第32話 歪みゆく
千紗ちゃんの家に招かれた僕は、塩を洗い落とせ、と強制的にお風呂場に突っ込まれた。
二日連続女の子のお家のお風呂に入るのはどうなんだろう、と思いつつも服のべたつきに困っていたことは確かだから、お言葉に甘える。
「おお」
浴室に入るとふわりといい香りが広がった。ヒノキ風呂だ。一般家庭ではそうそう見られないお風呂に思わず感嘆の声をあげる。
自宅よりも広い浴槽は、僕でものびのび足を伸ばすことができた。贅沢に湯を張ったお風呂は大層心地よく、僕は前髪を掻きあげ天井を見上げ、しばし湯を堪能した。とは言えここはよそ様の家だ。長湯をするわけにもいかない。僕はさっさと体を洗ってお風呂から上がった。
脱衣所の洗濯機が回っている。塩まみれの服は見当たらず、代わりに着替えらしきパーカーとズボンが用意されていた。ちょうどいいサイズだ。お父さんのものだろうか。
「ありがとう。さっぱりしたよ」
台所に行くと千紗ちゃんがテレビを見ていた。ん、と僕の方を見ずに片手を上げる。冷蔵庫から取り出したピッチャーから麦茶をグラスに注ぎ、僕の方に突き出す。礼を言ってそれを受け取った。
お風呂に麦茶にいたれりつくせりだ。彼女にしては珍しい殊勝な態度に、むしろちょっと不安になる。彼女の横顔を見ながら僕はグラスに口を付ける。強烈なアルコールに喉が焼けた。
「ん゛ぇっ!」
「あはははっ」
彼女は僕を指さして爆笑する。そこではじめて見えた彼女の顔は酷く真っ赤だった。ピッチャーに鼻を近付ければ、麦茶ではなく強いアルコールの香りがした。彼女がただで他人に親切を働くわけがないのである。
引っかかった引っかかった、と彼女は腹を抱えて大きな声で笑い続け、グラスに半分以上入っていた酒を一気に煽った。
一体どれだけ飲んだのか。僕が風呂に入ってからそう時間はたっていないだろうに。彼女のまとう空気はアルコールの香りがして、火照った肌にしっとりと金色の毛先が張り付いている。
「飲みすぎ。お母さん帰ってきたら怒られるよ」
「いーよ。どうせ『お導き』に行ったら夕方まで帰ってこない」
「じゃあお父さんに」
「いねえよ」
「出張中?」
「あたしが生まれる前に離婚したんだと」
「……ごめん」
「はっ。記憶にないことを謝られても」
彼女は笑うついでに、僕が今着ている服も前に彼氏さんが忘れていったものだと言った。複雑な気持ちに眉根を寄せる。前に僕が会ったあの人のことだろう。もう彼がこの服に腕を通すことはないのだ。
「それより、用って何だよ」
「え?」
「連絡してきただろ。お前が風呂入ってるとき携帯開いたら、メッセージ来てたから」
「なんだ。見たから公園に来たわけじゃなかったの」
「ぶらぶら歩いてたら偶然通りかかっただけだ」
「散歩が趣味なんて知らなかったな」
「ちげえよ。家にいたら『暇ならお導きをしてきなさい』ってうるさいから外に出るしかないんだ。夏休みだってのに、休めやしねえ」
「『お導き』って何だい?」
「宗教勧誘」
僕は持っていたグラスの縁を爪で弾いて、舐めるようにもう一口飲んだ。何を言っていいのか分からなかったのだ。酒に逃げるという言葉はこういうことを言うのかもしれない。
お菓子を渡せば早速千紗ちゃんはカップケーキに齧りつき、まあまあ美味いと評価した。まあまあ、という言葉の割には嬉しそうな笑顔だったから、お気に召したのだろう。
僕達はしばし無言でぼうっと時間を過ごした。
扇風機が彼女の髪を泳がせる。首は彼女の方向に固定されていたけれど、お情け程度のそよ風が僕にも当たる。まだ少し濡れた髪が風にそよいで気持ちいい。キリリンと冷えた風鈴の音がどこからか聞こえてくる……。
「言いたいことがあるなら言えばいい」
にわかに千紗ちゃんの言葉が僕の心を突き刺した。
一気に思考が現実に引き戻される。僕は姿勢を正して、改めて台所の内装を見回した。
見えていたけれど、あえて無視していたものがそこにある。
台所の壁にはいたるところに、彼女のお母さんが書いたであろう格言が貼られていた。
「我らは天から命を授かった天使」「生まれしときより人はみな罪を背負っている」「世界に救済を。聖母様へ祈りを。さすれば願いは叶うであろう」などと達筆な文字が紙に書かれている。
