第52話 湊先輩の元カノさん

「じゃあ文化祭、クラスの出し物は作品展示ということで」


 教壇に立つ委員長がそう言った。うぇーい、と疎らな拍手がパラパラと鳴って、教室の皆は適当に駄弁り始める。

 一時間目いっぱいを使って文化祭の出し物を決める、という時間はあっという間に終わってしまった。終わり次第自由時間だと、先生が教室を出るときに言い残したからだ。

 元々協調性があるクラスだとはいえない。そのうえ部活動をやっている生徒が多く、大半の生徒は部活動の出し物の方に集中するらしい。クラスの方の展示は、皆あまりやる気がないのだろう。


 黒板を消すキューキューという音が生徒の雑談の中に混じる。誰かが開けた窓から強い風が吹いて、少し焦げた秋の匂いを教室に運ぶ。

 視界にピンク色の髪が舞う。ふわりと泳ぐ前髪を指で押さえ、私は黙々とノートにペンを走らせていた。

 私は授業の開始からずっと話し合いに参加せずペンを握っていた。頭の中を騒がせる思考を吐き出し、まとめるために。

 それにどうせ私は最初から、クラスの話し合いに参加なんてできないんだから。


「……………………」


 魔法少女という存在がある。私が幼い頃から憧れ、夢抱いていた不思議な少女達のことだ。

 私は妖精チョコと出会い、魔法少女に変身し、悪い人達を倒して世界を救っている……。

 それが、『私の認識』である。


 私は可愛い魔法少女に変身している。魔法のビームを撃って、悪い人達をこらしめている。

 いつからだろう。周りの歓声が悲鳴にしか聞こえなくなったのは。辺りに散らばるピンク色の苺ジャムだと思っていたものが酸っぱい臭いのする血液にしか見えなくなったのは。「魔法少女ピンクちゃん」と私を讃える皆の声が「諤ェ迚ゥ」と言っているように聞こえるのは。変身したときの私の姿がニュースや写真で見るとどうしてもぼやけて見えてしまうのは。

 『普通になること』が私の副作用というのは、一体どういう意味なのだろう。


「……………………あら」


 ノートに走らせる文字が止まる。私は瞬きを三度繰り返してノートを見下ろし、もう一度パチンとゆっくり瞬きをした。

 たくさんの言葉を書いていたはずなのに。よぅく見返せばその文字はどれも気が狂ったゴキブリが走り回ったかのようにぐちゃぐちゃで、至る所にシャーペンの穴が開いてボコボコだった。

 自分で書いていたはずなのに、何一つ文字を読み取ることができなかった。


 私は……魔法少女ピンクちゃんに変身しているのよね。

 愛と友情を強い力に変えて悪い人達の心を浄化しているのよね。

 私は、私が? 何をしているって? 悪い人を……。いいえ。ビームはどこから。え? 違う。私は魔法少女じゃない。怪物。え? なぁに。怪物って……。諤ェ迚ゥ? 鬲疲ウ募ー大・ウ? だから、違うって。違うのよ。いいえ気が付いちゃ駄目よ。私は。ただのひとごろ、


「あっ」


 急に頭に冷たいものが降り注いだ。バシャッと水っぽい音がして、濃厚な乳臭さがわっと広がった。

 振り向けば、真後ろの机の上に腰かけ、こちらをポカンと見つめる男子と目が合った。片手に握っている牛乳パックが所在なさげにボタボタと白い雫を垂らしている。

 友達の席にやってきて駄弁っていたのだろう。盛り上がっているうちに、持っていた牛乳が傾いていることに気が付かなかったのだろう。前の席に私が座っていたのが不運だった。


