第45話 屋上の男達

 エレベーターの扉が閉まった瞬間、これはまずいかもしれないぞ、と僕は思った。

 黒沼さんのまとう空気がガラリと変わったのだ。

 ありすちゃん達を追おうとしていた彼は諦めたように溜息を吐き、僕に向き直る。その目が据わっているのを見て、恐怖に息が詰まった。


「二人きりだねぇ」


 語尾にハートマークが付きそうなほどの甘い声だった。彼の言葉に返事をすることはできない。口を開くより先に、黒沼さんの手が僕の喉を押し潰したから。


「ガッ!」


 喉仏をゴリッと抉られる。痛みと衝撃に目を剥いた。そんな僕の足を払い、黒沼さんはぐるりと僕と立ち位置を反転させる。

 背中が壁に叩きつけられる。黒沼さんの手が僕の喉を掴んだままぐっと持ちあがったり足が床から浮いて、息苦しさに拍車がかかる。


「ひゅっ…………!」


 はくはくと酸素を求める口からだらりと涎が垂れて、視界がきゅーっと狭まっていく。

 香水とワインの香りが強く鼻を突く。眩暈がしそうなほど甘ったるい香りが、呼吸をするたび肺にどろどろと流れ込んできた。

 眩暈がどんどん強くなる。

 意識が白く染まっていく。

 限界を悟った僕は、最後の力を振り絞って、折りたたんだ足を勢いよく壁にぶつけた。


「っだぁ!」


 勢いをつけて黒沼さんの体に突進する。鈍く呻いた彼の手が緩み、僕はエレベーターの床に尻餅をつく。

 エレベーターが止まったのはそのタイミングだった。

 ポーン、と呑気な音が響く。僕はそこが何階かも分からないまま、扉を無理矢理こじ開けて外に飛び出した。


 そこは屋上駐車場だった。頭上に濃い色をした青空がどこまでも広がっている。僕は咳き込みながら車の間を掻い潜り走った。

 行くあてなんてない。ただ黒沼さんを撒くことさえできればいい。


 ありすちゃん達はちゃんと逃げてくれただろうか。

 僕が黒沼さんを引き付けている間に、彼女達が遠くに逃げていてさえくれれば……。



「逃げられると思った?」


 直後、耳元で黒沼さんの声がした。襟首を掴まれ、ガクリと足を強制的に止められる。

 思わず振り向いた僕の顔を黒沼さんの拳がぶち抜いた。


「ぐあっ……!」


 吹っ飛んだ体が車にぶつかる。黒沼さんは間髪入れず、よろめく僕を蹴飛ばした。重い蹴りは内臓を揺らす。地面を転がった僕は、激しく咳き込みながらも黒沼さんを睨み上げた。

 フェンスを指で引っ掻きながら僕は立ち上がる。震える手を握りしめて彼を睨めば、黒沼さんは呆れて肩を竦めた。


「子供と遊んでる時間はないんだよ」

「子供じゃない!」


 僕は小さく息を吸って、黒沼さんに向かって走り出した。逃げきれないなら立ち向かうまでだ。

 大振りに振った拳は簡単に避けられた。お返しとばかりに、黒沼さんの鋭い拳が僕に迫る。


「っ」

「あ?」


 僕は間一髪で拳を避けた。避けられるとは思っていなかったのだろう、黒沼さんの目が丸くなる。その隙を狙い、僕は振り上げた足を彼の腰に打ち込んだ。


「うっ!」


 体勢を崩した黒沼さんがフェンスにガシャリと体をぶつけた。喉に詰まらせていた息をゲホッと吐いて、僕を冷たい眼差しで睨む。


「あまり見くびらないでくださいよ」


 僕だって伊達に修羅場を経験していないわけじゃない。世間を騒がせる恐ろしい怪物達の、最も近い場所にいる男なのだ。

 怪物達の足手まといにならないように、被害に遭わないように……と必死になっているうちに幾分か力が付いていた。黎明の乙女や頭のおかしな人間と敵対しているうちに刃物や銃に対する動き方も多少学んでいった。


