君と紡ぐ夏の夜
蓮水千夜
君と紡ぐ夏の夜 上
淡く美しい髪を一つにまとめたその人は、まるでそこだけが別世界かのように美しく
「すまないっ! 遅れたっ!」
息を切らしながら叫んだ瞬間、その人が振り返る。
「やあ、毛野。待っていたよ」
やっぱり、この人の美しさには何年経っても敵わないような気がした。
◇◆◇◉◇◆◇
事の発端は、いつも通り師匠に稽古をつけてもらっているときだった。
「じゃあ、今日はこのくらいにしましょうか」
「へっ? 珍しいな、師匠がこんな早くに稽古を終わらせるなんて……」
「ふふっ♪ 知っている毛野? 今日はこの近くの神社で夏祭りがあるの! どうしても一度行ってみたくて……」
「へぇ、じゃあ行って来れば?」
何気なく口にした言葉に、師匠が途端に不機嫌になる。
「もうっ! 私は毛野と一緒に行きたいって言っているのよ!」
「……俺と?」
「……そうだよ」
その瞬間、師匠の空気が変わったのが分かった。
師匠の白すぎる美しい手がそっと、毛野の頬を撫でる。
「今夜は、男の僕と一緒に行ってほしいんだ」
「っ……、男の……?」
「そう。毛野も男の恰好で来てね? あっ、もちろん浴衣だよ?」
「何で……」
そう聞いた途端、野暮な質問だったと気づく。きっと、ただ単に今日の師匠はそういう気分だったというだけだろう。けれど、この無粋な質問に師匠はもっともらしいことを言って返した。
「だって、今人気の
「人気、ねぇ……」
『旦開野』とは毛野が女役として舞台に立つときの名だ。無論、師匠の『春円』と言う名も本名ではない。
春円はまるで自分より毛野の方が人気かのように言うが、実際毛野はまだまだ駆け出しだ。春円の人気には遠く及ばないというのに。
生まれながらに整った美しい顔に、白すぎる肌。輝くような淡い色の髪は、腰まで伸びていてその姿だけを見れば彼が男だと思う人は少ないだろう。
性別を超越したその姿はさながら人とは思えないような独特な妖しさと危うさを秘めている気がして、自分が敵う相手ではないのだと、何度思い知らされたか分からない。
◇◆◇◉◇◆◇
「毛野? どうしたの?」
春円に声を掛けられて、その瞬間、我に返った。
「いや、師匠の美しさに見とれていただけだよ」
「ふふっ。君は相変わらず口が上手いね。でも、そう言ってもらえるのはやっぱり嬉しいな」
春円の微笑む顔は相変わらず美しい。でも、何よりすごいと思うのはその雰囲気だ。今はどんなに美しくとも間違いなく男だと感じるし、普段はその逆で女にしか見えない。その見事な切り替えには、ただただ感嘆するしかない。
「毛野も、浴衣とても似合っているよ。僕が浴衣で来てほしいなんて言ったから、散々探し回ってくれたんだろう?」
「なっ、何で……⁉」
その通りだ。春円が急に浴衣で来いなどと言うものだから、慌てて
「僕は、毛野のことなら何でも分かるよ?」
「何だそれ、ちょっと気持ち悪いぞ……」
「えぇ? ひどいなぁ」
そんな軽口を叩きながら、毛野は春円と人々で賑わう屋台を見て回った。
◇◆◇◉◇◆◇
「それ、美味しそうだね? 僕にもちょうだい?」
ひとしきり屋台を回り終わった後、毛野と春円は人気の少ない林道に来ていた。屋台で食べ物をたくさん買ったのはいいものの、人が多すぎてゆっくり食べられないと判断したからだ。
「……だから、いい加減自分で食べろよ……」
「嫌だ。君に食べさせてもらいたいな」
そう言って、口を開けて待つ様はまるで雛鳥のようだ。
「ったく、子どもじゃないんだから……」
半ば呆れて苦笑しながらも、春円の口に食べ物を放り込む。全く、どうにもこうにも一度言い出したことは曲げないのだから、困った性格だ。
「んん~っ! これもおいひいね!」
「分かったから、全部食べてしまってから話せっ!」
行儀の悪い師匠を思わず、親のように叱りつけていると、食べ終わった春円がふっと微笑んだ。
「……良かった。大分元気が出てきたみたいだね」
「……へっ?」
春円が聞こえるか聞こえないかくらいのか
「お祭り、楽しいねっ♪」
「あ、あぁ。まぁ、な……」
そう言われれば、最初は嫌々だったけれど大分楽しんでいた気がする。こんな風に、無邪気に楽しんだのはいつ振りだろう。
そして――、
「……気づいて、いたのか」
自分が落ち込んでいたということに。
「うん……。元気なさそうだなって思って、ずっと心配だった。……だから、今日は君の笑顔が見れて嬉しいよ」
「っ……!」
そう言って、屈託なく笑う春円に思わず心臓が跳ねる。
「ばっ、馬鹿じゃないのか! そんなことのために俺を誘ったのかよっ」
――馬鹿は俺の方だ。師匠にまで、気づかれて、心配させて。
「そんなこと、じゃないよ。僕にとってはすごく大事なことだ。……僕は、君には笑っていてほしいから」
「し、しょ……」
春円は優しく毛野の頬を撫でると、そのまま毛野を思いっきり引き寄せた。
「んんっ……!」
「んっ……。毛野……」
突然の息苦しさと、唇の熱さに自分が口づけられているのだと気づく。
「ちょ、待って……! ふっ、んぁっ……! し、師匠っ!」
「毛野っ! 毛野……っ!」
必死に抵抗しようとするものの、強い力で抑えられ、なかなかその腕を振りほどけない。
――どうして、こんな急に……。
