行為に至らない話

濁面イギョウ

素肌に部屋の空気が少し冷たい

 光量を落とした丸い蛍光灯の橙は、あまりにも夕焼けに似ていなかった。

 冷蔵庫がずっと何か音を立てている。ボクとあの人は互いに全裸のまま、膠着状態にあった。あの人は冷めた目で横たわり、ボクはその上にまるでアーケード街の屋根のように覆い被さっている。ボクの四つん這いの姿勢は、飢えた肉食獣のようでもあった。時期外れになりつつある毛布の感触が、背中を優しく撫でていた。安物のベッドパッドが相反するように心地悪い。あの人はボクの枕に頭を乗せている。

 ボク達の視線は絡み合っていた。あの人の視線からは、「年上故のこの状況への過程の許容」と「ここまで来たからには進まないと許さない生殖者の面」が読めた。あの人の目は、長い睫毛が薄い瞼を彩っていた。

 そっ、と、欲が向くままに体勢を崩してゆっくり肌を下ろして、体を重ねた。あの人の肌が、異物である他人の肌が、ぴったりと全身で感じられた。なめらかでハリのある肌だ。年下のボクなんかよりずっと。

 そのまま芋虫の様に這って、今度は肘をついて四つん這いになり、あの人の顔と向き合った。美しい形の鼻がこちらを向いている。ボクは右手を徐に御顔の側面に沿わせて、親指で唇を僅かに押した。

「唇はどんな感触だろう、舌はどんな感触だろうって、ずっと焦がれてました」

左手もさりげなく顔に添える。右手の親指で唇を何度も撫でて、人差し指で鼻から顎まで中心線をなぞって、よくその形を覚える。あの人はくすぐったさからか目を閉じていた。再び開くと、また同じ温度の低い目だった。

 指先で唇を二度つつくと、ほんの少しだけ口が開かれたので、恐る恐る、指を挿し入れた。狭い唇の間をゆっくりと抜け、上下の歯の隙間を通っていく。引っかかる歯の先の触感に、この人も自分と同じものが生えているのだと、ボクは興奮した。そして一瞬の空洞を過ぎ去った末の、突如として現れる熱い粘膜の舌に、ボクは一気に煽られるのを感じた。下腹部が一気に収縮し、足先まで熱が駆け抜ける。

 ボクはすっかり浮かされて、水面を波立たせないよう心がけるように控えめに、くるくると円を描いてあの人の舌を撫でた。舌の表面の一粒一粒が指の腹に伝わる。もう少し先に指を進めると、舌の筋肉の形が分かるような場所に着いた。そこで少々大胆に、舌全体を混ぜるように指を動かす。苦しさが出てきたのか、あの人は僅かに顔を顰めた。口の中が唾液で粘ついてくる。指に前後の動きもつけてみた。さらに唾が絡んでくる。意識的か無意識か、ほんの少しだがあの人の唇がボクの指を離すまいとしているのが解った。だけどボクは無情にも、名残惜しいが指を引き抜いた。

 指に絡み付いた唾液を、指をまるまる咥え込んで味わう。大した味覚は感じなかった。だけどそれは予想していたので、がっかりはしなかった。遂にあの人の体液を取り込んでしまった……。

「このことも小説に書くの?」

 あの人が何気なく言った。表情は先ほどよりも暖かかった。

「私だってわからないようにしてね」

 ボクはその瞬間、急に現状が恐ろしくなった。ボクは今まで性交渉が無かったからこそボクでいられた。しかし本物を体験することによって、文字を書けなくなってしまうのではないか。それは嫌だ。無理だ。ボクがボクでなくなってしまった先の、全く違う行動様式が読めない。怖い。唯一誇れるものを失いたくはない。

 ボクは逃げようとした。だけどあの人に腕を掴まれて、それは叶わなかった。

「逃げるな」

 ぐっと引き寄せられて、小さな声でもあの人の吐息がかかる距離に顔を近付けられた。ガラス玉の様な瞳には、近過ぎて何も見えなかった。

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