第46話 自覚する少女

「縺ゅ≠縲√⊇繧峨d縺」縺ア繧」


 巨大な息が吹き抜ける。唖然とする僕の目と鼻の先に、魔法少女イエローちゃんがいた。

 ザワザワと風になびく毛が僕の鼻先をくすぐる。直接触れてはいないのに、その体の燃えるような体温は、僕にまで届いていた。

 針のように鋭い牙が黒沼さんの服に食い込んでいる。辛うじて肌を噛まれてはいないようだったが、巨大な口に咥えられた黒沼さんは蒼白な顔で固まっていた。


「縺セ縺壹▲」

「ぐっ!」


 イエローちゃんが首を振って黒沼さんを吐き出した。彼の体は簡単に吹き飛びフェンスに叩きつけられる。黒沼さんは僅かに目を見開き、ぐっと歯を食いしばって上着の内側から素早く銃を取り出した。

 ダン、ダン! と連続した発砲音が響く。突然の武器に突然の発砲。全く反応ができなかった僕は盛大に悲鳴をあげてしまった。

 けれどイエローちゃんの反応は早かった。黒沼さんが銃を取り出すと同時に高くジャンプしていた彼女は、空中で体を捻り、近くにとめてあった車に着地する。屋根がぐしゃりとへこんだ。


「縺ゅ◆縺励?鬲疲ウ募ー大・ウ縺ォ縺ェ縺」縺ヲ縺ェ縺九▲縺溘s縺?縺ェ」

「くっ…………」


 黒沼さんはなおもまっすぐ銃をイエローちゃんに向けていた。次に飛び上がるタイミングを狙って銃弾を撃ち込む気なのだろう。


 ポーン。


 にわかに、緊迫した空気を裂く機械音が聞こえた。エレベーターが到着する音だった。

 思わずそちらに目を向けた僕は、ゆっくりと開いていくエレベーター。そしてその中に隙間なくみっちりと詰まっている青緑色の触手を見てギクリと体を強張らせた。

 じゅるりとゼリー状の触手が屋上に流れ込む。そこから鋭く伸びた触手が、まっすぐ黒沼さんの体に飛びかかった。


「なっ!?」


 振り向いた黒沼さんは、目の前に立つ魔法少女ブルーちゃんを見て、声にならぬ悲鳴を上げた。

 

「縺薙m縺輔↑縺?〒。縺薙m縺輔↑縺?〒」


 ぶるぶると巨大なゼリーに似た触手が彼の腕を飲み込む。腕を圧迫される苦痛に、彼の手から銃が離れた。ブルーちゃんはあわあわと銃を掴むと遠くへそれを投げ捨てる。

 触手がそのまま黒沼さんを縛り上げようとした。だが、黒沼さんはそれでも強かった。

 彼は素早く取り出したナイフを、思い切りブルーちゃんの顔に突き刺したのだ。


「逞帙>!」


 ブルーちゃんが痛みに触手をしならせる。その隙に抜け出した黒沼さんは距離を取ってから彼女に振り返り、その傷口がぶくぶく泡を立てて塞がっていくのを見て、ひくりと頬を引きつらせた。


「諤ェ迚ゥ縺ェ繧薙□繧医?√≠縺溘@縺溘■」


 轟音のような鳴き声を唸らせて、ブルーちゃんの横にイエローちゃんが降り立った。ぐるぐると喉を鳴らす獣は体中の毛を逆立て、黒沼さんを鋭く威嚇する。

 傷を完治させたブルーちゃんも改めて黒沼さんを威嚇していた。ビクビクと怯えたように体を震わせているものの、震える触手というのはそれだけで十分恐ろしい。震える触手から滴った粘液が地面に垂れて、ゼリーのように揺れた。


 二体もの怪物を前にして流石の黒沼さんも表情を強張らせていた。ナイフがあろうと銃があろうと、目の前の怪物達には効かないのだ。

 怪物は僕と黒沼さんの間に立っている。二体は僕に見向きもしない。屋上の端で茫然と彼らの様子を眺めていた僕は、不意に背後からガシャンとフェンスが揺らされた音に飛び上がる。


