第103話 誰もがパンのために(2)
「どうもすみませんでした」
もう一度頭を下げて、パン屋を出る。
戸を閉めると、店の外壁に背を預けるようにして、警官の男が立っていた。もう用はないだろうに、この人なりに最後まで見届けようとの心積もりだったのか。
「案外あっさり終わったな。ま、それくらいで片が付いて、良かったじゃあないか」
男が、自分の左頬を指さした。
俺は隣にいる少年に視点を落とした。その片頬は赤くなり、もう少ししたら青く変色してくるかもしれない。
俺がしつこく頭を下げた甲斐もあって、この警官の男は折れ、今回限りは見逃すと言って、少年がパンを盗んだこの店まで案内してくれた。
で、店主に金を払って謝罪したわけだが、返ってきたのは拳骨だった。殴り飛ばされた少年になおも腕を振り上げる店主を制止して、何度も頭を下げると、「もう二度と来るな」とだけ告げ店主は店の奥に引っ込んでしまい、俺たちは店を出た次第だ。
「痛むか? その、悪かったな。庇わなくて」
腫れの具合を見ようと、膝を折って少年の顔を覗き込む。
店主が最初に殴りかかってきた段階で、俺には当然止めることができたはずだ。けど、どういうわけか体が動こうとしなかった。それは、一発殴りでもしないと店主の怒りが収まらないだろうと思ってか、それとも少年のためにも痛みが伴った方が良いと思ったためなのか、自分でもよくわからない。
何にしろ、子どもがもらうにはあまりにいい一撃だったからな。今更だけど心配になった。
「……うるせぇ。余計なことしやがって。同情かよ、くそ!」
が、少年は俺の視線から逃げるように顔を逸らして毒を吐くと、伸ばした俺の手を払って、そのまま背を向けて走り出した。
「おい! お前、助けてもらっておいて」
「いいよ。別に感謝とかされたくてしたわけじゃあないし」
警官の男が追い咎めようとするのを、片手を上げて制する。パンだけはしっかりと抱えた少年は路地に駆け込んで、すぐに見えなくなってしまった。
同情かよ、か。まったくその通りだ。あの子のことなどよく知りもしないくせに、勝手に憐れんで、勝手なことをしただけ。ただの同情だ。
でも、これでいいんだ。他者に同情する心こそが、『人間』であるために大切な心だと信じているから。
「……毎度、こんなことを続けるつもりか?」
少年の去った先を見つめながら、でもやっぱり喜ぶ顔の一つぐらい見たかったなー、なんてちょっぴり寂しい気持ちになっていると、警官の男が帽子を深く被り直しながらそんなことを問うてきた。
「さっきも言ったが、あんなガキはいくらでもいる。こんなことをしても切りがないぞ。今日の分のパンを恵んでやった所で、別の所で別のガキが、そして明日には同じガキが同じことを繰り返す。そんなものだ」
俺より少し低い背丈でやや俯かせた顔は、帽子の鍔で半ば隠れている。ただ時折ちらりとこちらを窺ってくる瞳には、批判的でありながら、不思議と責める気配はなく、静かに沈んだ色だけが横たわっている。
「結局、根本が変わらないことには誰も救われないんだよ」
「根本、ね」
詰まる所、その根本を変えるための手段が、カミーユたちの言う革命なのだろう。彼らの言う大義も、あの少年のような子が笑って生きていく、そのための方法をみんなが考えた末に辿り着いた答えなのだと思う。
そう考えれば、革命という浮ついた言葉も、俺の胸の中で少しは収まりが良くなった気がする。
同時に、革命の熱に対する漠然としていた不安も、手が届きそうに形を帯びてきて、
「どうした?」
「ん? いや、別に。今はとりあえず、目の前のあの子が今日の空腹を凌げたのなら、それでいいよ。無意味なその場凌ぎでも何でもさ」
黙りこくる俺を不審に思った警官に、手をひらひらと振って誤魔化す。ま、本心には間違いないし。
「そうかい。……お人好しもほどほどにな」
男はそれ以上追及することなく、踵を返した。帽子を目深に被ったままに、腰に下げた警棒を片手で軽く摩って、少年が向かったのとは反対の方向へ歩き出そうとする。
「なあ、最後に一つ聞いていいか? あんたはなんで警官になったんだ?」
男は立ち止まった。わずかに頭を持ち上げた後、再び数歩先の地面に視線を落とす。
「別に。ただ、警察になれば少しはマシな飯を食っていける、そう思っただけだ」
今後こそ男は立ち去った。一人取り残された俺は空を仰ぐ。空は曇天に変わっていた。
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