第50話 私は人殺しの怪物

 澤田さんの目の前に広がる巨大な口。

 その口内に目が眩むような青い光が輝いていた。

 その光を見て僕達が思い出すのは、これまで何度も目にしたあの青い光線だ。

 全ての命を一瞬で消し飛ばす絶望的なあの光。


「ま……待てよ」


 澤田さんはすっかり青ざめた顔を横に振った。その手からナイフが滑り落ち、地面にカランと音を立てる。


「待ってくれ。あ、あ、ありすちゃん」


 彼の青い頬から滝のような汗が流れていく。それは地面に垂れる前に、ジュウと蒸発して消えた。

 彼女の周囲の空気が揺れている。夏の暑い日に、遠いアスファルトの道路が揺れて見えるのと同じように。


 澤田さんは彼女に武器を向けない。逃げもしない。恐怖が彼の足をその場に縫い付け、動けなくさせていた。

 ザァーッと音を立てて全身の毛が逆立つ。彼よりも遠くにいる僕でさえ身動ぎ一つできなかった。ガチガチと歯の音が痙攣したように鳴る。

 ヤクザだろうが警察だろうが……どんなに威厳のある人物だとしても関係ない。

 あの光を目の前にした人間は誰しも、恐怖という感情以外を消し去ってしまうのだ。


「蜿咲怐縺励↑縺阪c縲よが繧、繧ウ縺ィ繧偵@縺溘i縲√#繧√s縺ェ縺輔>縺」縺ヲ」


 その熱は遠く離れた僕にまで届いていた。眼球が熱にひりついて、痛みを訴える。

 けれど目を離せない。声も出ない。心臓がバクバクと悲鳴を上げている。

 澤田さんの目から涙が零れていた。生理的なものか、感情的なものかは分からない。


「あっ、あぁ…………」

「繧、繧ア繝翫う莠コ縺ュ」

「……ご、めんな、さっ」


 光線の輝きが一層強くなった瞬間。突然背後から後頭部を捕まれ、僕と雫ちゃんは地面に顔を押し付けられた。

 直後。地面が脈打つようにバクンと大きく揺れた。


「縺医>縺」!」


 周囲の空気が一瞬で真っ青に染まった。凄まじい熱風が巻き起こり、体に襲いかかる。

 空気が爆発した。


「っ!」


 強烈な熱が産毛を焼く。体が浮かびそうになり、必死に地面に指を這わせる。

 地面は熱く熱されて、押し付けた頬がジウと焼けた音を立てる。

 衝撃が周囲の物を吹き飛ばす。車が何台も入るほどに巨大なコンテナが、まるで埃を吹き飛ばすかのごとくゴロゴロと転がっていくのが視界の端に見えた。


 風に浮いてしまう僕の手に、雫ちゃんの手が重なった。彼女は触手を地面に這わせ、必死で風に飛ばされないように耐えていた。

 僕も死に物狂いで彼女の手を握り返す。僕達の手はどちらも、火傷しそうに熱かった。


「うわあぁっ!」


 青い光はどんどん強くなっていき、とうとう目を開けていられず瞼を閉じる。

 瞼を閉じても分かるくらい、世界は彼女の光に染まっていた。


 長い間地面にしがみ付いていた。

 風になびいていた前髪がふっと力を抜けたように額に垂れる。

 続いて騒々しい物音が止んで……僕はおそるおそる目を開けた。

 青い光の残滓がぼんやりと視界に残っている。何度か瞬きを繰り返せば、ようやく周囲がどうなっているのかが見えてきた。


 ゴフゴフと煙っぽく咳をしていたイエローちゃんが、体を震わせて土汚れを払う。六つの目がギロリとピンクちゃんを睨んだ。