「湊先輩!」

「なっ」


 振り向いた僕は、フェンスの向こうに立っているありすちゃんを見て仰天した。

 一歩でも下がれば落ちてしまうだろうに、彼女は僕に向かってニコニコと笑顔で両手を振っていた。

 僕は青ざめて彼女に駆け寄り、その両手をフェンス越しに握った。遊んでくれたとでも思ったのか、彼女は微笑んで僕の手を握り返してくる。


「な、何やってるんだ!」

「助けに来たの」


 えへん、と彼女は胸を張る。その体が後ろに傾いて僕はまた悲鳴をあげた。

 幸いなのか不幸になのか、二体の怪物に隠れて僕の姿は黒沼さんから見えてないようだ。僕は背後の彼らとありすちゃんを交互に見つめ、しどろもどろに視線を泳がせた。


「あのね。千紗ちゃんに連れてきてもらったの。凄いのよ。変身してね、壁を蹴ってね、ぽーんってひとっとび。アトラクション乗ってるみたいだった!」


 彼女の手がきゅっと僕の手を握る。その小さな顔が近付いて、薔薇色に染まったほっぺがフェンスの隙間の形にきゅむっと張り付いた。分厚いまつ毛がシパシパと瞬いて光る。


「早く逃げましょ」

「あ、ああ…………」

「じゃあ早くここ登って」

「え?」

「飛び降りるの」


 ありすちゃんは下を見て言った。つられて下を向いてしまった僕は、遥か遠くに見える地面にゾッと背中を震わせる。

 五階分の高さは人間が落ちたらひとたまりもない。想像しただけで足から力が抜けそうになる。

 冗談だろ、と僕はありすちゃんを見つめた。けれど彼女は無邪気な笑みを崩さず、冗談だとは一言も言わずに僕のことを見つめているのだった。


「何してる」


 背後から声が聞こえた。振り向けば、怪物からゆっくりと距離を取っていた黒沼さんが、こちらを見つめている。

 フェンスを掴む僕と、その向こうにいるありすちゃんを見て、その目が大きく見開かれる。


「何する気だ」

「…………っ」

「おい。何する気だ。お前達」


 黒沼さんが一歩僕に近付く。思わず身を固くする僕の目の前で、二体の怪物も黒沼さんに僅かに顔を近付ける。


「縺ゅ▲縺。陦後▲縺ヲ」

「譚・繧九↑」


 キューッと甲高い威嚇音を立てて、ブルーちゃんが触手を地面に打ち付けた。粘液が飛んで黒沼さんの髪や服にびちゃびちゃとかかる。それでも彼は身動ぎさえしなかった。粘液は服の上を滑るように流れて地面に落ちた。

