第38話 わくわくドキドキアニマルパーク

 人生でこんなにキリンを間近で見たことはない。

 手を伸ばせば簡単に触れられる距離だった。ゴツゴツとした足は細いのだとばかり思っていたが、こうして近くで見てみると案外太いのだなぁ、と思う。


「キリンだぁ」


 部長が上を見上げてぽかんと口を開けている。その隣で唖然とした顔の鷹さんがカメラを構えてシャッターを切った。

 ゆっくりと歩いていくキリンの背にインコが止まっていた。地面にできたキリンの足跡の上をトタタタとリスが駆けていく。


 耳をすませば至る所から動物の鳴き声が聞こえてきた。普段の動物園では聞いたこともない、パニックになった動物達の悲鳴だ。それに混じって人間の悲鳴も響いている。

 助けを呼ぶ声、はぐれた子供を探す声、怒る声に泣きだす声……。その声の中で一番数多く聞こえたのは「檻から逃げた」という悲鳴だった。


「大脱走じゃねえか……」


 千紗ちゃんの頬を一筋の汗が伝う。

 夏の噎せ返るような熱が、獣達の恐怖を茹らせていた。


「まさか、他の檻も開いているのっ?」

「おそらくは。といっても、全部ではないだろうが……」

「一つ開いただけでも大事件でしょ! なんで。一体誰が、何のために」

「言っただろ? これは『黎明の乙女』の仕業だ」


 黒沼さんは壁にもたれながら微笑んだ。真っ白な首筋から幾筋もの汗が流れている。


「黎明の乙女が今日ここで行おうとしていた何かとは、動物の解放。檻の鍵を奪い動物達を脱走させたんだ。チラシ配りは前戯みたいなもんさ。もしくは迷惑行為にスタッフの目を向けさせている隙に、他の仲間に本物の飼育員を殺させるためか」

「じゃ、じゃあさっきの飼育員さんは偽物ってこと?」

「その通り。君、一番最初に餌になる予定だったんだぜ?」


 鷹さんの顔がみるみる青ざめていく。それを見つめる黒沼さんも、表情こそいやらしい笑顔だったものの、顔色は同じくらいに青かった。


「動物の解放って。そんなもの、宗教団体というよりは動物愛護団体じゃないか」


 僕はそう吐き捨てた。

 黎明の乙女とは宗教団体じゃなかったのか? 僕の中だと、宗教団体というのは怪しい壺を買わせたり人を洗脳したりするような人達、というイメージが強かった。チラシ配りをするだけならまだしも、人を殺してまで動物を解放させようとするなど度が過ぎている。

 今、楽土町では日夜多くの事件が発生している。その事件の半数以上に黎明の乙女が関与していると僕は警察から聞いた。

 これもそのうちの一つなのか?

 黎明の乙女って、何がしたいんだよ……。


「あ」


 部長が声をあげた。皆が揃って同じ方向を見て、あ、と言った。

 逃げていく動物に混じって走る人達がいた。必死の形相で出口へと向かうお客様達だ。その中に二人、飼育員の格好をした人達も紛れている。ライオンの檻にいた偽物の飼育員達だ。

 まず駆け出そうとしたのは黒沼さんだった。しかし彼はすぐによろめき、横にいた千紗ちゃんに倒れ込む。ギャッと悲鳴をあげた彼女は、そのまま黒沼さんと壁の間に押しつぶされた。

 そんな二人の横を駆け抜けたのは鷹さんだった。あっという間に彼女は偽飼育員達へと向かっていく。彼らが振り返ろうとしたとき、そのふくらはぎに鷹さんが鉄パイプを振りぬいた。