棚に目を向ければ、電話帳やメモ用紙の中に混じって『聖母様のお導き』『現世の罪。神への贖罪』など奇妙なタイトルの本が並んでいる。
写真立てが置かれていた。満面の笑みを浮かべて大きな犬に抱き着く、幼い千紗ちゃんが写っている。その横の写真には、同じく笑顔の千紗ちゃんとその肩を抱くお母さん、そして揃いの笑顔を浮かべた老若男女がずらりと並んでいる写真があった。「黎明の乙女」と書かれた看板が彼らの横に建てられている。
普通の台所の中に
台所だけじゃない。ここに来るまでに通った廊下や居間にも。同じような紙が貼られ、本が並び、ときには聖母様を形どったらしい彫刻が置かれていたりした。
一見ただの広くて綺麗な日本家屋。けれどこの家は、どこかおかしかった。
「本当に宗教やってるの? 君のお母さん」
「この家が普通の家に見えたか?」
「どう…………。いや……」
「『どうして宗教なんか』って?」
「……………………」
千紗ちゃんはまた酒を飲み干した。それこそお茶を飲むような勢いで、どんどんピッチャーの中身が減っていく。
僕は何ともいえない気持ちになって自分のグラスを傾けた。焼けるような味が喉を通って落ちていく。おいしいとは思えなかったけれど、舌先を焦がすような強い味は、困惑を浮かべる思考を僅かになだめてくれる。
「どうして宗教をやってるかなんてあたしが聞きたい。あいつが宗教にハマったのは、あたしが腹の中にいるときだから」
「そ、んなに。昔から」
「父親と別れたのも、多分宗教が原因なんだろ。理由は聞いたことないけどよ」
千紗ちゃんは遠くを見るように目を細め、煙草を取り出して咥えた。深く息を吸い込んでから濃厚な紫煙を吐き出す。
「湊」
「ん?」
「お前は自分の母親のこと好きか?」
「えっと……まあ、好きだけど」
よく分からないままに僕は頷いた。
僕の母はいたって普通の親だ。ありすちゃんの母親ほど過干渉というわけでもないけれど、放任主義というわけでもない。
小言がうるさいと思うことも、喧嘩をすることもあるけれど。僕を産み育ててくれた優しく明るい母のことを、僕は好いている。
「あたしも昔は母さんのことが好きだった。でもあいつが何をしているのか、分かってくると、だんだん嫌いになった」
青白い煙がまるで彼女の記憶を手繰り寄せるように、彼女は語る。
「自分の家が『普通』かどうかは、他の家を知って初めて分かるもんだ」
「友達の家に初めて行ったとき、自分の家の当たり前と違って驚いたことってあるよね」
「カレーに入れるのが豚肉か鶏肉か、って?」
「はは、そうそう。カルピスの濃さが全然違ったり、親に敬語を使う家があったり」
「子供に首輪をつけるのがルールの家はあったか?」
「首輪? なんだそれ。犬じゃあるまいし」
僕はアルコールに焼けた笑いを零そうとして、言葉を飲み込んだ。
彼女はまっすぐに僕を見つめている。その顔は氷のようだった。ヒタリと冷たい氷の刃のような眼差しが僕の喉元を狙っている。
脳味噌が白く冷えていく。無言の僕を置いて、彼女は席を立った。そうしてしばらくすれば彼女は戻ってきて、また席に座る。
「……………………」
彼女は首輪を付けていた。
随分古い首輪だ。元は黄色かったのだろう皮はボロボロに剥げ、色もすっかりくすんでいる。
どう見てもおしゃれのためのものではなく、犬の首に付けるべきものである。人間の首に付けるものではない。
酔いのせいで奇妙な行動を取っているのだろうと思いたかった。けれど彼女の表情を見れば、そういうわけじゃないだろうと分かる。
「『普通の家』では子供に首輪を付けないって、それを知ったのはいつだったかなぁ」
彼女は二本目の煙草に火を付けた。ゆらゆらと煙が舞う。青白いモヤが辺りを取り囲んで、まるで幻想に放り込まれたかのような心地だった。夢を見ているのではないかしら、と思う。夢であればよかった。彼女の話が現実に起こった話なのだと理解したくなかった。
「昔はいい親だと思っていたんだ。唯一の肉親だからな。懐いてた。好きだった。別に暴力を振るわれていたわけでもねえし、どちらかというと愛情は注がれてた。基本的には『普通の親』だったんだ。
甘えれば、いつだって構ってくれた。お手玉、人形遊び、カルタ……なんだってしてくれたよ。でもたまぁに、あいつは不思議な遊びをしたがった。どんな遊びか分かるか?」