 ガルガルと岩を転がすような鳴き声を上げてイエローちゃんが全身の毛を逆立てる。鋭い牙がギラギラと黒沼さんの顔を反射しているのに、彼は悲鳴一つあげなかった。


「お前達。そこから動くな」


 黒沼さんは銃口の向きを変えた。怪物達ではなく、僕へ向かって。

 ガシャンとフェンスが揺れる。向こうにいたありすちゃんの頬に肩がぶつかって、あうっと小さな声が聞こえた。


「どうしたの湊先輩」


 頬にじわりと汗が滲んだ。骨の髄まで凍り付いたように冷え切って、指一つ動かすことができなくなった。

 怪物達が動くのと、銃弾が僕を貫くのと、どちらが速いだろう。

 屋上から飛び降りて逃げようったって、落ちた後はどうする気なんだ。

 じわじわと手が汗で湿っていく。そんな僕の手を、不意にありすちゃんが優しく包み込んだ。


「大丈夫よ」


 ありすちゃんの声が妙に僕の心を打った。その声を聞いた瞬間、どうしてだか心に荒れ狂っていた波が、すっと穏やかに凪いでいく。

 僕はそっと彼女に視線を戻す。すぐ目の前にある、聖母のように温かな微笑みを見て、思わず息を飲んだ。

 この子はたまに酷く優しい顔をする。


「あなたは私達のことを必死に守ってくれたんだもの。今度はこっちが守る番」

「ありすちゃん…………」

「魔法少女を信じて」


 僕はパチパチと瞬いて、くっと鼻にしわを寄せた。後ろを見ずとも感じる銃の圧と怪物の吐息を聞きながら、大きく溜息を吐く。


「……とっくの昔から信じてるよ、君達のこと」

「うん」


 彼女は嬉しそうに笑った。一点の曇りもない、それはそれは美しい笑顔だった。

 僕はそんな彼女に笑って、そして、思いっきりフェンスを掴む。


「湊!」


 黒沼さんの鋭い声が飛んできた。構わずフェンスをよじ登れば、ドンッと音がして銃弾がフェンスを打ち抜いた。さっきまで右足があった箇所スレスレを通り抜けた弾丸に鳥肌が立つ。

 イエローちゃんとブルーちゃんが動いた。二体の体が大きく膨れて、黒沼さんに襲いかかる。

 けれど黒沼さんは屋上を転がって攻撃を避けた。怪物達の体を掻い潜り、彼はまっすぐ僕達のところへと近付いてくる。二発目が撃たれた。ブルーちゃんが必死に伸ばした触手を貫いた弾丸は、軌道を反らして空へと飛んでいく。

 黒沼さんはこちらに向かって手を伸ばした。そのとき、僕はもう既にフェンスの頂上に跨っているところだった。

 片側には黒沼さんが、片側にはありすちゃんと五階分の高さからの光景が。


「う、うわああっ!」


 僕はぐっと息を詰め、意を決してフェンスの向こう側へ飛び降りた。僕の体を受け止めたありすちゃんが、そのままふらりと体を揺らす。


「縺ォ縺偵m!」


 イエローちゃんが吠えた。地面を蹴った彼女がフェンスをひとっとびに飛び越える。それを追いかけるようにブルーちゃんも触手を這わせ、ずるりとフェンスを乗り越えて屋上から落ちようとする。

 黒沼さんが怪物に向けて銃を撃った。それはブルーちゃんの触手を突き抜け、イエローちゃんの爪先を掠り、僕とありすちゃんの方向へと飛んでくる。


「変身」


 だけど銃弾は僕達には当たらなかった。

 僕の顔を覆うように突き出された黒い触手が、銃弾を受け止めたのだ。

 茫然とする僕の後ろでぬちゅりと粘ついた音がした。喉をくすぐるような甘ったるい声が聞こえてくる。


「うふふ」


 柔い彼女の肌がどろりと溶けて僕の頬に張り付いた。

 こちらを見ていた黒沼さんが、大きく目を見開いていた。

 そんな彼の姿も、眩い光が視界の周囲を包み込んでいくせいで、すぐに見えなくなった。


 パキコキと聞こえる音は彼女の骨格が変わる音。ゴムが焼けるような臭いが漂ったかと思えば、眩暈がしそうなほどドロリと甘ったるい臭いが鼻を突く。

 汗ばむ僕の肌の上を黒い粘液がとろとろと流れていった。背に回されていた小さな手がじょじょに大きくなっていく。彼女の足が肉厚の触手に変形し、その顔がぐずぐずと崩れていくのを、僕は間近で見つめていた。