「何やってんだあなた!」


 ココーン、と小気味いい音がして偽飼育員達がすっころぶ。僕は思わず声をあげ倉庫から飛び出した。

 いつの間に鉄パイプを奪ったのか。僕が追い付く頃には既に彼女は倒れた二人に馬乗りになり、ガクガクとその胸倉を掴んで問い詰めているところだった。


「あなた達が鍵を開けたの? 動物を逃がしたの? なんてことを! 自分達が何をやったか、分かっているの!?」

「鷹さん。鷹さん落ち着いて。ちょっ、鷹さんってば!」


 僕は彼女を後ろから羽交い絞めにするほかなかった。フンフンと鼻息荒く鉄パイプを振り顔を真っ赤にしている鷹さんは、今にも僕の腕から抜け出してしまいそうだ。こんな細腕のどこにそんな力があるというのやら……。年下とはいえ、僕の方が背丈も力も上なのに。

 偽飼育員達は困惑した顔で鷹さんを見つめていた。その表情を僕は怪訝に思った。まるで、自分達がしでかしたことを理解していないような顔だったから。


「何をと言われましても……。私達はただ、檻を開けただけ。それだけですよ」

それだけ・・・・っ? ハ……。それだけって…………」

「ええ? はい、それだけですが」


 僕はぐっと足に力を入れなければならなかった。怒りを膨らませた鷹さんが鉄パイプを振り上げるのを阻止するため。それと、僕自身が彼らに殴りかからないように。

 理解していないような、じゃない。この人達は本当に、しでかしたことを理解していないのだ。


「…………動物園にいる動物達は、猫や犬なんて可愛いものじゃないんです。ライオンなんて人間を簡単に殺せる。たった一匹でも脱走させれば、動物園にいる人達の何人が死ぬか。あなた達はそれを理解せずに『檻に閉じ込められたライオンが可哀想』という思いだけで鍵を開けたんだ」

「はぁ」

「鍵はどこから手に入れましたか。本物の飼育員さんからですよね。どうやって手に入れました? 殺したんですよねっ? あの倉庫にあった死体はあなた達が作ったんだ。あなた達は人を間接的に殺すだけじゃ飽き足らず、直接的にも殺した!」

「はぁ」


 我慢できず声を荒げても彼らの反応はぼんやりとしたものだった。彼らを張り倒そうとジタバタ暴れている鷹さんの気持ちがよく分かった。

 落ち着け、伊瀬湊。今は彼らに怒っている場合じゃない。この惨事をどうにかしなければ……。これ以上の負傷者を出さずどうにかパニックを収めなければ……。


「人間に生きている価値などありますか?」


 ぽそっと偽飼育員の男性の方が言った。僕と鷹さんはパチリと瞬きをして彼の顔をじっと見つめる。


「人というのは……邪悪で野蛮な生き物でしょう。犬や猫などの他の生き物を使役し、狭い空間に閉じ込めたり、暴力を振るうこともある。地球上には数多くの生き物がいる。その命は平等だというのに、まるで我らこそが唯一無二の存在なのだ! と言いたげに地球を犯している。あんまりに酷い話じゃありませんか。なぜ動物達が人間に見下され命を脅かされなければならないのか!」


 男性は早口にそう捲し立てると、感極まった様子で地面に額を打ち付けた。ダラダラと流れる熱い涙が乾いた土を濡らしていく。

 その通りです、と彼の言葉を受け継いだ隣の女性も声をあげた。


「い、生き物を檻に閉じ込め、鎖で繋ぐなど……なんて惨いことなのでしょう! 世の人々は古くの奴隷制度を悪しき文化だと批判するのに、なぜ同じことを動物に行うのかしら! 人々が動物達に行ってきたことを考えれば、多少の罰を受けるのは仕方がないことなのです。今日亡くなられた方々も天国できっと、『死んでも仕方がないことをしたのだな』と納得してくださるでしょう……」


