第39話 サメの水槽
「アナウンスが流れたから急いで出ようとしてたんだけど……一瞬目を離したすきに、いなくなってて。電話かけても通じなくって…………」
「落ち着いて。大丈夫、すぐ近くにいるさ」
一緒に探そう、と僕は彼女の震える背中をさすって言った。
放っておくわけにはいかない。それに晴ちゃんを探している道中で、黎明の乙女を見つけることもできるかもしれないし。
人の流れに逆流して進む。ゴボゴボという泡の音が左右から絶え間なく聞こえていた。
雫ちゃんの顔をそっと横目に見る。酷く青ざめた顔だった。青いライトのせいか、その髪や瞳までも青く見えるほどに。
「どうかされましたか?」
ちょうどクラゲコーナーにさしかかった所だった。不意に僕達は声をかけられた。一人の女性スタッフが立ち入り禁止の看板を持って、不思議そうな顔で僕達を見つめている。
たくさんのクラゲがライトアップされた空間で揺蕩っている。美しく幻想的な空間だが、今は生憎、僕達以外に誰もいない。
「ここから先はもう封鎖するんです。アナウンス聞きました? 至急退館をお願いします」
「妹とはぐれちゃって……。女の子、見かけませんでしたっ?」
「妹さん? すみません、見てないですね」
「そ、うですか。ありがとうございます…………」
「お客様誘導のスタッフはもう出口の方にいます。多分、迷子も一緒に外に出ているはずです。大丈夫ですよ。妹さんもきっとそちらにいますから」
雫ちゃんは安堵に表情を緩ませた。ありがとうございます、と言って踵を返そうとした彼女の手を握る。彼女は驚きに目を見開いて、湊くん? と僕を見上げた。
「あの子、水族館の中で一番クラゲが大好きなんですよ」
「え?」
雫ちゃんとスタッフの怪訝な目が僕に突き刺さる。この状況でこいつは何を言っているんだ、という厳しい視線だった。肩を竦めつつ、僕は笑顔で喋り続ける。
「ここの水族館凄いですよね。こんなに大量のクラゲ、他の所じゃなかなか見られないし……」
「はぁ。ええと。ありがとうございます?」
「あの子クラゲを指差しては、これはミズクラゲだ、こっちはタコクラゲだ、なんて言って。クラゲ博士だ。僕にはどれもただクラゲってことしか分からないのに」
「湊くん? 晴はクラゲは別に…………」
「やっぱりスタッフさんだったらどれだけの種類がいるか分かるものなんですか?」
僕は無言で握る手にぎゅっと力を込めた。何かを察した雫ちゃんは、困った様子ながらもそれ以上何も言わず口を閉ざした。
変なことを言っているのは分かっている。だけど僕はどうしても確かめずにはいられないのだ。目の前のスタッフが本物であるかどうか。
彼女は飼育員の服を着ていた。だからこそ余計、死体から奪った服ではないかという疑念が浮かんでしまうのだ。あのライオンの檻のときのように……。
スタッフは困惑と怪訝が入り混じった目で僕を見つめていたが、水槽に揺蕩うクラゲを横目に、口を開いた。
「全てではないですけれど。アカクラゲ、カブトクラゲ、カラージェリーフィッシュ、サカサクラゲビゼンクラゲカミクラゲエチゼンクラゲ……」
スタッフの口からすらすらと呪文が流れていく。自分から聞いたはずなのに思わず圧倒され、ただ瞠目するばかりだった。
一種類も名前を言えなければ、偽物のスタッフとして警戒するべきかと考えていた。しかし彼女は予想以上だった。
もういいですからとこちらが止めるまで彼女の呪文は続いていた。まだ言い足りない様子の彼女はけれどすぐに顔を引き締め、僕達の前にトンと立ち入り禁止の看板を置く。
「とにかく。急いでここから出てください」
「湊くん…………」
「す、すみません。失礼しました」
