第23話 私達は鬲疲ウ募ー大・ウ
***
「で、どうやって助けるつもり?」
病院を出てすぐ。僕達は曲がり角からひょっこり顔を出して、目と鼻の先に建つ銀行を見つめた。
銀行は既にたくさんの人だかりで囲われていた。何台ものパトカーと警察に、カメラを構える新聞記者。ニュースを見てやってきたのであろう野次馬達。時間がたつにつれ、人の数は多くなるに違いない。
一階建ての銀行支店だ。正面入り口は内側からシャッターが下ろされており、中の様子が分からない。裏口も当然封鎖されているはずだ。
ありすちゃんはこくりと頷いた。鮮やかな桃色の髪を揺らし、当たり前のように正面入り口に向かって駆け出そうとする。僕はすぐにその腕を引っ張って、曲がり角へと連れ戻した。
「まさか正面から突っ込むとか言わないよな」
「それ以外に方法があって?」
「警察に止められて終わりだよ」
僕は溜息を吐いた。けれど内心、彼女がノープランであることは分かっていた。
人一倍の行動力があることは認めよう。彼女がいなければ、僕達は動き出すことさえできなかった。けれど問題はその先なのだ。
「中の状況も分かってないんだ。正面から下手に突っ込んで、強盗を刺激したらどうする。人質がいることを忘れないでくれ」
「じゃあ、どうすればいいかしら?」
「それは…………」
「なんだい湊くん。君も考えていないんじゃないか」
そうは言っても、ノープランであるのは僕も同じだった。
そりゃそうだ。銀行強盗を倒そう! と目論んだところで、さて、どうする。
どこから侵入する? この衆人環視の中でどうやって建物に近付く? 中に入ったところで人質を助ける方法は? 銃を持った相手に丸腰でどうやって戦う? 人質の数は? 作戦は?
問題ばかりが提示されて、答えは一つも出てこない。やはり無理に手を出さず警察に全てを任せるのが一番賢いのだろうか。いいや、そうだとしてもありすちゃん達が納得して引き下がるとは思えない。それに警察の様子を見る限り、彼らもしばらくは様子見するばかりで動くことはできないだろう……。
「ん?」
考え込みながらふと横を見た僕は、おや、と顎を引いた。
ありすちゃんと千紗ちゃんの顔に不安なんて一切浮かんでいなかったからだ。
「湊先輩、緊張しているの?」
「そりゃあ、まあ」
「そんなに不安にならなくても大丈夫よ」
「君は肝が据わっているね」
「だって私達は魔法少女なんだから」
「……………………そうだね」
強いありすちゃんの言葉が、ぐっと僕の胸を押した。思わず笑ってしまってから、僕は、心に張っていた緊張の糸が僅かに緩むのを感じた。
そうだ。僕達がここに来たのは、何も無謀な正義感からじゃない。
力があるからだ。魔法少女という、この状況を打破できる、確実な力を持っているから、僕達はここに来たのだ。
大丈夫だ。
魔法少女がいれば、大丈夫。
唯一不安そうな顔をしていた雨海さんと顔を見合わせて、僕達はほっと表情を緩めて頷き合った。
普段ふわふわと甘いありすちゃんの言葉が、今はとても頼もしく聞こえた。
「とにかくまずは、建物に近付く方法を探さないと」
「警察に止められることなく、か」
千紗ちゃんが鼻を鳴らす。ツンと立った鼻先が陽光に白く光った。
彼女は何かを考えるようにまつ毛を伏せた。ぅるる、と喉が小さく唸る。人間の姿であってもそれは獣の鳴き声に似ていた。
「入るのを邪魔する奴ら、全員追っ払っちまえばいいんだ」
「それができれば嬉しいけれど」
「できるさ。一人が追っ払って、その間に残ってる奴らが裏口から入ればいい」