「いや…………」
「ごっこ遊びだよ。わんちゃんごっこ。あたしをペットにして遊ぶんだ」
思わず唸った。胃がチクチクと痛む。それを誤魔化すように酒を飲めばグラスは空になる。千紗ちゃんは頼んでもないのに僕のグラスにおかわりを注いだ。
「あいつが宗教にハマった理由なんて知らない。だから憶測でしかないけどさ。多分、あいつは元々心が弱い人間だったんだ。それに付け込まれたんだよ。
たまにあいつは静かに泣いてるときがあるんだ。救われたいだの、どうか願いを叶えてくださいだの、意味分かんねえことを言って泣く。理由があるわけじゃねえ。未来の漠然とした不安とか、過去の後悔とか、そんなことを思って勝手に悲しくなって泣く。今も、昔も。
子供のときのあたしは純粋に心配してたよ。『お母さん大丈夫?』なんて。健気だろ? はー、アホくせえ」
酒とアルコールの香りがくらくらと脳を揺らす。ジンと痺れた舌先が辛い。
潤んだ目で僕は千紗ちゃんを見つめ続けていた。彼女の目もまた、僅かに潤んでいる。全部酒のせいだ。きっと。
「あいつが変な遊びをするのは、決まって泣いた日の翌日だった。何がしたかったのかいまだに分からないよ。いいや、理由なんて最初からなかったんだ。意味のない行動に、まだ子供だったあたしは振り回されていたんだ。
娘と遊んでメンタルを回復しようと思ったのか? ああ、もしかしたら、アニマルセラピーの代わりだったのかもな。うちは昔犬を飼ってたんだよ。大型の雌犬。サチって言ってさ。可愛いやつだった。つっても、小学校に入る前に死んじまってたけどな。
……で、なんだっけ? ああ。そう。サチの首輪が残ってたんだよ。遺品だな。あいつ、あたしの首にそれ付けてさ、『お散歩に行こうか』って笑うんだ。
あたし。……あたし、楽しかったよ。ただのごっこ遊びにしか思ってなかったからな。どれだけ犬になりきれるか、ワンワン鳴いてみたりお手や伏せをしてみたり。四つん這いになって廊下を走ったり、庭で寝転がったり。上手く芸をすればあいつは喜んでおやつをくれたんだ。そう。おやつも犬用。ドッグフード!」
千紗ちゃんはそこで爆発したように笑った。腹を抱えて大声を上げ、テーブルに突っ伏して肩を震わせる。
僕は唖然と口を開け、彼女を見つめて目を瞬かせた。
ドッグフードだって?
「マジでさぁ。知らなかったとはいえ、最悪だろ。ドッグフード食わされてたんだぜ? サチが昔使ってた器に大盛りにしたのをあたし、口を突っ込んで貪ってた。マジで犬。超うける。味なんてないけど、塩と醤油ぶっかけときゃ結構いけるんだぜ。知ってた? 知らなくてもいいけど。ははっ。
寝るときも犬小屋で眠ったんだ。キャンプみたいだなぁとか、星がきれいだなぁとか、サチとお揃いで嬉しいなぁ、とか。そんな呑気なこと考えて眠ってた。馬鹿だったんだ。
ペットごっこは集会でも何度か披露したことがある。何の集まりかって? そりゃ黎明の乙女の集いに決まってる。あたしも子供の頃は毎回あいつに連れられて参加してたんだ。聖母様のお言葉を聞いたり、お祈りをしたりしてよ。何の集まりかなんて知らなかった。町内会みたいなもんだと思ってた。宗教だなんて知らなかったんだ。本当に。
あいつはたまにあたしに首輪を付けて、『うちの子が新しい芸を覚えたんです』なんて言うんだ。あたしは四つん這いで広間を駆けて、ワンワン吠えたり芸を披露した。誰もびっくりしてなかったよ。全員おかしな母子を笑顔で受け入れてさ。可愛いねって、おやつをあげようねって。ニコニコしててさ。
なんだろうな。なんだろう。本当に、おかしいよ。なにかがズレてるんだよ。でもあたしはそれが分からなかったんだよ。だってあたしにとってはそれが普通だった。よその家のことなんてまだ知らなかった。今思えば笑っちまうよ。可笑しすぎるだろ。ペットって、ペットって! 犬って! なあ、馬鹿々々しいと思わないか? 笑えよ。ほら、笑えって。笑えよ。なあ。…………なんで笑ってくれねえの」
酒と煙草の絡んだ彼女の声は、酷く掠れていた。
伸ばされた手が僕の手を掴む。白い肌はとろけてしまいそうに熱かった。僕は思わずもう片方の手を重ね、彼女の手をそっと労わるように撫でる。
何が言えただろう。考えても返事は見つからず、僕は無言で彼女の肌を撫でるばかりだった。