僕と雫ちゃんは揃って頭を下げた。間違えてしまったことによる少しの気恥ずかしさに頬を掻く。
僕の視線は地面を向いていた。立ち入り禁止看板の足元から、スタッフさんの靴が覗いている。
彼女は白いパンプスを履いていた。
「……………………」
湊くん? と雫ちゃんが、俯いたままの僕を不思議そうに見つめる。スタッフも同様だった。そのまま彼女は僕の視線を追い、自分の足元を見て、ピタリと動きを止める。
ゆっくりと顔を上げ、まじまじとスタッフの顔を見つめる。
水族館と言う場所で働くには、白いパンプスなど、向いていないにも程があるのだ。
「飼育員さん、ですよね」
「そうですよ」
「その靴動きづらくないですか」
「そうですね」
「じゃあなんで」
「靴までは盲点でした」
「え」
パチンと音がして、看板の後ろに隠れていたスタッフの手が現れる。小さな折りたたみナイフが握られていることに、その刃が出ていることに、雫ちゃんがあっと声をあげた。
スタッフは無表情のまま看板を放り投げ、僕達に突進してきた。ナイフがまっすぐ僕達を狙う。
僕は咄嗟に雫ちゃんの前に躍り出た。キラキラと光る刃がどうにも綺麗に見えた。まずい、どうしよ、とスーッと頭から血が抜けていくような気分になった。だけど後ろで悲鳴を上げている雫ちゃんを守らないという選択肢はなかった。
直後、目の前まで迫っていたスタッフの頭に看板が振り下ろされた。
「コッ」
女性の目が大きく見開かれ、そのままくるりと上を向く。
突然意識を失った彼女は倒れる。その後ろで、看板を持ち上げ固まっているのは、澤田さんだった。
「…………っぶなかった。だい、大丈夫? 怪我はない?」
彼は看板をそっと床に下ろし、気絶するスタッフと僕達とを交互に眺めて、えーどうしよどうしよ、と困った顔でもじもじしていた。
彼もまたアナウンスを聞いて水族館を出ようとしていたところだったらしい。けれど道に迷い、ようやくスタッフを見つけて声をかけようとしたところ、僕達に襲いかかるのが見え咄嗟に攻撃してしまったんだとか。
「この人スタッフさんだよね? なんでナイフなんか……あっ、もしかして演技か何か? ほら最近の水族館ってショーとかに力入れてるらしいし。えー、どうしよ。俺やっちゃった?」
「大丈夫です……僕達、この人に刺されるところで……」
「あっそうよかった。……や、よくはないな。どういう状況? 二人は逃げないの?」
「い、妹が。晴が、どこにもいなくて」
「妹ちゃん?」
雫ちゃんと澤田さんはお互い疑問符を顔に浮かべたままぼんやりとした会話をしている。次第に二人は、黙り込んでいる僕に視線を向けた。
「実は…………」
少し悩んだ末、僕は二人に説明をする。動物園で起こったこと、黎明の乙女のことを。
段々険しくなっていく澤田さんの表情と対称に、雫ちゃんの顔はどんどん青くなっていく。今にも倒れてしまいそうな彼女の背骨が、コキリと細枝の音を鳴らした。
「急いで探しに行った方がよさそうだな」
「はい。でも、あの子がどこにいるのか僕にはさっぱり」
「先に出てるなんてことはないのかい? さっきその人が言ってたみたいにさ」
「サメ」
僕と澤田さんは雫ちゃんに顔を向けた。彼女は目を見開いて虚空を見つめ動かない。まつ毛がしぱしぱと羽ばたくたび、透明な水の粒がキラキラと光る。
彼女は細く、けれどしっかりとした声で、探るような台詞を吐いた。
「サメ。あの子、帰る前にもう一回サメが見たいって言ってた。行く前にアナウンスが鳴っちゃって……。だからまだ、見れていなかったんだけど」
「サメ……確か、この先だったよね」
