夜明け

 夜の帳が上がり始めると、空気が弛緩するような感じがするのは、私だけなのだろうか。ここは、境界線。夜と朝の境界線。それは黒と青の境界線。昨日や今日や、あるいは明日の境界線。そして、私たちの関係性の、境界線。

 隣で寝ている誠さんの寝顔の頬に、キスをひとつ落とす。誠さんの目が一度きつく閉じられ、そしてゆったりと開かれる。

「夕?」

「うん、私。夕だよ」

 誠さんはひとつ大きく伸びをして、それから私の顔を見て、一度目を逸らし、また視線の色味を変えて私の顔を見た。何を思ったんだろう。一瞬そう思うけど、簡単過ぎるその視線の答えに私の心は少し陰る。

 薄らぼんやりしたささやかな陽光が入る室内で、私は陰った心を布団の中に隠すように、今度は誠さんの唇を求めた。誠さんは素直に応えてくれる。それは、私を見つめ直したからなの? 私は唇を彼に預けることで、その言葉を丸めて飲み込んだ。

 徐々に明るくなっていく室内で、私たちは夜よりも少し淡白に、でも持ち合わせた体温は変わらず欲求を混ぜあった。その終わりが、きっと誠さんにとっての境界線なんだと思う。

 誠さんは私をベッドに残しシャワーを浴び始めた。彼がシャワーを浴びているその間、私はこの行き場のない虚しさに似たような感情の行き場を探して部屋の天井に視線を泳がせることしか出来なかった。家で仕事をしているお姉ちゃんの顔が頭の中で一瞬チラついて、勢いよく布団を被り直す。そしてワイシャツにスラックスの姿で出てきた彼は、布団から少し出た私の頭を撫でる。

「ほら早く用意して。もう、行かなきゃいけないだろ」

 そう、ここは私たちの関係性の境界線。

 空が白んで、小鳥が鳴き始める。

「もー。わかってるよ」

 行き場のない感情をぶつけ合うだけの関係。

 愛でも恋でもなく……慈しみ合うのは、なんでこんなに胸を痛ませるの?

「今から畑野先生、だもんね」

「そう、からかうなよ、夕……加賀美」

 朝靄が、私たちの本当の姿を隠して、ただの教師と生徒に擬態させていく。心は、こんなにも、”誠さん”を求めているのに。心は、こんなにも私を見てと叫んでいるのに……そんな醜い私も、多分全部朝靄が隠していってしまう。それがいいのか悪いのかは、私にはわからない。

 シャワーを浴びて部屋に戻ると、畑野先生はもういなくて。鍵をポストに入れておくようにというメモだけがテーブルの上に残されていた。

 私は鼻の奥がツンとするのを感じて、泣いちゃダメだと自分に言い聞かせた。


 ねぇ、お姉ちゃんが相手だったら、もっと情熱的に抱いてくれてたの?

 私が生徒だからダメなの? じゃあなんで私を抱くの?

 お姉ちゃんの……代わりなの?

 こんな惨めな思いをさせるくらいなら。

 そんなに淡白に私を求めるなら。

 ちゃんと、振ってよ。


 溢れ出した思いは止まらない。境界線が涙で滲んで、ぐちゃぐちゃになる。私の心の、わずかな強がりが、涙で濡れてへたりと倒れていく。私は、誠さんが好きなだけなのに。なぜ、なぜ。

 ……今日は、境界線を上手に越えられなかったな。こんな朝は、自分の心がわからなくなる。でも、もう大丈夫。今から笑顔の加賀美夕になって、学校に戻るから。先生のことなんかちっとも気にかけてない、イケてる生徒に戻るから。


 だから……またここで……。


(2020年6月21日 カクヨム初出)


――――――


登場人物紹介

 加賀美 夕(18歳)

  天真爛漫な少女。お調子者でクラスの人気者。

  空気を読むのが上手だが、心の中には少し寂しさがあったり。

  姉と二人暮らしの為家事が抜群に得意。姉のことが大好き。


 畑野 誠(27歳)

  現代文を専門的に教えている教師。夕の姉が好き。

  どちらかというとマイペースだが、少し優柔不断。

  正義感が強く、真面目。夕のことを放って置けない。

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