それはいけませんな

Eika・M

第1話

 ドクターファルクの診療所はネオマンハッタン コロンバスアベニュー72丁目 6174番のオフィスビル最上階にあった。同じ階には本社がネオトーキョーの生命保険会社とロゴがやたらと派手な弁護士事務所とあと何をやっているのかさっぱりわからない正体不明の事務所が入っていた。診療所の窓からは道路を挟んだ向かいの高層ビルが日光を反射してきらきらと輝いているのが見える。その瞬きを遮るようにデリバリーのドローンが空中を往来していた。下界に視線を落とすとカラフルな車と人々がいつものように忙しなく行き交っている。ドクターはこうして次の相談者が来訪するまでの時間を煙草をくゆらせながら過ごすのが好きだった。

「1時予約のエレナ様がお見えになりました」インターフォンが受付嬢の高い声を発した。

「通せ」


 ミセスエレナは赤髪で肥満の主婦だった。彼女は部屋を訪れるや緊張とも浮かれているともとれる表情でクスクスと笑った。相談の内容はまさにその事だった。その場その場の状況に合わせた態度がとれなくて時々家族に迷惑をかけるのだ。

「それはいけませんな」相手の気の済むまで話を聴いてやったあとドクターはもったいぶって言った。

「でも自覚なんてございませんのよ。主人も子供達も本当は迷惑なんて思っていないのです。むしろそんな私のことをかわいいと言ってくれていますし」

「でも貴女はこうして相談に来られた」

 ミセスエレナは悪戯が見つかった子供みたいな表情で肩をすくめた。

「そう気を落とす必要もありません。何も心配はいりませんよ。大人になってから貴女のような傾向が認識されるというのは珍しいことではありません。特に女性の場合はそういったケースが多い」

「つまり先生が仰りたいのは私みたいな奥様がたが他にもたくさんいるということかしら。そうですわね」

「ええ。そうですとも」

 ミセスエレナはほっとしたというジェスチャーを大袈裟にしてみせた。

「まずはカウンセリングから始めましょう。大切なのは他の人と同じように振舞うということです。経過を見て必要と判断すれば薬を処方します。なにご心配は無用。お任せください」

 ミセスエレナはやっぱりドクターファルクに相談して正解だったと胸をなでおろした。なんせ彼は世界的に有名な心理カウンセラーで神経科の医師でもある。おまけに生理学の博士号も持っていた。ミセスは自分の問題についてはあまり関心が無かったがファルク氏に関しては家族よりもそして近所の誰よりも詳しいという自負がある。毎週水曜日にコメンテーターとして出演するワイドショーは欠かさず見ていたし、新しい著書も真っ先に手に入れた。まあまだ見開き1ページしか眼を通していないが。いずれにせよ1週間で5万部を売り上げたことは事実だったし、この調子なら前6作と同様世界中でベストセラーになることは間違いなし。当然テレビ出演の機会も増えるだろう。そうなってからでは益々予約が取りづらくなる。今のうちに表紙にサインしてもらって本当によかった。


 インターフォンが告げた。「2時予約のカスペルさんが見えられました」

「通せ」

「実は」カスペル女史は椅子に座るなり切り出して、それから先の言葉が出てこないでうつむいた。

「まあ楽にして。何か温かい飲み物を持ってこさせましょう」

 すみません。声こそ聞こえなかったが彼女の唇が確かにそう動いた。

「大丈夫。時間は充分にありますから」

 今度は唇さえも動かせず彼女はただ頭をさげた。

 受付嬢が置いたカップの底がテーブルを擦った時、カスペル女史はそのわずかなノイズに反応した。甘いレモンティーが全身を温めた頃には彼女の緊張は幾分やわらいだ様子に見えた。

「本当にすみません。それで相談というのは実は私は絶対音感を持っているのです」

 ドクターはなるほどという顔でうなずくと間をおくためにあえて椅子を回転させてしばらく窓を眺めた。今度は彼が沈黙する番だ。窓外では午後休憩に間に合わせようとしてお茶やクッキーを健気に運ぶドローンが上へ下へと移動していた。朝には無かったクレーンがビルの谷間から見え隠れした。またネオマンハッタンに新しいビルが建つのだ。やがて背後で彼女のすすり泣く声が聞こえてきた。

