第3話 あいつには負けない

 またしても終業時間を過ぎ、会社を出たのは九時だった。今度は絶対あいつより早く帰ってやる! 


 あ~あ、何食べようかなあ。週末にまとめ買いしとかなきゃ冷蔵庫の中が空になっちゃう。またコンビニによって、そうだわ、プリンスの餌も買わなきゃね。


 今日はパスタのソースと缶入りのキャットフードを買って帰った。


 ただいまーっ!


 鍵を開けてはいると、奥の方からそろそろとプリンスが歩いてくる。慌てないでゆっくりとこちらへ寄ってきて、足首をぺろりと舐めた。


「いい子だったーっ?」

「フギャー」


「あんたの餌を買ってきたから待ってなさいね」

「グー、グー」


 今度は鼻を摺り寄せて、鼻先で足首を押している。


「あわてないのっ!」


 皿に餌を開け床に置く。一口ぺろぺろ舐めて味見している。始めて食べるので警戒しているようだ。


「遠慮しないで沢山お食べ」

『遠慮してるわけじゃない。どんな味だか味見をしてるんだ。まあまあだな、合格だ』


「可愛いわねえ。食べてるところも無心で、癒されるーっ」

『俺が食べてる姿がよほど気に入ったらしい。じろじろ見られながら食べるのもあまり気分は良くないが、可愛いから許す!』


「さて、私はパスタでも食べるわ。それとサラダ」


 私は、キッチンに立ちパスタを茹で、レトルトのソースを温める。ゆであがったパスタが湯気を立てて皿に盛りつけられ、その上から熱々のソースがかかる。仕上げは粉チーズだ。サラダを合わせれば完璧だ。


「今日はまあまあね。いっただきまーすっ」

『どれどれ出来栄えを見てやろう』


 プリンスはぴょんと椅子に飛び乗り、両手をテーブルにかけ顔だけをテーブルにちょこんと乗せパスタを眺めた。湯気の向こうにはメグリンの顔が見える。ふうふう冷ましながらくるくると器用にフォークで丸めて口に放り込んでいる。


「フギャ―ッ」

「あら、お腹いっぱいになってないの? プリンスも食べたいの?」


「ミャーオ」

『いい匂いがしている。肉の匂いだ。食べてみたいなあ』

「ちょっとお皿に取ってあげるからね。はいお食べ」


 パスタ数本の上にミートソースが乗っている。プリンスは、ぺろりとソースをなめパスタをちょっとだけかじってやめてしまった。こういう物は味が濃いんだ。


「意外とおいしいでしょ。ふふふ」


 お腹がいっぱいになったプリンスは、口の周りを手でぬぐってぺろぺろ舐めた。それから目を細めて私の顔を見ている。


「仲間が出来てよかったわね。まあ私にとっても仲間が出来たわけだけど」


 プリンスがいてくれて、心がほっこりとしているのは私の方かもしれない。家と仕事の往復で、疲れはたまる一方だったから、やわらかい毛を撫でているだけでも心が安らぐ。


「プリンス。今日は新入りが入って来たの。一応客観的に見ればイケメンだけど、格好つけちゃっていけ好かないやつなのよ。初日だっていうのに一番先に帰ったわ。生意気。あたしのが先輩なのに、そんなことわかってますよって顔しちゃってるの。いい匂いまでさせて、どういうことかしら」


「フガ―ッ!」


 あんたもやな奴だと思うでしょ。


 プリンスは食事が終わって手をなめたり、毛繕いをしている。ふわふわの体毛を優しく舐めている。それが終わると私の膝の上にちょこんと乗った。両手をこちらへ向けて胸の上にそっと置いている。手を触ってみると、弾力のある肉球が、プニュプニュと手にくっついて、柔らかい感触にうっとりする。


「柔らかーい。こんな肉球が世の中にあるなんて、信じられない。今までの人生損していた気がするわあ。あああ……、もう、かわい―っ!」

『そんなに気に入ったのか……仕方ない、少し触らせてあげるか』


 プリンスは眼をじっと閉じて、触られるがままになっていた。抱っこされても私の胸の中で、何の抵抗もしないでじっとしている。あまりに無抵抗なので、こちらが鼻を体に押しつけてすりすりしたり、頬と頬をぴったり寄せ合ったりした。こんな濃密なスキンシップをしながら、猫と人間の至福の時間が過ぎていく。


 暫くそんなことをしていると、今度はプイと横を向いて部屋の隅へ歩いて行った。すまして離れていく姿も様になっている。そのまま丸くなり眠ってしまったようだ。こんなに気持ちよく眠れるなんて羨ましい。


 静かになると、通が謎めいた微笑みをこちらへ向けていた。それは私の妄想だったのだが、私の周りをぐるぐる回りながら気を引こうとしている。そんなはずないじゃない。全く私の静かな時間を邪魔しないで、とそれを振り払うように忙しくお皿を洗ったり、洗濯物を片付けた。

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