「どうやって?」
「変身」
千紗ちゃんの体が黄色い光に包まれた。あっ、と声をあげるよりも早く、その光は曲がり角を飛び出して人だかりへと向かっていく。
素早く、高速に、スピーディーに、爆速に。一瞬で地を駆けた光は人だかりの中へ飛び込んだ。走っているうちに光は大きく膨らみ、巨大な獣を形作っていく。
「ゴオ」
黄色い光が周囲にはじけ飛んだ。ゴワついた剛毛な毛が激しく震え、鋭い鳴き声が爆発する。『魔法少女イエロー』に変身した千紗ちゃんの、巨大な体が人だかりの中心に立っていた。
場は一瞬静まり返った。そして、一瞬でパニックになった。つんざくような悲鳴が幾度と上がる。人々は蜘蛛の子を散らすように、わっと怪物から逃げ出した。
記者がカメラを放り出す。警察が腰を抜かして座り込む。辛うじて正気を保っている者達だけがカメラを向け、拳銃を向ける。けれど千紗ちゃんは首を振って器用に銃の先端に噛み付いた。目と鼻の先で銃身がチョコレートみたいに簡単に砕ける様を目にした警察は、白目を剥いて気絶した。ガロロ、と彼女の喉から岩を転がすような唸り声が落ちる。
「今だっ!」
唖然と千紗ちゃんを見つめていた僕は、ハッとして曲がり角から飛び出した。
銀行に集中していた人々の視線はとうに怪物に注がれている。走る僕を慌ててありすちゃんと雨海さんが追いかけた。逃げる人込みを掻き分け、立ち入り禁止のテープを飛び越える。僕達を止める声はどこからも聞こえてこない。
裏口に回っても誰もいなかった。見張っていた人達も逃げたらしい。しかし当然頑丈そうな扉には鍵がかかっている。ナンバーキーだ。しかし当然誰も、暗証番号など分かるわけがない。
「任せて」
前に出たのはありすちゃんだった。意外にも、鍵開けの技術があるのだろうか、などと僕は雨海さんと顔を見合わせて瞬きをする。
ありすちゃんは自信たっぷりに胸を張り、ドアノブに手をかけた。
「変身!」
「えっ」
ありすちゃんの片腕がずるりと溶けた。僕が目を見開く前で、その片腕はみるみるうちに形を変え、一本の太い触手へと変わる。ありすちゃんの自信に満ちた顔は変わらない。きっと今の彼女には、その腕が可憐な魔法少女の腕に見えているのだろう。
片腕だけを変身させたありすちゃんは、その触手をドアノブに巻き付かせた。力を入れると筋肉の筋らしき部分がボコリと膨れ上がり、粘ついた粘液がボコボコと泡を立てる。金属が溶ける、嫌な臭いの湯気があがった。
バキン、と音がしてドアノブが無理矢理回った。ありすちゃんは扉を開け、ピーピーと警告音を発するナンバーキーを握り潰して、人間に戻した手からパラパラと機械の破片を捨てる。
「いかがかしら?」
「……流石、魔法少女様」
何はともあれ入口は開いた。扉の先をそっと覗いてみるも、見えるのは誰もいない廊下だけだった。
短い廊下の先を曲がれば、そこはもうロビーだった。人影が見え、僕達は柱の陰に身を隠す。
床に直接人質達が座っていた。ざっと見たところ、二十人程度だろうか。一様に青い顔をして座り込む彼らの中には、高齢者や赤ちゃんの姿も見える。
二人の人間だけが立っていた。
「お前ら、静かにしてろよ。動くんじゃないぞ」
「金はまだかよ。早く用意しろってんだよ、おい!」
本当にこういうときは目出し帽を被るものなんだな、と場違いな考えが脳裏によぎる。
目出し帽を被った犯人らしき男が二人いる。一人は銃を、一人はナイフを構え、人質に変な動きがないか見張っているようだった。
