Track.5-15「私、馬鹿でごめんね」
あたしの隣に座り、マスクを下げた顔はあたしの知るトーカよりも大人っぽくて、綺麗だった。それでもその女の子が、あたしがよく知っているトーカだって判る。
「久しぶり、元気にしてる?」
「うん、それなりに」
普通、こういう時は微笑むものだけれど、あたしはそれが出来ない。
それにはトーカも気付いたようで、少し驚いたような目をしたけれどすぐにそれを収めた。
「トーカは?元気?」
「私?元気だよー」
「ラジオ、いつも聞いてるよ。この前の、ミカちゃんとのやつ面白かった」
「本当?ありがとう」
他愛の無い話が続く。まるで牽制し合っているみたいだ。
あたしはメンバーに、どうして辞めたのかを一切伝えていない。それはきっと、マネージャーさんから心身の問題でと伝わっている筈だ。
だからあたしは、トーカにそれを訊ねられたくない。でも一番訊きたいのはトーカだと思う。
トーカは、あたしに怒りを見せた唯一のメンバーだ。ダンスの自主練に付き合ってもらったのにも関わらず、どうにもならないあたしがよろけて転んだところに、トーカは憤慨を顕わにし、ちょうど入ってきた他のメンバーに止められた。
正直、トーカから話しかけて来るなんて思ってもいなかった。
トーカはきっと――
「――ねぇ」
「うん、」
「リセはさ――アイドル、もうやらないの?」
「――やらないと思う」
「そっか。こんなこと言われても迷惑なだけだと思うけどさ、……私は、戻ってきてほしかったよ」
そして到着した小竹向原の駅で彼女は「またね」と手を振って電車を下りた。
あたしはその背中を見送って、再びイヤホンから流れる彼女の歌声に目を瞑った。
◆
「ごめんなさい、先輩。俺、実は婚約者がいるんです」
「ぇ――」
さぁ、と風景が砂になっていくような感覚の中、愛詩は急速に身体から熱が失われていくのを感じた。それなのに、やたらめったらに自分の鼓動の音だけが異常に煩く聞こえ、目の前の想い人が話す内容がすんなりと頭に入ってこない。
「掻い摘んで説明すると――何度も言う通り、俺は魔術士です。弓削家という一族は、弦術という魔術をずーっと、長い間研鑽してきました。弦術を極めるためです。そして俺もまた、その歴史に名前を連ねるために、弦術を学び、修めてきました。それはこれからも変わりません」
「――うん」
「でも多分、俺の代で弦術が極まることは無いのでしょう。俺は自分にそこまでの才能が無いことも知ってますし、親だってそうだと思います。魔術士は魔術のために、魔術士同士で婚姻を結ぶことが多いんです。その方が次代の育成にもいいですし、そういうのを“魔術婚”って言うんですけど……それで、俺にはもう、将来結ばれる人が決まってるんです。だから、」
「――うん」
「先輩の気持ちはとても嬉しいし――でも、それに答えることは、……出来ない」
告げて、絲士は再び自分の目を指で拭った。
愛詩は「そっか」と告げたまま、しばらくその場を動けないでいた。しかしどうにかその宣言を飲み込み立ち上がる。
「――じゃあ、私、帰った方がいいよね」
「先輩、」
「ほら、その人に、勘違いとかさせちゃうと、……迷惑、だろうしさ」
絲士も立ち上がったが、それより早く愛詩はその横を擦り抜けて部屋のドアへと辿り着いていた。
「私、馬鹿でごめんね。弦を張らないやり方、自分で何とか頑張ってみるよ。今日は、ありがとう」
「先輩っ」
急ぎドアを開け廊下に飛び出ると、トレイに冷えたレモンティーのティーサーバーを載せて持つ冷ややかな表情のメイドと目が合った。
愛詩は「お邪魔しました」と頭を下げ、足早に廊下を階段へと向かい、そして駆け下りる。
「先輩っ!」
追い縋ろうとする絲士の身体は、しかしリニが阻む。
「レモンティーをお持ちしました――あれで、よろしかったのではないでしょうか」
「――っ!」
歯噛みし、絲士は踵を返してソファへと戻った。続いて部屋に入ったリニは、ガラステーブルにティーサーバーを置く。
「あ――」
