第2幕 サイレント
*メッセージ
@イヤリング
大門真一は、たばこも吸わず、酒も飲まず、バクチもしない典型的な真面目人間で、自分で納得のいかない事は相手が誰でも戦うような男で、家族思いで、働き者で、大志を持っていて・・・こんな風に分析していた。
(そんな人が浮気をするなんてありえない!)
と思いつつも、あの日の電話から一つ一つの出来事が疑いへと駆り立てた。
夫は〈忙しい〉を口実に、家にいないのは勿論のこと、私によく車の掃除を頼んだ。
車ぐらい普通の男なら自分で掃除をすると思うのだが、片付け、掃除が大嫌いだった夫は今日も私に頼んできた。
「車の中汚れてきちゃったから掃除してくれる」
私も、それが当然のように引き受けた。
暖かなこの日、子供がお昼寝したころを見極め、車の掃除にかかった。大門真一は何やら机に向かって仕事をしていた。
気持ちのいい天気に乗って鼻歌を唄いながら車の中の掃除を始めた。私も掃除は好きではなかったから、いつもゴミの回収やこぼしたであろうジュースの後を拭く程度だったのだが、車の中で身をよじって掃除をしていると、私の手が止まった。
ダッシュボードの上に見なれない物が置いてあった。手で摘んでみると小さなイヤリングだった。グリーン色の四角い七宝焼きが付いていて、おもちゃの様にも見えた。
指先でぷらぷらと揺れるイヤリングを見ながら考えた。
(気を許さない限り、女性は人前でイヤリングを外したりしない。ましてやダッシュボードの上に置いたりなどしないはずだ・・・・・・)
私は、もう何年もイヤリングなどしていない。ブレスレットもネックレスも、つけていれば子供にとって危険だし必要はなかった。
掃除を終えるとそのイヤリングをダッシュボードの上に戻し、夫の元へ行った。
「ねえ、イヤリングが車の中にあったわよ。誰のなの?」
「知らないよ・・・・・」
と、余裕な顔で答えた。
「知らないって、置き忘れたんだから返してあげなくちゃ、会社の人かな?」
「いいよ、放っておけよ」
この時私は、(自分の車に置いてあるものが、誰の物なのか分からないなんて、そんな事あるのかしら!)と、腹立たしく思ったが、夫を責めたり、抗議をするということが何故かできず、返答を受け流した。何処かで良き妻を演じようと努力していたのかもしれない。本当は、
「何言ってんのよ! 女を乗せて遊びに行ってたんじゃないの!」と言いたかった。
(やっぱり、いつかの電話の主は実在する)と、心の中で呟いた。
そして、このラビングメッセージは、送信回数を増やしてきた。
@助手席
ある日曜日の夕方、夫に近くのスーパーへ車を出してもらうよう頼んだ。
。
「気を付けて乗って」夫は優しく声をかけてくれた。
この時、私のお腹には第二子がいたが、お腹は、日に日にどんどん膨らみ、張ち切れんばかりと成っていった。
「大門さん、もしかして双子?」
などと声をかけられるほどの立派なお腹をしていた。買い物に行くのも、荷物を持つのもしんどかった。家の周りは坂ばかりで何処へ買い物に行くにも坂の上り下りが必要だった。大きなお腹をそっくりかえりながら車に乗り込むと、助手席の座り心地が違っていた。
(シートの角度が、昨日と違う?夜中に近所の実家に行ったばかり、いくらなんでも、こんなに倒していなかった、昼間に誰かを乗せたのかしら?)
そう思いながらも、車は発車した。
夫は町中を走っていく車の中から、私の存在を忘れているかのように、長い髪の女性を無邪気に目で追った。横断歩道を渡りきるまで、ジーと眺めていた。
何故、こんなにも素直に、好みの女性を目で追うことができるのだろう。視界から、すべてを取り去りその女性だけを見つめる。まるで、子供が珍しいおもちゃでも見つけたように。もしかしたら、誰かと似ていて確認のために目で追っていたのかもしれない。
この助手席の不具合さを直しながら、さりげなく聞いてみた。
「今日、誰かと出かけたの・・・?」
問い掛けながら、運転している夫の顔を見ると、
「いや、パチンコに行っただけだよ・・・」と。
夫の目はキョロキョロと踊っていた。
その後、車の中は〈お互いの無声の言葉〉が漂った。
(でも、絶対誰かがここに座ったはずよ!)