銀行員の若い男性が一人、お金をバッグに詰めている。けれど大量の札束を機械から出金するのには時間がかかるのだろう。何度も急かされては、泣きながら謝っている。
「外は何の騒ぎなんだよ。急にギャーギャー喚いててよ。知ってる奴ぁいねえのか!」
外からはいまだ獣の声と悲鳴が聞こえてくる。強盗達は武器を振り回して吠えた。人質は何も答えず、ただ恐怖に縮こまるばかりだ。強盗の恐怖と外から聞こえる悲鳴、その二つに挟まれて顔色はどんどん悪くなっていく。
怒声をあげる強盗達も予想外の喧騒に焦っていた。武器を持つ手が恐怖と緊張に震えている。誰かが下手に動けば、その瞬間引き金が引かれてしまうかもしれない。
ごくりと唾を飲めば、思っていたよりずっと喉が渇いていることに気が付く。汗腺が開き、背中に汗が滲んでいるのを感じた。
銃を見る機会など、強盗に出会う機会など、そうそうない。テレビや映画で見るのとは違う。頭で想像するのと現実に遭遇するのとでは訳が違う。
皮膚の内側がカッカと熱く燃えていた。指先だけが、氷のように冷たく凍えている。
しかしそのとき、人質の中にいた子供と目が合った。母親にしがみついて、顔を真っ赤にして泣いている少年達だった。
彼らはさっき、チャンバラをして遊んでいたあの子供達だった。
「あっ!」
まずい!
咄嗟に顔を引っ込めるも、手遅れだった。
強盗が何だ、と声を荒げ子供達に詰め寄る声が聞こえる。子供達は慌てて何でもないと否定をしたけれど、強盗達が許すわけがない。何かを殴る音と子供の悲鳴が聞こえた。それに重なる母親の悲鳴が一番大きく響く。
「すみません! うちの子が、すみません! 許して!」
「何だって聞いてんだよ!」
「すみません!すみません! すみまっ」
パン、と一発の銃声が鳴って、悲痛な懇願が途切れた。お母さん、と子供の声が鋭く胸を貫いた。
心臓が凍り付く。思わず開いた口を咄嗟に手で覆って、悲鳴を飲み込む。
「次騒いだら、今度は肩じゃなくて頭ぶちぬくぞ! 黙ってろ!」
撃ちやがった!
あいつら、撃ちやがった!
子供達の泣き叫ぶ声に混じって、かすかに母親の呻き声が聞こえる。幸い、致命傷にはならなかったらしい。けれど、泣く子供達を宥めるほどの力は残っていないようだった。
ドッドッと心臓が恐怖と怒りに叫んだ。奥歯を噛み締め、膨らんでいく怒りに拳を握る。
凄まじい怒りが脳を焼く。口を開けば、熱い炎が噴き出すんじゃないかと思うほどに喉が熱い。
畜生、と僕は怒りに目を吊り上げて顔を上げた。そして、ギクリとその動きを止める。
僕以上に凄まじい形相の雨海さんがそこにいたからだった。
「変身…………!」
彼女は小さく、けれど力強い声で言った。
ボウと僅かに彼女の体が青く光った。塩辛い海のにおいが広がった。
づぷ、と膜が割れるような音がして、彼女の体が溶け落ちた。
ドロリとした柔いスライムのようなそれが別の形を作り出す。青黒い触手が何本も生まれ、巨大な球体がぶるぶると震えながら膨らんでいく。球体の表面にパックリと幾筋かの線が引かれたかと思うと、それが開き、中から巨大な目玉がギョロリと現れた。
青い怪物に変身した雨海さんは粘液をじゅるじゅると這わせながら壁に触手を這わせた。吸盤のようになった凹凸が壁にくっつき、彼女の体は難なく壁を上っていく。
彼女が巨大な頭をぺったりと体にくっ付けれれば、体はせんべいのように潰れる。そのまま天井へと移動した彼女は、上空から強盗達へ近付いていく。
天井に張り付いた彼女は意外にも誰にも気が付かれなかった。顔を上げれば大きな黒いスライムのようなそれに驚くだろうけれど、案外、誰も天井へ視線を向けてはいないのだ。
