第35話 社長襲来

 二人の生活が始まり最初の朝が来た。私は寝顔を見られたくないので、通さんが寝ている間に起きて顔を洗ってしまいたかった。そっと部屋を出たつもりだったのだが、通さんの方が先に起きてもう支度を始めていた。いつもより早く起きたつもりだったのに、失態だ。だってこの髪型とぼおっとした顔を見られてしまったのだから。髪の毛はぼさぼさで寝癖がついているし、顔はいやに腫れぼったい。こんな顔を見られたら百年の恋も冷めてしまうだろうな。


「通さん。おはよう。早いんですね」

「ああ、おはよう。寝顔が可愛いです」


 とても本気で言っているとは思えない。


「こんな顔を見られて恥ずかしいです」

「いやいや、すっぴんで無防備な顔も可愛い」


「顔を洗ってきます。見苦しいでしょうから」

「アハハ!」


 おお、この豪快な笑いで、更に恥ずかしくなってしまった。顔を洗い再び部屋へ戻り着替えて出てくると、テーブルの上には朝食が用意されているではないか。買っておいた食パンがこんがりと焼け目玉焼きが皿に乗っている。


「わあ、美味しそう。朝食の支度までしてくれてすいません」

「昨日ご馳走してくれたお礼です」

「ああ、それで。出来立てですね。コーヒーを淹れます」


 私は、ペーパーフィルターに挽いてもらったコーヒー豆をセットし、お湯を沸かした。ほんの少しお湯を注ぐと豆が蒸れたいい香りが漂ってきた。少し待ってからその上に静かにお湯を注いだ。


「さあ、どうぞ」

「本格的ですね。カフェのコーヒーみたいです」


 通さんはまずストレートで一口飲んだ。


「旨い。では、ミルクを入れます」


 その後でミルクをカップ一杯に注いだ。ミルク多めの方が好きだったようだ。


「今度は、コーヒーを少なめにします。ミルク多めが好きなんでしょう」

「そうなんです。カフェオレが好きです」


「やっぱり」

「でもプリンスとは違いますよ」


「そりゃそうです。私もミルク多めの方が好きです。ブラックだと刺激が強すぎて……。出かける時間はずらしましょう。片付けは私がやりますので、通さん、先に出発してください」

「そうします」


 私たちはのんびりとコーヒーを飲みスマホでニュースなどをチェックしてから別々に会社へ向かった。


 会社では、それぞれの持ち場で仕事をしその日は何事もなく帰宅した。



 帰宅したところまでは良かったのだが、家で夕食を食べ寛いでいると、通さんの電話に社長から電話が入った。


「もしもし、僕です」

「通、今どこにいる?」


「自宅です」

「そうか、じゃあすぐ行くよ。久しぶりに一杯やろうと思ってな」


「一杯ですか? じゃあ、外へ出かけますか?」

「いや、家でいい。家にいるんだろ。そのままいてくれ」


「ちょっと待ってください」

「もうアパートの前まで来てるんだ! 部屋へ向かってるから開けてくれ!」


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとお。まだ上がってこないでください! 下で待ってて! 準備するから!」

「親子だろ、準備なんか要らない。廊下を歩いてるんだ。もうすぐ家の前だ、開けてくれればいい。お~い、通! 開けてくれえ!」


「うわあ、まずい! 家の前に親父があ!」

「もう、ダメですね!」


 私たちは、最悪の事態を覚悟して全てを打ち明けることにした。


 ドアを開けて通さんが廊下に出た。隣の家の前には社長がワインを手に提げて立っていた。家を出て行ってしまった息子と久しぶりに一緒に過ごせるとあり、機嫌のよさそうな顔をしていた。通さんが家から出て行くと、社長はあれと驚いた。聞いていた部屋の隣から出て来たので、部屋番号を間違えたと思ったのだろう。


 私は、ドアに耳をぴったりくっつけて聞こえてくる声に耳を澄ませた。


「こっちの部屋だったのか。聞いていた部屋番号と違ってた」

「いや、部屋の番号は合っている。隣が僕の部屋なんだ」


「するとここは?」

「友村めぐさんの部屋です」


「な、な、何だって! これはどういうことなんだ! 通、説明しなさい」

「説明すると長い話になりますが」


「じゃあ、座って話を聞こう。友村さんもいるんだろう。中へ入れてもらおうか」

「どうぞ」


 ドアが開いて、私はつんのめりそうになった。そこには観念したような通さんと、顔を真っ赤にした社長の姿があった。大変なことになった。私は最悪な事態を想像した。叱責を受けたのち、会社を首になり明日から途方に暮れる毎日。通さんともこれっきりになるのではないだろうか。


 キッチンのテーブルに三人は顔をそろえて座った。私は、お茶を淹れるために台所の方を向いた。そんな動作をしていると、少しは気持ちが落ち着いてきた。


「お茶をどうぞ」

「うむ、君も座ってくれたまえ」


「これには、深~いわけがあるんです」

「そりゃあるだろうな。そこに転がってるのは、通のパジャマだろ?」


 リビングに置いてあった男物のパジャマが見られてしまった。通さんは、前の会社にいた時の事から説明を始めた。プリンスが乗り移っている話をしたら、社長は目を丸くして驚いた。そんな超常現象、信じられないと言った面持ちだ。通さんは事細かくこれまでの経緯を説明した。その間も社長は、ふ~む、とか、な~るほど、などと相槌を打っている。納得してくれているのだろうか。相変わらず顔は赤い。


「それで、この先どうするつもりなんだ?」

「……この先」


「……何か予定はないのかな?」

「はあ。とりあえず一緒に暮らしてみようと思ったところで」


「付き合い始めたばかりだというか?」

「そう言うことで……」


「友村君、その通りなのか?」

「そうです」


「では、暫くこちらも様子を見ることにしよう。ただし、君も秘書を続けたかったら、この事は内密にすることだ」

「勿論、社内では他人ということにしておきます」


「他人では困るが。特別な関係ということは伏せるように頼みます。じゃあ、今日は三人で顔合わせの乾杯でもするか。丁度ワインを持ってきたところだし」

「は、はい。ではグラスを用意します」


 私はグラスを出し、ワインを注いだ。顔が赤かったのはなぜなのだろう。怒っていたのではないのだろうか。


「社長、怒っていたのかと思いました」

「いやいや、家で飲んでたんだが、つまらないから通に電話したんだ。ここへ来る前から顔が赤くなってしまったようだ」


 はあ、それで顔が真っ赤だったのだ。最悪の事態は回避できたようだ。


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