春円とこのように触れ合うのは決して初めてではない。だから、いつも余裕のある春円がこんなに急性に自分のことを求めてくるなんて、信じられなかった。
「毛野……」
息を切らしながら、春円が熱い瞳で毛野を見つめる。
「し、しょう……」
毛野も同じように息を切らしながら春円を見つめた。唐突に始まり、唐突に終わった口づけの熱に体が支配され、何も考えられなくなりそうだ。
「好きだよ……」
「えっ……?」
突然聞こえてきた告白に一瞬、耳を疑う。
「毛野、君が好きだ」
「師匠? どうしてそんな急に……?」
春円が自分のことを好いていることくらい、毛野には分かっている。けれど、こんな風に、真っ直ぐに、毛野の目を見てはっきり告白してくれたのは、初めてだった。
「ごめんね。何でだろう……。今すごく、言いたくなったんだ」
そう言った春円の顔は、何故だか今にも泣きそうで――。
「し……」
「君が僕を選んでくれないことくらい、分かっているよ。僕は、どんなに取り繕ったって結局は男だから……。君と結ばれることなんて、決してない」
春円が
「それでも……。それでも、僕は……。僕が初めて好きになったのは君だけだから……。初めてなんだ、こんな気持ち……。僕には誰かを好きになる資格なんてずっとないと思っていたのにね……」
あの綺麗な横顔から、美しい雫が
「初めて好きになった君だから、いつもでも笑っていられるようにしてあげたいんだ。きっと僕にできるのはそれぐらいだろうから……」
春円の手が毛野の浴衣をぎゅっと掴んだ。
「だけど……、きっと、僕じゃ本当の意味で君のことを笑顔にすることなんてできないから……。君の心を、本当の意味で晴らすことができる人物は僕じゃないって、分かってる。でも、それでも、それが僕であったらどんなにいいかって……!」
そう、叫びながら毛野の顔を見つめる春円の顔が涙で溢れて――、
「……好き。好きなんだ。君のことがどうしようもなく、好きっ……!」
「ッ……‼」
気か付けば、毛野は春円を思いっきり抱きしめていた。
「‼ ……ッ、毛野っ⁉」
――抱きしめずには、いられなかった。誰が、誰がこんな風に想われて抱きしめずにいられるというのか。
思わず、抱きしめる腕に力が
「け……」
「好きだ」
「俺も、師匠が、いや春円が好きだ」
「ちょっ、毛野……。何言って……」
「だから、好きだって……‼」
言いかけた言葉を、春円が毛野から離れるように胸を押しやり
「待って‼ だっておかしいよ……。僕は知っているんだよ。君にちゃんと、『いいひと』がいるってことくらい。だから、だから僕はっ……!」
離れていこうとする春円の手を握り、しっかりとその目を
「でも、気づいてただろ? 俺が落ち込んでたこと……」
「それ、はっ……」
「俺、振られたんだよ。『あの人』に」
「えっ……⁉」
「それはもう、きっぱり。はっきりとな」
思いもよらない言葉だったのだろう。春円が大きく目を見開き、毛野を見つめ返す。
「そん、な……。うそ、だって『あの人』はどう考えたって君のことっ……」
「でも、振られた。俺は振られたんだよ」
「だっ、だけど、だからって、そんな急に気持ちって切り替えられるものじゃないでしょう⁉」
「そーだよっ! だからずっと、落ち込んで、どうしたら『あの人』が戻ってきてくれるのかって考えて、会いたくて、でももう会えなくて……。どうしたらいいか分からなくなってた。きっと、俺が初めて自分から好きになったのは『あの人』だけだったから……」
――そう、あの日、舞台上で涙を流しながら舞台を見ている『あの人』に俺は心を奪われた。俺が『あの人』を救ってあげたかった。だけど――…。
それを叶えることはできなかった。『あの人』は結局、一人で生きていくことを選んでしまった。そして、その決断を変えることはとうとう毛野にはできなかった。
そんな中、いつもそばには春円が寄り添っていてくれていた。何も言わなくても、ずっと毛野を支えてくれていたのだと今なら分かる。
「だけど、嬉しかった……。春円に好きって言われて……。今までとは全然違う、本気の好きだって感じた……」
春円はいつも冗談のように、何でもないように好きだと言い続けてくれていた。毛野はそれを勝手に家族愛のようなものだと思っていたけれど、そうじゃなかったのだ。今更気づくなんて本当に自分が馬鹿みたいだ。
「そう思ったら、あんなに落ち込んでいたはずなのに、すごく春円のことが愛しくなって……」
春円を抱きしめる手に一層力が入る。
「好きだって思った」
「け、の……。本当に? 本当に信じていいの?」
春円は顔を上げながら信じられないものを見るような目で毛野を見てきた。
「僕はまだ毛野のこと、好きでいていいの……?」
念を押すようなその言葉に、力強く返す。
「当たり前、だろ?」
「っ……‼」
その瞬間、春円は大声で泣きだした。今までもずっと涙を流していたのに。それ以上に子どもみたいに大声を上げて泣き続けた。
毛野はそんな春円が可愛いような愛しいような、何とも言えない気持ちになって、自分よりも年上のその人の頭を、あやすようにずっと撫で続けた。
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