笑うことなどできそうもない。
「…………小学校に上がって友達ができた。よその家と自分の家の違いを知って、段々おかしいんじゃないかと疑問に思った。そのうち、完全にあたしの家はどこかおかしいんだって分かった。そうしたら、段々母さんが嫌になって、中学校に上がる頃にはもう立派な反抗期を迎えていたよ。その後はもう分かるだろ? いくら人を信じよ、慈しみの心を持て、だなんて謳ったって、結局宗教は子育てに向いていないってことだ」
写真立ての中で笑う彼女の髪は焦げ茶色だった。そのあどけない笑みを見つめてから、現在の彼女へと視線を戻す。紫煙とアルコールの香りの中に、眩しい金髪が光っている。
「宗教なんて大嫌いだ」
彼女は吐き捨てるように言った。
妙に胸の奥が強く締め付けられる。苦しくて、僕はたまらず彼女から視線を外した。
千紗ちゃんが過剰なまでに宗教を嫌う理由がようやく分かった。彼氏さんのことだけじゃない。僕が思っていたよりも相当根深く、宗教という存在は彼女の人生に絡みついている。
彼女はめちゃくちゃな人間だ。ありすちゃんとはまた違う意味で、常識から外れ、破天荒に生きて、人に迷惑をかけまくっている。
けれどその「めちゃくちゃ」に理由があるとしたら。彼女が心の奥底で悩み苦しんでいるのだとしたら。
僕は彼女を救ってやりたいと思うのだ。
僕はしばし黙って、手元のグラスに目を落とす。それからゆっくりと息を吐いて、勢いよくグラスを持ち上げ中身を一気に飲み干した。
空になったグラスを叩きつけるようにテーブルに置く。強い眼差しで千紗ちゃんに視線を戻せば、彼女は唐突な僕の行動に驚いて目を丸くしていた。
「千紗ちゃん」
「な、なに」
「僕達で、その宗教をぶっ壊してやろうか」
「はぁ?」
酔ってる? と千紗ちゃんは半笑いで言った。僕は立ち上がって彼女の横にしゃがむ。立ち上がれば思いのほか足元がふらついて、確かに酔いが回っているのだろうと思う。
けれどこの発言はそれとは関係ない。彼女の手を力強く握る。彼女はビクッと肩を跳ね、丸くなった目を僕に向ける。
「僕達が倒すべき敵は、君のお母さんが慕う宗教団体、黎明の乙女のトップ。聖母様その人だ」
雫ちゃんと話したことを僕は千紗ちゃんにも話してやった。僕達が倒すべき人間のこと、団体のこと、僕達がすべきこと。
聖母様を倒すことが僕達の目的。それは、宗教団体の崩壊に繋がり。結果的には彼女の母親が宗教から離れることに繋がる。
話を聞いていた彼女の表情が段々と変わっていく。酔いが回って充血した目が大きく見開かれる。
「聖母様さえ倒すことができれば、君のお母さんもきっと正気に戻ってくれる。君のことを娘として普通に愛してくれるよ」
「今更戻られたっておせえよ」
千紗ちゃんは僕の胸を押しのけた。けれど愉快そうな笑みはその顔に張り付いたままだった。
「なるほどね? ぼんやりしてた魔法少女の目的が、ようやくハッキリしたってわけだ。宗教を倒す? いいじゃん。宇宙からのモンスターを倒すよりずっと面白そうだ」
「黎明の乙女を倒すには君の力が必要なんだ」
「魔法少女だからな」
「それもあるけれど」
「…………ああ。まあ、真正面から飛び込んでぶっ潰すってわけにもいかねえよな。組織構成や施設内部の地図くらいは欲しいし」
「うん」
「情報は山ほどありそうだもんな。あたしの家」
彼女は自虐的に笑った。理解が早い。
聖母様を倒すためには情報が必要だった。けれどカルト宗教の情報なんてそう上手く調べることはできない。けれど熱心な教徒を親に持つ千紗ちゃんならば、情報を仕入れることができるのではないかと、そう思ったのだ。
「後輩をこき使う気か。最低な先輩だな」
「そういうつもりではなかったんだけど……。ごめん。今度お詫びをするよ」
「じゃあ高級な酒を買ってくれ」
「あと三年ほど待ってもらえる?」
「コカインでもいいぞ」
「何年待っても無理かな」
彼女はカラッとした声で笑った。短くなった吸い殻を灰皿に押し付ける。
「いいよ。何もなくても、情報くらいは探してやる。期待はするなよ」
「おお、やけに素直な」
「大嫌いな宗教をぶっ壊せるならそれでいい。信仰していたもんが壊れれば、あいつも少しは懲りるだろ」
「そうだね。お母さんも反省して、君の元に戻って……」