「おっ、お金っ! 準備できましたっ」
ようやく出金が終わったらしい。強盗がバッグを引っ手繰る音が聞こえる。これからあいつらはどうするというんだ? 金を持って逃げるのか。となると、人質はどうする気だ。
僕は状況を見ようともう少しだけ壁から身を乗り出した。そして、目の前に立っていた強盗を見て固まった
「がはっ!」
腹を思いっきり蹴り上げられる。隣で悲鳴をあげたありすちゃんの髪を、強盗の男が掴んで引っ張る。
「キャー! やめて、髪の毛が千切れちゃう!」
「こんな所にも隠れてやがったのか!」
男はもう片方の手で僕の足首を掴み、同じく引っ張ろうとする。抵抗しようと暴れると、また腹を蹴られた。それでも必死で近くの観葉植物や消火器に指を引っ掻け、抵抗する。
と、人質を見張ったままだった銃を持つ男が銃口を僕達に向けた。引きつった呼気が喉から零れる。冷たい弾丸が肉を裂く未来を想像して、背筋が粟立つ。
ダプン。と重い触手が男の上半身を飲み込んだのはそのときだった。
「謦?◆縺ェ縺?〒!」
「ギャアアッ!」
天井から降ってきた雨海さんが男に直撃した。粘液を絡めたぶよぶよの触手が男の体を飲み込み、銃ごとその腕を絡み取った。
悲鳴をあげたのは男じゃない。突如降ってきた怪物を目にした人質達の方だった。
「縺ソ繧薙↑繧定ァ」謾セ縺励※!」
雨海さんが人質に何かを言って、床に触手を打ち付けた。逃げろと言っているのだろう。
言葉は通じずとも、彼らは一目散にシャッターが下りている出口に駆け出した。シャッターを拳で叩き、素手で持ち上げようとする。銀行員の一人が震える手で鍵を取り出しシャッターを上げようとした。
けれどボタンが押される前に、銃声が響いた。
「縺阪c縺ゅ≠縺!」
青い肉片が飛び散った。一本の触手の先端が欠け、ぶるぶると痛みに震えている。
銃を持っていた男が引き金を引いたのだ。至近距離から放たれた弾丸は雨海さんの触手を裂き、びちゃりと水っぽい肉を飛ばした。
「やめろ!」
「動くなっつってんだろぉ!」
男は銃を振り回した。激高しているし、パニックになっている。
彼はそのまま、また銃口を逃げる人質達に向け、引き金を引こうとした。
「繧上≠縺ゅ≠縺ゅ▲」
巨大な声が震えた。
雨海さんが体を大きく膨らませて、人質と男の間にバリケードを作ったのだ。
銃弾が彼女の体を撃つ。凄まじい悲鳴が空気を震わせた。
「うわあああっ!」
僕は思わず絶叫した。目の前で知っている人間が撃たれたという事実に、気が遠くなる。
しかし。直後続いた光景に僕は更に目を見開いた。
雨海さんの体からはドロドロとした青い血のようなものが流れていた。血で真っ青な傷口の肉が僅かに盛り上がったかと思うと、ボコボコと新たな肉を生み出して傷口を塞ぐ。千切れた触手もズルリと粘液を散らして新たな触手が生えてきた。流れていた血が止まる。こびりついていた血は皮膚を覆う粘液に洗い流される。
雨海さんの体が再生した。
唖然とそれを見つめていた僕は、ハッと我に返り、思い切って上体を跳ね上げた。
「だっ!」
ポカンと口を開けて雨海さんを見ていたナイフの男に、僕は思いっきり消火器を叩きつけた。
後頭部に重い一撃を食らった男は悲鳴をあげて倒れこむ。銃を持っていた男がギョッと目を剥いてこちらに銃を向けようとしたが、既に僕は消火器の安全ピンを抜いていた。
激しく噴出した薬剤が強盗に直撃する。咳き込む彼の姿はあっという間に白い煙に隠れて見えなくなった。
