Track.4-22「……頼んだよ」

 2017年4月1日――四月朔日夷が14歳となった日から、その修行が始まった。

 14歳となったということは、刑事事件を犯した際には有責性が認められる。そのことから現代の魔術士の家系では、特に家督を継ぐ者に対して家伝の魔術を本格的に継承する傾向にあった。

 現在の日本では民法により20歳より成人と見做みなしており――5年後には18歳に引き下げられるのだが――しかし霊基配列の固着を防ぐために魔術士の家系では14歳を以て“大人”と見做す習わしが続いている。


「夷、来なさい」


 柔らかくもあり、凄みもある玄靜の言葉に付き従い、夷は摩利支天の像が見詰める本堂の、裏手に隠された階段から地下へと降りた。

 光の届かないその空間は一言で形容するなら“座敷牢”であり、牢の奥の壁間際にも本殿に祀られているのと同じ摩利支天像が鎮座していた。


「お祖父様、これは何ですか?」


 淡い薔薇色の光彩は今日とて嬉々として揺れている。玄靜が点した蝋燭の揺らめく灯りに照らされた仄暗いその場所は、しかし奈落のように闇に塗れ、足を踏み入れた途端に底の無い無間に墜ちてしまいそうでぞわりとする。


 しかし夷の背に流れた汗は、その場所に対して抱いた恐怖の表れではない。これから始まる修行こそ、畏怖以外の何者でもないからだ。


「本堂に対して、此処は“伽藍ノ堂”がらんのどうと呼ばれておる――“無”を知り、“無”を感じ、“無”と対話して“無”を屈服させる場所だ」


 口数の少ない祖父がそれだけの語数を使って話したことで、夷はこの場所の重要性を思い知る。勿論、それは一周目の時点で知り得ていた情報だった。


「夷。これを――」

「これは?」


 そして玄靜は、黒い匣を差し出して見せた。それは一辺がおよそ10センチメートルの立方体であり、いくつもの木片を組み合わせて作られているのか、歪な線が表面に何本も走っている。まるで不規則な形のピースを持つルービックキューブだと、一周目の夷はそんな感想を抱いていた。


「この“黒い匣”ブラックボックスには、“無”と同化できるよう、様々な者たちの記憶が詰まっておる。お前はこれからここでこの匣に触れ、その記憶を得て“無”を、引いては“消失”と“喪失”を知るのだ。それが出来るまでは、光を感じることはあたわぬ」


 夷は祖父の掌に載る匣をまじまじと眺め、視線を持ち上げて真一文字に口を結んだ祖父の険しい顔を仰ぎ見た。

 玄靜は眉間に深い皺を寄せ、そして腕を組む。一時目を伏せたかと思えば、しかし見上げる夷の淡い薔薇色の視線に自らの漆黒の視線を交差させる。


「――身の回りの世話は使用人が交代で行う。また、万が一の事態に備えて真言を侍らせる。良いな?」

「はい、わかりました。お祖父様」


 言ってしまえば一周目の時点ですでに解決クリアしている問題だ。二周目以降、それを取り零さない自信があった。

 しかし余りにも激烈な記憶だったため、固有座標域ボックス内には蓄積していない。だからもう一度、挑まざるを得なかった。


 玄靜は匣を座敷牢の中、壁際の摩利支天坐像の空いた手に載せると、牢の中に夷を呼び込む。

 夷が牢の中央に、摩利支天を向いて正座したのを見届けると、牢の格子に鍵をかけ、蝋燭の火を吹き消すと階段を上り去っていった。

 上がりきった玄靜が階段に蓋をすると、座敷牢の狭い空間は暗闇で満たされた。


「お嬢。今日のところは僕が詰めていますから、何かあったら声を出して教えてください」


 真言は【暗視】オウルサイトを自身の目に賦与したが、僅かな光を増幅して闇を見通す目ではこの“伽藍ノ堂”に満ちた暗闇を見通すことは出来ない。

 それを察した真言は瞳術を【霊視】イントロスコープに切り替えた。空間内の霊銀ミスリルの濃度がどういうわけか高かったが、それでも夷の居場所や動向を把握するのに支障はなかった。


 ふぅ、と息を吐いて、正座したままの夷はすぅっと両腕を伸ばす。

 ちょうど座っていた位置は、腕を伸ばせば坐像の手に届く場所だ。そういう作りになっているのだろう。

 その指先が匣に触れる直前、夷は少しだけ躊躇った。匣に触れればその瞬間から、強制的に逆接続された匣から膨大な記録情報が流れ込んでくる。それは確実に自分の心を、そして身体を蝕む。匣に触れて三日目には、全身の毛が真っ白になることは自身の固有座標域ボックス内に詰め込んだ一周目の記憶からすでに確認済みだ。


