第19.5話 なんて事のない日常の話

 巨手騒動から数時間後──その日の夕方の事である。

 あれから分館付近の立派なクスノキに引っかかり、無事救出された張景は、分館で足の怪我を治療してもらい、雲中子らと共に報告のため仙界府庁へ向かった。

 詳細な報告は明日ということで、途中まで雲中子に送って貰い帰路についたのだが。

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい、張……ん?」

 玄関前で、花壇に水遣りをしていた広成子は、振り返るなり怪訝な顔をした。

「張景よ……、右足を怪我していますね?」

 帰宅して四秒のことである。

 別れる直前に、『広成子にバレたら煩いだろうなァ〜……』と雲中子が嘆いていたので、悪化しない限りは黙っておこうと決めた矢先のことである。

「張景よ、その怪我はどうしましたか?」

 広成子の細長い目が一層鋭くなる。張景は、こういうときの広成子の目は苦手だった。

「な、慣れない山道を歩きましたから。足を滑らせてしまいまして」

「その割には衣服に土汚れがありませんが?」

 鋭い。張景は体からじわりと汗が滲むのを自覚し、やがて大きくため息をついた。

 こういう時に変に嘘をつくと、後が怖いことを知っているからだ。張景は観念した。

「……事情を話しますので、着席してもよろしいでしょうか?」

 食卓へ移動し、張景はなるべくマイルドに事情を話した。そう、マイルドに。

「なるほど……そうですか、なるほど」

 広成子は一通り話を聞き、何度も頷いた。頷きながら、懐から黄色い札を取り出して織り始める。

 程なくして札は鳥の形となり、話を聞き終えると同時に広成子は──突如窓まで走ると勢いよく窓を開け、

「ふんぬっ!!」

 メジャー級のピッチャーさながらの豪速で、札を外へぶん投げた。

「なにやってるんですか!?さっきの、もしかしなくても呪符ですよね?どこへ投げたんですか!言え!言え!!」

「痛い痛い、張景よ、服を掴んで揺さぶるのはやめなさい。これは正当な抗議なのです」

「これは僕の自己責任の上で負ったものですから!誰かに文句言うなんて過保護すぎて恥ずか……」

 急ぎ追いかけ広成子を問い詰めていると、背後から電子音が鳴る。この家にある数少ない電化製品、電話だ。もっとも、厳密には電気で動いている訳ではないが。

 張景は無言で広成子から手を離すと、スタスタと電話口へと向かった。

「はい、桃源洞です。……はい、はい。そうですよね。申し訳ございません、うちの師匠が。はい、意地でも代わらないかと。強く言って聞かせますので……」

 何度も頭を下げた後、丁寧に電話を切り、

「雲中子様に呪詛を送るとは何事だ、このおばか師匠ーーーー!!」

「師匠をおばかとは何ですかこの弟子ーーーー!!」

 と、久々の師弟ステゴロファイトが始まり──、クロスカウンターを決めるまで続いた。


・・・・


「それでですね?」

「師匠、まだ動かないでください。湿布が剥がれます」

「おっと、危ない」

 師弟喧嘩の後、張景はなぜか増えた自身の怪我と、師匠の痣の治療をしていた。言いたいことは無くはないが、口にするとまた面倒なことになるのは目に見えているので、張景はもう何も言うまいと決めた。

「それでですね、張景よ。怪我の具合はどうですか?痛みますか?」

「うーん……。噛み傷ですが、思ったよりは深くありません。一晩は安静にと言われましたが、今のところ化膿もありませんし。痛いは痛いですが、動けない程では」

「そうですか……」

 広成子は少し考える素振りを見せ、

「わかりました。立ち仕事は辛いでしょうし、今日は私が夕食を作りましょう」

「……は?」

 張景の手が止まる。と同時に、ありえないものを見るような目で、じとりと広成子の顔を見た。

「なんですか、その顔は」

「いや、いやいやいや、だって師匠」

 広成子は不服そうに顔をしかめるが、張景はお構いなしに首を横に振る。

「師匠、料理できないじゃないですか。いつも、たまに思い出したかのように料理に手を出してますが、何回失敗すれば気が済むんですか」

「ふふふ、大丈夫です。今回はですね……」

 広成子はゆっくり立ち上がると、薄く笑った。窓から差し込む夕陽が逆光となり、無駄に眩しい。広成子は自信たっぷりに言葉を溜めて、

「今回こそは、なんだかできそうな気がするのです」

「やめて!!米も研げないくせに!!」

 速攻で張景が広成子の服を掴んだ。そのままがっちりと体をロックしようとするが、広成子はもがく。

「離しなさい!師の心遣いを無下にするつもりですか!」

「心遣いで食材を台無しにされるよりはマシですとも!米を流しにぶちまけた過去をお忘れですか?そもそも僕がここに来た時、食事が用意できなくて兄弟子の皆様を緊急招集した人が何を仰るつもりで!?」

「くっ……、余計なことを思い出して……!心配無用です、粥ぐらいなら湯がけます!」

「お粥は湯がくものではありません!!誰かー!このままだと……台所が破壊される!」

「破壊とはなんですか失礼なー!」

 羽交い締めを振り解こうと暴れる広成子を、張景が必死に抑える。

 実際死活問題なのだ。台所は張景の職場でもあり、テリトリーであるのだから。爆発は言い過ぎであったとしても、大切に育てた鉄鍋や交換したばかりのまな板を台無しにされるおそれがある。

(それだけは、死守しなければならない……!たとえ怪我が悪化しようとも!)

 張景が決意した──そのときだった。

「……あのー、何してんの?二人して」

 急に声をかけられ、師弟共々動きを止めてその方向へ視線を向ける。

 そこには、気まずそうな顔をした青年が立っていた。鳳凰のような鮮やかな赤毛、張景より小柄だが筋肉質なその青年は、李昴歴(マオリ)という。警備隊所属の、張景の友人だ。紙に包んだ野菜を抱えている。

「警備隊の先輩から、景が怪我したって聞いて来たんだけど。あ、広成子様こんにちわっス」

「え、ええ、こんにちは」

「なにか手伝うことないかなーって来たんだけど……。思ったより元気そうだし、大丈夫そ?」

 張景は、ゆっくりと広成子から離れると、感極まった表情で昴歴に熱く抱擁した。

「うおっ!?どど、どうした?なんか、辛いことでもあったか!?」

「ううん、違うんだ……。持つべきものは友達だなぁと思って……。来てくれてありがとう、マオ」

 ぐっと力強い抱擁のあと、うっすら浮かべた涙を拭いながら張景は笑った。そして、

「とりあえず、うちの師匠の動きを封じておいてくれる?三十分ぐらい」

「何故ですか張景よ!?」

 結局──。

 師弟共々口喧嘩が絶えないため、二人して昴歴に叱られ、『俺がやるから静かにしてろ!』と部屋に押し込められた。

「ま、いつもの事だから。師弟仲が良いってことでいいんじゃねえか?」

 と、昴歴は後に語る。


 まだなんてことない、ある日の師弟の一幕。

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