また火事に遭遇したら大変だから、と病室で消火器の使い方を調べておいてよかった。まさかこんな場面で使うことになるとは思わなかったけれど。
白い煙はどんどん広がって辺りを濃霧のように染めていった。強盗達も、人質達の姿も、おぼろげな影のようになって分からなくなる。そのとき、ガラガラと重い機械音が聞こえた。
「さあ皆。こっちだ!」
濃霧の中で声がした。チョコの声だ。ガラガラという音はきっと、シャッターが開いた音だろう。人質達がパニックになりながらも逃げていく足音が聞こえる。
強盗達が怒鳴りながらまた銃を構える気配がした。けれど同時に、煙の中から飛び出してきた青い触手が男達の前に立ちはだかる。
「縺?≦縺?≦ゥゥッ」
煙をまとって飛び出してきた雨海さんの体に銃弾が当たる。彼女は啜り泣き、銃弾が肌をかすめるたびに、大声で絶叫していた。
けれど、彼女は決して逃げることはなかった。大きな目からボロボロと涙を流しながらも、その場から一歩も動くことはない。
守っているのだ。逃げていく人質達を。
雨海さんが飛び出した際に、煙が僅かに晴れた。最後の人質であるあの母親が子供達に腕を引かれてふらふらと逃げていくところが見えた。
強盗がそれに気が付き、母親を狙う。雨海さんはもう一人の男に気を取られていて、反応が遅れた。
「うおお!」
雄叫びをあげて、銃を持つ男に飛びついた。バン、と撃たれた弾丸は僕の頬を掠め、天井へと消えていく。
恐怖がビリビリと背中を震わせた。子供達が銃声に振り返る。
「走れ!」
けれど僕が叫ぶと、彼らは怯えた顔で逃げ出した。
僕は倒れた男の上に馬乗りになり、人質に向けられようとしている銃を力尽くで押し返した。顔中に汗を滲ませ、血走った目で男を睨む。
僕は人間だ。彼女達のような力はない。
だから何だってんだ。
人間だからこそ、できることがある。人質を銃弾から守ることはできなくても、逃げろと叫ぶことや、手助けをすることはできる。状況を見れる。指示を出せる。
僕は僕にできることを、全力でやってやる。
「シャッターを閉めろ!」
僕はチョコに叫んだ。ガラガラとゆっくり下りていったシャッターは、中に残る僕達と外部を遮断した。
煙は徐々に薄くなり、もうほとんど意味を成さない。白くなった顔を腕で拭った強盗達は、残っている僕達を見て不思議そうに目を丸くした。
僕は無言で彼らを睨みつける。隣では変身を解いた雨海さんが、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔で僕の腕にしがみついていた。
「……怪物は?」
「外に行きましたよ」
「逃げ遅れたんかお前達」
はは、と強盗達は乾いた声で笑った。外には怪物、けれど中には強盗。どちらに逃げたとしても恐怖であることには変わりない。
僕はごくりと唾を飲み、緊張に滲んだ頬の汗を拭った。込み上げる恐怖を噛み殺して、無理矢理笑みを浮かべる。
「逃げ遅れたんじゃない、残ったのさ。人目があると彼女達は思いきり戦えない」
「はぁ?」
「お金、返してくれますよね?」
「正義のヒーロー気取りか」
「ええそうよ」
男達が慌てて振り返り、そこに立っているありすちゃんを見て眉根を寄せた。
甘いピンク色の髪と、宝石のごとく爛々ときらめく瞳は、この場の緊張にはあまりにも不釣り合いだった。
強盗はよくないわ、と呑気な声で言う彼女には何の緊張感もない。醸し出す雰囲気はどこまでもふんわりとしていて、強盗達を止める驚異的な存在には見えなかった。
「せっかく奪った金を返すかよ」