 ピンクちゃんは口の中にパチリと青い火花を散らし、鼻と口から大量の黒煙を吐き出して立ち尽くしている。その目尻から、黒い涙のような粘液がどろりと垂れた。

 鼻を突くのは肉やコンクリートが焼け焦げた酷い臭い。その臭いはふっと潮風に掻き消された。


「……………………」


 工場の壁が一つ、ぽっかりとなくなっていた。

 壁だった場所には巨大な穴が開いていた。固い材質のはずの壁はその端が溶け、焦げ臭い煙と共にボロボロと落ちていく。

 穴の向こうには海が広がっていた。

 プランクトンの死骸が香る真っ暗な海は、僅かな星明かりに照らされて、白く濁ったきらめきを光らせていた。


 穴の横には澤田さんが倒れていた。その上に覆いかぶさる黒沼さんの姿もあった。

 黒沼さんの上着はボロボロに破け、熱い粉塵を浴びてあらわになった背中は真っ赤だった。苦悶を浮かべた顔には大量の汗が滲んでいる。

 呻き声がして、澤田さんがふと目を開ける。自身の上にいる黒沼さんに一瞬ビクリと肩を跳ねた彼は、目を丸くして黒沼さんを見つめた。土煙に汚れた頬に赤い血が垂れていく。


「なんで……」

「お前が死んだら、誰に事情を聞けばいいんだ」


 黒沼さんはざらついた声で吐き捨てた。

 工場の中には大量の血が散らばっている。焦げた死体や、引き裂かれた死体がバラバラと倒れて風に吹かれていた。

 青桐組の連中で息をしている人間は、澤田さん以外に誰も残っていなかった。


「ご同行願おうか」


 立ち上がった黒沼さんが血濡れの手を差し出した。

 澤田さんは溜息を吐いて俯いた。ぼさぼさになった前髪が彼の目元を覆い隠す。

 僕達の前にいたときの爽やかな笑顔なんて微塵も残っていない。くたっと乱れた身だしなみは、澤田さんの取り繕っていた偽りの姿が剥がれていくみたいだった。


「はは…………」


 差し出した黒沼さんの手が掴まれる。握手をしているみたいだと一瞬思う。

 ふっと吹いた潮風が澤田さんの乱れた前髪を膨らませる。

 あらわになった彼の目は、獰猛に歪んでいた。


「――――このまま負けて、たまるかよ!」


 澤田さんは懐から銃を取り出した。

 三つ目の武器だった。

 彼が持っているのは銃一丁だけでも、ナイフ一本だけでもなかったのだ。


「しまっ」


 向けられる銃口に黒沼さんの目が大きく見開かれる。咄嗟に引こうとした体は、腕を澤田さんに掴まれているせいで動かせない。黒沼さんの顔に恐怖の表情が浮かんだ。

 銃声が鳴った。


「…………は」


 僕は目を見開いて固まっていた。ぶるぶると震える唇を噛んで、おそるおそる隣に視線を移す。

 僕の隣。そこに立つ雫ちゃんが、澤田さんにまっすぐ触手を伸ばしていた。


「いい加減にして」


 氷を首筋に当てられたようなヒヤリとした声。僕は思わず息を飲む。

 彼女は一歩前に進んだ。落ちて壊れた眼鏡の破片が、靴底でパキパキと音を立てる。

 彼女から伸びた触手が、澤田さんの撃った銃弾を受け止めていた。半分抉れた触手からは粘着質な青い血が流れている。その傷は僕達が見ている前でボコリと泡立ち、少しずつ修復されていく。