「あなた一人と戦うくらい、僕にだってできる」

「…………ふぅん。へえ、そう」


 黒沼さんはくしゃっと子供っぽい顔をして笑った。

 パンパンと手の汚れをズボンで払い、手足を曲げて関節をコキコキと鳴らす。

 そして改めて僕に向き直り、晴れやかな顔で笑った。


「じゃあ倒してみろクソガキ」


 僕が反応するより黒沼さんが動く方が速かった。

 ダンッと地面を蹴った彼の体が一瞬で僕に近付く。その拳が容赦なく僕の顔を打ちぬいた。

 続けざまに側頭部を黒沼さんの靴が蹴る。視界が大きくぶれ、僕は地面に倒れ頭を打った。その痛みで何とか正気を取り戻した僕は、即座に地面を転がって、振り下ろされる靴底の攻撃を避ける。


「くぅっ」


 即座に立ち上がり、彼の頭をめがけて拳を振りぬく。だが拳はまた空を切った。素早くしゃがんだ黒沼さんが中腰のまま僕の腰に突進する。

 体がフェンスにぶつかった。フェンスは大きくたわみ、ギイィと嫌な音を立てた。


「ガァッ!」


 肺から雄々しい声を振り絞る。くらくらする眩暈も体中の痛みも、何もかもを今は無視した。

 僕は勢いよく体を起こし、黒沼さんを蹴り飛ばす。握った拳を彼の腹に叩きこんだ。

 けれど手ごたえはほとんどなかった。黒沼さんの膝がコキッと鳴ったと思えば、次の瞬間鋭い蹴りが僕の顎を打ち抜いていた。


「っ」


 ガクンと顎が仰け反る。痛みよりも衝撃の方が強かった。

 歯で思い切り唇を噛んだ痛みで、千切れそうになる意識を必死に食い止める。

 頭を揺らしながらも必死に顔を正面に戻した僕は、黒沼さんがもう一度足を振り上げるのを見た。その爪先が僕の股間に突き刺さる。


「……………………!」


 悲鳴は声にもならなかった。自然と膝が崩れ、僕は前のめりに倒れかける。

 その胸倉を掴まれ引っ張られたかと思うと、黒沼さんの拳が容赦なく僕のみぞおちを振りぬいた。


「おごっ!」

「あは。お返しぃ」


 僕は地面に崩れ落ちた。体の内側から込み上げる激痛にのたうち回る。頬をコンクリートがザリッと擦る。


「女の子を守るために無茶をする……」


 滝のような汗が止まらない。はくはくと震える口からはだらーっと涎が垂れ、血と混じって嫌な味がした。大粒の涙を零しながら黒沼さんの顔を見上げようとする。黒く点滅する視界では、目の前にいる彼の姿さえぼやけて見えなかった。


「高校生にしては、随分肝が据わっているじゃないか。スカウトしたいくらいだよ」


 誰がヤクザになんかなるものか。そう言いたいのに、激痛にのたうち回るのに必死で返事もできない。

 黒沼さんが僕の前髪を掴んだ。皮膚が引っ張られて痛い。僕はぶるぶると唇を震わせて彼をぼんやりと見つめる。


「俺も痛かったよ。そこを蹴られるのは反則だよなぁ」

「ぐっ……う、ぅ…………」

「可哀想な湊くん」

「ゴッ」


 心配そうな声と裏腹に、彼は勢いよく僕の頭を地面に押し付けた。強打した額からじわっと温かい何かが肌を伝う感触がした。おそらく血が出ている。

 彼の指が僕の髪を掻き撫でる。乱暴な手付きからは、彼の凄まじい怒りが滲んでいた。


「質問に答えてほしいだけなんだよ……。隠し事を教えてくれるだけでいい。それとも、もう一度いじめられたいか……?」

「ひっ」


 恐怖に思わず小さな悲鳴を上げた。身体中を、まだズキズキとした激痛が襲っている。

 話してしまいそうになる。けれど僕は咄嗟に唇を噛んで首を振った。黒沼さんは僕が答えないことを悟ると、盛大に舌打ちをする。


「そんなに俺と遊びたいか」


 彼の指が僕の首を撫でた。喉仏を柔く圧迫され、息苦しさに眉をしかめる。

 夏の暑さがコンクリートを焼くせいで頬が熱かった。熱された空気を必死に吸い込んで、僕は無言を貫く。


「質問の仕方を変えようか? 君の服をひん剥いて『何でも話すからもう許してくれ』って泣かせてもいいんだぜ」

「……………………」

「君の指を全部もぎ取ってあの子達のところに行ったっていい。眼鏡ちゃんは怯えちまって話にならないかもしれないけれど、金髪ちゃんはまだ賢い子だ。案外ころっと教えてくれるかも」