(こいつは何を言おうとしているんだ・・・・・・)
(変じゃない!こんなに倒してあって!)
(なんで、分かるんだ・・・・・・・)
(きっと朝から出かけて行ったのは、彼女とドライブでもしていたに違いないわ)
私の声にならない言葉を、夫は感じていたはずだ。
この車の助手席は、私が座る物ではなかったのか!
夫は一筋に私を愛してくれていると思っていたが、その確信はどんどんと崩れて行った。
@残像
翌週久しぶりに外出をすることになり、車のキーを預かり手荷物を車へと運んだ時
キッラッと光るものがフロントガラスを通して目に入った。目を凝らし車内を覗き込むと、ダッシュボードの上に置いてある、キラキラとしたヘヤピンだ。手に取ると、子供のものではない。老人のものでもない。若い女のものだ。薄いピンクのラメが付いた、細いヘアピン1本が、私の心を掻き毟った。
ピンクのヘヤピンを目にした瞬間、心臓が「ドキッ」と鳴ったような気がした。ドクドクと心臓を通り過ぎてゆく血液が体中を駆け巡った。長い髪を止めたであろうそのピンが、
「奥さん、私、ご主人と仲良くこうして、いつも一緒にいるんですよ。」
そう語りかけているように思えた。
二人目の出産を控えていた私は、髪をバッサリ短く切って、女としてより母としての責任を果たすその時に備えていた。なのに、このヘヤピンには、女の色香が漂い、母となる私への侮辱とも感じる色気があった。先日のイヤリングよりも、もっと女を感じたのだった。
「これ、誰のヘアピンかしら?」と、優しく聞いてみた。
「会社の女の子のだろ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「時々、仕事で乗せる事もあるから」
と、夫は顔色も変えず答えた。
(そうかもしれない!でも違うかも?)
「そんなはずないでしょ! 女と一緒だったんでしょ!」と言いたかったが、争うことが凄く恐く、それ以上はただ何も言えず黙っていた。
そして次の送信は、初夏の車中にあった。それは、今まで以上のインパクトを持って私に伝えてきた。助手席の足元に、花柄のビーチサンダルが乱れて脱ぎ捨ててあったのだ。もちろん私の物ではない。
ピンクの鼻緒と、黄色の大きな花柄が、待ちきれない夏を謳歌しているように眩しく輝いて助手席の下から顔を出していた。サンダルを手に取ると、砂が少し着いていた。
サラサラと落ちる砂は、儚げでありながら主張をしていた。砂の付いたビーチサンダルから、海辺での楽しい一時が連想された。
(夫はこの花柄のサンダルを履いた女と何処かの海でも行ったのだろうか?三浦海岸だろうか、それとも、もっと遠距離の海へ出かけて行ったのだろうか?笑いながら、絡みながら、砂浜を歩いたのだろうか?)
