第3章 夢からの目覚め

第51話 ありすちゃんの副作用

 カラフルな夢を見た。

 ピンク色の壁紙が貼られた部屋で、ピンク色の服を着た女の子が泣いている。

 えぇーんと子供みたいに泣いているこの顔をよく見れば、それは私だった。

 顔中を涙でしわくちゃにして、吐息が絡んだような、苦しそうな音を出して泣いている。

 唯一違うのは、その髪が茶色い色をしていることだった。鏡で見慣れたピンクとは全然違う色。

 街でよく見かける普通の髪の色……。


「返してよぅ。返してよぅ」


 私はその子の隣に座って、泣かないでほしいなとその顔を覗き込んでいた。

 どうしてこの子は私の部屋にいるのだろう。どうして私と同じ顔をしているのだろう。

 困惑する思考に首を傾げれば、ピンク色の髪がハラリと視界にかかる。


「何を返してほしいの?」

「返してよ」

「私はあなたから何を取ったの?」

「返してよ」


 急に彼女は立ち上がり、棚に飾っていた家族写真を壁に叩きつけた。

 ガラスが割れ、足元に落ちた写真を彼女は思い切り踏んづける。私とパパとママの笑顔がズタズタに引き裂かれていく。

 やめて、と伸ばした私の手は真っ黒に濡れていた。悲鳴をあげて引っ込める。

 いつの間にか私の腕は、黒い粘液に濡れて脈動する、気味の悪い触手へと変わっていたのだ。

 目の前の彼女が顔を上げる。

 涙に濡れてキラキラと光る【私】の目が、怪物になった【私】を睨みつける。


「普通の人生を返してよ」


 産声ににた悲痛な叫び声は夢から目覚めても、しばらく脳味噌の裏から消えてくれなかった。




 猛烈な吐き気に目を覚ました。ゴミ箱を引っ手繰る余裕もなく、私はベッドの上に盛大に吐いた。

 甘く焼ける胃液が喉を駆け上る。中途半端に頭を起こした状態でゲエゲエ吐いていると、目の前にビニール袋が差し出された。


「全部吐き出した方がいい」


 私は袋を引っ掴み、顔を突っ込んで口を大きく広げた。固くなった背中がビクビクと痙攣しているなぁ、と他人事のように思う。

 瞬きを繰り返すうちに涙で固まっていたまつ毛が開く。鮮明になった視界に映ったのは、ベッド横の丸椅子に座っている澤田さんの姿だった。


「気分はどうだい?」


 彼は煙草を吸いながら言った。

 丸椅子の下に点々と血が垂れていた。彼のボロボロになった服の下に見える肌は、赤く痛々しい傷が付いている。


「ゲホッ」

「港近くの病院だ。君達が運ばれてから、まだ数時間もたっていない」


 ようやく吐き気が治まってきた。ティッシュで口元と鼻を拭うと、そこではじめて部屋に充満する薬のにおいに気が付いた。

 白いベッドに見知らぬ天井。私の腕に繋がれている点滴を見れば、ここが病院であるという事実をすぐに理解する。


「みん……ゴホッ……皆は?」

「不安そうな顔をしないで。別の部屋で治療中だ。ここの腕前はいいし、そうでなくたって君達は怪我の修復も早い。そうだろ?」

「澤田さんは……」

「俺は一番軽傷だからって後回し。酷いだろ? こんなにボロボロなのに」


 澤田さんが笑えば、ぶわっと口から紫煙が吐き出されて彼の周りに絡みついた。濃い水色の煙が部屋に充満している。

 灰皿代わりになったコップには吸殻が山を作っていた。まるで怪我の痛みを誤魔化すように。


 彼の話によれば、ここは澤田さん所属の組が贔屓にしている病院なのだという。だから喫煙も咎められない、と笑う彼の話はいまいち納得できなかったが、奇妙な怪我を負った私達が即座に治療を受けられたのはそのおかげなのだろう。


