第4話 好意が見えない一週間

 まばゆい光が瞼の上から網膜を刺激する。恐る恐る目を開けると、カーテンの隙間から朝の陽ざしが差し込んでいた。どうやら昨日寝る前に、閉め切り損ねたようだ。ベッド横に無造作に置いた眼鏡を装着し、朝の陽ざしを断絶しに行く。スマホに今何時と尋ねると、5時45分と答える。まだ起床時間ではない。再びベッドに戻り、妻の頭を優しくなでる。そこで俺は違和感に気が付いた。


 ない。頭に数値が。

 好意をもたない人間、すなわち意識がない。死んでいる。


「久美子、しっかりしろ!俺を置いて逝かないでくれ!」


 体を強く揺すると、俺の意に反し久美子が大きく目を見開く。


「何!?どうしたの!ハァハァ」

「おお!久美子、無事だったか!」


 妻を強く抱きしめる。彼女は5秒ほど沈黙していたが、我に返ったのか俺の後頭部に平手打ちを入れる。


「何寝ぼけてんのよ、寝ぼけるのはまだいいけど私を起こさないで。」

「ごめんな、でもあれ、じゃあなんで好意が見えないんだろう。」


 今日は週の初めだが、急遽年休を取得して、修理ショップへ向かうことにした。ショップ店員曰く、どうやら眼鏡の故障が原因らしい。高周波の電波を送信するアンテナ部分に亀裂が入っているため、修理ではなく交換対応となるそうだが、通常、ショップには在庫はなく、取り寄せ期間を含めると、眼鏡の交換は1週間後になるそうだ。


 こうして俺、木下徹也の地獄の1週間は始まった。


 2日目。職場のオフィスに着くと、後輩の菊池玲子が笑顔で挨拶してくれた。


「木下さん、昨日は急なお休みでしたけど、なにかあったんですか?」


 あらましを説明すると、玲子は心配そうに俺の顔を見つめていた。


「私、好意が見えない生活なんて耐えられません。木下さん、おつらいでしょうけど頑張ってくださいね。何かあったら私に頼ってください。」


 あまり意識したことはなかったが、玲子の優しさに思わず好感を持ってしまう。玲子の好感度が気になったが、今は確認するすべがない。


 昨日の遅れを挽回する勢いでデスクワークを進めていると、部長からインスタントメッセージで呼び出される。部長の前に立ったが、好意が分からないので、怒られるのか、頼まれごとか見当がつかない。いつもなら体感しないで済んでいたストレスが降りかかる。


「明日なんだが、夜、役員との飲みがあってな、木下君もこれるなら来なさい。」


 どうやら部長が役員に俺をプッシュしてくれるらしい。ありがたい話だと思い、よろこんで了承した。こういう時に面倒くさいなどと少しでも思うと、すぐに部長への好感度として表れ、二度と出世のチャンスは回ってこなくなる。これが現代の処世術なのだ。


 その後これと言って困難は訪れず、無事帰宅することができた。今日は娘の志保が家にいる。大学に進学してからというものの、志保は彼氏の家に泊まることが多くなった。たまに帰るたび、娘の好感度を絶えずチェックしていたのだが、どうやら今日は確認することができなそうだ。


「お父さん、聞いたよ。好意見えないんだって?」

「ああ、そうなんだが、実際あんまり不便はないぞ。お母さんが朝死んじゃったと思って、焦ったくらいかな。あはは。いて。」


 久美子に後ろから頭を叩かれる。志保はあきれ顔でこちらを見つめている。


「お母さんには言ったんだけど、ちょっと俊一と喧嘩しちゃってさ。今週は少なくとも毎日こっち帰ってくるよ。」


 願ってもない話だ。そのまま仲直りしなくていいよといったら、志保は確実に家を出ていくので、そっと胸にしまっておこう。


「ところで志保、お父さん、志保の好意が分からないんだけど、今どのくらい?」


 彼氏の半分と言われた。仮に彼氏が100なら俺は50ということだ。ただしこの前見たとき、俺への好意は80程度だったから、これは志保なりの愛情表現と捉えていいだろう。


 こうして2日目は幕を閉じた。


 3日目、会社に着くと玲子が駆け寄ってきた。


「木下さん、実はちょっと相談に乗ってほしいことがあるんですが、今日ランチ一緒に行ってもらえませんか?」

「ん、ああ、かまわないよ。」


 会社近くのランチ営業をしている居酒屋に入ると、玲子は焼きサバ定食、俺は日替わり定食を頼んだ。水曜日は唐揚げが6つと、きんぴらごぼう、漬物、みそ汁が付いてくる。


 玲子は隣の課にいる、佐藤という男性社員に向けられる好意が気になっているようだ。気になっているといってもいい意味ではなく、セクハラを受けているような気分を感じているらしい。