「う、わ。ごめんっ。人いると思ってなくて」


 彼はしどろもどろにそう言った。言い訳にしては酷すぎる言葉だと思った。一メートルも開いていない距離で、私の姿が見えていないわけがないのに。


「お前酷すぎ。ちゃんと謝れし」

「ごめんほんとごめん。えーと…………ごめ、名前なんだっけ」

「さいってーじゃんマジでぇ」


 喋っていた男子が笑う。牛乳パックの彼も私より友人に顔を傾けてへらっと困り顔で笑っていた。

 私は無言で立ち上がり、鞄を持って教室を出た。クラスの誰も出て行く私に一瞥もくれなかった。

 女子トイレで牛乳を洗い流していると鞄からチョコがひょこりと顔を出した。ピンク色の毛を膨らませて、コテリと小首を傾げる。


「大丈夫ありすちゃん?」

「平気よ。慣れてるもの」


 水道を強めに捻る。バシャバシャと跳ねる水音が震える声を掻き消してくれるように祈って。

 鏡には顔をびっしょりと濡らした私が映っていた。額に張り付いたピンク色が、濡れて色濃い赤色の髪に見える。

 鏡を垂れる水滴が映る私の目尻を流れていく。


「ねえチョコ。私は魔法少女なのよね?」


 水で聞こえなかったのか、チョコは何も言わず、鏡に映る私を見つめていた。

 本物のぬいぐるみみたいにずっと黙ったままだった。





「はいはいはい女装喫茶やろ女装喫茶やろ絶対に女装喫茶がいい! 俺が学園のマドンナになるんだい!」

「気でも狂ってんのかお前」

「そのすね毛剃ってから言ってくれます?」

「え。あたし普通にお化け屋敷やりたいんだけど。本格的なやつ」

「本物呼ぶ?」

「OBとかに一人くらいいんじゃね?」

「本物の幽霊が……?」

「うちツテあるから呼べるかも」

「本物の幽霊とのツテが……?」


 湊先輩のクラスでは休み時間になってもまだ話し合いが行われていた。

 一時間目の終わり。チョコを抱きかかえて二年生の教室に訪れた私は、もじもじと所在なさげに廊下に立ち尽くしていた。

 議論はこれでもかとばかりに白熱している。これじゃあ湊先輩に話しかけることなんてできそうにない。教室に何度か声をかけようとしたけれど、タイミングを上手く掴めず困ってしまった。

 邪魔しちゃ悪いわね、と私は踵を返そうとした。けれどそのとき、後ろの方の席で議論に参加していた湊先輩が、ふと私に気が付いて立ち上がった。


「ありすちゃん?」


 クラスメートに断りを入れ廊下に出てきた湊先輩が私を呼び留めた。

 どうしたの、と優しく尋ねる彼に、申し訳ない気持ちで眉根を下げる。


「あ……用事があったわけじゃないの。なんとなく来ちゃっただけで」

「そっか。休み時間だからね、お喋りでもする? ラウンジにでも行こうか」

「ごめんなさい。皆でお話ししてたのに、邪魔しちゃって」

「あはは。授業中に突撃かましたりしたくせ、こういうのは遠慮しちゃうの?」


 湊先輩はおかしそうに目尻にしわを寄せて笑った。それからふと鼻を鳴らした彼は表情を引き締めて私の服に顔を近付ける。

 いくら水で洗い流しても、シャツにしみついた牛乳臭さは取れていなかった。


「何かあった?」

「ちょっと牛乳零しちゃって」

「……ちょっと待ってね」


 湊先輩は教室に顔を突っ込んで、誰か余ってるタオルなーい? と大声を上げた。誰かが投げたタオルを受け取った湊先輩が戻ってきて、私の顔をそっと拭いてくれた。

 少しゴワついたタオルが髪を撫でていく。彼は水でしっとり濡れた私の髪に気が付いていたはずだけれど、何も言ってはこなかった。


「湊くん。ぼくもぼくも」

「あんまり濡れてないじゃないか。はいはい、順番ね」


 先輩はチョコのこともタオルで拭いてくれた。タオル越しの大きい手は、笑ってしまうくらい優しい手つきをしていた。

 湊先輩は優しい人だ。柔らかく微笑んで私のことをいつも助けてくれる、頼もしい先輩。

 だから私はそんな彼を見上げ、尋ねた。


「先輩は怪物が好きなのよね」

「ふふ、何急に。好きだよ。部屋におもちゃを飾ってるくらいには」

「魔法少女に変身している私達のことも、好きなのよね」

「…………うん」

「湊先輩からも私達は魔法少女に見えているのよね?」


 喫茶店で男の子達がしていた話。これまで変身していたときの湊先輩の反応。記憶の中の映像は何故だかどれもぼやけていて、そのとき話を聞いていなかったわけじゃないのに、内容が上手く思い出せない。

 君があの子達の蟋ソに諤ァ縺ヲ縺肴ャイ豎を抱くのも悪いことじゃない。螂ウ縺ョ蟄がいる場所でそういうこと大声で言わないでください、僕は純粋に諤ェ迚ゥが好きなんだ。諤ェ迚ゥに変身して人を縺カ縺」谿コしました……。

 彼らが話していた台詞がぼやぼやと輪郭を失って、脳味噌の中に溶けていく。


「私は魔法少女ピンクちゃんに変身しているの。でもなんだかおかしいの。皆、私達のことを見て、諤ェ迚ゥだって悲鳴を上げるの……。頭がぐちゃぐちゃしているの。分からないの。分からない。私が何に気付きかけているのか分からないの。私、本当に魔法少女なのよね?」


