不道徳の教科書
雪瀬ひうろ
第1話「戦争と飢餓」
僕の記憶の始まりは真っ赤に燃える町並みです。
戦争です。遠くの国からやってきた飛行機がたくさんの爆弾を載せて飛んできて、僕の町を焼いてしまったのだそうです。だから、僕はそのころ、真っ赤に燃え盛る町の様子と真っ黒に焦げた町の様子しか知りませんでした。僕は町が焼けてしまって悲しいと思うことはありませんでした。僕にとって町は元々そういうものだったからです。
僕にとって一番苦しかったことは、食べ物がなかったことです。食べられるものは少しばかりの芋とその蔓だけ。それを家族みんなで分け合って食べるのです。おかげで、僕は戦争が終わるまで、「満腹」という感覚を知らなかったのでした。
うちの家族は三人家族でした。本当は四人家族だったのですが、お父さんは戦争に行って、そのまま帰ってきませんでした。その知らせを受けたとき、お母さんはその場で泣き崩れていましたが、僕は泣きませんでした。幼かった僕にとってお父さんの記憶はかなり、曖昧なものだったからです。
だから、僕にとって家族とは、お母さんと弟の二人だけでした。
家を焼け出された僕たちは、町の外れの山小屋で生活していました。そこには、他の家の家族も居ました。おかげで、山小屋の中はいつもすし詰めでした。
しかし、他の家はどこか遠くの親戚の家に行くと言って、一組ずつ居なくなっていきました。そこの家の子どもは「向こうの家には食べ物がたくさんあるらしい」と言って、目を輝かせていました。それが本当だったのかはわかりません。しかし、少なくとも、芋の茎を食べている今の生活よりはずっとましなのだろうと思いました。僕はそんな彼らがうらやましくってなりませんでした。
うちの家には頼れる親戚は一つもありません。僕はお母さんと弟と身を寄せ合って暮らしていました。
弟は僕よりもだいぶ小さくて、まだお乳が必要なくらいの赤ん坊でした。しかし、お母さんのお乳はまったくでませんでした。たぶん、栄養が足りなかったのだと思います。
だから、弟は粉ミルクを飲んでいました。粉ミルクはとても貴重なものだったらしいのですが、お母さんはそれを何とか手に入れてきていたようです。
芋とその茎くらいしか食べられない僕には、その白い粉が大変なごちそうに見えました。赤ん坊の弟がとてもおいしそうに喉を鳴らしていたからです。僕は弟がそれを飲む様子をずっとずっと見つめていました。
一度、お母さんの目を盗んで、粉ミルクの粉をなめてみたことがあります。それはとても甘くて、いい匂いがしました。僕はまるで電流が走ったような気持ちになりました。あまりに衝撃を受けた僕は思わず、茫然と立ち尽くしてしまいました。もちろん、粉ミルクなんて、赤ん坊以外が飲んでおいしいものなどではありません。今はそれくらいのことは理解しています。しかし、当時、常に空腹だった僕にとっては粉ミルクは、涙が出てしまうくらいにおいしいものだったのです。
その日から僕はお母さんに隠れて粉ミルクを盗み食いするようになりました。最初はばれないように舌先でなめるだけでしたが、粉ミルクをなめればなめるほど、歯止めは効かなくなっていきます。ついには、瓶の中に手を突っ込み、夢中でそれをなめてしまいました。
当然、そんなことをしていて、ばれないはずがありません。お母さんは僕に言いました。
「これはあの子の大切なご飯だからね。おまえが食べてはいけないよ」
お母さんは諭すようにそう言いました。
僕はとても悪いことをしてしまったという気になって、しょげ返りました。僕は盗み食いはせずに我慢しようと思いました。
しかし、時間が経つと、僕は再び粉ミルクに手を出してしまいました。空腹にはどうしても耐えられなかったのです。粉ミルクは貴重なものだということは解っていました。僕がこれに手を出すことで、弟のご飯はなくなり、幼い弟が飢えてしまうということを僕は十分に理解していました。それでも、僕は粉ミルクをなめる手を止められなかったのです。
そして、ある日のことです。弟は急にぐったりとして、真っ青な顔になりました。お母さんが慌てて、お医者さんのところに弟を連れて行きました。僕は弟をおぶってかけていく、お母さんの背中を黙って見つめていました。
その日の晩、弟は息を引き取りました。
弟が死んでしまった原因は、栄養失調だったそうです。弟にとって粉ミルクは十分な量ではなかったのです。
お母さんは一日中、泣き続けていました。
僕が粉ミルクをつまみ食いなどしなければ、弟は死ななかったかもしれません。そんな想いが僕の中にぐるぐると回り続けました。しかし、僕は同時に別のことを考えていました。そう考えることを止められずにいました。そんなことを考えてはいけない。そう解っているのに、考えることは止められません。
僕は思いました。
ああ、これで残った粉ミルクは全部僕が食べられる。
僕は心のどこかで弟が死んだことを喜んでいたのでした。
そんな想いを一瞬でも抱えてしまったことを後悔して、僕はきっと死ぬまで生きていくのだろう。そんなことを考えました。
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