 ありすちゃんが魔法少女に変身する。


「縺輔h縺ェ繧峨=」


 巨大な触手の怪物は、黒沼さんにジャリジャリと砂を噛み潰したような一声をあげて、トンッと屋上の縁を蹴る。

 僕達の体は真っ逆さまに屋上から落ちていくのだ。

 ゴウゴウと耳元で風を切る音がする。頭から血の気が引いていく感覚と、噎せ返るような怪物のにおいに頭がどうにかなりそうだった。


「諤ェ迚ゥ縲諤ェ迚ゥ縲諤ェ迚ゥ縲ゅ∩繝シ繧薙↑諤ェ迚ゥ縺倥c繧薙°」


 イエローちゃんとブルーちゃんも僕達の近くを落下している。屋上に目をやれば、フェンスの向こうから、黒沼さんが蒼白の顔で何かを叫んでいるのが見えた。

 その声は僕の笑い声に掻き消されて、何も聞こえなかったけれど。


「あははは!」

「縺ゅ?縺ッ縺」!」


 ピンクちゃんが何かを言って触手を震わせた。

 きっと同じ笑い声をあげているのだろうな、と。その体に抱き着きながら思う。

 なんだか堪らない気持ちになって、僕は怪物の頬にキスをした。


「縺セ縺」」


 怪物はとぼけた声をあげて。くるりと喉を鳴らし、大きな口を歪めて笑った。





「おかえりなさい!」

「…………ただいま」


 屋上から落下した僕は羽毛にまみれながら、笑顔で出迎えてくれるチョコとマスターに手を振った。

 何故羽毛にまみれているのかと言えば羽毛布団の上に落下したからである。

 何故羽毛布団の上に落ちたのかと言えば、落下地点に羽毛布団が山となって積まれていたからである。

 何故山のような羽毛布団が積まれていたのかといえば…………何故なのだろうか。さっぱり分からない。


「そのまま落ちたら痛いだろ。クッションを用意してたんだぜ」


 チョコは自慢げに胸を張って羽毛布団を叩いた。もすもすと音がして、破れ目から大量の羽毛が噴き出す。

 僕達の落下地点に積まれていた布団の山のおかげで、確かに体はどこも痛くなかった。怪物三体分の重さを受け止めてくれるほど肉厚に積まれた布団は、けれどイエローちゃんが爪を引っかけてできた破れ目、ピンクちゃんが触手をしならせたせいで広がった損壊、ブルーちゃんの体から溢れた粘液のせいでもう二度と使えない状態になっている。


「最高級って書かれていたものを用意したからね。どうだい。いい寝心地じゃない?」

「うん……最高だよ。ありがとう」


 僕は羽毛布団の端に付いていた値札を見ながらニッコリと微笑んだ。値段についてはもう何も考えたくない。

 ふわふわと羽が舞う。雪のように降ってくるそれは、空をぼうっと見上げる三人の少女達の上にも降り注ぐ。白い羽がピンクとイエローとブルーの髪に、はらはらと落ちていく。

 ありすちゃんがふと顔を上げて僕に微笑んだ。興奮で桃色に色づいた頬にくっ付いた羽を、僕はそっと取ってあげた。


「も、もう行こう。ここにいたらすぐ見つかっちゃう……」


 雫ちゃんの言葉に賛同して僕達は場所を変えた。遠くから聞こえてくるパトカーのサイレンから逃げるように、狭く薄汚い路地へと体を潜り込ませる。水はけの悪い地面は泥で汚れていて、僕達の体からひらひらと落ちた羽はすぐ茶色く汚れていった。

 額の汗を袖で拭えば、服から強く香水が香ることに気がついて眉をしかめる。どうやら黒沼さんと掴み合いになっている最中、彼の香りが移ってしまったようだ。


「誰一人欠けることなく、無事に皆で逃げ切れたわ」


 歩きながらありすちゃんはふんふんと鼻を鳴らす。彼女はとにかく嬉しそうに胸を張って、さきほどまでの出来事を思い返すようにうっとりと目を細める。


「これにて一件落着ね!」

「んなわけねえだろカス」


 ありすちゃんの言葉を千紗ちゃんが一蹴した。

 彼女はその額に青筋を浮かべていた。さっきから黙り込んでいたかと思えば、よく見ると彼女は眉間にしわを寄せ、ギリギリと小さく歯軋りをしていたのだった。

 苛立ちを露わに吐き捨てた彼女は、立ち止まったありすちゃんを睨む。


「あの男から逃げられたって本気で思ってんのか? どう考えても一時しのぎだろうが」

「えっ、どうして」

「どうしても何も! 喫茶店の場所が割れてんだぜ? 学校だって。あの様子じゃ、住所もとうに割れてんじゃねえの。今逃げたところで、どうせまた話を聞きに来るに決まってんだろ」

