第五十夜 氷の獣人

 僅かに瞳孔を収縮させたミュエルの目の前にはまるで邪気しか感じさせなジェイルが立っている。

 ジェイルはただニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべて、その瞳に光など感じさせない。


 正しく人が堕ちた姿とでも言うべきか。いや、もともとこの男は本来の人の道から堕ちて、もう戻れないところまで行ってしまっただけだ。


 気づけば周りの人たちもこの場からいなくなっている。当然だ、空からは普段よく見る太陽よりも大きい火球がいくつも迫っているのだから。


 しかし、それはある意味好都合でもある。民衆という不確定要素に惑わされることなく、相手を仕留めることが出来るのだから。


 するとその時、ジェイルが唐突に口を開いた。


「そういえば、聞いたぜぇ? お前は暗殺組織でも諜報専門にいたってな。つーことはよぉ、その情報を聞き出すためにあらゆる手段を尽くしたってことだよなぁ?」


「......何が言いたい?」


「なに、単純な情欲だ。確実なる情報を得るために自らの身を売った姿を想像しただけでゾクゾクしてくる。どんな風に鳴いたのかとかそんときのツラはどうだったのかとか」


「確かに、そういうこともやる奴はいたわ。だけど、私はそんなことのために自分の身を売るほど組織やつらに従順じゃないの。それに、控えめに言って気持ち悪い」


「ははは、ってことはぁお前はまだ処女ってことか。いいねぇ、そそるねぇ。そんな女どもを痛めつけて快楽で封じ込めるのが一番悦なんだよぉ!」


「訂正する。気持ち悪いじゃない――――死んで」


 ミュエルは氷で生成した弓にさらに氷の矢を三本つがえると大きく弦を引いた。

 すると、その弓は本物の弓と同じようにしなっていき、相手を仕留めんと殺意を宿らせていく。

 そして、最大まで引くとミュエルは迷わず指を放した。


 三本の氷の矢は寸分たがわずジェイルの目の前に接近し――――粉々に破壊された。

 ジェイルはそれに触れていない。それに触れたとすれば、ジェイルが差し出した手に纏われている紫電でであろう。


「そら、お返しだ!」


 そういって、ジェイルはその手を下から上へと振り上げた。その瞬間、紫電、否、雷が地面を激しく抉りながらミュエルに拘束接近した。


 ミュエルはその軌道から離れるように大きく後ろに飛び跳ねると同時にさらに三本の矢を発射する。

 しかし、その矢もジェイルはもう片方の手で破壊しながら、さらに自分自身に雷を纏わせて一気にミュエルに接近してくる。


凍てつく流星フリーザスター


 ミュエルはジェイルに接近されるよりも早くに大き目な矢を作り出すとそれを上空に向かって撃ち放った。

 咄嗟にその矢を警戒して上を見たジェイルであったが、少ししても何も変化が起きない。


「下手な、ハッタリだな」


「上を向いた時点であなたの負け」


「何がぁ!」


 ジェイルは正面に両腕を突き出すとその手から雷を凝縮させた砲撃を放った。

 まるでレーザーのようなそれは周囲に放電の余波を広げて建物を破壊しながら、高速でミュエルへと接近する。


 しかし、ミュエルはその場から避けようとしなかった。

 ミュエルは氷の弓をその場に投げ捨てると右手の人差し指を親指で固め、ゆっくりとジェイルに向かってその腕を伸ばした。

 そして、デコピンするようにその二本の指を横向きに開く。


「はっ、何やったって俺の攻撃を防ぐことは出来ねぇよ!」


「防ぐ必要はない。当たらないから」


「何言って.....なっ!?」


 ミュエルが指を弾いた瞬間、ジェイルのミュエルに向かって突き出した腕が強制的に外側へ向き始めた。

 そして、ジェイルが自身の腕を見るとそこにはいつの間にか氷の柱が出来上がっていた。


 氷の柱が突っ張り棒的な役割を果たしていて、正面にいるミュエルに砲撃が向かうことはなく、外側に外れてあらゆるものを破壊していく。

 そのことにジェイルは驚きが隠せない。


「いつの間に!?」


「いつの間にって、私は別に気づかれずにやったわけじゃない。あなたが律儀に破壊してくれただけ」


「あの時か......!」


 ミュエルの言葉をジェイルはすぐに理解した。

 それはミュエルが行った最初に二撃。すなわち、ミュエルが放った氷の矢だ。それを粉々に破壊してしまったことが間違いだったようだ。


 ミュエルは破壊されることを見越していたのかあらかじめ、破壊されたら魔力で引っ付くようにトラップを仕掛けてあったらしい。


 そして、魔法は魔力を帯びたものから現象を引き起こすもの。それによって、引っ付いた氷の粒子が媒介となってミュエルの氷魔法を発動させたのだ。


「こなくそ!」


 ジェイルは砲撃を止めるとイラ立ったように太ももで、自身の両腕に繋がっている氷の柱を叩き砕いた。

 その瞬間、すぐ近く声が聞こえる。耳障りなあの獣女の声だ。


「望み通り接近戦をやってあげる」


「がはっ!」


 そして、一瞬目が合った時にはジェイルは大きく上に顔を向けていた。それはミュエルのサマーソルトキックによる衝撃によってだ。


 素早く体勢を立て直したミュエルは右足を強く踏み込むと右ひじを突き出し、左手でアシストするように支えながら体重ごとジェイルのがら空きの胴体に押し込んだ。