強盗達は言って、武器をこちらに向けてきた。雨海さんが悲鳴をあげて僕の腕を強く掴む。
忠告はした。彼らが反省してくれるわけはなかった。
これは最後の警告だった。
僕は
「
「うふふ。螟芽コォ」
ありすちゃんの体がまばゆい光に包まれた。その光の中から、大量の触手が飛び出す。
目を見開いた男達の体を、触手が強烈に殴りつける。悲鳴をあげて飛んで行った男達は壁にぶつかってその場に崩れ落ちた。
「謔ェ縺輔r縺励※縺ッ繝?繝。繧」
雨海さんが僕の腕を掴む力が強くなった。彼女は大きく目を見開いて、魔法少女ピンクの姿を凝視している。
恐怖する彼女の瞳に、黒くうねる触手が映っていた。
「あ。っ、……ひ」
焼けたゴムと、生臭い血の香りを混ぜて、甘い砂糖をかけたような。胸がムカムカする異様な臭いが周囲に広がる。
大量の触手が蠢き、粘液を光らせる。びっしりと生えた牙から涎が落ち、床を溶かす。
巨大に膨らんだ体に血管が浮かび、ドクン、ドクンと心臓の鼓動に合わせて血を巡らせていた。
ぶわーっ、と体中の毛穴が開き、僕の心臓は捻り潰された。
「あっ…………あ。あ…………」
雨海さんが口をぽかんと開けたまま、見開いた目から涙をボロボロと零した。腕にくっついた彼女の胸から心臓の鼓動が聞こえる。トクン、トクン、と小さかった鼓動は一瞬凍り付いた後、ドンドンドン、と爆発した太鼓のような音を奏でる。
恐怖に燃える汗が僕の顔を濡らす。息をすることさえも許されない気がして、はふはふと犬みたいに浅く小さな呼吸を繰り返した。
「謔ェ縺莠コ驕斐」
ありすちゃんが何かを言って、強盗達に触手を伸ばす。
彼らは悲鳴をあげて彼女を攻撃した。銃を撃ち、ナイフでめちゃくちゃに体を刺す。けれど弾丸は分厚い皮膚に僅かな傷をつけただけで床に転がる。ナイフも、皮膚を薄く裂くばかりで、それ以上刺さらない。
緩慢に触手が伸びて男達を掴んだ。彼らは、その場から一歩も動けず、すっかり青ざめた顔で呆気なく持ち上げられた。
「諛イ繧峨@繧√■繧?≧繧上h」
ありすちゃんが何かを言って、ガパリと口を開いた。男達は食われると思ったようで悲鳴をあげた。
けれど、彼らは彼女の口の中に落ちることはなかった。
代わりに、彼女の口が、ぼんやりと青く光り出した。
「あ」
僕と雨海さんはその光景を見て、揃って声をあげた。
僕達は知っていた。あの怪物の口が光った後に、どうなるのかを。
はじめて怪物が現れた、あの日の記憶がよみがえる。
僕はこのとき、魔法少女達の大きな違いに気が付いた、
魔法少女ブルーも、イエローも、怪物であれど人を殺すことはない。
それは彼女達が現実を見ているからだ。その力を人に向けては危ないと、殺したらいけないと、そんな常識を知っているからだ。
だけど魔法少女ピンクだけは違う。
ピンクは、既に何人もの人達を殺している。
何故なら彼女だけは現実が見えていないから。
自分の力が人を殺すものなのだと、分からないから。
「縺薙l縺碁ュ疲ウ募ー大・ウ」
「ありすちゃん……駄目だ。……駄目だ!」
僕の言葉など、魔法少女ピンクには届かない。
「遘√′」
「やめろ!」
「荳也阜繧呈舞縺」縺ヲ縺ゅ£繧!」
青い閃光が走った。
彼女が放ったビームは触手ごと強盗二人を消した。
一瞬で。
骨も、塵も、何も残さず。存在全てを一瞬で消した。
「ガッ」
強烈な熱が眼球を焼き、激しい痛みが走る。
ビームで貫かれた天井が崩壊し、大量の瓦礫が僕達めがけて降ってきた。
慌てて雨海さんに覆いかぶさる。瓦礫や砂粒が体中を叩いて、もう何も分からなくなった。
