【13 郷⇒倉 プロットが先か登場人物が先か】質問。
「直木賞受賞エッセイ集成」を読んでいたら、池井戸潤の「田舎育ちの乱歩好き少年」が面白かったので、紹介させてください。
――平たくいえば、それは登場人物をどう書くかという定義の問題だ。プロットと登場人物の関係と言ってもいい。
果たしてプロットが先か、登場人物が先か――。
それまでのぼくの小説がつまらないのは、人と向き合っていなかったからなのだ。
作家は、人を書く商売だ。そのために必要なのは、人に対する敬意ではないだろうか。登場人物ひとりひとりに対して敬意を払うことこそ、小説を小説たらしめることになるのではないか。
「作家は、人を書く商売だ」
カッコイイ。
ということで、池井戸潤の書く内容には仰る通りと頷き倒した上で、小説を書く時に、まず作るのはプロットか登場人物か? で言うとどちらかを窺いたいと思います。
あくまで長編小説に関してはですが、僕はプロットが先です。
大まかな物語の全体像を最初に決めます。
そして、登場人物の簡単な生い立ちを決めます。こういう経験があったから、こんな考え方をするようになったんだ、みたいなことが僕の小説の核にはあります。
小説を書きはじめると、プロット通りに行かなくなっていきます。登場人物がどういう人間かを認識すると、こういう動きはしないよな、と思ったりもするので下方修正をします。
その中で、この登場人物にとっての結末ってなんだろう? 何を選ぶのだろう? と考えることが一番大事なんじゃないかな、と思います。
グレアム・グリーンが「情事の終り」で「物語に始まりも終わりもない。どの地点から振り返るか、あるいはどの地点から先を語るか、人が経験の中から気まぐれに選んでいるだけだ」と書いています。
物語に始まりも終わりもないからこそ、なぜここから始まり、なぜここで終わるのか、と言う部分に作家は一つの責任を持つべきな気がしています。
なぜここが始まりで、なぜここで終わるのか。
少なくとも、それについては責任を持って説明できるようになっておくべきなのでしょう。
でなければ、池井戸潤の言う「登場人物ひとりひとりに対して敬意を払う」ことはできないように僕は思うのです。
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