幕間2 桃源郷を離れて

 久々の下界は、霧雨が降っていた。

 桃源郷と異なる空気。朝から昼に変わる頃だというのに、風は冷たく、森は異端者を睨みつけるかのように、日差しが当たっているのにどこか薄気味悪い。

 振り返ると、出てきたはずの巨木は消えていた。

「……これから、どうしよう」

 ぽつりと洞水は呟いてみた。勿論、言葉を返す者は誰もいない。

 洞水が持っているのは、桃源郷を去る際に持たされた地図と、数日分の食料、そして記憶だけだ。

 本来なら桃源郷を去る前、徐々に記憶が無くなるように術をかけられるそうだが、洞水はまだ幼い。子供の頃の記憶として今後自然に薄れるだろうし、脳に支障をきたす恐れもあるとして、特別に免除されたのだ。

 大きく息を吐いて、歩き出す。ここに居ても仕方ない。

 なんとか前へ踏み出したはいいものの、足取りはとても重く、最初の場所から遠ざかるたびに、胸が痛くなる。

「……これで、よかったんだ。これで」

 あの医者から、自分の集落がどうなったかを聞かされてはいるし、それ以前に──水浴びから帰った日、遠くで燃えさかる集落を見たではないか。幼馴染のイェンは戻って来なかったし、あの放浪した数日間、誰とも会わなかった。

 結果的に、三人は生き延びた。弟達は新しい保護者が見つかり、引き取られていった。

 あそこは安全だ。食べるものも住むところも不便しないし、住民は出自に隔たりなく優しい。

 あんなことをしでかした自分なんかよりも、断然あちらにいた方が、弟達は幸せなのだ。

(……嘘だ)

 足が止まる。

(嘘つき。そうだ、コウの言うとおりだ。オレは、嘘ばっか。なにが自分なんかより、だ。自分が手に負えないことを他人に押し付けて。弟達だって、オレが見たくないだけなんだ。適当な理由つけて、自分がやらかした事を思い出さなくて済むから、遠ざけただけだ。もう会えないことも言わなかったのだって、自分が傷つきたくなかったからだ。それなのに、ソウの優しさに甘えて……オレは……)

 込み上げる涙を、力任せに袖で拭く。それでも涙は溢れてきて、ポタポタと落ちた雫は地面に吸い込まれる。

「……ひっ、ぐ……。う……うぅ、はっ……」

 耐えきれなくなって、洞水は嗚咽を漏らしながら座り込んだ。

 もう誰もいないのに、何を気にすることなくてもいいのに。

 それでも声を上げて泣くことに罪悪感を感じて、押し殺すように、泣いた。

「──こんなところにいたか。予測より二日遅かったな」

 突如、背後から知らない男の声がしたかと思うと、いきなり襟首を掴まれた。気配どころか、足音ひとつしなかったはずだ。

 洞水は驚きのあまり一瞬呆けてしまったが、すぐさまジタバタと暴れ始める。

「なっ!?だっ、誰だ!?」

「……その様子では『アレ』から何も説明は受けていないのか。奇遇だな、儂もだ」

 そのまま男にぐいっと持ち上げられ、洞水は強制的に立たされた。少々首が締まったものだから、咳き込んでしまう。手を離されると、洞水は目を擦りながら男とやや距離を開けながら対峙する。

 男は、七十代前後の老人のようであった。外見こそは老人だが、背筋は綺麗に伸びていて、立ち姿は凛とした雰囲気を感じる。もしかしたら、予想より若いかもしれないと思わせる程に。遠目から見たら、軍の将校かなにかとも思える程に。

 顔に刻まれた皺は深く、眼光は鷹のように鋭い。老人がその眼光を向けた途端、肩が跳ね上がる。

「そう構えるな。子供を取って食う趣味はない」

 そう言われても、老人は立っているだけでも気迫が感じられる。それこそ、何かの武術を極めた人間のようだ。そんな人間に見られているとあれば、嫌でも緊張するに決まっている。

「……ついて来なさい。あてはないのだろう」

 図星を突かれて、少したじろぐ。老人の意図が見えず訝しげに様子を伺うが、

(……ここにいるよりは、マシか)

 と、考えを改め、それでも警戒は解かず慎重に老人に近付いた。老人は呆れたように息をつきながら、手を差し出してくる。

「掴め。途中で離したら見つけられぬからな」

 洞水は、ためらいながらも老人の手を握った。手はしわくちゃで、とても硬い。幼い頃に亡くなった祖父の手を少し思い出した。

 老人が一歩、歩き出す。すると、

「──っ!?」

 一歩進むたびに、通常とはあり得ない速度で周りの景色が変わるではないか。老人が歩く速度は自分とそう変わらないのに、景色は馬を走らせる以上にぐんぐんと、むしろ風景画を次々に見せられているかのように、速く、速く。

「着いたぞ」

 老人が足を止めると、いつの間にかどこかの山の中にいた。目の前には簡素な小屋と、畑に井戸。つい先程までいた森とは違い、穏やかな日差しに包まれた、のどかな風景だ。

 が、洞水の顔色はみるみる悪くなり、急いで近くの茂みに隠れると、えずき始めた。

「……久々に使ったせいか、速度を出しすぎたか」

 老人がそんなことを呟きながら待っていると、ようやく洞水がよろけながら戻ってきた。顔色はまだ青いが。

「それで……、あなたは……誰、ですか……。今ので、仙人サマだとは、理解しました、が……」

「仙人ではない。儂は呉蒙という。かつて仙道を志していた、今となってはただの爺だ。して、お前は」

 名を聞かれて、ドキリと胸が大きく跳ねた。

 以前までは、自分の名に誇りがあった。だが、今はどうだ?