「……………………」

「ありすちゃんはどうだろうかなぁ。脳味噌まで砂糖菓子でできてるような子だから、質問の内容も理解できないんじゃないだろうか。ま、人質くらいには使えるか」

「……………………」

「君達にどんなお話・・をしてやろうかな。安心してくれ。別に殺そうってわけじゃないんだからさ。■■を■■■にして、■の根本を、■■でぽろぽろにしたり、■■■したりするだけなんだからさぁ」

「…………クソガキなのはどっちですか」

「あ?」


 黒沼さんの笑顔が消えた。ふっと温度を失った彼の顔に、僕はあえて不敵な笑顔を浮かべ、口端の固まった血を舐めた。


「馬鹿みたいな言葉だらけの脅しですね。怖がらせてやろうって魂胆がまる見えなんですよ。僕達が怯えて、素直にあなたに従うと……本気で思ってるんですか?」


 思っている。僕は実際、黒沼さんの脅しに怯えている。

 死ねとか殺すとか、そういう脅しをクラスの男子が冗談として言っているのを、たまに聞くことがある。

 だけど黒沼さんの言葉はそれとはあまりにも違った。

 彼はやる。本当にそれを実行する。冗談ではなく本当に僕を殺すだろうというのが、滲む声音から痛いくらいに伝わってくる。


 黒沼さんは何も言わずポケットから煙草を取り出した。僕の傍にしゃがんだまま、フィルターを咥えて火を付ける。苦い紫煙が僕の黒髪にゆるりと絡まる。


「生意気だなぁ。反抗期? 君はもっと素直ないい子ちゃんだと思ってたんだけど」

「はは。黒沼さんは案外激情家ですよね」

「ははは」


 黒沼さんは笑って僕の頬に灰を落とした。まだ熱の残っていた灰がジッと頬を焼いた。悲鳴をあげる僕を黒沼さんは無言で見つめていた。


「…………ぅ」


 これ以上反抗したら何をされるか分からない。彼の一挙一動に体がビクリと震えてしまう。

 それでも僕は己を奮い立たせて黒沼さんを睨みつけた。

 彼女達は僕が守らなければいけないのだから。


「ぼ、僕は何も知らない」

「本当に?」

「何も知らない!」


 黒沼さんの目は、名前を表すかのように、ドロリと深く濁った色をしている。闇の底から取り出したような目が僕をじぃっと見つめた。

 彼はふっと目を伏せて上着をまさぐった。恐怖に体が強張る。何を取り出そうとしているのだろう。銃か、はたまた刃物か。それで僕に何をしようというのか。

 バサリと何かが空を舞った。呆ける僕の顔にその何かがヒラヒラと落ちて、視界を覆う。おそるおそるそれを摘まみ上げた僕は、それが写真であることに気が付いた。


「は?」


 何枚もの写真が僕の周囲に散らばる。予想外のことに目を丸くしていた僕は、けれどその写真に写っているものをみて息を止めた。

 怪物の写真だった。


「あ」


 蠢く触手。床を流れる粘液。砕けた壁。溶けたコンクリート……。

 街中で、動物園で、学校で、銀行で。いたるところで暴れる怪物の姿が写っている。

 世間に公開されている写真だけじゃない。前に警察の人に見せてもらったときと同じような写真や、他のカメラで撮られたのだろうもっと鮮明な写真まで様々だ。

 硬直した指先がビクリと跳ねる。体に乗っていた写真がひらりとまた一枚落ちた。それを見て、僕は目を見開く。

 酷くぶれた写真の中に写る怪物。その傍に立っているのは、カメラを持った一人の男子高校生。


「あっ!」

「俺はお前のことが一番気になっているんだよ湊くん」


 突然の黒沼さんの言葉に愕然とする。まじまじと彼を見つめれば、その瞳はじっと僕を見据えていた。


「……最初は薬物について調べていただけなんだ」


 彼はまた別の写真を取り出した。

 それは怪物の写真ではない。どこかの路地裏を写した写真だった。自動販売機の横で数人の男女が向かい合っている。男の手には札が握られ、女は何かパックのようなものを差し出している。