 彼女はもう一歩前に進んだ。その横顔にゾッとする。冷え切った表情からは、普段の彼女の優しい温かさが一切こそげ落ちている。


「どこまでわたし達を馬鹿にすれば気が済むの」


 彼女の青い髪がとろりと溶けるように地面に滴る。それはいつの間にか粘ついた触手へと変わり、メドゥーサの髪のように彼女の周囲をうねる。

 服の裾から何本も触手が零れ落ちた。彼女は無言でそれを地面に打ち付ける。鋭い音がして、コンクリートの床が簡単に砕けた。

 澤田さんが咄嗟に雫ちゃんへ銃を向けた。けれど、引き金を引くよりも先に、彼女が飛ばした触手が澤田さんの手に絡みつく。骨が砕ける音が響いた。


「ガアアッ!」


 澤田さんの手から銃が滑り落ちた。ガクガクと激しく痙攣する彼の手は、指が全てあらぬ方向へと折れ曲がっている。

 二人へ近づいた雫ちゃんは、呆然としている黒沼さんの襟首を掴んで後ろに投げる。彼の体は簡単に後ろに転がった。

 痛みに涙を流していた澤田さんが怯えた眼差しで雫ちゃんを見上げる。


「わたし達の家族を殺そうとして」

「……………………」

「湊くんを、殺そうとして!」

「…………っ」

「酷い人…………」


 ドロリと彼女の肌が溶ける。青黒い粘液が肌色をドロドロと溶かして、彼女の青い目がきゅうと瞳孔を縮める。


「絶対に險ア縺輔↑縺」


 ゾ、と周囲の空気が一瞬で凍り付くような。壮絶な怒りの込められた声だった。

 触手が唸る。澤田さんの体が捕らえられ、穴の向こうに飛ばされた。勢いよく空を飛んだ彼は悲鳴と共にダポンと海に落ちる。それを追って、雫ちゃんも海の中へと飛び込んだ。

 盛大な水飛沫があがる。


「雫ちゃん!」


 僕は這うようにしてそちらへ向かう。同じく慌てて外へと駆け出した黒沼さんと共に、海を見つめた。

 澤田さんが遠くの水面に顔を出した。白く照らされている水面が、ゆらゆらと揺れている。

 その一ヵ所がボコリと大きく膨らんだ。

 それはすぐ巨大な山になり、けたたましい咆哮と共に水の中から怪物が飛び出す。


「繧ゅ≧諤偵▲繧ソ」


 夜をすり潰すような怪物の声が空に響く。太い触手が水に伸び、あっと思う間にそこにいた澤田さんを掴み上げた。

 彼は絶叫して暴れる。けれど今のブルーちゃんにとって、その抵抗は児戯に等しい。彼女は容赦なく触手を振るい、その体をまた海の中へと投げ飛ばした。

 水に沈む彼の体をもう一度触手が掴み、投げ飛ばす。そうしてもう一度。もう一度。


「キュウゥゥ――――ッ」


 澤田さんの恐怖に掠れた悲鳴は、ブルーちゃんの巨大な声に掻き消される。

 海水が何度も高く水柱を上げていた。飛沫が星に照らされて、空中で青くきらめいている。

 それを見つめる僕の背中は汗でびしょびしょだった。体中の傷が塩分に痛みを訴える。それでも僕は胸の奥から沸き上がってくる激情に指先を震わせ、溜息を吐いてブルーちゃんの暴れる様を凝視していた。


「…………ゾッとするな」


 僕を支えている黒沼さんが海を見て呟く。

 真っ暗な海の中。何メートルもある巨大な怪物が襲いかかってくる恐怖は計り知れない。水の中ではブルーちゃんの動きはいつもより俊敏だ。必死に水を掻き分けて逃げようとする人間を笑うように、海中で、ブルーちゃんの巨大な目がくるくると光っている。