「遘√?鬲疲ウ募ー大・ウ繝斐Φ繧ッ縺ェ繧薙□縺九i!」
僕達の絶叫も、外から聞こえてくる悲鳴も、怪物の咆哮がすり潰す。
たった数秒が、僕にとっては永遠だった。
ジクジクと痛む目から大粒の涙を零し、僕はゆっくりと顔を上げる。瓦礫が背中から滑り落ちて、体中にようやく痛みが滲みだす。けれど体の痛み以上に、酷い鼓動を繰り返した心臓が一番酷い痛みだった。
「…………ああ」
最初に見えたのは広い青空だった。
雲がどこにもない。衝撃波が雲を吹き飛ばしたのだ。どこまでも広く、澄み切った青空が目に眩しかった。
その空の下。瓦礫の中に、一人の女の子が立っている。ぬいぐるみを抱きしめた女の子だ。
青空を仰いでいた彼女は、パッとこちらに振り返る。
ピンク色の髪が光に透けて、綺麗だった。
「ありすちゃん」
僕が彼女の名前を呼ぶと、ありすちゃんは、嬉しそうに微笑んだ。
彼女の顔は人間に戻っていたけれど。
僕はしばらく、彼女が人間であるのか、判断ができなかった。
「湊先輩、空を見て」
「うん」
「なんて綺麗な空かしら」
「うん」
「まるで、私達の始まりの祝福ね……」
「うん」
「ところで、あの強盗さん達は?」
君が殺したんだ。
「皆にごめんなさいをしに行ったのかしら?」
「そうだよ」
よかった、とありすちゃんは胸を撫でおろして笑った。僕も笑った。
上空から音がした。上を見上げた僕は、ぽっかりと開いた天井から降ってくる千紗ちゃんの姿を見た。
彼女は瓦礫に着地すると変身を解く。ぞわりと波打つ獣毛は瞬きの一瞬で人間の皮膚に戻り、鋭い犬歯は人間の歯に戻る。
彼女は瓦礫の上に横たわって気絶している雨海さんの腕を引っ張って、乱暴に頬を叩きながら僕達を見た。
「終わった? なら早く逃げようぜ。さっきの光のせいで、流石に警察もこっち来ちまう」
「そうね。今日は疲れちゃったわ。早く帰りましょう」
「ってかあの光なに? 魔法? キラキラして……すっげーじゃん」
「うふふ。いいわよ、教えてあげる! あれはねぇ」
「おう」
「えいっ! って頑張ったら、撃てる必殺技なの」
「は? クソかよ」
行くぞ、と千紗ちゃんは溜息を吐いて、いまだふらつく雨海さんを引っ張って歩き出す。
銀行強盗が落としたバッグがそのままだった。端が破け、そこからひらひらと札束が揺れている。千紗ちゃんは気が付いていなかった。言わない方がいいだろう。
指紋を調べれば強盗の正体が分かるかもしれない。けれど分かったところで、彼らを捕まえることは、絶対にできない。だってもうどこにもいないから。
「湊先輩も行きましょう」
「あ」
ありすちゃんの手が僕の手を掴んだ。
一瞬僕の手は強張った。
彼女の手はあたたかくて、柔らかくて。さっきまで目の前にいた怪物と同じ人間だとは、ちっとも思えなかった。
「ありすちゃん」
「なぁに?」
喉元まで、言葉が出かかった。
けれど振り返った彼女の顔が、あまりにも、幸せそうにとろけていたものだから。
僕は自分が何を言いたかったのかも分からなくなってしまった。
「何でもないよ」
結局僕は、黙って彼女の手を握り返した。
「ねえ湊先輩」
「何だい」
「皆を助けることができて、本当によかったわね」
「…………うん」
世界を守りたかった女の子が。世界を壊す物語。
壊れた魔法少女の一歩目を、僕達は今日、踏み出してしまった。
まあ最初から、立ち止まる選択肢なんて存在してはいなかったけれど。
***
「夢を見ている気がするの」
私はチョコを抱えて帰り道を歩いていた。