 次の一枚もほぼ同じポーズの写真だ。けれどパーカーを目深にかぶった女の口元がちらりと見えていた。その顔立ちにはなんとなく見覚えがあった……。


「俺の所属している組織は薬物を取り扱っている。こちらに許可なく楽土町内で薬物を売っている連中を懲らしめるのが、俺の仕事でね」


 黒沼さんは煙草の灰を落とさない。勝手に長く伸びた灰はボロボロと僕の体に落ちる。それでも身動ぎ一つできず、僕は黙って彼の話を聞くしかなかった。


「何年もずっとこの仕事を続けて……最近はこの界隈でも特に厄介な連中を追い詰めようとしていた。何人かは既に捕まえて、次にターゲットにしたのは女が一人。十代半ばくらいって情報までは掴めたんだけど、それ以上の情報はなかなか得られなくてね。とりあえずこの辺りの中学校や高校には全て目を光らせていたんだ」


 黒沼さんは神経質に深く煙草を吸い込んだ。吐き出す紫煙がより濃厚になって、彼の前髪を撫でる。煙が目に染みたのか黒沼さんはシパシパと瞬いて、低い笑い声を唸らせた。


「その矢先に起こったのが、『北高校怪物事件』だ」

「っ」

「驚いたよ。未知の生命体だなんて。約三十年間生きてきて、常識が丸ごとひっくり返された気分だった。俺も仲間もしばらくはパニック状態で仕事が手に付かなかった」

「……………………」

「馴染みがあるだろ? 君の高校で起こった事件だ。どうも君は、あの日現場にいて、奇跡的に生き延びた生存者の一人だっていうじゃないか」


 黒沼さんが何を言おうとしているのか分からなかった。薬物売買の話と、怪物の話、そして僕を追っていたという言葉。一見繋がりのないそれらをバラバラと語られて、嫌な気持ちが足元からじわじわと込み上げてくる。

 さっきから体中の汗が止まらないのは、夏の暑さのせいじゃない。

 彼は一体何を言おうとしているのだ。


「薬物の売人を調べる際、勿論北高校にも目を付けていた。怪物の事件も気になっていてね。時間があるときには、その件についても同様に調べていたんだ。すると妙なことが分かった」

「妙な……?」

「どちらを調べても。気になる人物の中に、『伊瀬湊』という少年が浮上する」


 ドンッと心臓が跳ねた。頭の奥が白く冷えていく。

 よく見れば散らばる怪物の写真の中には僕らしき人物の姿がいくつも写っていた。一枚だけはなかった。偶然、で片付けられるレベルの話じゃない。


「俺はお前に近づきたかった。知りたかったんだ。君のこと……」


 黒沼さんが越してきたのはつい数ヶ月前のことである。

 知らぬうちに隣が空き部屋になったかと思えば、一週間もしないうちに黒沼さんが引っ越してきたのだ。

 悪い人じゃないんだけどちょっと怖そうだったなぁ、なんてもらった引っ越し蕎麦を手に母さんが言っていたことを思い出す。そのときは話半分に聞き流していたけれど、今思えば母さんの感覚は正しかったのだ。

 元の隣人さんも、そんなには話さないけれど、廊下で会えば挨拶をする程度の仲だった。

 なんであの人は急にいなくなったんだろう。黒沼さんが引っ越してきたのはいつだっけ。

 五月か、六月。それくらいの時期。僕が二年生になってまださほどたっていない頃。僕がありすちゃんと出会って少しした頃。

 黒沼さんはなんで引っ越してきたんだろう……。

 …………僕を、監視するため?