 陸では澤田さんの方が強いとしても。海ではブルーちゃんの方が圧倒的だった。

 海中にいるというのに。彼女の発した雄叫びが、海面を激しく揺らして水を跳ね上げる。


「なあ湊……。あれは、本当に、君の友達なんだよな」

「…………はい」


 黒沼さんの声には僅かに恐怖が滲んでいた。手が震えている。

 彼であっても怖いのだ。他の誰が見たって、今のブルーちゃんは恐ろしい存在にしか見えない。

 僕以外には。


「あの子は魔法少女ブルーちゃん」

「……………………」

「僕の友達です」


 キュウーッ。と、ブルーちゃんの甲高い声が海に響き渡る。黒沼さんの体が強張った。けれどそのときの彼が見ているのは、海ではなく僕の顔だった。

 黒沼さんにはあの声がどう聞こえているのだろう。

 僕にはあの声が、冷たく美しい鯨の声に聞こえるのだ。


「…………綺麗でしょう」


 僕はそう言って笑った。

 黒沼さんは何も答えなかった。

 ブルーちゃんの青い体が、水に濡れてキラキラと光っていた。



 遠くからサイレンの音が聞こえて、僕達はふっと顔を上げた。

 喧騒に気が付いた近隣の住民が通報したのだろう。


「ゲホッ」


 ブルーちゃんに投げ飛ばされた澤田さんが這う這うの体で港によじ登る。すっかり白い顔をした彼は何度も水を吐き出して、背中の筋肉を痙攣させていた。

 続けて雫ちゃんが上がってくる。ほとんど人間の姿に戻った彼女に、それでも澤田さんはすっかり怯えた様子で悲鳴を上げた。

 長く艶めく髪が、その身にまとった洋服が、白肌に張り付いている。透けた服の内側を、ボコボコと青黒い触手が這っているのが見えた。

 彼女の伸ばした右手はまだ変身状態のままだ。水がぽたぽたと垂れる青い触手に、澤田さんが呻く。


「悪かった!」


 澤田さんが濁った声で叫んだ。


「あ、謝る。俺が悪かったよ」


 冷たい怒りの炎をその瞳にチラつかせ、雫ちゃんはまた一歩澤田さんへと近付く。白い太ももを水がつぅと伝い落ちた。


「君達の怪我も治す。もう家族に手だって出さない」

「……………………」

「だ、だから…………」

「そんなの、当たり前でしょう!」


 とんでもない声量の怒号が海に響き渡った。

 雫ちゃんは一瞬で顔を真っ赤に染め、握りしめた触手で思いっきり澤田さんの頬を殴った。

 凄まじい音がする。人間の力を遥かに上回るパワーで殴られた澤田さんは仰向けにぶっ倒れた。

 雫ちゃんは怒りに体をぶるぶると震わせていた。濡れた髪が風に唸り、彼女の周囲にぶわりと広がる。


「魔法少女をなめるな!」


 その声はもう、白目を剥いて昏倒している澤田さんには聞こえていない。

 普段怒らない人が怒ると怖いとはよく言ったものだけれど。ここまでとは思わなかった。

 雫ちゃんの恐ろしさにあんぐり口を開けていると、不意に彼女が振り返る。僕はギクリと頬骨を上げて彼女を見つめた。けれど彼女はまっすぐ僕に向かって駆け寄ってきたかと思えば、濡れた手で僕の両手を包み込む。


「やってやったよっ」


 パッと彼女は笑顔を綻ばせた。

 ほろりと花弁が零れるような、酷く嬉しそうな笑顔だった。


「や、やり返しちゃった」

「……………………」

「湊くんの仇を討ったよ!」


 僕は目を丸くして雫ちゃんを見つめた。

 それからふっと息を吐くように微笑んで、雫ちゃんの頬に手を伸ばす。

 濡れて頬に張り付いた髪の毛をそっと耳にかけてあげれば、彼女の耳元に僅かな朱が差した。


「うん。ありがとう、雫ちゃん」


 かっこよかったよ、と言えば。彼女はきゅっと喉を鳴らしてから、恥ずかしそうに微笑んだのだった。


「盛り上がってるところ悪いけどさぁ……早く逃げないと、まずいんじゃないの?」


 そんな僕達に近付いてきた千紗ちゃんが、くっと外を指差して言った。

 サイレンの音はどんどん近付いていた。恐らく人がやってくるまでそう時間はかからない。確かにこの現場にいるところを見られるのはまずい。いくら黒沼さんが警察とはいえ、弁解しきれる状況だとはとても思えない。


「君達は先に逃げてな」

「えと……黒沼さんと、湊くんは?」

「この男を運んでいく。手伝ってくれるな、湊?」


 黒沼さんは気絶する澤田さんを指差した。気絶から目覚めた彼が、警察にどこまで真実を話すか分かったものじゃない。もう一歩も動きたくないのだけれどと思いながらも頷いた。

 千紗ちゃんはちらりと僕達を一瞥すると、さっさとサイレンの音とは真逆の方へと逃げていく。雫ちゃんも慌ててそれを追った。

 魔法少女達がいなくなるのを見届けた黒沼さんは気絶する澤田さんをあっさり担ぎ上げた。

 僕がいなくてもいいじゃないですかと苦笑いすると、反して黒沼さんはちっとも笑みを浮かべぬ真面目な顔で僕を見下ろした。


「お前と二人になるには、嘘をつかなきゃいけなかったからな」


 背中に力が入る。僕はぐっと眉間にしわを寄せて黒沼さんを見上げた。


「……何か言うことがあるんじゃないか?」


 波の音がザパリと足元に響く。舌の根に溜まった唾液を飲み込めば、粘ついた血が絡んで、僕は一度咳き込んだ。

 腕を擦れば傷に指が触れて痛む。背後から香る濃厚な血の臭いが鼻を麻痺させていく。

 振り向けばそこには、凄惨な血だまりが広がっているはずだ。


「…………か、彼女達を殺さないでください」


 僕はぎゅっと拳を握って固い声を出した。緊張に心臓がせりあがってきそうだった。

 なんだかんだと流されかけていたが、黒沼さんは警察。そして魔法少女達の正体を知ったのだ。国家の安全を考えて彼がすることといったら彼女達の秘匿か……それとも抹殺か……。