「早く出ようって言ったら、晴すっごくガッカリして……。今度またくればいいって、言ったんだ、けど」
言いながら彼女の中でその考えは確信へと変わったのだろう。雫ちゃんはパッと顔を上げると僕達の制止も聞かずに駆け出した。
長い髪がしゃらしゃらと左右に跳ねる。仄かに青くきらめく黒髪は、海に泳ぐ人魚のようだと思った。
待ってよ、と言っても雫ちゃんは止まらなかった。サメコーナーの前で彼女が立ち止まったところで僕は彼女の肩を叩いてようやく追いついたのだった。触れた肩は酷く熱いかと思ったのに、水の底を撫でたときのように、ひやりと冷たかった。
サメの展示コーナーは、巨大な水槽が一つだけ置いてある空間だった。僕の身長の何倍もの大きさの水槽に、たくさんのサメが泳いでいる。一匹のサメがこちらに顔を向けた。さっき見たときは何ともなかったはずなのに、どうしてだか真っ黒な瞳がやけに恐ろしかった。
晴ちゃんの姿はどこにもなかった。雫ちゃんは必死にあちこちを駆け回っては晴ちゃんの名前を呼んだ。それでも返答は返ってこない。
「俺、違う所を探してみるよ」
「お願いします。……雫ちゃん、きっと晴ちゃんは別の所だよ。もしかしたら本当に外にいるのかもしれない。僕達も別の場所を探してみよ?」
雫ちゃんは無言で僕を見つめ、泣きそうな顔で頷いた。見ていると心が痛む。早く晴ちゃんを見つけてあげたいと思うのだ。
と、どこからかトプンと水音が聞こえた。僕はハッとして周囲を見渡す。すると水槽の中におかしなものが沈んでいくのが見えたのだった。
白いヒールサンダルが青い水の中をゆっくりと落ちていく。サメの間を潜り抜けて、それは水槽の底にトンと着地した。僕達はぽかんとそれを見つめてから、揃って勢いよく視線を上に上げる。
「晴!」
水槽の上に晴ちゃんがいた。そしてその左右に、飼育員の服を着た二人の男も。
巨大な水槽の上には蓋がない。魚の餌やりや清掃のために、スタッフが通れる狭い通路が張り巡らされている。彼女達はそこに立っていた。
彼女は男達に腕を掴まれ口を塞がれていた。拘束から逃れようともがいているもののほとんど意味はないようだ。必死にバタつかせている足は片方だけしか靴を履いていなかった。白くて可愛いヒールサンダル。
男達は僕達に気付かれたことに舌打ちをし、晴ちゃんの口から手を離す。
彼らが黎明の乙女に違いなかった。
「助けて!」
「何で…………。晴、晴っ!」
悲痛な声で雫ちゃんは何度も叫んだ。胸の奥に怒りが沸き上がり、僕は男達に怒鳴る。
「その子を離せ!」
「うるさいな。分かったよ、離すから……。少しの間静かにしててくれよ。俺達の作業が終わるまで」
男はうんざりした様子で笑った。僕達の距離は随分離れていたから、ゴボゴボと泡の音に掻き消されてほとんど聞こえなかったけれど。
晴ちゃんはその目に涙をたたえていた。けれど険しい眼差しで男達を睨み、口角を引きつらせる。
「作業って! お姉ちゃん、この人達本物のスタッフさんじゃないよ。偽物だよ。魚を無理矢理捕まえて、箱に詰めて持って帰ろうとしてたの。魚の誘拐だよ。そ、それに、本物の飼育員さんに注意されたとき、その人を、な、ナイフで、刺し……」
「あまり余計なことは言わない方がいいよ、お嬢さん」
偽スタッフの一人が晴ちゃんの喉にぐっとナイフを突き出した。晴ちゃんは目玉が零れそうなほど瞼を開き、息を飲む。
「お前達……黎明の乙女だろ? 動物園といい、水族館といい、一体何がしたいんだよ!」
耐え切れずに叫んでしまった。僕の言葉に彼らの顔色が変わる。それから二人はわざとらしい笑みを浮かべ、僕に言った。
「そこまで知ってるなら分かるだろ。俺達はただ、魚を自然に返してやりたいだけさ」