そして絲士は思い出し、クローゼットの扉を開けた。広い空間に足を踏み入れ、すぐ右の棚に目を遣る。そこには、愛詩の鞄が丁寧に置かれている。
「絲士さん。それは兄に、届けさせましょう」
「――いや、自分で行くよ」
「そうですか。お気をつけて」
しかし結局、絲士がそれを自らの手で届けることは叶わなかった。
玄関を飛び出て彼女の姿を探すも、どこにもいなかったのだ。駅までひた走ったが、どうやら遅かったようだ。
そして考え直すと、絲士は愛詩の連絡先を知らなかった。だから愛詩の鞄は、翌日にアリフの手で愛詩の自宅へと届けられた。
体調を崩してしまった愛詩の代わりに愛詩の母がそれを受け取り、愛詩は自室のベッドの上で母からそれを受け取る。
鞄には手紙が添えられていた。淡く翠がかった、実に綺麗な封筒だった。
しかし愛詩はそれを読まないまま引き出しに仕舞った。何も考えたくは無かったし、そもそも身体が絶不調だったのだ。
結局翌日以降も体調が戻らぬまま、愛詩は学校にすら行けず自宅で療養する日々が続いた。病院にもかかってみたが、「疲れから来るものだろう」と診断された。ウィルスや悪性の腫瘍などは一切見つからなかった。
まる二週間が経過し、快復した6月29日。久しぶりに学校に通った愛詩は、しかし放課後が近付いてくるに連れて心の中にもやもやと陰鬱さが湧き出てくる感覚に苛まれる。
しかし弓道場に絲士の姿は無かった。顧問に呼び出された愛詩は、自分が休んでいる間に絲士が退部届を出したことを聞き、流石に驚いた。
その愛詩に向かい、顧問の女教諭は絲士が出した三つ折りにされた退部届のA4の紙1枚を差し出し、手渡した。
「先生、何でこれを、私に?」
「彼は、あなたが提出した退部届を私から奪い、受理を許さなかったことがありました。だからあなたもまた、一度くらいはそうしてもいいんじゃなくて?」
受け取ったものの、それをどうすればいいのか、彼と何を話せばいいのか解らない愛詩は、ストレッチや筋トレを通じて自分の身体が完全に快調に戻ったことを確かめていた。
そして弓を引くと、身体に沁みついた射法八節は再び矢と的との間に太く真っ直ぐな弦を張る。放たれた矢はその軌道に載って的の中心を射貫く。
そうだ、と独り言ちて。愛詩は、絲士のために“弦を張らない”ことを覚えなければいけないことを思い出した。
◆
「よお」
青山一丁目駅の1番出口を出たすぐの交差点の目の前に四方月さんと石動さんは立っていた。
あたしも頭を下げ、歩き出した二人の後ろに着いて進む。
赤坂離宮を左手に見ながら数分歩き、だだっ広い郵便局を過ぎたあたりで見えてくる、背は高くないけれど重厚そうな要塞を思わせるビル――ソニック・エンターテイメント株式会社の青山ビルだ。この二階に
「でかいと言うか、」
「要塞みたいだねぇ」
あたしの前で足を止めた二人は聳え立つ黒っぽい建物をそう表現した。やっぱりこの建物は、外から見ると要塞のように見えるらしい。そう言えば、このビルの設計士がハリウッドの有名なSF映画の大ファンだってことを聞いたような気がする。
二枚の自動ドアを抜けて進み、パリッとした制服を着こなした警備員が立ち、清楚さを売りにしてそうな綺麗なお姉さんが微笑む受付へと辿り着くと、石動さんが打合せに来た旨を告げて入館証を発行された。
赤いストラップのそれをあたしたちは首から下げ、まるで駅の改札のような機械に入館証をタッチする。すると閉じていた膝丈のゲートがしゅっと開いて――本当に改札みたいだ――エレベーターホールへと歩みを進める。
「あれ、どっちだっけ?」
「四方月さん、こっちです」
ぶっちゃけて言うと、あたしの方がこのビルの中は詳しい。だからエレベーターを下りるとあたしたちの前後の位置関係は変わってしまった。
廊下を進み、“LEAF&WOOD.LLC”と表記のあるドアを開く。
内線電話で石動さんが打合せに赴いた旨を伝えると、すぐに奥から一人の男性社員が現れ、あたしたちを会議室へと案内した。
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