 湊先輩は薄く口を開け、私を見つめて黙っていた。その顔はさっき洗面台で返事をしてくれなかったチョコによく似ていた。

 怖いくらいの間が空いて、湊先輩は気まずそうに視線を泳がせる。そうして真剣な目をして口を開こうとした彼は、背後からぶつかってきた男の子に押し潰された。


「どわーっ!」

「みなとくーん、どっか遊び行こうぜ」


 国光! と湊先輩が裏返った声で男の子を怒鳴った。どうやらクラスのお友達らしい。湊先輩は私から顔を反らし、ふくれっ面で彼に文句を言っていた。


「邪魔すんなっ。繊細な話をしてんだよこっちは!」

「繊細な話? なによ。その話とアタシと仕事のどれが一番大事だって言うのよ!」

「少なくともお前ではない」

「どんな話よ。昨日彼女にフラれた涼の話?」

「知らねえよ」

「二股かけてんのバレて両方に殴られたって」

「自業自得だよそれは」


 国光と呼ばれた男の子は湊先輩の背中によじ登ってケラケラと笑った。私がぼんやりとそれを見ていると、不意にもう一人、男の子が教室からひょっこり姿を見せたものだからビクリと肩を跳ね上げる。


「お。ゆめかわちゃんじゃん」

「ゆめかわちゃん?」


 明るい茶髪をふわふわと揺らしてその男の子は私に笑う。涼、と湊先輩が咎めるように彼の名前を呼んだ。

 涼と呼ばれたその男子も湊先輩の友人であるらしい。私は腕の中のチョコをぎゅっと抱きしめて二人に小さく頭を下げる。


「姫乃ありすです」

「こんちはー。俺、涼って言うの。こっちは国光ね」

「涼先輩と、国光先輩」

「その髪ピンク色で綺麗だね。可愛い顔によく似合ってる」

「おいこら。ナンパすんな」


 甘く微笑んで私に顔を近付ける涼先輩を、湊先輩が後ろから止める。

 涼先輩は笑って私にウィンクをした。星が目の前できらめいているような魅力的な仕草だった。それを見ていた国光先輩も真似をしてウィンクをする。この間はじめて梅干しを食べたときのチョコの顔に似ていた。


「噂で聞いてるよりなんか普通じゃね? けっこう可愛いし」

「お前昨日二股バレてフラれたばっかりなんだろ」

「三股だったら逆にセーフだった説ある」

「ないんだよんなもんはよ」


 男友達と喋っている湊先輩はいつもより少し口調が雑だった。無骨な彼の姿はけれど自然で、そうして友達と笑っているのを見るとなんだか不思議な気持ちになる。

 湊先輩にも。それから、千紗ちゃんや雫ちゃんにも。多分皆で一緒にいるときとは違う時間があるのだろう。クラスの友達といるときや、部活に集中するようなときが……。


 私だけ、なんにもない。皆で一緒にいるとき以外の時間を、何一つ持っていない。

 私は魔法少女以外に何も持っていないんだわ。


「んでさ二股で思い出したんだけど、転校生見に行かない?」

「最悪の思い出し方するな」

「なになに転校生? 何の話?」

「朝に聞いた話。今日、別クラスに転校生が来たんだって。それが超美人らしくてさ。見に行くしかないでしょ」

「いいよ別に。別のクラスの転校生なんて、わざわざ見に行くのも迷惑だろ」

「でも三年の教室だぜ」

「三年生? 今、二学期だよね?」

「そうそう。凄い微妙な時期の転校なのよ。気になるじゃん?」


 行こうぜ、と涼先輩が湊先輩の腕を掴んで引っ張る。ぶつぶつ文句を言いながらも湊先輩はその後ろをついて行く。君も行く? と国光先輩に誘われ私もなんとなく頷いた。

 廊下を四人で歩く。湿った廊下を靴底がきゅっきゅと鳴らす。歩きながら、涼先輩と国光先輩は興味津々に私に話しかけてきた。


「ありすちゃんだっけ。湊の友達? いつから知り合ったの」

「入学してすぐのときよ。写真を撮ってる先輩に私が声をかけて……」

「へー、付き合って何ヶ月目? 湊じゃなくて俺にしない? てかラインやってる?」

「こらこら涼。そういう関係じゃなさそうだろ。それに湊はあれだから。俺と一緒に年齢イコール彼女いない同盟組んでるから」

「え。ごめん僕彼女いたことある」

「もうお前と一生口きかねえから!」


 自然消滅したけど、と苦笑しながら湊先輩が階段を上がる。三階につけばもうそこは三年生の教室だった。転校生がいるらしい教室はすぐに分かった。廊下にできた人だかりが興味津々に教室の中を覗いていたからだ。

 たかが転校生だろ、と笑いながら涼先輩が先に行って教室を覗き、周りの人達とまったく同じ顔をして教室をぽかんと見つめる。何してんだよと国光先輩も笑いながら続き、まったく同じ顔で人だかりの一員になる。