 解決クリアできる自身はある。それでも自分が壊れてしまうのは怖い。


「阿座月くーん」

「はい。どうしましたか、お嬢」


 鎖された空間は声がよく響く。


「……頼んだよ」


 夷はそう告げて、匣に触れた。




 その記憶情報がどのようなものだったのか、常磐美青が集積した記録には残っていないため、それを傍観する五人には解りようがない。

 また、夷がそれを拒んだため、芽衣もまた彼女がどのような記憶情報を読み取ったのか定かでは無かった。

 無論視界は暗闇そのものだ。僅かな息遣いや気配でそこに人物が二人いることは判る。

 しかしその片方は、匣に触れたや否や、まるで断末魔のような金切り声を上げたかと思うと暗闇の中を喚き上げながら暴れまわった。


「――“落チ着キナサイ”」


 目を見開いて驚愕をあらわにした六人の傍観者たちだったが、直後真言が発した言霊により暴れ狂っていた夷の動きが止まる。

 修行のために袖を通した白装束は隅々までじっとりと汗を吸って濡れていた。


「“光アレ”」


 唱えた直後に座敷牢が照らされると、黒い匣は摩利支天坐像の手の上から動いておらず、その掻いた胡座の傍らで土を固めた床に伏している夷の姿を見ることが出来た。

 夷は気を失っているわけではない。真言の言霊が無ければ今にも再び暴れ狂いたいほどだった。ただそれが出来ないから、こうして地に伏して自分を保つのに必死だったのだ。


 それはそれは、予想していた以上の倒錯した記録だった。

 第二次魔術大戦に於いて、東南アジアでの撤退戦の際に単身遊撃戦ゲリラを仕掛け、多大な戦功を持ち帰った四月朔日玄靜が、本国に生還を果たして後の一ヶ月ほどの記録だ。


『“喪失”をれ』


 その言葉から始まる記録の内容とは、夥しい数の人体実験と殺戮の記録だった。

 “無”を知るために、“消失”と“喪失”を体感するために、百を優に超える不特定多数の対象に対し、第一識から第七識までを消失させて経過と精神状態を観察した。


 識とは眼識に始まり、耳識・鼻識・舌識・身識・意識・無意識と続き、そして第八の識、阿頼耶あらや識までが存在する。

 眼識を失えば視界を鎖され、耳識なら音と平衡感覚、鼻識なら匂い、舌識なら味と言葉、身識なら身体感覚全般、意識・無意識は言わずもがなだ。


 識を消失した者の反応は様々だが、最も重要なのは消失した瞬間の心の揺らぎだ。そこにはまるで人類すべてに通ずるかのような、共通した感情が現れる。


 命の喪失もそうだ。これもまた百を優に超える数の、異なる殺害方法・殺害状況を記録した情報だが、どのような方法・状況であっても、殺害された対象の心に去来する唯一共通する刹那の感情が存在する。


 その感情を敢えて言語化するのであれば“無量感”と称すだろう。


 知性は皆、喪失が降りかかる時、その瞬間だけは“無”と同化リンクする。




 仏教の一部の宗派に於いて、人間性・理性を司る第八の識、阿頼耶識を超えて、そのてに在るとされる第九の識を説くものがある。

 それは“阿摩羅あまら識”と言い、“無垢識”の異称を持つ“無”とそして“無限”を司る識だ。


 “無”と同化するということは、“阿摩羅識”と接続アクセスするということだ。

 そして東南アジアでの遊撃戦ゲリラに於いて生命の途絶える極限の際デッドラインに臨んでしまった玄靜は、それ故、偶然か宿命か、“阿摩羅識”との接続アクセスに成功してしまった。


 “無”を司り、“無限”を司る“阿摩羅識”により、玄靜が行使する四月朔日の幻術は極まった。

 自らの存在を“無”へと化した暗殺者の襲撃を誰も逃れられず、実体を持たない相手にはいかなる武器も攻撃手段も魔術も意味を成さない。


 そうして完成された“無幻の魔術師”ゼフィラムワークスを後世に託すため、玄靜は更なる“喪失”を求め、人体実験と殺戮を繰り返して黒い匣に記録として収めた。

 被験者・殺害対象の殆どは社会に不要とされた者や裏社会の闇を選抜していたが、彼に舞い降りた暗殺依頼の対象者もおり、また自殺志願者も少なからず存在した。


 実に老若男女様々な他人から様々な断末魔で殴りつけられた夷は、ただただ阿鼻叫喚の中に身を投じたことを後悔しながら、懺悔しながら、贖罪を請いながら、やがて無へと堕ちた。

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