「そんな」

「何より変身してんのがあたし達だって絶対バレてる。雫も途中で変身してたし、ありすに至っては目の前で変身してただろうが」

「バレちゃった?」

「当たり前だろうが!」

「ま!」


 ありすちゃんは丸くなった口をパッと手で覆った。わざとらしいんだよ、と千紗ちゃんは近くにあったゴミバケツを蹴飛ばす。長い間放置されていたらしい、半分溶けた状態のゴミが散乱して嫌な臭いが鼻を突いた。

 僕と雫ちゃんは顔を見合わせて、どちらともなく溜息を吐いた。まったくもって千紗ちゃんの言う通りなのだから。


 僕達は黒沼さんの前で暴れすぎた。

 変身するときは体が不思議な光に包まれ、傍から見れば何が起こっているのか分からない。…………だけどそれが何だって言うんだ。さっきまでありすちゃんがいた場所に怪物が現れれば、どれだけ鈍い人も彼女と怪物の接点に気が付くはずだ。

 今日逃げ延びることはできた。だけど明日は? 明後日は?

 僕達の状況は何一つ変わっちゃいない。むしろ悪化している。明日登校したときに校門で黒沼さんに挨拶をされたって不思議じゃない。

 ならどうすればいいの、とありすちゃんが泣きべそをかいた。その横で雫ちゃんも眼鏡を持ち上げて真剣な顔で唸っている。

 早急に黒沼さんを何とかしなければならない。だけどどんな方法があるっていうんだ……。


「あいつ殺そうぜ」


 千紗ちゃんが言った。僕はふっと息を吐き出して、物騒だなぁと苦笑しながら顔を上げる。そして息を飲んだ。

 千紗ちゃんはじっと虚空に目を向けていた。その瞳孔は大きく開き、まつ毛がぶるぶると痙攣している。白い歯を立てた唇にじゅわーっと血が滲んで真っ赤に染まっていく。

 冗談の顔ではなかった。

 彼女は本気で黒沼さんを殺そうと言ったのだ。


「ふむ。確かにそれが一番手っ取り早そうだ」

「証拠隠滅ってことだろう? ぼく知ってるよ。ドラム缶に詰めて海に沈めるんだっけ?」


 マスターとチョコの笑い声が冷たい壁に反射する。僕は腕組みをする自分の手の平が、じっとりと汗をかいていくのが分かった。同じく肌を汗ばませて千紗ちゃんを見つめていた雫ちゃんが、弾かれたように彼女の肩を掴む。


「こ、殺すだなんて……。何言ってるの。冗談でもそんなこと言わないで!」

「本気だよ。他に方法があんのかよ」


 千紗ちゃんは鼻頭にしわを寄せて、ギリギリと歯を唇に食い込ませていく。ダラダラと流れ出る血も気に留めず、唸る様はまるで獣のようだった。

 追い詰められてんだぜっ? と千紗ちゃんは裏返った声で言った。追い詰められてんだぜ、ともう一度吐き捨てるように繰り返す。


「相手はヤクザなんだよ。わたし達なんて、かないっこないよ!」

「人間だったらの話だろ。変身すりゃいいさ。変身したあたし達に勝てる奴がどこにいるってんだ」

「魔法少女はそんな使い方をするものじゃない!」


 様子がおかしい。

 千紗ちゃんは妙に苛立った様子で雫ちゃんを睨んでいる。よく見れば彼女の肌は汗みずくだった。

 指先がブルブルと痙攣し、爪先が苛立ちを必死に抑えるように地面を擦っている。充血して赤らんだ目が強烈に輝いている。

 千紗ちゃん、と彼女の名前を呼んで手を伸ばす。けれど僕の手は強く払いのけられた。彼女の爪が引っかかり、ピリッとした痛みが走る。肌に薄っすらと赤い線が浮かんで血の玉が滲んだ。