女はこのビーチサンダルを忘れたのではない。二人の関係を私に見せびらかしたかったのだ。一足のサンダルは、多くの感情を憑依させそこにあった。
(妻は、子供の世話と、親の面倒と、二子を抱えたお腹を支えながら家事に追われているのに、何て男なの!最低!死ね!)いくら暴言を並べても、この口惜しさは晴れるものではなかった。体の芯から出てくる女の執着が、愛しているでもない夫に浮気をされて初めて溢れだした。
@ルージュの伝言
だんだんとエスカレートするメッセージに、困惑しつつも、まだ妻の優位性を味わってもいた。
(私は妻。子供もいる。妊娠時の浮気など良くある話だ!)と落ち着いてもいられた。
これは主婦の悟りとでもいうべきものなのだろうか?今の現状を保守するために、生活を守るために、そしてこれから生まれてくる子供を守るために、感情を封印していたのかもしれない。でも、正直に言えば、お腹の命に優しい思いをかけてあげられる余裕は全くなかった。ただ栄養を採らなくてはと、そのことだけは必死で、ビタミンを採るため、ほうれん草やブロッコリー、小松菜、牛レバーを食べ、カルシウムを採るため人一倍牛乳を飲み、体重はみるみるうちに十キロを超えた。夫は、妻が妊娠中には家族というより同居人の態を深く感じさせた。
TVドラマのワンシーンに〈ワイシャツに付いた口紅を奥さんが発見し、それを夫に問い詰める〉そんなシーンがよくあるが、私にもそんなベタな出来事が訪れた。
脱ぎ捨てたワイシャツを苦しいお腹で拾い上げると、真っ白なワイシャツに、ある訳もない紅いリップの跡が鮮明に浮かび上り、図々しく私の目に飛び込んできた。
体中を一気に血が駆け廻り、熱くなり、怒りと憎しみが込み上げてきた。
「ねえ、ワイシャツに口紅がついているわよ!!」
もう浮気は、私の中で確証に変化していたので、皮肉たっぷりに言ってみた。
それでも、夫は、
「そうか? きっとクラブの女の子に付られたんだな!」
と、平然と鼻の下を長くして返答した。
(バカ言てんじゃないわ! しらばっくれるんじゃないわよ!)
「こんな所に付く訳ないじゃない!」と、自分でも驚く位の大きな声で怒鳴った。
「わざとホステスがやったんだよ!」
と、あくまでも白を切った。
(ワイシャツに口紅が付くことぐらい何なのだ。別にたいしたことではないじゃないか・・新築の家の中で子供を身ごもり、美味しいものを食べ、生活の心配をすることなく、縁側に座り暖かな日差しに照らされる。こんな幸せの形を手に入れられる女性はそう多くないはず・・・だけど、違う! 私は凄く孤独だ!寂しくて、悔しくて、切なくて・・・私はいったい何なの?)
こんな孤独感の中でも、自身の置かれている立場や出来事を観察してみた。
自宅への電話、アクセサリーの忘れ物、口紅の跡、香水の香り、髪の毛。その女性が本当に大門真一を愛しているならば、こんな証拠は残さないはずだ。
これが始まった頃には、その女が夫大門真一を愛している事よりも、
「奥さんあなた以上に愛する存在がいるのよ!」と私にメッセージを送っているように思えた。
夫には「私を無視したら承知しないわよ!」との勧告をしているのかもしれない。
ダイイングメッセージならぬ、ラビングメッセージだ。
(こんな恋愛ごっこ、すぐに終わりが来るだろう)と思いながらも、一つ一つの出来事にアンテナを張り廻らした。
*オセロ
@我慢の限界
「ご主人が入院をしました」
突然の会社から自宅に連絡が入った。身重の妻ならうろたえ驚くのが普通なのに、
私はなんだか笑ってしまった。嬉しいと言っては語弊があるが、
(ほらみろ、悪い事していると、罰があたるんだから・・・)とほくそ笑んだ。
「接触事故を起こしまして、軽症ですが入院をしていただきました」
バイクを乗っていた青年が左折をした時、夫の体に接触して横転。幸い、お互いに大した事はなく軽傷で済んだようだ。
さっそく息子を義母に預け、洗面器やら着替えを持つと、タクシーで病院へと急いだ。