 僕と鷹さんはぽかんと口を開け放って、ボロボロダラダラと涙を零す二人を見つめる。その涙はどう見ても演技には見えなかった。本気でそう思い、本気で悲しんでいるのだ。

 僕は眉を下げ自分の首を撫でた。嫌な汗が滲んでいるのに、肌は冷たかった。

 動物を愛する彼らの気持ちは分からないでもないけれど。

 だからってやることが、あまりにもあまりすぎるのだ。


 二人はべらべらと自身の思想について語る。僕達が聞いていようがいまいがお構いなしに、いかに人間は愚かで他の動物達が尊い存在であるかを。

 僕達は半ば圧倒されたようにその話を聞いていた。けれど、どんなに狂暴な獣でもこちらが心を開けば襲われることはない、という話を聞いた鷹さんが苦笑した。


「そんなわけないでしょ。獣は獣。人間の心なんて通じないんだから。あなた達がどれだけ動物のことを思っていたって結局は……」

「私達を冒涜する気かっ!?」


 途端、二人がぐわっと歯を剥いて鷹さんに掴みかかった。あっ、と僕は咄嗟に彼女の腕を引っ張る。

 二人分の爪が鷹さんと僕の腕を引っ掻いた。薄い皮膚がパリパリとめくられていくような痛みに顔をしかめる。


「私達が今日のために、どれだけの準備を重ねてきたかっ! 聖母様のお導きを受けてようやくこの素晴らしき日を迎えられたのに!」

「せ、聖母様?」

「私達が動物を救うことができたのは、聖母様が私達にご支援をくださったから……。あの方は全ての信者の願いを叶えてくださるから……。私達を冒涜することは聖母様を愚弄することと同じなのよ! 許さない!」

「ご支援?」

「聖母様の御心が私達に力を与えてくれる! だから私達は今日こうして、動物と魚達を解放することができた!」

「ちょ……っと待ちなさい。魚?」


 魚? 魚と言ったか。今この人は。

 僕と鷹さんは思わず顔を見合わせた。彼らが手を出しているのはこの動物園だけだと思っていた。けれどそうだ。ここは楽土町の中でも人気のお出かけスポット。動物園と水族館が併設されている。そして生き物と分類されるのは何も、動物に限った話じゃない……。

 偽飼育員達はなおも、うごうごと言いながら僕達を罵倒した。飼育員の制服がよじれ、ただでさえ少し大きめのサイズだったその隙間からずるりと何かが地面に落ちそうになった。


「っと」


 咄嗟に体が動いた。無意識に伸ばした腕がその何かをキャッチする。


「壺?」


 それは壺だった。手の平に乗るくらい小さく、表面に繊細な模様が彫られている壺。

 はて、と思う。小さいとは言え何故彼らはこんなものを、わざわざ服の中にしまっていたというのか。肌身離さず身に着けて。


「返せ!」

「うわっ」


 男性が僕の手から無理矢理壺を引ったくる。その勢いは凄まじく、思わずよろけたほどだった。

 その拍子に壺の蓋がズレてしまったのか、中に入っていた粉が少量空中に散らばった。

 日に当たり、白に近い灰色の粉がキラキラと光を帯びる。星屑のようなそれはそのまま地面に落ち、土に紛れて見えなくなった。


「聖母様のお力が!」


 突然女性がしゃがみこみ地面を手で擦った。手の平についた砂を、何の躊躇もなく口に入れる。ギョッとする僕達の前で彼女は同じ行動を繰り返し、果ては地面に顔を付けてぺろぺろと舐め始めた。

 僕達はしばし茫然と彼女の様を見下ろしていた。頭皮の内側がぴりぴりと痺れる。目の前の光景にどうしていいか分からず、ただただ困惑した。


 そのときふと思い出した光景があった。随分前、千紗ちゃんがはじめて魔法少女に変身したときのことだ。揺れるトラックと、恋人に薬物を飲まされて顔中を血だらけにした千紗ちゃんの姿。

 何故今そんなことを思い出す?