日はすっかり沈んでいる。暗い道路を、路車のライトが白く照らして、綺麗だった。
帰り道を行く足取りはいつもより僅かに遅い。全身を包む高揚感が、いまだに体をとろけさせていたから。
この高揚が冷めないでほしい。今はまだ、この幸せに浸っていたい……。
「夢?」
「魔法少女になって、こうして悪い人達をやっつけて……。ずっと憧れていた願いが叶ったの。なんだか、これが現実だっていまだに信じられないときがある。夢を見ているみたいだわ」
「何度か同じようなことを聞いた気がするよ。君は本当に、魔法少女に変身できたことが嬉しいんだねぇ」
「勿論よ!」
パトカーがサイレンを鳴らして通り過ぎていく。それを見送って、今度は電車が踏切を通るのを待つ。電車が通り過ぎたのを確認して、踏切を渡る。
今日のありすちゃんはとってもかっこよかったよ、とチョコが言ってくれた。私は嬉しくて、チョコを強く抱きしめる。
「もっと魔法が使えるようになれば嬉しいのだけれど。空を飛ぶ魔法はないの?」
「開発中かな」
「じゃあ、綺麗なお花を咲かせる魔法は?」
「開発中かな」
「火を吐く魔法は?」
「現在進行形で開発中かな」
「なによ!」
「色んな魔法が使えなくても、君はとっても強いもの。これからもどんどん力をつけて頑張ってくれ」
「そうね。どんな敵が相手でも、全員やっつけちゃうんだから」
「うふふ。流石、魔法少女」
「私は魔法少女になんかなれていないのにね」
私は足を止めた。数秒間黙って、ゆっくり周囲を見回した。近くには誰もいない。
カンカンカンと踏切の音がする。私は小さく溜息を吐いて、チョコに聞いた。
「私今、何か言った?」
「なんにも?」
また溜息を吐く。喉の奥から、ぐちゃり、と妙な音が聞こえた気がした。驚いて口の中に手を突っ込んでみる。けれど柔らかい舌の感触がするだけで、妙なものは何もなかった。
「ありすちゃん」
「ふぁに?」
「電車が来るよ」
横を向けば、急行電車がまっすぐこちらに向かってくる。私はもう一度周囲を見回して、自分が踏切の中にいることを知った。
まあ大変、と慌てて踏切をくぐる。直後その後ろを電車が通り過ぎて行った。
危なかった、と一息ついたところでお腹が鳴った。湊先輩のお見舞いに行ってから随分時間がたっている。もうとっくに夕飯の時間だった。
「今日はカレーなの。ママが作るカレーは、世界一おいしいのよ」
大好物のカレーを思い、私は舌なめずりをする。またお腹が鳴った。早く帰って、家族でご飯を食べたいわ。
晩御飯に思いを馳せれば、さっきの違和感はすぐに消えた。きっと何かの気のせいよ。お腹が減っておかしな幻聴を聞いたのだわ。
私が魔法少女になれていないだなんて。
そんなわけ、ないんだから。
『東京都、楽土町』
『数ヵ月前までは平和だった街は今、ニュースで見ない日はないほどの悲しい街となってしまいました』
『楽土町に現れる「怪物」。これは一体どんな生き物なのか。現在も調査中であり、詳細は不明のままです』
『また、比例するかのように、楽土町内での事件が多発しております。誘拐、銀行強盗……放火や傷害事件も発生しています』
『昨年と比べ既に事件の発生率は二倍近いものとなっていますね』
『本日は専門家の皆様をお呼びして、楽土町の現状を明らかにしていきたいと思います』
『一体。この楽土町で、何が起こっているのでしょうか』
『ところで、最初に一つ、私からもご質問を』
『あなたは神を信じますか?』
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