 そろそろ良い頃だろう。

 振り返ってドクターは告げた。「それはいけませんな」

 ハッと顔をあげたカスペル女史の目尻にはうっすらと涙が溜まっていた。

「さぞかし外の世界に溢れかえる不協和音に耳を塞ぎたくなる思いをしてきたことでしょう」

「はい。それはもう」そう答えて彼女は少し言い淀んでから思い切ってという表情で続けた。「でも不協和音による不快感のみが私を苦しめているのではないのです。本当につらいのは他の人達と私は違うという漠然とした恐怖、不安感なのです」

「ええ、わかりますとも。人と違うということはよくない事ですからな。つまり単刀直入に言えば貴方は他者と比べて劣っているということです。重要なのは他の人と同じになることです。そうですな。わざと不協和音を聞き続けなさい。工事現場なんてのがよろしい。他の人のように普通の音感になるのです。まずはそこから始めましょう。来週またいらっしゃい。予約を入れておきましょう」

「ありがとうございます。どうぞこれからもよろしくお願いします」


 カスペル女史はドクターの言いつけを守ってあらゆる音楽から距離を置いた。楽器を弾くなんてのはもってのほか。そして積極的に工事現場周辺を散歩して自分を高めていった。そうやって1年が過ぎた頃、彼女は絶対音感を治すことは叶わなかったが充分に鈍らせることには成功した。間もなくして彼女は建設会社のクレーム対応窓口の仕事に就いた。職場では彼女が音楽家として優れた才能を有していることは誰ひとりとして気付くことがなかった。カスペル女史が世界を魅了する未来は永遠に訪れない。


「次の予約がお見えになりました」

「通せ」

ファーガソン氏は筋骨隆々で肩幅はドクターの1.5倍はあった。しかしいま正面の椅子に座った彼は背中を丸めてドクターよりもむしろ小さく見えた。

「実は足が速いのです」

「走るのが人よりも速いと」

「そうです。競争すると誰も追いつけません。少しくらいなら相談にきません。圧倒的に速いのです」

「つまり他の人とは明らかに違うということで悩んでいるということですな」

「はい。そうなんです。やっぱり私はどこかおかしいのでしょうか」

 ドクターは即答を控えた。相談者が自らの言葉を充分に噛みしめられるようにあえて時間を作ったのだ。ファーガソン氏は見る間に縮こまっていた身体をさらに縮こまらせて落ち着きを失った。

 そろそろ良い頃だろう。

「それはいけませんな」

 一縷の望みを期待していたファーガソン氏は絶望の眼差しでドクターを見返した。

「いや、諦めるのはまだ早い。私の言うようにすれば貴方はすぐに普通の人になれますよ。いいですか。まず食事の量を増やしなさい。体重を増やすのです。運動はなるべく控えてください。歩くのも極力避けたほうが良い。家のソファでゆったりとして何かスナックでも食べるのです。走るなんてもってのほかですよ。1か月ほど続けてみなさい。効果が出てきます。来月の今日は空いていますか。それでは予約を入れておきましょう。大丈夫。その時までにはかなり普通の速さに近づいていますから。それではまた来月に」


 生真面目なファーガソン氏はその後ドクターの言いつけを守って食事量を増やして運動しないよう務めた。そしてどちらかというと筋肉質というよりも脂肪の目立つ身体になった。そうして彼は平均よりやや足の遅い人間となった。これで他人から奇異な眼で見られることはない。ファーガソン氏は何度か転職したのちに地元のスーパーで食肉の販売員に落ち着いた。だぶついた二重あごは今や彼のトレードマークだ。彼はその後も自分が優れたアスリートであることを忘れて彼なりの才能を一生眠らせたままにした。周囲の者もまさかファーガソン氏がオリンピック選手になれるほどのポテンシャルを秘めているとは想像もしなかった。


 向かいのビルが紅く輝いていた。ビルの谷間のクレーンは動きを止め、早くもドローンが夕食のデリバリーに動き出していた。

 インターフォンが高い声で言った。「次の予約のソフィア様がお着きです」

「通せ」


 夕陽に染まるソフィア女史の表情には繊細さとそれを表に出そうとしない警戒心が現れていた。

「実は私とても感受性が強くて調べてみるとHSPらしいのです」

 ドクターファルクは充分に間を開けてから言った。


「それはいけませんな」

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