスピードもだんだん落ちていく。


 インターハイが中止になったときから、彼女に何か言わなきゃと考えていた。

「お疲れ様、もう走らなくていいよ」

「頑張れよ、来年もあるよ」

 どんな言葉もダメな気がして、何も言えなかった。山本と俺の距離は、周回遅れほどの差がついていて、近くにいるのに遠かった。


 じゃあ、今から追いつくしかないな、と思った。一歩ずつでも、自転車に乗ってでも。

 俺は自転車を押す手と足に力を込め、山本の横に並んだ。

「俺、明日から走るよ」

「え、なんて」

 彼女は虚を突かれて返答に困っているように見えた。

「山本は止まらなくていいよ。俺が今から後ろから追いかけるから」

「ううんと、何言ってんのかわかんないんだけど」

「俺、周回遅れだったけど、今から走って山本に追いつくから」

「追いつけるの、今から?」

 彼女の顔は、困惑の色を浮かべていたのが、だんだんと笑顔になっていく。

「大丈夫、後ろから距離詰めていくから。だから山本は、後ろも先も見ないで行けるとこまで行けばいいよ。インターハイじゃなければ、オリンピックでも」

「さすがにそれは無理でしょ」

「いや、山本なら、世界行けるよ」

 俺は自転車に乗り、川沿いの道をスピード上げて走り始めた。山本もすぐに反応し、走り出す。すぐに並んで、そのまま追い抜いていった。


 いつものコースを走り始めた未来のオリンピック選手を、周回遅れの自転車が追いかける。

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