 命に代えてでも彼女達を守らなければ。改めてそう決意して、ごくりと唾を飲む。

 けれど黒沼さんは首を横に振った。


「違う」

「え……あ、疑ってすみませんでした」

「違う」

「思いきり殴っちゃってすみま……」

「違う」

「……………………」


 彼が何を求めているのか分からない。困惑した目を瞬かせていれば、不意に彼の手が僕に伸びてくる。

 ビクリと怯えたのも束の間。彼の手はそのまま僕の頭に乗せられ、そっと髪を撫でていく。

 それだけだった。


「痛かったよな」


 僕は驚愕に目を丸くした。あんまりにも、黒沼さんの声が優しかったからだ。

 彼は僕の体に視線を向けている。僕の体はボロボロだった。服は破け皮膚は裂け、あちこちに殴打痕や裂傷が見えている。腫れあがった肌は青紫色に変色している。

 彼はその怪我に、心底痛ましそうな目を向けているのだった。


「こんなにボロボロになってまであの子達を守ろうとしたんだろう」

「っ」

「よく頑張った。立派だ。痛かっただろ、怖かっただろ。もう大丈夫」

「……はは」

「君はこれまでずっと、あの子達のことを守ってきたんだ。ずっと一人で抱えてきたんだな」


 僕は堪えきれずに笑ってしまった。この惨劇を見て、これまでの怪物事件の真相を知って、よくこの人はそんなことが言える。

 罵倒されたって当然のことをしてきたんだ。黒沼さんに嫌悪の目を向けられて、殴られることだって覚悟していた。

 それなのに彼は、優しい顔で僕の頭を撫でているだけだ。

 なんだよ。黒沼さん、いつもはそんなキャラじゃないくせに。


「頑張ったな。……頑張った」

「何回言うんですか」

「何度でも言ってやる。今日くらいお前は我慢をやめたっていいんだ」

「我慢?」

「思いっきり愚痴を吐き出していいんだ」


 僕はあははと声をあげて笑う。

 頑張ったも何も。だってそもそも魔法少女達の前で、僕は強くあらなきゃいけないんだ。

 怪物に変身することができる彼女達とは違う。人間の僕は戦いに参加することもできない。精神的な苦痛だって彼女達と比べれば何てことない。

 僕にできるのは彼女達を応援することくらい。そんなことしかできない僕が、疲れたなんて弱音を吐くわけにはいかないだろう。

 それにだって。僕は男だし、先輩だし、もう十七だし、あの子達の友達だし。それに、それに、だから……。

 だから……さぁ…………。


「もう大丈夫」


 今は、あの子達もいないし。

 いるのは黒沼さんだけだし。

 彼は警察で、大人で、多分頼ってもいい人だと思うし。

 多分、彼にとって、僕はまだ、子供で。

 だから多分、少しくらい我儘を言っても、許してくれるんじゃないかなぁって。


「…………本当に、頑張ったなぁ」

「っ、う」


 その言葉でもう駄目だった。

 鼻の奥が熱くなって、目からどろっと涙が溢れた。

 僕は俯いて喉を震わせ、黒沼さんの胸元にボスンと頭をくっつける。


「ううぅーっ」


 ズッと鼻を啜る。頭の奥が熱くなって、上手く物事が考えられなくなる。

 苦しさに何度も息を吐き出すように、僕は弱々しい声を吐き出していった。


「こ、怖かった」

「うん。怖かったなぁ」


 びしょびしょに涙に濡れた頬を恥ずかしがる余裕もなかった。子供っぽく素直な声を出す僕を、黒沼さんは笑わなかった。


「死ぬって思ってた。ぼく。体中が痛くて、血だらけで、っ。ぅ」

「痛かったなぁ」

「う、うぁ。もっ、駄目だと思って、たからっ……うっ。ぐぅ」

「…………間に合って、本当によかった」

「ううぅっ」


 僕は声をあげて泣き喚いた。恥も外聞もなく、だらだらと涙を流して肩を震わせた。

 我慢していたつもりはなかった。本当に彼女達のために必死になっていただけだった。けれど、自分でも気が付かぬうちに随分溜めこんでいたのかもしれないと思う。

 大丈夫だという言葉に涙が止まらなかった。


「うわあぁっ」


 黒沼さんは何も言わず、僕の背中をガシガシと撫でてくれた。乱暴な慰め方がありがたかった。

 僕は眉間にくっとしわを寄せ、涙が落ち着くまで彼の腕の中でぶるぶると背中を震わせた。

 ああ僕は。これまでずっと、頑張っていたんだなぁ。


 大声で泣きじゃくった僕は、目を乱暴に擦って息を整えた。