「んなわけねえだろ。宗教が崩壊すりゃ、信者自身もぶっ壊れるに決まってる」
「えっ…………」
「宗教はそんな単純なものじゃないんだ」
「そ、それじゃあどうして賛成なんて」
「言っただろ?」
彼女がぐっと僕の胸倉を引き寄せる。ギラリと鋭い眼光が僕を射抜いた。
粘度のある、それでいてザラザラと擦り切れた声が鼓膜を震わせる。
「あたしは、母親のことが嫌いなんだ」
僕はもうポカンと口を開けるばかりで、それ以上何を言うこともできなかった。
千紗ちゃんが立ち上がる。彼女はそのままよろめき、前のめりに倒れそうになった。慌てて抱きとめれば熱い体がぐったりと僕に寄りかかる。くくっと零れる笑い声は酷く酒臭い。
「もう。だから飲みすぎだって」
「あー……駄目だ。部屋運んでくれよ湊。歩けねえわ」
「あのねぇ」
「丁寧によろしく」
僕は肩を竦め、彼女の体を横抱きに抱える。いわゆるお姫様だっこというやつだ。きゃっ、と愛らしい悲鳴をあげた彼女はまさか本当に運ばれるとは思っていなかったのか、嬉しそうに足をバタつかせて笑う。
「お部屋はどちらですか、お姫様?」
「あは。お前も相当酔ってるじゃん」
「酒なんて普段ろくに飲まないんだもの」
千紗ちゃんの案内に従って僕は廊下を歩く。暗い色の床板が二人分の体重でギシギシと軋む。通り過ぎる部屋はいくつもあって、どれも相当広かった。
羨ましい広さである。けれど唯一の家族であるお母さんがいない今、どこからも生活音が聞こえてくることはない。僕は腕の中でうとうとと微睡む千紗ちゃんを見下ろす。この家に彼女はいつも一人でいるのだろうか。
そうだとしたら。それは随分、寂しいことだな。
「みなとぉ」
酔いのせいか眠気のせいか。随分甘えた声で千紗ちゃんは僕の名前を呼んだ。
「なぁに?」
「お前は優しいやつだよ」
「そうかな」
「父さんがいたら、こんな感じなのかな」
「……娘を抱っこして寝室に運ぶくらい、きっと君のお母さんだってやったことあるよ」
「そうかな」
「そうだよ」
父親がいたらと彼女は言ったけれど。それを言うなら僕だって、妹がいたらこんな感じなのかな、と思う。
普段の彼女には何かと苦労するけれど。こうして運んであげること程度のお願いなら、全然苦ではないのだ。
「君は……もう少し、人に甘えたっていいんだよ」
「……………………」
「迷惑をかけるのは駄目だけどさ。辛いことや、悲しいことは、人に相談したっていいんだ。これからは僕に相談してくれよ」
「…………なんでお前に?」
「僕は君の先輩なんだから」
一個だけだろと笑って、けれど千紗ちゃんは額を僕の胸にすり寄せた。酔いで潤んだ目が僕をじっと見上げる。赤らんだ頬と相まって、彼女は普段よりずっと愛らしい顔をしていた。
この先の廊下の付き当たりが彼女の部屋だという。僕はそちらに歩を向けた。ギシリ、と床板がまた軋む。
「相談してもいいんだな?」
「うん」
「何でも?」
「勿論」
「じゃあ、最近の悩みについて聞いてくれよ」
「テストの結果がよくなかった? とうとう先生に薬やってるのがバレた?」
「あたしは魔法少女だよな?」
ジク、と胸の奥が苦く疼く。
僕は思わず彼女に怖い顔を向けそうになって、慌てて微笑みを取り繕った。彼女はぼんやりとした声で僕に聞く。
「最近、なんか、妙でさ」
「妙って?」
「ずっと頭が痛いんだ。魔法少女に変身したときのこと思い出そうとすると、余計に痛くなる。そのせいかちょっとしたことでイラついてよ。前より喧嘩の回数が増えた」
「体調を崩したとかじゃなくて? 病院に行った?」
「そこまでじゃねえけど……それだけじゃなくて……。ふとした瞬間に何かを見間違えることも多いんだ。ほら、あるだろ。床に落ちてたゴミをゴキブリと見間違えたり。そんな感じで、ふと自分の腕を見たとき、毛むくじゃらの犬みたいな腕に見えるときがあってさ」
彼女に悟られないよう唾を飲み込んだ。背中が熱い。滲んだ汗で肌が濡れていく。
僕の反応を千紗ちゃんは何も気が付いていない様子だった。酩酊したまま、ほろほろと言葉を零していく。
彼女の部屋の前についた。薄い襖一枚が、廊下と部屋を隔てている。
僕は襖に手をかけた。
「一番いやなのは悪夢を見ること」
「悪夢?」
「酷い夢だよ」
「どんな?」
「あたしが…………化け物になって暴れる夢」