 僕の目は足元に蹲る女性に注がれている。彼女の赤い舌に乗った砂の薄黄色に混じって、さっき散らばった灰色が僅かに見えた気がした。

 灰色の粉。聖母様のご支援。御心。

 そういえば、千紗ちゃんが飲まされた薬も、灰色だったっけ。


「…………薬物?」


 僕の呟きに女性が顔をあげた瞬間だった。

 横から伸びた大きな爪が、男性の顔を引っ掻いた。


「へぁ」


 男性の顔が一面真っ赤になった。それがどういう意味なのか理解するより前に、僕は頭を鷹さんに掴まれて、ガクンと落とされた。

 僕の視界は地面を向いた。そこにぺちゃりと何かが降ってくるのが見えた。ぶよぶよとした白っぽい、鶏肉の脂身に似た何か。

 何だろうこれ。変なの。どこから降ってきた? 上? 豚の脂身……。さっきから聞こえる男性の絶叫がぶくぶくと泡立っているのはどうしてだか。白と黄色の中間の色をした……。脂身に何かが混じっている。ポップコーンみたいな…………人間の歯。これは、男性の、顔の、逧ョ閹。まさか。

 僕の横から、ポタポタと水が垂れる音がした。鷹さんがえずいている。その反応こそが、彼女が僕に見せまいとしたものが何かを物語っていた。

 理解してはいけないと思った。咄嗟に視線を横に動かした。だけど僕はそこに、人間のものと違う、焦げ茶色の四肢を見た。


「オオオオオッ」


 至近距離から聞こえた方向に肝がすり潰される。引っ張られるように視線がその四肢の持ち主を見る。

 僕達の目の前に、クマがいたのだ。


「ボオッ」

「わっ…………」


 クマはしゃがみ込んでいた女性に思い切り抱き着いた。女性がクマを抱き返せば、まるで二人はお互いを愛しんで抱擁し合っているように見える。骨の折れる音がして、女性の体からプシッと赤い血が飛び出さなければ、よかったのに。

 心が通じるなんて嘘だという鷹さんの言葉が、早くも証明されたのだ。


「み、なとくん」

「…………鷹さん」

「逃げよ。ゆっくり。走らないで。大丈夫。ゆっくり、下がれば平気だから」


 クマは息荒く女性の顔に鼻を突っ込んでいた。パキパキぷちぷちという音が何をどうすることで発生している音なのか、知りたくない。

 クマの目は赤く充血している。大量に分泌された涎がぼたぼたと地面に落ちている。


「なんか……様子が…………」

「喋らないで」


 様子がおかしいのだ。思えば、さっきのライオンといい、なんだかやけに動物が狂暴な気がした。クマやライオンの性格など知らないが、それにしても。

 クマは必死に思うほど女性の顔を齧り舐めている。特に口周りの肉を中心に。隣にいる僕達のことなど目にも留めていない。


 薬。


 頭の中でバラバラにほどけていた情報が結びつき、僕はハッと顔をあげた。

 聖母様は信者達に御心と称し薬物を与えた。彼らの言動のおかしさにはきっと、薬物の影響もあったに違いない。思考回路がめちゃくちゃになった彼らは、動物園から動物を解放させるという酷い思想を実行に移してしまった。

 黎明の乙女が薬を撒いている、という話を聞きつけやってきたと黒沼さんは言っていた。黎明の乙女はこの動物園で薬を、人間だけではなく動物にも撒いていたのだ。餌に混ぜるかどうかして。