 もうすぐパトカーがここにやってくる。悠長に泣いている暇だって本当はないんだ。

 黒沼さんの胸を押してそっと体を離す。濡れてくっ付いたまつ毛をゴシゴシと擦って瞬きをした僕は、ふと彼の後ろに立つ人影を見て目を見開いた。


「何これ」


 黒沼さんが弾かれたように振り返る。僕達は、そこに茫然と立ち尽くす鷹さんの姿を見て息を詰めた。

 彼女は僕達と工場の中を交互に見つめている。噎せ返るような血の臭いが彼女の血色を奪い取っていく。

 彼女は大型のショルダーバッグを下げていた。そのチャックの隙間から、隠そうとしているのかしていないのか、カメラのレンズが無造作に飛び出している。聞くまでもなく、そのカメラが工場内の惨劇を撮っているであろうことは明らかだった。


「鷹さ……何でここに……」

「…………ごっ。午後に怪物が現れたっていう現場を撮りに行ってて。その帰りに、この近くを通ったら変な声が聞こえてきて……」

「……………………」

「見たら。あ、青い光がこの建物を突き抜けていくのが見えたから……。かいっ、怪物がいると思って……通報して、私は、あわよくばいい画が撮れるかなって、おもっ……」


 鷹さんはすっかり青ざめた顔で視線を泳がせる。そのカメラが、彼女の目が、工場の中をじっと凝視して動かない。


「ありす、ちゃん……だよね?」


 彼女の言葉に僕はハッとして振り向いた。

 工場の中。その中央に、ぽつんとありすちゃんが立ってこちらを見ていることに今気が付いた。


「っ。あ、ありすちゃん。逃げなかったの」


 雫ちゃん達について行ったと思ったのに。僕は慌てて彼女の元へ駆け寄った。

 ピンク色の髪が赤い血に濡れている。口端をぽたりと黒い粘液が垂れて服に滴っていく。

 その雫を追うように視線を下げれば、その袖から覗いているのがぬるりとした黒い触手のままであることに気が付き、僕は鷹さんのカメラから彼女を庇うように前に立った。今更もう遅いだろうけれど。

 ありすちゃんはぼんやりと虚空を見つめている。妙な顔つきをしている彼女が心配になって、僕はその顔を覗き込むように腰を屈める。


「ありすちゃん、どうしたの」

「……………………」

「疲れちゃった?」

「……………………」

「ありすちゃん?」

「ころしちゃった」


 ふやけた甘い声に、僕の心臓は凍り付いた。

 ありすちゃんの大きなピンク色の目は僕を見ていない。その周りに転がる死体に向けられて、ガラスのようにきらめいていた。


「わたし、いっぱいあばれちゃったぁ」


 あどけない声で彼女は言った。


「みんな助けてって言ってたのに」


 静かな声で彼女は言った。


「怪物が皆を殺しちゃった」


 大人びた声で彼女は言った。


 ボタボタと黒い雫が垂れていく。僕は茫然と、彼女の顔を見つめて固まった。

 赤くなった彼女の鼻から黒い粘液が鼻血のように垂れていく。瞬きをするたび白目の部分が黒く染まり、血涙のようにダラダラと黒い液が流れていく。

 彼女の顔が、真っ黒に染まっていく。

 それは人間の姿から遠くかけ離れていた。


「私は魔法少女じゃない」

「あり」

「私は人殺しの怪物よ!」


 ゲポ、と水っぽい音がして、ありすちゃんの口から黒い粘液の塊が吐き出された。

 彼女の目がぐるりと上を向く。大量の黒い液体を顔中から吹き出して、ありすちゃんはその場に崩れ落ちた。


「ありすちゃん!」


 咄嗟に彼女の体を抱きとめる。肩にゴポリとかかった粘液からは、甘くゴム臭い怪物のにおいがした。

 小さな体だ。僕達の中で誰よりも小さく、華奢な、女の子の体。

 その背中に回した僕の手は大きく震えていた。

 ボコリと、その服の下で、触手が一本蠢いた。





 不思議の国のアリスが夢から目覚めるように。ありすちゃんも、もうすぐ目覚めるときがやってくる。

 そのときようやく僕達は、君の存在が全て偽りであることを知ったのだ。


 君に一つ謝らせてほしいんだ。

 どうか私を忘れないでね、と君が僕達に言った願い。

 その願いを叶えてあげられなくてごめんね。





 変身しないで、縺ゅj縺ちゃん。

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