彼女の言葉と同時に、僕は襖を開けていた。
途端、全身の血液が凍り付く。ザッと顔から血の気が引き、酔いとはまた別の眩暈にぐわりと体が揺れた。
十二畳はあろうかという広い千紗ちゃんの部屋。
そこは。壁も、天井も、床も。ズタズタに切り裂かれていた。
「なあ湊」
「これは……………………」
「あたし、どうかしてるのかな?」
僕は何も言わなかった。
無言で彼女の体を布団に横たえた。切り裂かれた畳から、イグサの香りがじっとりと上がってくるようだった。線香に似た香りが混じっている。湿った匂いが冷たく心の臓を引っ掻いていく。
布団に、タンスに、テレビに、棚。壁に貼られた大量の映画のポスター、恋人と撮った写真。内装だけを見れば普通の部屋なのに。ズタズタに切り裂かれた傷跡がそれを邪魔する。
「ここ数週間。朝起きると、たまに壁や床が切り裂かれてるんだ。あいつがやったのかなと思ったけど、違うみたいでさ。じゃあ残るはあたししかいねえんだ」
「……………………」
「夢のつもりが現実だったりして。あたしは本当に化け物にでもなって、夜な夜な暴れてんのかなぁ」
彼女はへらへらと笑って言う。僕は切り裂かれた痕を見て黙ったままだった。
よく見れば分かる。傷は深く、あまりにも乱暴に切り裂かれている。包丁やハサミによるものじゃない。どちらかと言えばこれは、獣が爪で引っ掻いた痕に近い。
いや。実際この傷を作ったのは、獣であろう。
僕は千紗ちゃんを見下ろした。彼女は無言で僕を見上げていた。まっすぐに向けられた眼差しに、指先が痺れたように震えた。
千紗ちゃんのことを気にかけてあげてと雫ちゃんに言われたのだ。
相談に乗ると言ったのだ。
僕はこの可愛い後輩に、答えてあげなければいけなかった。
「……………………気のせいだよ」
けれど口から出たのはそんな言葉だった。
喉の震えをゆっくりと押し殺す。緊張からくる指先の冷たさは、酔いが回った今の彼女にはきっと分からない。
「夢遊病かもしれないね」
「夢遊病…………」
「夜中に包丁を振り回して遊びたがる夢遊病だ」
「最低」
千紗ちゃんは笑った。心の中に浮かぶ罪悪感を握り潰し、僕も笑った。そうして話を反らして、もうこの話題を出さないようにした。
はー、と彼女は溜息を吐く。枕に流れる彼女の金糸が、ツヤツヤと輝いていた。
「今回は悪夢を見ないといいんだけど」
「きっといい夢を見れるさ」
「添い寝してくれよ。子守歌くらい歌えるだろ?」
「駄目だよ」
「なんで?」
「間違って君にキスしてしまいそうだから」
「最低」
酔ってるだろ、と言われる。酔ってる、と返して笑う。千紗ちゃんほどではないにしろ、僕だって酒を飲んでしまっている。頭の奥にぼんやりとした酔いが溜まっていた。
千紗ちゃんは笑って、それからふと目を伏せて、それから僕を見上げた。
「……本当にしてみる?」
え、と思う間に彼女は僕の腕を引っ張った。体が布団に倒れる。驚いて目を開ければ、至近距離に千紗ちゃんの顔があった。
鼻先が触れ合った。彼女が吐く息がアルコールの香りをまとっていた。
彼女は目を潤ませてじっと僕を見つめている。熱い手の平が伸びてきて、僕の頬にひたりと触れた。そこから熱が伝わって、頬が火で炙られるような熱を持ち始めた。
ほんの少しでも身を乗り出せば簡単に彼女にキスができてしまうだろう。
僕はまっすぐに彼女の顔を見つめ、手を伸ばした。
「しないよ」
彼女の肩を押した。僕と彼女の間に距離ができる。不服そうな顔で唇を尖らせ、首を傾げた彼女に、僕は肩を竦める。
「僕達は友達だろう」
千紗ちゃんはしばし黙っていた。数秒後、その口から溢れた笑い声が沈黙を打ち破った。
怪しい雰囲気が一瞬で掻き消える。彼女は不満と愉悦の混じった顔でニタニタと笑みを浮かべ、なぁんだ、と残念そうに溜息を吐く。
「キスされたら、適当に文句つけて金取ってやろうと思ったのに」
「お……そういう魂胆だったの?」
「あたしだってお前とキスするのはごめんだよ。まず好みじゃねえし。ナヨナヨしてんのは好きじゃないんだ。門前払いっすわ。帰れ」
「友達やめたくなってきたな」
「しかしまあ、酔っぱらった可愛い女の子に手を出さないなんて。湊先輩は紳士だなぁ」
千紗ちゃんはクスクスと笑う。僕は嘆息して、彼女の背中をあやすように叩いた。もう寝なさいと宥めれば、母親かよなんて言いながらも千紗ちゃんは素直に目を閉じる。