 動物を狂暴化させて、脱走させやすくしたかったのか。それとも人間達に復讐する機会を与えたかったのか……。

 どちらにせよ、その結果自分達が死ぬとは考えていなかっただろうけれど。


 ぷつん。と音がして食べかけの肉片がこちらに飛んできた。女性の引き千切れた唇が僕の腕に張り付き、思わず悲鳴をあげてしまう。

 慌てて口を塞いだ。けれどもう遅かった。

 クマが僕達を見つめる。ゴウ、と大きな息を吐いて、巨大な体で突進してくる。


「ッガアァ!」


 固まる僕達の後ろから、千紗ちゃんが弾丸みたいな勢いで飛び込んできた。彼女はクマに飛びかかったかと思うと、大口を開けてその鼻先に噛み付いた。


「千紗、ちゃっ…………!」


 千紗ちゃん。

 彼女は人間の姿のまま、クマの分厚い鼻に食らいついていた。

 血走った目でクマを睨みつけ離さない。視界を覆われたクマがゴフゴフ頭を振って彼女を引き剥がそうとした。爪が彼女の服をビリッと引き裂く。


「ガフ。ゴウッ」

「ガギュアッゴルッ。ゴォアアァッ! ゴオウッ!」


 クマの咆哮よりも彼女の咆哮の方が力強く響いた。

 鷹さんは悲鳴を上げ半ばパニックに陥っていた。だから、見えていなければいいと思う。千紗ちゃんの破れた服の下に覗く肌に、薄く獣の毛が生えてきているのが。

 人間なのに。変身していないのに。今の彼女はよっぽど獣だ。


「っおぁ!」


 千紗ちゃんはクマの鼻から口を離した。そして間髪入れず、右手をクマの口に突っ込む。当然クマは勢いよく口を閉じ、彼女の腕からミシリと音が鳴る。


 けれど千紗ちゃんの悲鳴は上がらなかった。代わりにドン、と内臓を震わす発砲音が聞こえる。クマの口の中からだった。千紗ちゃんが無理矢理引きずり出した血だらけの腕には、黒沼さんの使っていた銃が握られていた。彼に押しつぶされたとき、どさくさに奪ってきたに違いなかった。

 彼女は抜いた銃をクマの片目に押し付け、また引き金を引いた。

 パァン、と高い音が鳴る。クマが大きく仰け反り、痛みに絶叫した。


 悲鳴がバリバリと空気を震わせる。突然目の前を鳥が横切り、驚いた僕は慌てて顔を手で覆った。

 目の前の空を大量の鳥が飛び立ち、地面を動物達が必死に逃げて行く。さっきも同じ光景を見た。

 飛び立つ鳥の影がクマを覆い隠して何も見えない。千紗ちゃんの姿もだ。

 そしてその影が晴れたとき、そこには巨大な怪物が立っていた。


「繧エ繧ャ繧「繧ヲ繧「!」


 ザワザワと毛を逆立てる六つ目の怪物。千紗ちゃんが変身した、魔法少女イエローちゃん。

 怪物は巨大な声で唸り声をあげると、大口を開けてクマの首に噛み付いた。


「ウーッ」


 クマは必死に怪物を引き剥がそうとした。鋭い爪が千紗ちゃんの皮膚を引っ掻き、ミチミチと音を立てる。

 彼女は顎に一層力を込めた。嫌な音がしてクマの首が大きく仰け反る。ペッと吐き出された巨大な体は僕と鷹さんの目の前に転がった。


「ギャッ! わっ。湊くん……わあっ!」


 ゴルル、と喉を鳴らして千紗ちゃんが僕に飛びかかった。けれど彼女は鷹さんと僕の間に着地すると、尻尾でするりと頬を撫でてきた。六つの目がギロリと僕を見て、それから出口の方向を指し示した。


「…………行けって?」

「ワウ」


 自分に任せて先に行け。そう言っているんじゃないか、と僕は悟る。

 けれど振り返った僕は、後ろから近付いている光景に目を曇らせた。そちらの方からも、檻から逃げ出したたくさんの動物が走ってきていたのだ。

 数匹で済む数じゃない。彼女一人で、あの動物達を食い止めることができるのだろうか。


「グウルル……」


 だけど悩んでいる間にも千紗ちゃんは僕の背を鼻先で小突く。

 うだうだ言っていても仕方がなかった。僕は頷いて、千紗ちゃんにだけ聞こえるようひっそりと言葉を吐く。


「ここは君に任せるよ」

「ゴウ」

「頑張ってくれたら、後で高い焼肉を奢ってあげる」

「ゴゴウ。ガアッ」


 六つの目がニンマリと歪んだ。愉悦に歪んだ顔はどことなく恐ろしく、彼女の向こうに立っている鷹さんの息を飲む声が聞こえた気がした。


「頼むよ、魔法少女イエローちゃん!」

「繧ャ繧ヲ繝!」


 僕は大きく手を振った。次の瞬間、千紗ちゃんは僕の頭上を大きく飛びこえて、襲い来る動物達の群れへと突っ込んだ。ドッと動物が数匹宙に放り投げられる様が見えた。早速千紗ちゃんが暴れているのだ。