人一倍大きなお腹を抱えながら、病院の階段をやっと上がり二階の大部屋に入ると、奥のベットに恥ずかしそうに目を合わせる夫がいた。
「おー!友達になった田中君」と、
いきなり隣りのベットに寝ている太めの男性を紹介された。
照れなのは分かっていたが、もっと先に言う言葉があるはずだ。なんで普通に私とのコミュニケーションをとれないのだろうか。
「大丈夫なの? 具合どうなの?」と、
私は声を掛けた。
「たいしたことないよ!どうせだから、みんな検査してもらおうと思って!」と、
いつもの強気な夫らしい言葉を発した。
「そうね、働き過ぎだから休養のつもりで入っていたらいいわ。疲れぎみだったもの」
私は、内助の功を尽くす妻を心がけていた、と言うより正確に言えば演じていたのかもしれない。
実際、働き者の夫には、疲労が溜まっていた。
「じゃ、下まで送っていくよ」
と、今来たばかりの私を追い返すように、背中に手を廻し病室から誘いたてた。
「そんなにでっかいお腹してみっともないだろ!」と、
病院の階段を降りる途中でどうしても消化できない言葉を浴びせられた。
(ふざけるな!それがお見舞いに来た妊婦に言う言葉なの!)と、怒鳴りたかった。
「大変だったね。心配かけちゃってごめんね。忙しいのにわざわざありがとう」
こんな言葉が聞きたかった。私は、
「どうしてそんなこと言うのよ!」と、半泣きをして叫んだ。
「こんな体して来なくていいから!」と、急に優しい声に変わった。
その時、寂しさと共に怒りが込み上げ、自分でも思いがけない言葉を発した。とうとうとう私の〈堪忍袋の尾〉は切れた。
「桂木さんがお見舞いに来るからでしょ! 私と会わせたくないから早く帰そうとしているんでしょ! 分かっているんだから!」と、大きな声で叫んだ。
「そんなことないよ、来るわけないだろ」
「じゃあ何で来たばかりなのにすぐ返そうとするのよ!可笑しいでしょ、桂木さんと付き合っていることは分かってるんだから、しらばっくれないでよ」
エーテルの臭いの中で、秘めていた疑惑のすべてを病院の玄関で撒き散らした。
(もしかしたら、あの人が浮気相手かもしれない)と、ずっと前から思っていた女性が「桂木恵子」だ。夫の会社で働いている従業員で、離婚して独り身であったが、小学生の女の子がひとりいた。
離婚の理由は解からないが、決して性格が悪そうには見えなかったし、寧ろ美人で多くの男性からもてるタイプだった。私は、この女性を以前から知っていた。
何故なら、母の親友の姪で、しかも母の紹介で夫の経営している紳士服の会社に入社したからだ。知っているとは云え、人からのまた聞きと、以前母の親友宅でドア越しから、ちらっと見た印象でしかなかった。
始めて彼女と顔を合わせ、言葉を交わしたのは、夫と一緒に買い物をした帰りに会社に立ち寄った時の事だった。
「お疲れ様です!主人がいつもお世話になっております」
と、妻としての挨拶をしながら、夫と一緒にお店に入った時、レジに立ち、長い髪をたらした彼女が、私と挨拶を交わした。彼女は私を見つけると、ハットした顔をした。
彼女の大きな瞳と、一生懸命に笑おうとしている顔が印象的で何かを感じた。時間にしたら、たった一、二秒ぐらいの瞬間に顔から、目から、動揺を感じた。
確かに、彼女は私を見て動揺をしていた。夫と私が一緒に入ってきた事への驚きなのか・・・?
妻である私が想像と違ったのか・・・?
それとも私のお腹が大きかった事への驚きなのか・・・?
その時、彼女の顔は(意外!)と言っているように見えた。
病院でこの「桂木恵子」という名前を、私の口から出されて夫もびっくりしたようだ。
「来る訳ないだろ」と、
ヒステリックになる私を宥めるように言ったが、図星だったことが顔に出ていた。
「いいから、家でゆっくりしてな。大事な体なんだから!」
(そんな猫なで声を出しても騙されないぞ!)
どんな優しい言葉も繕いも、怒りの楯は通そうとしなかった。
この真相はわからないが、きっと彼女が見舞いに来る予定だったのだと思っている。あのうわずった声とあの焦り方は、あまりにも不自然だった。
@出産は女の権利?