数分もしないうちに寝息が聞こえ始めた。こうして寝顔だけを見ていれば可愛いものなのだけれど、と本当に母親か父親のようなことを考えて僕は体を起こそうとした。
けれど、千紗ちゃんの手がぐっと僕の背中を抱きしめた。ギョッと目を丸くして抜け出そうとするも、彼女の拘束は上手く剥がれない。
「千紗ちゃん?」
「……………………」
「おーい……」
昨晩のありすちゃんと同じだ。これはまずい。くれぐれも今回は寝落ちしないで早いとこ抜け出さなければ。あのお母さんが帰ってこの状況を見られたら、僕はきっと夕飯の材料になってしまう。
「おかぁさん」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、僕の思考は一瞬固まった。
その言葉を吐いたのは僕の目の前にいる女の子だ。寝言だ。何の夢を見ているのかは知らないけれど。
君は母親のことをずっと、
「……………………」
なんだか堪らない気持ちになって、僕はまた強く彼女の背中を抱きしめた。きつく目を閉じ、眉間にしわを寄せる。
彼女が母親のことを嫌っているのは確かだった。けれど、だからと言って完全に忘れられるわけがないことも確かだ。
聖母様を倒すと、宗教をぶっ壊すと、彼女は楽しそうに笑っていた。それによって自分の母親が更に狂ってしまうかもしれないと分かっていても。
君は本当にそれでいいのかい。最終的には聖母様を倒さなければならないとしても。君達の関係は、そのままでいいのか……。
そんなことを考えていたから。
僕は彼女の変化に、すぐに気付けなかった。
「っ?」
突然背中に何かが刺さる。鋭い痛みが走って僕は肩を跳ね上げた。慌てて目を開け、目の前に見えた毛皮にギクリと顔を強張らせる。
「え」
ゾリッと手の平に剛毛な毛が触れた。それは千紗ちゃんの体から生えてきた毛だった。
ゴワゴワとした毛が彼女の体を覆っていく。呆気に取られて見つめているうち、僕よりも小さな彼女の体は瞬く間に膨らんでいった。薄く開いていた唇が横に裂け、牙が映える。枕を掴んでいた指先の爪が伸びる。
突然背中のチクチクとしていた痛みが強くなった。思わず声が漏れる。おそるおそる振り返れば、鋭いカマのような爪が、僕の背中に食い込んでいた。
気が付けば。千紗ちゃんの体はすっかり怪物のものに変わってしまっていたのだ。
「ゆ。夢じゃあ、なかったね…………」
口を開けば毛がシャリシャリと舌に触れた。獣臭い味がした。
寝ぼけて変身することがあるなんて。寝相が悪いというレベルを超越している。まさかありすちゃんや雫ちゃんもこういったことがあるのだろうか。
巨大な体に抱えられた僕はちっとも身動きが取れなかった。抜け出そうとでもしてみろ。爪と牙が僕の皮膚をズタズタに引き裂いてしまうだろう。
「っ、ひ」
グルル、と千紗ちゃんが唸り、僅かに腕に力を込めた。刃物のような爪が肌をなぞり、熱が走る。背中はさっきからジクジクと鈍い熱を持っている。恐らくそこにも血が滲んでいることだ。
彼女が身動ぎ一つでもすれば、僕の命を奪うなんて簡単なことだ。
「は、っ。は。……ぅ」
目の前に怪物の顔があった。巨大な目玉が閉じられ、巨大な瞼が時折ひくりと震える。
背中に鳥肌が立つ。僕はぼうっと目の前の怪物を見つめた。肌がじっとりと汗に濡れていた。雨に降られた後みたいに。
ゴフウ、と剣山の牙の隙間から嵐のような息がふく。アルコールと煙草と、それから獣の香りが混じった、怪物の匂い。ただの香りにさえ恐怖が伴っていた。とんでもないおぞましさ。弱い精神の持ち主であれば、この息に髪の毛先を揺らされただけで失神してしまうだろう。
目の奥からじわーっと熱が込み上げた。僕の頭の中が、めちゃくちゃに溶かされていく。
まずい、なぁ。
「……………………」
思考するよりも体が動くのが先だった。
怪物の頬に手が伸びる。僕は何も考えず身を乗り出した。当然、爪と牙であっさりと皮膚が切れる。
痛いと思ったのは一瞬だった。それ以上に、さっきから激しく脈打つ心臓の方が痛くてたまらなかった。
「イエローちゃん」
そっと彼女の皮膚に唇を近付けた。毛がショリッと唇に触れる。分厚い皮膚にぺったりと鼻をくっつけた。めいっぱいに息を吸い込んでみれば、犬に似た温かい匂いがした。