「どうしたの、千紗ちゃん。頭でも痛いの?」

「うるせえよ。なんだよ魔法少女、魔法少女って。魔法少女は人を傷つけないだなんて言うつもりか?」

「その通りよ。魔法少女は人を傷つける存在じゃないわ。人を救うためにいるの」

「嘘つくなよ!」

「きゃっ」


 千紗ちゃんがありすちゃんの体を突き飛ばす。咄嗟にありすちゃんを抱きとめた僕は、千紗ちゃんに何か言ってやろうと口を開いて、そしてやめた。

 彼女が泣きそうな顔をしていたから。

 充血した目にじわりと水分をためて、悲しいのか怒っているのか分からないくしゃくしゃの顔で僕を見つめていたから。


「気を付けるのはあの男だけじゃねえ。あたしにとっては、お前達も信用できっこねえんだよ」

「ち、千紗ちゃん。少し落ち着こうよ。一体どうし……」

「あたし達は魔法少女なんかじゃねえんだろっ!?」


 空気が凍り付く。目を見開く僕と雫ちゃんに、千紗ちゃんはわななく声を震わせた。


「散々怪物・・に変身して人を傷つけてきたんだろうが!」

「……………………は?」


 地を這うように低い声だと自分でも思った。

 僕は息を止めて、じっと千紗ちゃんを正面から凝視する。雫ちゃんが口を手で覆って、まつ毛を大きく震わせた。

 僕と雫ちゃんの反応を見た千紗ちゃんは笑った。その拍子にボロッと大粒の涙がその瞳から零れた。

 彼女はぶるぶると体を震わせて大声を吐き出す。今までため込んでいた感情を爆発させるような凄まじい声だった。


「怪物だよ。毛むくじゃらの、オオカミみたいな、目が六つもある怪物。魔法少女なんて冗談もほどほどにしてくれよ。あれが魔法少女だって言う奴の頭がどうにかしてんだよ」


 暗く汚い壁に彼女の声がキンキン響く。千紗ちゃんは拳で壁を強く殴りつけた。ゴンッと音がして壁に亀裂が入る。もう一発殴れば小さな瓦礫がボロボロと崩れる。柔らかい肉をまとう彼女の手は、どう見たってそんな力があるとは思えないのに。


「最初は魔法少女に変身してると思ってた。だけど、だんだん妙だと思った。お前達の反応もおかしければ、テレビに流れるニュースも変だ。雑誌もネットも写真でも、魔法少女の姿がぼやけていきやがる。そのうち段々その姿まで変わって見えてさぁ……。分かるか? 黄色いドレスの魔法少女に変身していた自分が、だんだん牙が生えて、毛むくじゃらになっていく気持ち悪さがよぉ」


 写真に写る自分の姿が次第に変化していったらどんな気持ちになるだろうか。

 笑顔の自分が、だんだん牙が伸びていったら、体中に毛が生えたら、血走った目に変わっていったら……。自分の姿が怪物に変わっていくなんてどれほどの恐怖だろうか。

 ぼんやりとしたイメージしか浮かばない。けれどそれだけでも、相当な不快感が湧いてくる。

 それを実際に体験した千紗ちゃんのショックは、僕には想像もできないほどのものだ。


「薬のやりすぎだと思ってたさ。でも今はよく分かってる。こっちが正常なんだ。薬をやってるときよりも現実世界の方が狂ってるだなんて、誰が思うかよ」

「千紗ちゃん」

「お前達は最初っから気付いてたんだろ? 人を馬鹿にしやがって。あたしが変身するたびに陰で笑ってたんだ。そもそも、変身したらこんな姿になるって知ってたのか? 知っててあたしを誘ったのか?」

