Track.9-05「手、繋ご?」

「……何」


 怨嗟のように低くから込み上げた声。寄ってくる全てを排斥しようとする拒絶の声音。

 でも、彼女はあたしに問いを投げかけた。何だと。

 それはつまり、彼女は全てを拒絶していないってことだ。だからあたしはもう少し近くまで寄って――手を伸ばせば触れられるくらい近くまで。


「……会いたかった」

「はぁ?」

「ごめんね、変に思うのは分かるよ。あたしだって、自分のこと変だと思うから」

「……で?」

「うん。会って、お話がしたかったんだと思う」

「何の?」

「色んな事。あたしの話を聴いてほしかったし、あなたの話を聴かせてほしかった」

「何で」

「分からない」

「バカじゃないの」

「前も言ったけど、あたし、バカなんだよ。自分で、死ぬつもりで手首切ってさ、……でもやっぱり怖くなって、自分で救急車呼んだんだ」


 二つの視線が、同時にあたしの左腕に落ちた。あたしはそれを持ち上げて、巻かれた真っ新な包帯を取る。

 その下に現れたのは、幾つもの蚯蚓腫れだった。ほんのりと撫子色に染まった僅かに隆起した幾つもの線。

 そして手首に貼り付けられたガーゼを剥ぎ取り、縫い糸がまだ残るほんのりと水気を宿した赤黒い傷跡。


 それを真っ直ぐな視線で見詰める彼女はもう泣いてなどいなかった。まだ少し尾は引いていて、時折小さくしゃくり上げているけれど。でも、その眼差しには憎悪は込められていなかったと思う。


「これが、あたしの包帯の中の正体」

「……」


 白百合の領域に入ったあたしに近寄った彼女は、あたしが見せつける左腕に触れる。そして、包帯に包まれていない指先で恐る恐るあたしの傷跡たちをなぞった。


「……痛そ」

「うん……あんまり感じないんだけどね」

「痛くないの?」


 その人差し指はまだ乾ききっていない手首の傷に触れている。少しひりつくようにひいらいだけれど、顔を歪ませるほどの痛みじゃない。


「多分、慣れたんだと思う」

「そっか……」


 触れていた左腕を放した彼女は少しだけ俯いて、一度目を瞑る。

 そして瞼を開いたかと思えば、ゆっくりと右目の横の包帯の端を摘まみ上げ、力任せに剥ぎ取っていった。


 べり――貼り付いた赤黒い粘性が、その表面で割れた固着の狭間で伸びる。

 束になった白い包帯は、しかし肌に近しい部分をその粘性と同じ色に染まっている。


「これが、わたしの包帯の中の正体」

「……」


 悍ましいとは、この時のためにあるような言葉だった。

 それを、例え口が裂けたとしても言えないだろう。


 顔の左半分を覆う色褪せた糜爛びらん。半ば固まり切っていない表面は所々に赤黒い血のような粘性を帯び、それは彼女が力任せに引き剥がした包帯へと糸を引いていた。


 顔だけじゃない。首や胸元、右腕と左手。


 爛れて変色した崩れた肉は呪われた証のようで。怖くて、悍ましかった。


 それと同時に――ひどく、悲しかった。

 彼女の顔貌が、とても可憐で愛らしいかったからだ。


 差した日の光を纏って天使の輪を被る黒い艶髪は内巻き外跳ねのS字ラインを作り。

 薄くぼんやりとした眉毛とは対照的にまるで荘厳な額縁のようにはっきり・確りと縁取る睫毛、それに囲まれた大きく円らな目は、その額縁に相応しい美術品めいた、無条件の愛らしさを誇っている。

 虹彩は鼈甲飴べっこうあめみたいな淡い色で、その肌の色からもやや色素に欠けていることが分かる。

 小ぶりだが筋の通った鼻。

 淡く色付いた頬。

 薄くとがった唇。

 その全てが、生まれたての仔猫を想起させるような愛玩性に満ちていて。


 顔半分を覆う糜爛さえ無ければ、誰もが彼女を“美少女”だと表現しただろう。彼女は褒め称えられ、さぞ誰しもに求められたのだろう。

 それを、この糜爛が奪っている。損なっている。


「あーあ……本当は取っちゃいけないんだよ。きみのせいだね」

「……ごべん」


 駄目だった。そこが限界だった。あたしは気後きおくれも無く目の淵から涙を溢れさせ、それは鼻筋や頬を伝って顎先からぽつぽつと落ちる。


「何できみが泣くの」

「わかん、ないっ……かっ……勝手、にっ……こぼ、零れてっ……来る、ん……っだ、もんっ……」

「――ははっ」


 そんなあたしを、彼女は抱き寄せた。

 あたしよりも背の低い彼女は顎を押し上げてあたしの肩に載せる。そして背中に回した手で摩り、もうひとつの手で頭を撫でた。


「うぅ……っ、うぅ……っ」

「泣いてんなよ……感染うつんじゃん」

「うっ、うぅーっ、……」

「……ぅ、うーっ……うぅっ、」

「うー、……っ」

「ぅーっ……」


 そうやって、あたしたちは百合の咲き誇るその真ん中で、ただただずっと泣きながらお互いを抱き締め合っていた。

 どちらからともなく膝が折れてその場に座り込んでもまだ。


 一望する街の景色はどんどん夕暮れに焼けていく。

 西日でオレンジ色に染まっていた空も、焼けた雲の端と立ち込めてきた宵闇とでその鮮やかさを増していく。


 夕焼けが空を喰い荒らす。やがて世界の終わりに見たいような空色になりつつあるその真下で、あたしたちは漸く出遭った。



   ◆



「……名前、何だっけ」

「あたし?……森瀬芽衣」

「わたしは」

「四月朔日咲」

「覚えてんだ」

「うん、覚えてた」


 顕わになった糜爛は、風に触れると小さな疼痛を彼女に齎した。粘性を帯びた体液も零れている。だから彼女には治療が必要だった。

 あたしは何度もごめんと言ったけれど、それらは全部却下された。

 彼女は初めて見せる天使のような微笑みをあたしに贈り、そして傷だらけの左腕の先端に自らの右手を伸ばす。


「手、繋ご?」

「……うん、繋ご」


 夕焼けが迫る空の下。運動公園の坂道を、あたしたちは子供みたいに手を繋いで下っていく。

 時折すれ違う人がぎょっとした顔をしかけるけれどあたしたちは気にしない。

 あたしのこと、そして彼女のことを互いに話し合いながら、聴き合いながら。

 そうやって、病院の正面玄関を目指す。


 まるで――――物語の始まりオーバーチュアみたいだ。

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