夫を病院へ見舞いに行った二日後。怒りの噴火とともに、陣痛が起きてしまった。
胎児も、このただならぬ事態を察し、一刻も早く世に出ることが得策と感じたのかもしれない。これから向かう産婦人科医院は、夫の入院している病院と車で五分位しか離れていなかった。幸い、近所に住んでいる母のお陰で、息子のことは心配しなくて済んだが、二回目とはいえ、お産に挑むのはとても不安だった。
私が初めて長男を産んだ時のこと、分娩台の上で(この痛みを言葉で表現すると、どんな感じだろう)と考えた。余裕があった訳ではないが、この初めての出産を人に説明しなくてはと、真面目に考えていた。
(爪の間に、三〇秒ごとに針金を繰り返し入れられる、津波のように訪れる恐怖感と痛み。これが適切な表現かな!)などと、真面目ながら痛みをごまかす為にも馬鹿な妄想を続けた。
高い分娩台の上に寝かされて、開口十センチになるまで力む事も許されず、痛みに耐えなければいけないのだ。やっと、産んで良い時期に入ると、ここでやっと医師の登場。
しかし、分娩室に入って来た医師は若いインターンのようで、オドオドしている心中が分娩台の上からでも読み取れた。
(こんな奴では頼りなくて産めない!)と、心の中で叫んだ。
横にいた婦長らしき女性も、見ていられないと思ったのか、医師を退き、分娩を引き受けてくれた。赤ん坊の頭を引っ張ると「オギャー」という産声をやっと聞くことができた。
出産は午後四0時五十四分。ちょうどその時、屋外放送のスピーカーから、
「♪からすーなぜ鳴くのー からすは山にー 可愛いい七つの子があるからよー」という町内のメロディーが分娩室に流れ込んできた。
やっと母親になった私への、お祝いのメッセージに聞こえた。二十八時間も掛かってやっと産まれた赤ん坊の事より、
(こんな苦しい思いをして、母は四人の子供を産み、女手ひとつで育ててくれたのか~)と、自分の母への感謝の思いが込み上げ、分娩台の上で涙が止めどなく流れた。
赤ん坊をお腹からやっと搾り出しても、この後に第二の痛みが待っていた。麻酔無しの〈縫合〉である。自然分娩であっても、事前に聞かされることなく、自然に裂ける前に子宮口をハサミで「チョッキン」と切って開口してしまうのだ。
陣痛の痛みの方が勝っているので、切った時の痛みはさほどの事ではないが、その切開した切り口を直りが遅くなるという理由で、また麻酔もせずに縫い合わせるのだった。出産も終りとホッとしたところへの追撃である。
そして、第三の痛みは分娩後の子宮収縮だった。
出産後に、子宮が元に戻ろうとする為に痛みが起きるのだ。妊婦は出産後もお腹に氷嚢を乗せられ、ベットの上で唸る日が続く。食事の時も、体重をかけて座る事もできず、経産婦はドーナツ座布団を充て浮き腰でご飯を食べなければならない。
しかし、何故かこれらの痛みは、日を追うごとに忘れてしまうから不思議だ。だからこそ、二人目の出産に挑めるのだと思う。これも女性にインプットされた、子孫繁栄の為のプログラミングなのだろうか?いや、母性の成せる業(わざ)なのだと信じたい。
人間は、大企業の社長でも、世界を揺るがす大統領でも、ひとりも洩れなく、女性の体の中で育まれ、この世に産まれてきている。この先どんなに化学が発達し、クローン人間を作ろうとしても、女性の体の中で八ヶ月間育まれない限り、人間とはならない。母親の鼓動を聞き、母親の食べたものを血肉とし、人間となる。
もし、それ以外の方法で人間を造ったとしても、それはサイボーグにすぎない。
この日の出産は、夫も入院中。しかも二日前には浮気相手であろう「桂木恵子」のことで口論をするという状況下での分娩となった。
診察が終ると陣痛の合間をぬって分娩室に歩いて移動した。分娩台の上で陣痛の間隔が短くなっていく苦しさと戦っていた時に、看護婦さんから、
「ご主人が来てますよ」と、
入院中である筈の夫が廊下に居ることを知らされた。
私が入院した事を聞きつけ、真夜中に黙って病院を抜け出して来たのだった。
なんだか、ドラマのワンシーンのように思えた。嬉しくもあったが、相変わらずの破天荒ぶりに鼻を鳴らした。
今度は二度目の出産でもあり(すぐに産まれるだろう)と思っていたのだが、隣の分娩台に寝ていた初産の一九才の女性に先を越されてしまった。そして、やっと産まれた赤ん坊は、希望通りの女の子だった。