「一つだけならまだ偶然で片付けられる。だけど君が関わっている事件は、二つだ」

「ぼ、僕は……何も…………」

「……どうしてそう頑なに口を割らない。どこかの殺し屋に家族を人質に取られてるってのか? ヤクザに命を狙われてる? 安心してくれ! 君が何を話そうが、君の家族は俺が守ってやるよ」


 皮肉だろうか。僕はカリッとコンクリートを引っ掻き、最近は治安が悪いものなぁ、なんておどける彼から視線をそらした。そうすればまた怪物の写真に目が向かう。

 防犯カメラの映像だろう。上空や真横という難しいアングルから撮られた写真も数多い。

 粘液を滴らせてのたうつ触手。肉々しい写真からは、怪物のあの何とも言えないにおいまでもが香り立つような気がした。


「君が薬物の売買をしているとは思えない。なら、何故売人について調べたときに君の情報が浮上する? ……つまり、君の友達か誰か。身近に目当ての売人がいるんだろうなぁ」

「ふっ…………。ふぅ…………」

「怪物の件もそうなんだろうかなぁ。君の身近に、怪物について秘密裏に研究を進めていた博士でもいて、そいつが怪物を世界に解き放ったんだろうか。それとも湊くん君自身が博士だったり?」

「はぁっ…………」

「君はなんだか主人公みたいな人間だな。あらゆる物語の中心に、君がいる」


 彼は薄く唇を開き、シーッと白い煙を吐き出した。僕の返事を期待しているわけじゃない、独り言。けれど彼が僕の反応を伺っていることは顔を見ずとも分かった。

 心臓がドクドクと脈打っている。意識せずとも呼吸が荒くなり、指先が痙攣したように震えて時折びくつく。頭の奥が重くなって、乾いていた目が涙で湿っていく。


「だからお前を捕まえれば全部解決するんじゃないかって思うんだ」

「はっ?」


 一気に飛んだ話に、僕は俯いたままとぼけた声をあげた。黒沼さんの思考速度に頭が追い付かない。

 僕を捕まえれば解決するって。はぁ? 何を言ってるんだ、この人は。

 何を…………。


「君の周りに皆が集まるというのなら、君を捕らえておけば、探さなくても相手が勝手に飛び込んできてくれる。怪物も、売人も、簡単に見つけられる」

「は……。ははっ! とうとう気が狂ったんですか。僕を餌にその二つをおびき寄せるってわけです? 馬鹿じゃないですか?」

「あははっ。勿論、冗談さ」


 黒沼さんは無邪気な声で笑った。そうして笑いながら伸びた手は僕の後頭部を掴み、ガツンと思いっきりまた床にぶつけた。

 油断していた僕の頭に容赦のない衝撃が襲いかかる。苦痛に呻く僕の耳元に黒沼さんの唇が近付き、ボソリとした低音が鼓膜を震わせる。


「…………でも君を捕まえるっていうのは本気だぜ」


 その言葉を聞いた瞬間僕は飛び起きようとした。けれど黒沼さんが僕の肩を踏みつける。骨を抉られる痛みにギャアッと呻く。


「これからお前を捕まえる。なに、任意同行が強制に変わったってだけだ」

「つ、捕まえ。って」

「暗くて狭い部屋に閉じ込めて数日放置するだけだよ。大丈夫、大丈夫」


 そうすれば大体皆口を割るから、と黒沼さんは笑った。その声音に鳥肌が立つ。それ以上何も言ってくれないからこそ、暗くて狭い部屋という場所に対する恐怖のイメージが膨れ上がる。

 どんな部屋なのだろうか。留置場のような場所……程度で済むはずはないだろう。木箱にでも詰められるのかもしれない。体を丸めなければ入れないような場所に押し込められて数日も放置をされたら、どれほどの苦しみなのか。


 緩やかな風が吹いて、体の上に乗っていた写真がバラバラと落ちた。僕の顔に写真が落ちる。視界いっぱいにおぞましい姿の怪物が映る。唇に、写真のツルツルした表面が触れた。