「そ、それは」

「逆なんだろ?」と千紗ちゃんは吠えた。「あたし達が見ていた幻覚は、魔法少女の方だったんだろっ!?」


 落ち着かせようとした僕は、肩を全力で殴られた。衝撃に顔を歪め、呻きながら僕はその場にしゃがみこんでしまう。

 その視界に、地面にポタポタと落ちていく雫が映った。引きつった泣き声が頭上から聞こえてくる。

 胸が苦しくなって、顔を上げることもできず、僕は俯いたまま顔をくしゃくしゃに歪めた。


「嘘つき」


 その声は何とも弱々しく震えていて。千紗ちゃんの声だとは、すぐに気が付くこともできなかった。

 彼女の靴が僕達に踵を向ける。路地を走り去っていく足音、千紗ちゃんと彼女の名を呼ぶ雫ちゃんの声、落ちていたゴミが路地の地面に潰れる音。それを最後に物音はやんだ。

 僕は最後まで、顔を上げることさえできなかった。


「湊先輩」


 不安そうな声が聞こえて、ようやく僕は顔を上げることができた。

 目の前にありすちゃんがしゃがんでいる。ゆらゆらと揺れるピンク色の瞳に、僕の泣きそうな顔が浮かんでいる。

 咄嗟に袖で顔を拭い、引きつった笑顔でありすちゃんを見つめた。彼女は千紗ちゃんが去っていった方向をぼんやりと見つめている。その仕草が妙に大人びて見えて、それが余計に僕の胸を強く締め付けた。


「ごめんね」

「……………………」

「ちょっと喧嘩しちゃった」


 謝らなくちゃね、と僕はわざとらしいくらい陽気に笑った。ありすちゃんに心配をさせたくなかったのだ。

 ありすちゃんは怪物のことを知らない。僕達の会話を聞いていても、何も理解していないはずだ。

 千紗ちゃんのことが心配だった。だけどありすちゃんを不安がらせるわけにもいかない。

 ごめんね、ともう一度謝る僕に、ありすちゃんはゆっくりと瞬きをして、首を傾げた。


「ねえ湊先輩」

「ん?」

「私達は怪物に変身しているの?」


 ギシ、と背中から骨が軋んだ音がする。僕は目を大きく見開いて、ありすちゃんを直視したまま一度だけ瞬きをした。

 指先が痙攣した。はく、と震えた唇から言葉は漏れず、溜息のような細い吐息が零れるばかりだった。

 彼女は今何と言った?

 怪物だと。そう言った。


「ありすちゃん」


 彼女の名前を呼ぶ自分の声が、酷く震えていた。ありすちゃんはゆっくりと顔を回し、僕と同様に固まっている雫ちゃんを見つめパチパチと目を閉じる。

 ありすちゃんは深く溜息を吐いた。ずっとだんまりで僕達のことを見つめていたチョコの手を取り、そのふくよかなお腹に背をもたらせる。


「なんだか、今日は疲れちゃった」


 その声がいつもの彼女と違う気がしたのは気のせいだろうか。

 彼女はこんなに大人びた声をしていただろうか。


「チョコ。帰りましょう」

「うん」

「さよなら皆」


 また明日、とありすちゃんは僕達に手を振って、チョコと一緒に歩き出す。その背中でふわりと甘いピンク色の髪が揺れていた。

 別れ際のありすちゃんの笑顔は、いつもの無邪気な微笑みとは違った。

 まるで年相応の高校生が浮かべる、柔らかい笑顔だった。

 僕は千紗ちゃんを追いかけることも、ありすちゃんを呼び止めることもできず、その姿が見えなくなるまで見送ることしかできなかった。汚れた地面に構わず座り込んで、頭を抱えて目を閉じる。雫ちゃんが隣に膝をついてくれる気配がしたけれど、その顔を見ることもできなかった。


「くそ…………」


 一体、どうなってるっていうんだ。

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