「せっかく病院にいるんだ。頭痛や腰の痛み……些細な不調でもあればついでに訴えておくといい」

「は、はい」

「なにせ君はこれまで病院にかかった経験がほぼないだろう」

「……………………」

「何故知ってるのかって? 野暮なことを聞いちゃいけない」


 澤田さんが身を乗り出した。椅子が軋んで、ギッと音を立てる。

 彼に絡みつく煙たい空気が、私の喉を乾燥させていく気がした。


「ここで診察した記録は外部には決して漏れない。だから、俺に教えてくれないか? 君はどこまで知っていた?」

「何を?」

「長年患っているその体の病について」


 私はまつげを瞬かせて澤田さんを見つめた。瞬きの拍子に、目尻に溜まっていた水分がつっと頬を滑る。

 涙なのか汗なのか、そのときの私には判断が付かなかった。

 それが一週間前の話だ。






「特殊性癖は恥ずかしいものじゃない」


 黒沼さんの目は真剣だった。それはもう、あの工場で戦っていたとき以上に凛々しく光り輝いていた。その隣に座る澤田さんも、同じくらい瞳を輝かせて深く頷いている。

 テーブル席には大量の本が並んでいる。そして、その表紙に写っているのは全て裸の女性の写真だった。

 えっちな本である。

 エロ本である。

 同じ席に座る湊先輩はずっと俯いたまま、向かいに座る二人とエロ本の間で視線をちらちらと彷徨わせていた。


「性癖は十人十色。他人には理解できない性癖だってたくさんあるんだ。恥ずかしがらなくたっていい……」

「その通り。うちの組の奴らにも変わった性癖持ちの男は多いよ。例えば、ええと……人の爪を齧ることにしか興奮しない奴とか」

「こわ」

「おっぱいは多い方が興奮する、とか言って女の子の胸を三つに増やす手術する奴とか」

「ヤクザこわ」


 澤田さんと黒沼さんは本を開いて湊先輩の前に突き出した。ページいっぱいの肌色を目にした湊先輩は顔を茹でダコのように赤く染め、はくはくと唇を震わせていた。


「だから君があの子達の姿に性的欲求を抱くのも、悪いことじゃない!」

「ばっ! ちがっ。声でか…………」

「しかしということはつまり。君は戦いのたびに性的な興奮を抱いてるということ……?」

「だーっ! 違います違います。女の子がいる場所でそういうこと大声で言わないでください! 僕は純粋に怪物が好きなんだ! 馬鹿にしないでくれ!」

「で本音は?」

「ちょっとドキドキすることもあるけど……」

「普通に言うじゃん」

「せ、性癖とか言われても普通の恋愛が一番好ききだし……。元カノとだって変なことしたことないし……。エロ本も■■とか◾️◾️とかノーマルなのしか読んだことないし……」

「聞いてないことまで言うじゃん」

「あと胸は多いより大きい方が嬉しい」

「からかってごめんね? 落ち着いて?」


 私達は隣の席から男子組の話を聞いていた。

 私の隣に座る鷹さんは彼らの話に肩を竦め、「元カノ……」と青い顔で呟く雫ちゃんは虚空を見つめる。隣から本を取ってぺらぺら眺めていた千紗ちゃんが、呆れた溜息を吐いて唇を尖らせた。


「いつの間に仲良くなってんだよお前ら」


 今日の喫茶店は盛況だった。私達学生組の他に、三人の大人達が揃って座っている。鷹さん、黒沼さん、澤田さん。

 彼らに共通する点は、あの晩私達の正体を知った大人だということだ。


 あの工場の夜から今日で一週間。

 黒沼さんに話を聞きたいと言われ喫茶店に集まった私達は、そこに澤田さんと鷹さんもいたことに驚き、黒沼さんが二人を呼んだのだと言われて更に驚いた。

 私の膝に座るぬいぐるみのチョコは会話をBGM代わりにしてお菓子をもさもさ食べている。マスターはカウンターでコーヒーを飲みながら、黙って私達の話を聞いていた。

 このメンバーで何の話し合いが行われるのか分からない。私達の間には薄い緊張感が漂っていた。


「なんでそこのヤクザがまだ捕まってねえんだ。仕事しろよクソ警察」

「まあそう邪険にしないで。あのときは怪我させてごめんよ」


 澤田さんが爽やかに笑う。その笑顔に湊先輩が頬を引きつらせた。

 回復力が高い私達はともかく、隣の男子組はまだ傷も痛々しい。あの晩できたわだかまりもまだ彼らの心に残っているはずだ。それなのにこうしてニコニコと笑い合っている様を見ていると、妙に怖くなる。

 全ての元凶である澤田さんは、手錠もかけられず自由に笑っていた。あれだけのことをした彼だ。刑務所に入れられたっておかしくないだろうに、どうしてこんな所にいるのか分からない。