 同じ字を持つ弟達を見捨て、のうのうと今まだ生き延びている愚か者が。故郷と共に滅び損ねた臆病者が。この名を名乗っていいのか?

 罪深い。

 自分の名を告げることすら、今の洞水には苦しい。

「お前の名は」

 洞水は、一度口を開きかけてつぐむ。それから少しして、恐る恐る口を開いた。

「……スイ。水流とか水たまりとかの、スイ。姓は、ありません」

「そうか」

 老人は小さく頷くと、くるりと背を向けて小屋の方へと歩き出した。

「井戸の脇に柄杓がある。それで口を濯ぐといい」

「は、はい」

「それと、今後は呉姓を名乗りなさい。今日は午前は休ませるが、午後から読み書きの程度を確認する。夜は計算を」

「……はい?」

 いきなり何を言われたのかわからず、思わず聞き返してしまう。老人──呉蒙は、小屋に入る前に再度振り返ると、平然と、

「お前は、儂が死ぬまでの四年間、ここで生きる術を学んでもらう。たった四年で、だ。時間がない。故にできる限り詰め込む。覚悟するように」

 そう言い残し、さっさと小屋に入ってしまった。

 残された洞水はその場に立ち尽くしながら、

「……なんて?」

 しばらく呆然としていた。とりあえず、するしかなかった。


・・・・


 そこからのスイの生活は、とにかく急かされた。

 しばらくは山から出ず、生活のありとあらゆることを教わったのだ。読み書きに計算、歴史に礼儀作法。動植物に関する知識に、英語まで。とにかく、最初はどこまで知っているかをとことん確認された。

 幸い、スイは元の教育の影響で、一通りの読み書きや計算はできたし、言葉訛りも少ない。多少矯正すればすぐに共通語らしく話せた。

「驚いたな。英語も少しはわかるか」

「はい。父様が、武術や馬術ができないぶん勉強したほうが、今後の世には役に立つだろうと。街の方から先生を招いてくださって」

「先見の明があったのだな。父君に感謝しなさい」

 家族を褒められて誇らしく感じたのも束の間。逆に家事は何度も叱られた。特に料理は味覚の違い以前の問題だった。

 ある日は家の前で一日中、畑仕事を手伝いながら鳥や植物の名を覚え、またある日呉蒙がどこからか大型動物を狩って来た日には、半泣きで解体作業を手伝わされた。翌日には罠作りをして、手をざっくり切った。

 何度か熱が出たが、寝込む横で呉蒙が教養として漢詩を読み上げるものだから、スイはしばらく李白と孔子が嫌いになった。

 雨の日は竹籠を編んだ。コツを掴むとスルスルと編めて楽しい。なにより、手元に集中できて余計なことを考えないで済むから、好きだった。

 それと、怪しげな呼吸方法や瞑想もした。気だの波動だのという話もされたが、意味不明だ。

 呉蒙の煎じた胡散臭い薬も、嫌々ながら飲んだ。もう少し体力がついたら、運動も兼ねて弓と槍も少し教えてくれるという。


 スイは、何度も自分を引き取った理由を問うたが、呉蒙は「それが儂の天命だからだ」としか答えず。

「じゃあ、あと四年ってなんですか?爺……先生は、なにか患っているのですか?」

「儂がそう定めた。だいぶ前に決めたことで、これは覆らん」

「……そんなこと、できるものなんですか?」

「内丹を制することができれば容易だ」

「はあ……」

 今のスイには言っていることすら理解できず、そのうち聞くのをやめた。


 一週間、半月、そして一月。忙しく時間が流れていった。

 変わる生活に慣れるので精一杯だったが、良い変化もあった。

 桃源郷の入院時、毎夜のようにあったフラッシュバックや、弟達を殺す夢を見る回数が減ったのだ。ゼロではないが。

 たまに夜中に布団から飛び起きて、厠で吐き気に苦しむ事もある。だが、決まって呉蒙が背中をさすりに起きてくれる。落ち着くまで呼吸の方法を繰り返しながら。

 厳格な老人ではあるが、スイは徐々に、この老人なら、多少は信頼してもいいかもと思い始めていた。この生活を受け入れていいかもしれたいと。


 あの日、はじめて麓の里に赴くまでは。

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