鼻孔から吸い込んだ怪物のにおいがジンジンと体内を駆け巡っていく。指先が痙攣したように震えて、息が苦しくなった。
僕はぐっと首を伸ばして、怪物の瞼にキスをした。
「あっ……!」
喉から思わず声が零れる。ぐあっと体の中が熱くなって、視界に涙が滲んだ。
怪物であっても、瞼の皮膚は薄い。巨大な眼球の熱が唇に沁みた。
「はぁ」
一度じゃ足りない。僕は枷が外れたように、何度も怪物の瞼に、頬に、鼻先にキスをした。
そのたびに首筋から頭の先にかけてゾワゾワと鳥肌が立つ。全身が熱く茹る。煙草の火を押し当てられたみたいに鋭い熱が走る。
「はっ…………」
口内に溜まった唾液を飲み込む。喉からはゴキュリと、怖いくらいに大きな音が鳴った。
喉に落ちていく唾液を死ぬほど甘く感じた。きっとチョコレートを砂糖で煮詰めて悪夢みたいにハチミツをかけたって、こんなに甘い味は感じやしない……。
鼻を啜ると、喉の奥にじんわりと鉄の味がした。スンスンと泣いているみたいに鼻を啜って、僕は鼻血を必死に堪えた。
さっきから体のあちこちがチクチクする。多分怪我をしているのだろう。けれど何故だか、そんなに痛みを感じなかった。そんなものより、熱に促されるまま、怪物に触れることの方が今の僕にとっては重要だった。
どうして魔法少女を支えてくれるの? と雫ちゃんから聞かれた。
僕はそれに対して、お節介だから、と答えた。
キスをしてみるかと千紗ちゃんから誘われた。
だけど僕はそれを断った。友達だから、と。
お節介だから。友達だから。
ああ、そうだよ。その通りだ。僕は本当に心からそう思ったから答えたまでだ。
僕が魔法少女達といる理由は、世界を守りたいからだし、彼女達のことが友達として好きだから……。
だけれども。
「僕が、君達と一緒にいる、本当の理由は」
おぞましい姿。分厚い皮膚。剛毛な毛。巨大な目玉。鋭い爪と牙。
ああ。そんなもの。
最高に興奮するじゃないか……!
「君達の変身した姿を見たいから…………」
とっくに気が付いていたことだった。だけどこうして言葉にした瞬間、もうどうしようもないくらいに心臓がドクリと跳ねた。
ずっと怪物に会いたかった。子供のときからずっと、ずっと憧れていた。恋焦がれていた。
宗教を倒すことも。世界を救うことも。勿論大事だけれど。
僕が君達といる一番の理由は。僕自身の『怪物に会いたい』という夢を叶え続けるためなのだ。
「……………………」
不意に怪物の毛が波打った。かと思えばその体は徐々に小さく縮んでいく。全身に生えていた毛は薄くなり、固い皮膚は柔らかな肌色に変わり、爪と牙が収納されていく。
気が付けばもう怪物はそこにいなかった。元の彼女の姿だけがそこに残っていた。
「はは」
頬に髪の毛が張り付いている。そっと指で払ってやれば赤い汚れが彼女の頬に付いた。いつの間にか指が切れて血が流れていた。
可愛い女の子が目の前で眠っている。だというのに、僕の心はちっとも動かない。
たとえ彼女が裸であったとしても。僕はきっと、さっきのような高揚感を抱くことはない。
背中が汗でびっしょりと濡れている。お風呂に入ったばかりだというのに、今すぐシャワーを浴びたくて仕方がなかった。
「あははっ」
少しだけ大きな声で笑った。千紗ちゃんは起きなかった。
ごめんね、と彼女の瞼を指で拭う。僕の唾液だろうか。そこは少しだけ濡れていた。
千紗ちゃんはきっと僕にキスをされるなんて嫌だろう。天国の彼氏さんにも怒られてしまうかもしれない。
ごめんね、と僕はもう一度言った。どうか許してはくれないだろうか。
人間の君には、キスなんてしないから。
ありすちゃん。君と出会えてよかった。
あの流れ星はきっと、君と僕の願いを、どちらも叶えてくれたんだね。
いいよ。最後まで君の物語に付き合ってあげる。聖母様を倒して、世界を守ってやろう。
僕はお節介だから。世界を救いたいとだって本当に思っているんだ。
だからどうか、君達の雄姿を、最後まで見届けさせてくれ。
怪物に変身した君を、最後まで応援させてくれ。
「…………ああ。本当に」
僕も大概、どうかしている。
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