 あの晩。病院で治療を受けた後、彼はそのまま逮捕されるんだろうと思っていたのだけれど……。


「今後こいつの協力が必要になる。だから今は一時的に捕らえていないだけだ」

「今後?」

「私達三人で話し合ったんだ。あなた達の今後について」


 鷹さんがそう言ってカメラを取り出した。そこに写真のデータが表示されている。

 魔法少女の写真だった。私達があの工場で戦っている姿が何枚も撮られている。

 最後の一枚はちょうど私が変身を解こうとしている瞬間の写真だ。魔法少女の正体が姫乃ありすという人物であることをハッキリと表す証拠になりえる写真だった。


「その写真をどうすんだ。売るのかよ」


 言い逃れできる写真じゃない。もしもこの写真が世に出れば、私達の正体はあっというまにバレてしまう。

 特大スクープだからね、と鷹さんは低く喉を鳴らした。


「世間を騒がせていた怪物の正体はまさかの人間だったなんて国中が。いいえ、世界中が注目する重要事項だよ。一年目にして大出世は間違いない。なによりジャーナリストとして、私はこの写真を世に出すべきだと考えている」


 それは彼らも同じ、と鷹さんは澤田さんと黒沼さんに目を向けた。

 視線を向けられた彼らの雰囲気が変わる。ピリッと張りつめた空気が首筋の毛を震わせた。


「警察として。俺は君達を今すぐに捕らえたい。一体これまでにどれだけの被害を出した? 俺達の仕事は街の安全を守ることだ。それを脅かすであろう君達の存在は、黙って見過ごすわけにはいかない」

「俺も似たようなものだよ。君達はいいビジネスになる。ぜひとも青桐組で、金の卵を産むニワトリになってもらいたい」


 私は話を聞きながら、落ち着きなく背中を前後にゆらゆらと揺らした。ソファーの背もたれに背中をくっ付けると汗が張り付いて気持ち悪かったのだ。

 意味もなく目の前に置かれたカフェオレをスプーンで混ぜる。くるくると渦を巻く水面にスプーンがカチカチとぶつかり、雫が零れた。

 私の向かいに座る千紗ちゃんと雫ちゃんは無言で俯いていた。その表情にも焦燥感が浮いている。

 記者、警察、ヤクザ。たった一つでも私達にとっては厄介だ。

 彼らが揃って敵に回れば。私達に勝ち目はない……。


「だから。私達はそうしない・・・・・ことに決めた」

「えっ?」


 鷹さんはカメラをしまった。それはデータを会社に提出しないという意思表示だ。

 どうして、と雫ちゃんが眼鏡の奥の瞳を丸くする。ぱちぱちと瞬くまつ毛がレンズに擦れていた。


「昇格のチャンス……それに、世に出すべき写真だと考えてるのにですか?」

「それは職業としての私。個人としての私の考えじゃない」

「個人としての?」

「私は世の真相を追求したくて編集者を目指したの。だけどそれは、あなた達のような子供を犠牲にしてまで手に入れたいものじゃない」


 その通り、と黒沼さんもまた頷いた。


「個人としてなら。俺は、君達を保護したいと思っている。君達が変身して戦う様は何度か見た。……けれど、どれも俺が思っていた怪物像とは違った。どの場面でも、君達は人間を守ろうと動いているように見えたんだ」

「確かに。思い返せば動物園で私も怪物を見たけれど、あのときの怪物は暴れる動物を倒すだけで、私達を襲おうとはしなかった……」

「当たり前だろ。人間を殺すために変身してたわけじゃねえんだから」


 千紗ちゃんが溜息を吐いて言った。鼻にしわを寄せ、フンと犬っぽく息を鳴らす。


「強烈な見た目で誤解していたけれど君達からは悪意が一切感じられなかった。むしろ善意しかない。『世界を救いたい』という思いだけでそんなにまっすぐ戦えるのは、なかなかできることじゃない」

「黒沼さん…………」

「だがいつまでもそんな考えでいれば、またこいつのような悪人に利用されるぞ」


 黒沼さんがジロリと澤田さんに視線を向けた。澤田さんはあはっと軽やかな笑い声をあげ、長い足を組んで肘をつく。


「利用だなんて酷い言い方。俺はただ、今後君達と協力することでお互いにウィンウィンな関係を築ければって考えてるだけさ。

 俺達青桐組の主な収入源は薬物。そして現在この街一番の薬物を大量に所持しているのは黎明の乙女。

 君達と協力して黎明の乙女を壊せば、彼らの保存していた薬物を青桐組のものにできる。もしそれが不可能であったとしても安価に薬物を販売できなくなった結果、薬の市場価値は元に戻り、青桐組から高額で薬物を買う客も戻る。