 鷹さんの手を取る。間近の怪物に放心していた彼女は、そこでようやく我に返る。


「鷹さん逃げますよ!」

「待って! あの子いつの間にか消えちゃって……今どこにっ?」

「彼女なら先に逃げました。あの子は大丈夫です。絶対に!」


 困惑する鷹さんの手を引いて倉庫へ向かった。部長と少年、それからすっかり青い顔をして蹲る黒沼さんに肩を貸して出口へと急ぐ。

 幸いにして僕達は無事出口へとたどり着くことができた。出口には既に何台ものパトカーや救急車が止まっていた。黒沼さんを救急車に乗せようとしていると、不意に少年があっと声をあげ、遠くにいた一人の女性に呼びかけた。


「おかあさん!」


 女性はハッと顔をあげ、少年の姿を見つけて口を覆う。鷹さんが少年の手を引いて女性の元へ連れて行くと、母親らしいその人は泣きながら少年を抱きしめていた。僕達もようやく一息ついた気分でほっと胸を撫でおろす。

 警察官が何人も園内へと向かっていく。問題は早く収束しそうだ。よかった……。

 だけど僕には、まだやることがある。


「どこに行く気だ」


 ギク、と体が強張る。僕はおそるおそる振り返り、僕を睨む黒沼さんに微笑んだ。

 彼は救急隊員に体を支えられながらも、鋭い眼光で僕を見つめている。低く冷たい声は、まっすぐ僕の足を地面に縫い付けようとしていた。


「どこって……別に、どこにも」

「嘘つき。動物園に戻ろうとしていたのか。それとも、水族館にでも行こうとしていたのか」

「……………………」

「行くな。ここにいろ」

「…………行かないといけないんです」

「……どうして」

「あの人達を止めたいから」


 黎明の乙女の狙いは、動物園のみならず、水族館もだ。

 魚をどうやって解放させるのかは分からないけれど。早く行かなければ、水族館でもここと同じ惨劇が繰り返されてしまう。

 誰かが急いで止めなければならないのだ。


「馬鹿。お前が行ってどうなるってんだ……。役立たず。足手まといだ」

「……………………」

「聞いてるのか。ただの子供が行って何になる。ヒーローごっこなら家でやれ」

「…………ヒーローごっこじゃない」

「あ?」

「僕達にだって役に立てる力があるさ!」

「っ、おい。湊!」


 僕は駆け出した。警察の包囲網の隙間を一気に潜り抜け、背後から聞こえる警察官や部長の制止も聞かず足をぐんと伸ばして駆け抜ける。


 水族館の中はざわざわと騒がしかった。動物園で起こった惨事を伝えるアナウンスが繰り返し流れている。それでもここではまだ事件が起こっていないようで、人々は不安そうに天井を見上げながら歩いて出口に向かっているだけだった。

 人の流れに逆らって進む。早く黎明の乙女を見つけなくては。ここでも飼育員に扮しているのだろうか? 一体どこにいるのだか……。


 と、角から出てきた女の子に正面からぶつかった。尻餅をついた僕の上に女の子が倒れ込んでくる。慌ててその体を抱き起した僕は、その子の青い目を覗き込んでぱちくりと瞬いた。


「雫ちゃんっ」

「み、湊くん!」


 長い髪が僕の手に滑り落ちる。雫ちゃんの丸眼鏡越しの目が僕の顔を覗き込んでいた。

 僕達の距離はもう少しでキスしてしまいそうなほどに近かった。状況も忘れて一瞬だけ心臓がドキリと跳ねる。雫ちゃんにいたってはあと数秒もすれば顔を真っ赤にして、小さい悲鳴と共に飛びのくのだろう、と思っていた。


「湊くん!」

「うおっ!?」


 だけど雫ちゃんは更に僕に顔を近付けた。眼鏡の縁が僕の鼻にコツンと当たる。狼狽えた僕は、けれど彼女のあまりに真剣な眼差しに、ふと眉根を寄せた。

 彼女は唇を震わせて、今にも泣きそうな声で言った。


「晴がどこにもいないの!」

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