 ドンッという鈍い音ともにジェイルの体はすぐにくの字に曲がった。

 そこから、少しだけ体を戻すと右手を素早く立てることでジェイルの顔面に裏拳し、さらに両手でジェイルの襟を掴むと一気に体を反転。


「がああああ!」


 きれいな背負い投げをして、硬質な地面にジェイルを背中から叩きつけた。

 その衝撃にジェイルは思わず苦しんだような声を出す。

 その一方で、ミュエルはジェイルから離れるとすぐに上空を見た。

 それはもうすぐ先ほど自分が放った矢が返ってくるからだ。


「これで終わってくれると嬉しいけど」


 ミュエルは尻尾をゆらりゆらりと揺らしながら、じっと上空を眺める。

 すると、上空の火球に反射してかまるで夜の星空のようにきらきらと何かが降り注いでくる。


 それはミュエルの氷の弓だ。先ほどジェイルに接近される前に放った大きい矢に小さい矢を敷き詰めて上空にはなったのだ。


 故に、先ほどのミュエルの行動は全てその降り注ぐ氷の矢にジェイルを留めるためのもの。

 これがずっと闇で生きていた者と勝手に闇に迷い込んできた者との戦い方の差。


「降りそそげ」


 ミュエルはそっと右手を突き出すとそう呟いた。その瞬間、上空から重力によって加速した氷の矢が一斉にジェイルに文字通り降りそそいだ。


「ああああああ!」


 ジェイルはその氷を一身に受けた。いたるところに氷の矢がささり、かろうじて頭は守っている状態だが、雹よりも攻撃的なそれは全身から出血させるには十分な威力を持っていた。


 その体感時間はジェイルにとってはどのくらいであっただろうか。5秒? 10秒? 30秒? それとも1分以上?

 それは本人にしかわからない。しかし、痛みを声を押し出すことでしか和らげることのできないほどの苦しみであることは確かだった。


 だが、その叫ぶジェイルにミュエルは一切の慈悲もない。当たり前だ。殺すときにためらうことはすなわち自分の死を表すこと。


 それがたとえ自分より圧倒的に弱い存在であろうと「獅子はウサギを狩るにも全力を尽くす」と言ったように一切の手加減はない。


 そういう世界で生きてしまったからこそ、もはや拭うことが難しい。それに調べですでに相手が耐えがたい悪だと理解しているので、余計に慈悲もない。


 その時、ミュエルはふと呟く。


「『悪を狩るのは同じ悪』か」


 その言葉はかつてまだ同じ組織に所属していた時のハクヤの言葉。

 まるで「毒を以て毒を制す」みたいな言い方だが、まさに同じ意味合いでその男は言っているのだろう。

 もしそうじゃなかったら、今頃こんな風に過ごしてはいないだろうから。


 気が付けば雨のように降り注いでいた氷の矢はすでに一本たりとも降って来ていない。全て降りそそいだようだ。


 目の前で顔を覆って横たわる男にはまるで針山のように氷の矢が突き刺さっている。

 来ていた服はほとんどが血で濡れたのか赤黒い色をしたものがほとんどだ。

 そして、漂ってくる強烈な血のニオイ。随分と嗅ぎなれたニオイだ。


「そのままおとなしくしててよ」


 ミュエルはもはや一抹の希望を言葉に出して、ゆっくりと背を向けて走り出そうとする。

 しかし、その希望をたやすく壊すように背後から音が聞こえてきた。


「まだだ......まだだ!」


「っ!」


 そう言ってジェイルは顔を覆ていた右腕を動かすとその人差し指に雷を凝縮させて一気に放った。

 その一撃は先ほどの砲撃に比べれば針のように細いが、それでも相手の心臓を貫くには十分な威力を持っていた。


 ミュエルは素早い身のこなしでそれを躱す。しかし、完全には躱せなかったのか僅かに左腕を掠めた。

 だが、そんな痛みなどもはや慣れたものだ。

 そっと右腕を突き出すとその手に魔力を込める。


「これ以上、死に急ぐ必要はなかったのにね――――抱擁の氷薔薇アイスローズクラッシュ


 ミュエルはゆっくりとその右手を閉じていく。その瞬間、ジェイルの体やその周りの地面に刺さっていた氷の矢が一斉に輝きだす。


 そして、それらが急激にバラの枝のようにトゲを生やしながら伸びていき、瀕死のジェイルにまるで生きているように絡みついていく。


 絡みついたままジェイルを空中に持ち上げるとさらに他の枝が絡みついていき、やがてその氷の枝はジェイルの姿を覆い隠した。


「がああああああ!」


 ジェイルの叫び声だけが聞こえてくる。それはトゲが刺さっているからか、それとも締め付けられているせいなのか、もしくは氷に閉じ込められて凍傷になりはじめているのか。


 たとえそのどれでもあっても、ジェイルには断末魔の叫びを上げるに近いほどの耐えがたい痛みであることには変わりなかった。


「これで終わり。じゃあね」


 そう冷たく言い放つとミュエルは右手をギュッと掴んだ。

 すると、ジェイルに絡みついていた氷のトゲの枝はより一層を締め付けを強め、やがてジェイルの一番の叫びとともにその枝の隙間からポタポタと赤い液体が地面に垂れていく。

 そして、ジェイルの巻き付いていた氷の枝からキレイな氷の薔薇の花が咲いた。


 そのジェイルの最期を見慣れたように感情のない瞳で見つめると振り返り、すぐさま思考を切り替えた。


「待ってて、エレンちゃん。今助けに行く」

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