 俺達は収入が増える。君達はヤクザの協力を得て黎明の乙女を倒せる。双方に得があるだろ?」


 前から黎明の乙女は気に食わなかったんだ、と彼は頷いた。完璧に利用しようとしてるじゃないですか、と湊先輩が不満げな声を出す。


「君達は甘い。考えなしに行動するな。周りが見えていないにも程がある」

「なっ……。僕達だって、ちゃんと考えて動いてますよ! 毎日気を張って、正体がバレないように……」

「それができている奴はのこのこヤクザの車に乗り込まない」

「うっ」

「警察の股間に蹴りを叩きこまない」

「ぐぅ」


 私達は全員気まずさに視線を反らした。黒沼さんはあははと笑ったけれど、その目はちっとも笑っていなかった。


「善意は悪意に弱い。ただでさえ悪意に慣れていない子供の君達は、簡単な嘘にだって騙されるほど弱い」


 黒沼さんの言う通りだ。

 私達はまだまだ考えが甘い。もしももっと考えて動いていれば、澤田さんに騙されることも、皆が怪我をすることもなかったはずだ。

 力も、知識も、経験も。私達に足りないものは山ほどある。


「だから君達には協力者が必要でしょ」


 鷹さんの言葉に顔を上げた。彼女は私達の顔をぐるりと見回し、力強く胸を叩く。

 凛々しい眼差しが私達を射抜いた。彼女のポニーテールが大きく揺れる。


「私達がいるからって全ての安全が保障できるわけじゃない。でも、いないよりはましじゃない?」

「鷹さん。でも、協力したらあなた達まで危険に巻き込まれて……」

「そんなの今更!」


 澤田さんと黒沼さんの声が重なる。鷹さんもそれに頷いて、さっぱりとした頼もしい顔をした。


「今でも正直信じられないよ。魔法少女とか、怪物とか、正体がただの女子高生だとか。そんなのさ。映画の撮影を見てるみたいで、現実感がないんだ。……だけど私ちょっとそういうの憧れてた。不思議な存在と出会った子供達が、大人にそれを秘密にして、守ろうとする物語。ふふ、大人になってからその立場になるなんて考えてもなかったな」


 そう言って鷹さんは笑う。原っぱを吹き抜ける風のように、眩しい笑顔で。


「つまり、私達はあなた達の味方ってこと。たとえあなた達が何者だとしてもね」


 味方、と改めてその言葉を反芻するうちにじょじょに体から力が抜けていく。安堵感に私は大きな溜息を吐いた。

 感情で私達を守ろうと決めた鷹さん。私達の目的と被害を思慮して味方を選んだ黒沼さん。目先の利益と長期的な利益を天秤にかけて協力を選んだ澤田さん。

 理由はどうであれ、一時的なものとはいえ。彼らは私達の味方になってくれるのだ。


「勿論、これまでの罪が消えたわけじゃない。全てが終わった後に、改めて警察署で話を聞かせてもらう予定だ。少年法が適応されると思うなよ? なんせ、『怪物に変身して人をぶっ殺しました』なんて前代未聞の事例だ。どんな判断が下されるかは俺にも分からない」