「……何かしら?」

「さあ?」


 私と湊先輩も顔を見合わせ、教室の中を覗いた。

 絶句した。


「……………………」


 転校生が誰かはすぐに分かった。後ろの方の席に座り、顔を真っ赤にしたクラスメート達からおずおずと話しかけられて微笑んでいる一人の女子生徒がいる。

 それはぞっとするほどの美人であったのだ。


 どこまでも白い真雪の肌がきらめいていた。小さな顔にツンと尖った鼻は思春期の女の子ならば誰もが羨むほどで、頬を流れる輪郭の形さえも完璧に整っている。

 ウェーブの髪はみずみずしい艶を帯びていた。グリッター入りのヘアスプレーでも使っているのだろうか、風に髪が揺れるたび、深みのあるダークブラウンの髪はキラキラと輝いて、砕いた宝石を散りばめたように映る。

 なにより目を惹くのはその体。きゅっと引き締まった細い腰、その上下に付いた胸とお尻は対照的に大きく、制服の布地を今にも張り裂けんばかりに押し上げている。薄手のストッキングが包む足はすらりと長く……。どこを見たって高校生には思えないほど抜群のスタイルだ。


「はわぁ」


 私は思わず溜息を吐いて目をキラキラと輝かせた。外からその転校生を見ている人達も皆私と同じような顔をしている。羨望と、憧れの眼差しが狭い廊下にきらめいていた。

 モデルさんみたいね、と私は湊先輩に言った。

 けれど返事がない。

 顔を上げた私は湊先輩の顔を見てパチパチ目を瞬かせた。


「湊先輩?」

「……………………」


 湊先輩の顔は険しかった。ハッと大きく見開かれた目が転校生を凝視している。けれどその表情は、国光先輩や涼先輩のでれっととろけた表情とはまるで違う色を帯びていた。


 ふと、転校生の彼女がこちらに顔を向ける。直後彼女はガラス玉のような目を丸くさせ、机を弾き飛ばさん勢いで立ち上がった。

 驚く私達の前に彼女がツカツカとやってくる。あっという間に距離は詰まり、私達と彼女の間には三十センチの距離もなくなった。

 身長が高い。百八十に近い湊先輩とそう視線が変わらない。低身長の私は彼女の顔よりも胸に目がいってしまう。メロンが食べたいわ、と私は唐突に思った。


 間近で見る美貌はより強烈だった。

 ブラウンのアイシャドウが滑らかに瞼を彩り、その上から重ね塗りされたゴールドの輝きが、元々綺麗な目に更なる美しさと立体感を魅せる。ぐっと塗られたロングマスカラが彼女の上品な美しさを際立てる。自然な色の口紅はパッキリとしたアイメイクに比べて控えめで、けれど中央にトントンと薄く乗せられた濃い赤色がにじみ出るような血色の色気を出していた。

 バッチリと化粧をしているのに、「校則違反だ」と騒ぐ人は誰もいなかった。あまりにもメイクが彼女の顔にマッチしていたからだ。むしろそれが正しいことのように見えるほど、彼女の顔は完璧だった。

 そんな美女がくっと顎を上げ、湊先輩の顔を見上げて、長いまつ毛をゆっくりと瞬かせた。


「湊くん?」

「……祥子しょうこさん?」


 え、と誰かが声をあげた。周囲の生徒達の視線が一気に彼らに突き刺さる。

 祥子、と呼ばれた転校生の彼女はパチパチと瞬きをし、ツンと澄ましていたその顔をゆるりと破顔させた。そして、周囲を気にせず湊先輩に思い切り抱き着く。


「湊くんっ!」

「うおっ!」


 真正面から彼女に抱き着かれた湊先輩がバランスを崩して転んだ。湊先輩は立ち上がろうともがいたが、祥子さんはニコニコと笑って湊先輩から離れない。

 私は目をまん丸くさせて二人の横にしゃがんだ。目を白黒させる湊先輩の顔を覗き込み、周りの皆も含め皆が一番疑問に思っているだろうことを聞く。


「……二人はお友達なの?」

「ううん」


 答えたのは湊先輩ではなく転校生の彼女だった。

 彼女は私に振り返り、ニッコリと綺麗に笑う。白く輝いていたその頬が、今は薔薇色に染まっていた。


「恋人なの」


 周囲は水を打ったように静まり返る。私も、周りで二人を見ていた皆も、何も言わずにぽかんと口をまんまるに開ける。

 嬉しそうに微笑む彼女の下で。湊先輩は、ぱちくりと瞬くその顔をじょじょに赤く染めていく。

 殺してやる。と叫んだ国光先輩の怒号が、校舎中に響き渡った。

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