「だからってやることが狂ってるだろ! 動物のために人間を殺すのか? それに、水族館の魚を解放するだなんて無理に決まっている。どうやって川や海まで運ぶって言うんだ!」
「そりゃ普通にやったら無理さね。でも考えてごらん。もしこっちに人質がいたら?」
「は?」
「魚とこの子の命を交換だって言えば、ここの館長さんも少しは悩んでくれるんじゃないかなぁ」
彼女を交渉材料にする気かと僕は頬の肉を噛んだ。
魚を全て解放するという馬鹿みたいな考えだって、確かに人質がいれば状況は変わる。実際に彼らはスタッフを殺害しているのだ。冗談だと一笑することはできないだろう。
彼らは人質が欲しかった。そこにちょうど現れたのが、最後にサメの展示を見ていこうとやってきた晴ちゃんだったのだ。
「待って!」
叫んだのは雫ちゃんだった。僕達の視線が向く中で、彼女は妹よりも顔面を蒼白にしてカチカチと歯の根を鳴らして首を振る。
「お、お願い。人質なら私が代わりになるから。妹を離してやって。お、お願いします……」
雫ちゃんの眦から一筋の涙が伝った。じわっと浮かんだ汗が涙と混ざり、ポタポタと落ちていく。悲痛な表情で姉は妹の解放を訴えた。
男達がそんな雫ちゃんを見て、それから晴ちゃんを見る。彼女の思いが届いたのかは分からない。けれど彼らは晴ちゃんから手を離し、通路から身を乗り出して雫ちゃんの顔を覗き込んだ。
その隙をついて、通路の端から飛び出した人影があった。澤田さんだ。
「離れるんだっ!」
カンカンカンッと音を立てて彼は通路を飛ぶように走る。男達がハッと気が付いて顔を上げたとき、彼は既に男の一人へ拳を振りぬくところだった。
重い音がして、顔を殴られた男が通路に転がる。残ったもう一人はゾッとするほど恐ろしい顔をしてナイフを振り上げた。
「危ない!」
澤田さんが刺されてしまう、と僕は思わず声をあげた。
だが、澤田さんは表情一つ変えなかった。
彼は素早く身を屈めナイフの刃先を避ける。そのまま男の腕を掴み、流れるように背負い投げを繰り出した。
「がっ」
男は一つ悲鳴を上げて動かなくなる。澤田さんはふうっと息を吐いて立ち上がり、僕達へと笑顔で手を振った。気が気でなかった僕達はほっと胸を撫でおろす。
彼は唖然とする晴ちゃんの肩を抱き、優しい笑顔で背を擦っていた。恐怖に強張っていた顔に笑みが浮かんでいる。雫ちゃんはそれを見て安心した顔で俯き、微笑みを浮かべて顔を上げ、目を見開き、
「後ろ!」
と叫んだ。
振り向いた澤田さんと晴ちゃんの背後に、怒り狂った顔の男がナイフを振り上げて立っていた。
力任せに振り下ろされたナイフが晴ちゃんの顔に向かう。咄嗟に伸ばされた澤田さんの腕に、ナイフが深く突き刺さる。彼は苦痛に顔を歪めつつ、ナイフの柄を握って男を突き飛ばそうとした。暴れた男の体が、怯える晴ちゃんにぶつかる。
「あ。あっ!」
たった数秒の出来事だった。僕はぽかんと口を開け、バランスを崩して通路から落ちていく晴ちゃんの体を見ることしかできなかった。
勢いよく体をねじった澤田さんが晴ちゃんに手を伸ばす。ガクンと晴ちゃんの体が止まり、彼女は空中で揺れた。澤田さんの怪我をした腕から血が噴き出す。澤田さんの顔が苦痛に歪む。
そんな彼の背後から、男が掴みかかろうと手を伸ばす。澤田さんはそれを察して避けようとしたが、それがいけなかった。
晴ちゃんの体が落ちそうになる。慌てて引っ張ろうとした澤田さんは、バランスを崩して男の体を掴む。
そして彼らは、三人諸共サメの水槽に転落した。
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