「そもそもこの子達に法が適用されるのかぁ? 問答無用で研究所送りじゃないのか」

「……他人事のように言ってるが、お前もだからな澤田。今はお前の組の力が必要だから自由にしてやってるだけだ。全部終わったら捕まえてやるよ」

「あはは。捕まってあげなぁい」

「ふふふ」


 黒沼さんと澤田さんはニコリと泥のように濁った笑顔を向け合った。

 すぐ喧嘩するじゃん、と肩を竦めた鷹さんは彼らを無視してパソコンを取り出した。

 軽快にキーを叩いて『黎明の乙女』と打ち込み、唇を尖らせたまま声を出す。


「協力するなら早速……と思ってみたけど、問題は山積みだなぁ。黎明の乙女のトップを倒すって言っても、顔写真どころか名前すら出てこない」

「信者ですら謁見は認められないんだ。よほど上の位じゃないと顔なんて見れやしない。ネットに顔写真が転がってるわけねえんだよ」

「ま、こっちは警察に記者にヤクザ。情報を探すにはうってつけの人材だ。根気よく探せば特定はできるだろう」

「いざとなったら私が信者を偽って内部侵入してあげる。宗教団体の内部なんて、なかなか取材もできないしね。ちょっと楽しそうじゃん?」

「た、鷹さん危ないよ……。バレたら、すっごく怒られちゃいますよ……」

「だいじょぶだいじょぶいけるいける。何だったら雫ちゃん一緒に潜入捜査しない?」

「ひっ…………」


 盛り上がる皆を見て、心がじんわりと温かくなっていく。

 頼もしいかぎりだ。これまで苦労していた問題が少しずつ解決していくように思える。

 私はほうと安堵の息を吐いてカフェオレに口を付けた。

 そんな中ふと顔をあげた澤田さんが私の顔をじっと見つめた。


「残る問題はありすちゃんかな」


 突然名前を出され思い切りむせる。こちらに注がれている皆の視線に、私は目を丸くした。


「わ、私?」

「君がどんな子か、かいぶ……魔法少女に対してどんな認識を持っているのか、という点については既に聞いている。そのうえで、最近の君の様子がおかしいということもね。あの夜も君は急に倒れただろう? 心配なんだ」

「私は、別に、何も」

「何もないとは思えないけど」


 私は澤田さんの視線から逃れるように俯いた。白い眼差しが恐ろしかった。

 あの晩。病院で彼と話したときのことを思い出す。彼は私に妙な質問をして、私は結局それに答えられなかったのだっけ。

 そうだよなぁ、と言葉を続けたのは千紗ちゃんだ。彼女はツンと白い鼻にしわを寄せて、大人びた溜息を吐く。


「湊と雫が誘拐されたって聞いたときも、お前の様子はなんだかおかしかったし」

「そんな…………」

「今だって変だ。お前、今日はうんと口数が少ないじゃないか」

「そんな日だってあるわっ。今日の私は真面目な子なの」

「いつもはあんなにキャーキャー猿みたいに騒がしいのに」


 口の中が乾燥する。私は震える手でガチャガチャとカフェオレをかき混ぜた。

 かき混ぜすぎたカフェオレが飛んでチョコの顔に数滴が飛ぶ。口元にかかったそれを舐めたチョコは、目を丸くして膝の上に立ち上がった。


「ありすちゃん。これお砂糖入ってる?」

「入ってるわ、二つも」

「ホットミルクにお砂糖三つは入れる君が? もう少し入れてあげようか」

「ううん、いらない。甘くなりすぎちゃうから……」


 カタ、と物音がして私の顔に影がかかる。立ち上がった湊先輩がこちらの席に来て私の顔を覗き込んでいるのだ。

 彼は目を丸くして、信じられないものを見るような目で私とカフェオレを交互に見つめる。

 困惑した私は、ふと正面に座る雫ちゃんと千紗ちゃんが同じ顔をしていることを知った。目を丸く見開いて、眉間にしわを寄せてまっすぐに私を見つめている。


「ありすちゃん? 具合でも悪いの。胸焼けしちゃった? お砂糖欲しくないなんて」

「ふ、二つも入れたわ。ミルクもたっぷり入ってる。十分おいしいもの」

「たった二つじゃないか。ココアにも砂糖を入れようとする君が?」


 熱があると思ったのだろうか。湊先輩は私の額に手を伸ばそうとする。

 びっくりして思わず身を引けば、彼はぱちくりとその目を丸くしてから、少しショックを受けたような顔をした。


「あ、あ。違うのよ。湊先輩が嫌いってわけじゃないのよ」


 構ってよぅ、と皆にくっ付いて頭やほっぺを撫でてもらおうとするのはいつも私がやることだ。しょうがないなあ、と笑って皆が私を撫でてくれるのが大好きだ。千紗ちゃんのコツコツした手や、雫ちゃんの柔らかい手、湊先輩の大きな手に撫でられるのが幸せだった。

 だからこうしてスキンシップを避けてしまったことに、自分でも少し驚いていた。


「ただ。そう。ただちょっと。男の子に触られるのが、ちょっと緊張しちゃって……」


 私はそう言った。湊先輩は私の反応に少年っぽく顔を赤らめる……なんてことはしなかった。ただその顔を一層険しくしかめるのだ。

 どうしちゃったの、と雫ちゃんが震える声で私に問いかける。


「ど、どうしちゃったのありすちゃん」

「雫ちゃん? どうしたのって、何が」

「やっぱり変だよ。だって、コーヒーは苦いからってほとんど飲もうとしないじゃない。カフェオレもコーヒーと同じ苦さだわって嫌ってたじゃない」

「味覚が大人になっただけよ。そんなに驚くことじゃないわ」

「それだけじゃないよ。男の子に触られるのが恥ずかしいって、そんな、女の子みたいな反応……」

「私は女の子よ?」

「そうだけど……ううん、そうだけど……。あなたはもっと……何と言うか……ええと…………」

「お前はもっとやばい奴だったはずだ」


 雫ちゃんの言葉を千紗ちゃんが言い切る。彼女は珍しく不安そうに私を見つめ、どうしたんだよ、と困惑した声を出した。


「お前はもっとガキ臭くて、空気が読めなくて、気が違ってて、それで……もっと、明るく笑う奴だろ。それが、どうしたってんだ。何で今はそうおどおどしてる? 何があったんだよ」