「佐藤さんとは仕事で一緒になることもないし、あまり関わったことは無いんです。それにも関わらず、私への好意が100になっているんです。自意識過剰かもしれませんが、いやらしい目で見られているんじゃないかと気になってしまって…」


 確かに話したこともない人間から最大レベルの好意を向けられることは、心的ストレスになるのかもしれない。玲子のような美人な女性は好意を受けやすいと聞くが、それにしても100というのは滅多にないのだろう。確かに久美子が俺に向ける好意も85程度なのだから、佐藤が玲子に向けている好意は異常と言ってもいいかもしれない。


「わかった、とにかく佐藤さんには俺から探りを入れてみるよ。」

「なんだか、木下さんに相談できて、安心できました。頼りになる男性ってかっこいいですね。ああ、私もどうせなら木下さんみたいな男性に好意を寄せられたいな。」


 玲子からの確かな好意を感じる。しかし、具体的な数値が分からない。もやもやした気持ちは、夜の役員接待まで続いていた。


 4日目、俺は隣の課の佐藤を呼びつけた。俺より5つ下で独り身らしい。オフィスは空調が効いているが、佐藤には十分でないらしく、右手にうちわを持ち、額に汗をかきながら会議ブースに現れた。


「佐藤、お前、なんだその、菊池さんのことが好きなのか?」

「…菊池さんから何か言われたんですか?」

「いや、そのだな…」


 結局うまい探り方が思いつかず、ありのままを佐藤に伝えてしまった。佐藤は何か釈然としていないようだったが、一定の好意は認め、以後気を付けると約束した。

 去り際、佐藤は何やら意を決した様子で、玲子には気をつけろと忠告をしてきた。何のことかわからなかったが、自分の恋心が折られた腹いせだろうと解釈することにした。


 最終日の夜、帰り際に玲子に呼び止められた。佐藤の件でお礼がしたいと聞かないので、久美子には残業で遅くなると伝え、一杯だけ付き合うことにした。


 行きつけのスタンドバーで、俺はハイボール、彼女はマティーニを注文した。


「私、今回の件で分かったんです。木下さんのこと、好きみたい。」


 この一週間、ある程度の察しはついていたが、自分より一回り若い美人な女性にダイレクトに言われると、やはり信じ難い。彼女の誘いはいずれにしろ断るつもりだが、本意は知っておきたい。仮に本当に俺のことが好きなら、できるだけ傷つけずに断ってあげたい。気づけば、娘の志保より、目の前の玲子の好感度が気になっていた。


「はは、おじさんをからかわないでくれよ。」

「本当なの、ねえ、木下さんはどうなの。」

「…すまないけど、今日は失礼するよ。お会計は俺が持つから、続きはまた来週にしよう。」


 来週になれば玲子の好意ははっきりする。それならば来週に引き延ばすのが賢明と言える。


「待って、帰らないで。寂しいの。」


 玲子はとっさに俺の手を握る。さっきまでどう断ろうか悩んでいた俺の心が揺れ動く。玲子の好意なんて手に取るように分かる。それなら本能の赴くままに行動すれば…


 その時、普段鳴らない着信音が、スマホから流れた。これは娘の志保からのメッセージを受信したときに流れる設定音だ。メッセージを読むと、彼氏と仲直りしたから今晩中に帰る。お父さん早く帰ってきて。という内容だった。娘の顔をみたい、という衝動に駆られた。


「ごめん、娘が待っているから。」


 俺は逃げるように店を出た。玲子には月曜日謝ろうと心に誓った。志保はあと2時間で家を出てしまうらしい。間に合うだろうか。スマホの画面に返信文を打ち込みながら、家族の好意は当分わからなくても困らないな。と家族愛を再確認した。


◇◆◇


 マティーニとハイボールを飲み干すとため息をつく。私が手を握ったとき、確かにあいつの好意は100に達していた。しかし、娘のメッセージを読むと、好意は1週間前の数値に戻ってしまっていた。木下のやつ、娘にほだされやがって。と悪態をつき、店を後にする。

 先週末、佐藤と同じように、木下の眼鏡に細工を仕掛けた。時限式の小型装置で、アンテナの機構を物理的に湾曲させるものだ。

 この手は、故障中相手の好意が分からない1週間しか使えない。来週になって眼鏡が戻れば、私の本当の好意は筒抜けになってしまう。好意の見えなかった昔と比べ、私の商売もやりづらくなったものだ。

 木下は数年前、宝くじで大儲けしたという噂があり、前々から目をつけていた。もし木下に手を出させることができれば、100万は優に要求できただろうにと思い、ため息をつく。

 まあいい、次の仕掛けは済ませてある。また佐藤を出汁に、部長を私に依存させてやろう。

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