 この子達の正体が魔法少女であるなど、誰が分かるだろうか。


「なあ。君、嫌だろ。酷い思いをするのは」

「う…………」

「教えてくれよ。お前。なあ。おい」


 黒沼さんの声が陽炎のようにぐあぐあと揺れて脳味噌に沁み込んでいく。

 君、お前、と呼び方が散らばっている彼の心もまた、まともな状況ではないのだろうなとぼんやり思った。言葉の節々に興奮が滲んでいる。

 僕は何度も深呼吸をした。そんなはずがないのに、鼻孔には写真越しに怪物のにおいが届いているような気がした。

 焦げた若草と煙草の吸殻を混ぜたような、魔法少女イエローの獣のにおい。

 死んで腐乱した生き物を塩水で包んだような、魔法少女ブルーの磯のにおい。

 ゴムに甘ったるく煮詰めた砂糖を溶かしたような、魔法少女ピンクの触手のにおい。


「お前は一体何者なんだ」


 黒沼さんの声が聞こえた。

 僕は、突き飛ばされたように大声で叫んだ。


「知るもんか!」


 黒沼さんの顔は見えなかった。それでも僕の大声に彼が狼狽えたことは、気配で分かった。


「何も話すものか。どれだけ痛めつけられたって、あなたに絶対教えるもんか!」


 返ってきたのは強烈な拳だった。黒沼さんの拳は容赦なく僕の頬を打ち、顔に乗っていた写真をバラバラと落とした。

 彼は憤慨した様子で顔を赤黒く染めていた。ギラギラと光る眼球が鋭く僕を睨んでいる。

 だが、それは一瞬で消えた。

 写真が落ちて僕の顔が露わになる。その顔を見た黒沼さんは一転大きく目を見開き、反射的に僕の肩を突き飛ばすように立ち上がった。


「お前」


 僕もふらつきながら立ち上がる。はーっと息を吐けば、切れた唇からぽたりと血が垂れて屋上に落ちた。

 黒沼さんは僕から一歩後退った。

 その目が困惑に引きつっている。


「…………なんで興奮してんだよ」


 彼は、興奮に真っ赤に染まった僕の顔を見て、そう呟いた。



 ビーッ。とサイレンの音が鳴り響く。



 突然空気を切り裂くように鳴ったサイレンに僕達は動きを止める。サイレンはすぐに止み、続けてノイズ交じりのアナウンスが建物内に流れだした。


『お知らせいたします。ただいま店内に怪物が……えーっ、怪物が現れました。非難をお急ぎください。怪物が現れました。くりかえっ。繰り返します。怪物が出ました。三体です。三匹。正面入り口寄りの壁を這って移動しています。あっ。急いで。早く逃げ、早くお逃げください。繰り返します。ただいま店内に怪物が…………』


 切羽詰まったアナウンスが繰り返される。アナウンスの途中から、階下の人々が逃げる足音が聞こえ、屋上に止まっていた車も数台慌てた様子で急発進する。車の排気ガスが僕の髪を埃と共になびかせた。


「…………あははっ!」


 急に大声で笑った僕を、黒沼さんが怪訝に見つめた。よろよろと一歩前に進めば代わりに彼は一歩下がる。地面に散らばった写真を見下ろし、僕は熱っぽい息を吐いた。


「逃げろって言ったのに」


 汗が滝のように流れて、目の奥がチカチカと真っ赤に茹っている。興奮に涙までもが滲んでいた。

 黒沼さんが怖かった。けれどそれ以上に、写真に写る怪物に興奮してしまうのだ。相当酷い顔になっていることを自覚しながらゆっくり黒沼さんを見つめれば、うってかわって青ざめた顔がこちらを見つめていることに気が付く。


「黒沼さんも早く逃げないと」

「……………………」

「死にますよ」


 だんだん早口になっていたアナウンスは、最終的に気が狂った叫び声になってブツリと途切れてしまった。どうやら放送をしていた店員さんも逃げ出したらしい。

 階下のお客さんもほとんどが逃げたのだろうか。辺りは異様なくらいにシンと静まり返っていた。雲一つ浮かんでいない青空が広く僕達の頭上に広がっている。

 僕は動かない。黒沼さんも動かなかった。勇気のある人だ。そして同時に、賢い人だ。

 僕を捕らえれば怪物も売人も寄ってくるという彼の考えは、どうやら正しいらしい。


「僕は何者でもないんです。薬の売人でもなければ、怪物の研究を進める博士でもない。普通の男子高校生だ」


 力があるわけじゃない。変身できるわけじゃない。僕はただの一般人でしかない。

 それでも、と僕は熱い言葉を吐く。戸惑う黒沼さんを真正面から見つめる。

 心臓がドクドクとうるさかった。


「湊」

「僕は決めたんだ」

「湊!」

「あの子達を守るって」


 黒沼さんが僕に手を伸ばして駆け寄ろうとした。だけど僕は、彼の手を取らなかった。

 僕は彼女達のことを守りたいのだ。

 あの子達のことが、大好きだから。


「ゴオッ」


 直後。フェンスの向こうから飛び込んできた獣が、黒沼さんの体に噛み付いた。

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