「わ。分かんない」

「なんだか……そう…………まるで、急に成長期が来たみたいだ。赤ん坊が一晩で大人に成長してパニックになってるみたいな、そんな感じ」


 熱い肌の上を幾筋もの汗が流れていった。乾いた口内を舌で舐めると、信じられないくらいに冷たかった。

 私はチョコを強く抱きしめた。痛いくらいに力を込めているのに、チョコは文句一つ言わずに私を見上げている。ピンク色の毛がチクチクと肌を撫でた。


 分からない。私は今どんな顔をしているのか。

 どうして私の頭はこんなに混乱しているのか。

 どうして私は、今になって何かに気が付き始めているのか……。


「分からない……」


 私。私。私。

 私は一体、何者なのだろう。


「……変身には副作用があると言っていたな」


 不意に黒沼さんが言った。

 目にかかった前髪をふぅと吐息で払い、長いまつ毛を瞬かせる。


「髪や目の変色以外にもそれぞれに現れる副作用。そしてありすちゃんにはまだそれが現れていなかった、と」

「もしかして、これがこの子の副作用だって言いたいの? 私にはよく分からないけど……過度な糖分を控えたり、言動が年相応になるのは、いいことなんじゃないの?」

「それが自発的な自覚によって治そうとしているのだったらな」


 黒沼さんは私を見つめ、ふっと溜息を吐くように微笑んだ。とろけるように甘い顔を向けられ一気に顔が赤くなる。

 私は落ち着きをなくして視線を泳がせた。黒沼さんは甘く低い、ロマンチックな声で喉を震わせる。


「ホテルに行ったときの君と今の君は全然違うね」

「キャーッ!」


 突然誤解を受けるような発言をされて、私は思わず悲鳴を上げた。鷹さんがギョッとした目で黒沼さんに目を剥く。

 あうあうと私は体を震わせた。顔の熱が耐えられないほど高まっていく。

 皆がいる前でそんなことを言うだなんて酷い人だわ。あのときは何も分かっていなかったのよ。誤解されるようなことは何もしていないし。したのはせいぜい、き、キスくらいなものだし…………。


「……………………?」


 そういえば。私はいつからホテルの意味を知ったのかしら。


「副作用というのは必ずしも悪い面が見えるものだけじゃない。第三者からは、むしろいい効果に見えてしまう副作用も存在する。それが本人にとって毒であるにもかからわず」

「どういうことです?」

「副作用が、その人物が持つ本来の性格に働いた結果、周囲から見れば好ましい性格に変わることがある。暴力的だった人間が強力な無気力感の副作用で穏やかな性格になったり、怠惰な性格が日常的な焦燥感という副作用によって勤勉な性格になったり」

「そんなの副作用とは言わないんじゃないですか? いいことなら、別に」

「性質を強制的に変えられる苦痛は凄まじい。例にあげた二つの事例も、被害者はそれぞれ自死を選んでいる」

「…………つまり。ありすちゃんが魔法少女になることへの副作用は」


 湊先輩が私を見つめる。彼は下唇を噛み、くぐもった唸り声に似た溜息を喉奥に飲み込んだ。

 副作用はその人物の本来の性格を変えることがある。他者からは正常に見えてしまうから、気付いたときには手遅れになっていることもある。

 湊先輩は掠れた溜息のように言葉を吐いた。


 私の副作用は現れていなかったのではなく。

 ずっと気付かれていないだけだったのだとしたら?


「『普通になること』?」


 喫茶店の中は静まり返り、マスターが静かにコーヒーを飲む音だけが響いていた。

 窓から差し込む日差しが私の髪を柔らかく照らす。秋を感じる日は穏やかで、心地よい温かさを孕んでいた。

 それなのに。日に照らされるピンク色の髪の毛が、そのときの私には酷く気持ちの悪い色に思えてならなかった。





 不思議の国は夢のお話。ありすは目覚め、物語は終わりを迎える。

 私が夢から覚めるときがやってきた。

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