廊下で待っていた夫が分娩室の中へ入ってくると、照れながら、
「お疲れ様!」と一言声をかけてくれた。
桂木恵子の名前を出した病院で、喧嘩別れをしてから始めての対面であった。
「女の子だよ!」と報告すると、
「うん」とだけ答えた。
何だか気まずい雰囲気だったが、普通の夫婦の会話があった。
豪放な夫は、病院へ戻る途中、お祝いの為にワインを買って帰った。もちろん病院での飲酒など許される筈はないし本人も飲めはしなかったが、入院患者と共に病室で祝杯を挙げたらしい。その結果、隣のベットにいたあの入院患者は容態が悪くなり、次の日、点滴を打つ羽目になった事も後で聞かされた。
思い出作りの為なら、縛りや常識など、払い除ける夫であった。
子供が欲しいのになかなかできない人もいれば、欲しくないのにできてしまう人もいる。現実は、私などと比べようも無いくらいに、悲惨な女性を作りだし、事実、子供を産むも産まないも女性次第だが、すでに大きくなったお腹なら女は産むより生きる道はないのだ。
この二、三日のうちに、女として最も悔しい感情から、最も嬉しい感情に裏返った。
*心の鏡
@プレゼント
〈桂木恵子〉の名前を口に出してからも、その存在は気になっていたが、育児と介護に毎日追われ浮気の追撃などしていられなかった。そんなある朝、夫から女にとって嬉しい筈の話しがあった。
「明日、毛皮屋をやってる友人が家に来るから、毛皮のコートを見せてもらいな!」
と、言われたのだ。夫はいつも結論を知らせた。
「何?毛皮のコート?」
突然の話しにピンとこなかった。
「誕生日のプレゼントにミンクのコート買ってやるよ。友人との付き合いで買わなきゃならないんだ」
「いらないわよ、毛皮なんて。着る機会ないじゃない」
乳飲み子のいる主婦にとって、突飛な話だった。
「買い物に行く時、着ればいいんだよ!ともかく、明日来るから!」
万事がこれであった。なにか、ピントが合わない。素直に感謝もできなかった。
〈猫に小判!〉それとも、〈夏に火鉢!〉というところだろうか。毛皮のコートなど今の私に全く興味のない代物だった。
翌日、夫の友人が沢山のミンクのコートを乗せたバンでやってきた。恰幅のいい中年男性である。
「斉藤と申します。いつもご主人にお世話になっております。」
「こちらこそ!」
無難なあいさつを済ませ、コートを見せてもらうことにした。
「母が寝てますので、二階へお上がり下さい」
義母が一階で寝ていたので、あたりまえのように二階に通した。
しかし、義母はしっかり起きていて怪訝な顔をしてふたりの動向をじっと見ていた。義母は優しく根の良い人であったが、ひとつひとつの行動に、嫁として本当に疲れることがある。こんな事を、夫は理解する気持ちも余裕もないだろうが、毎日毎日の一言や癖、行動が大きなストレスとなって、人の命さえ奪うのだ。
その中年男性は、何度も車と二階を往復して運ぶほど、たくさんのミンクのコートを持ってきてくれた。
黒のロングとショート。茶色のロングとショート。八畳の畳の間に二十着ぐらいのコート絨毯のように並べてくれた。正札を見ると、目の飛び出る値段だ。
百万円、百五十万年、二百万円・・・・
バブル絶頂期でもあり、夫はこの時期、かなりの収入を得ていたが、こんな高い値段では買えないと思った。
「どうぞ着てみてください」
と商売人らしい口調でそう言うと黒いミンクのコートを持ち上げた。
「着る機会なんてないんですよ。私、あんまり毛皮好きじゃないんですよね」
私は今さら言っても仕方の無い失礼な言葉を口走った。斉藤さんは、まったく私の言葉など聞かなかったように、私の肩にミンクを置いた。
女の気持ちを見透かしたプロの対応は、抗う私の気持ちを包み、
「お似合いですよ」と微笑みながら一言いった。
着たことのないミンクのコートに手を通した時、言葉とは裏腹に、なんだかとても嬉しくなった。
洋服も宝石も靴もバックも、女の心の溝を埋めてくれる。毎日育児に追われている合間のほんのひと時、優雅な気持ちに誘(いざな)われ、着るかどうかも判らない毛皮のコートを購入する気持ちに傾いた。私の心を読むかのように、斉藤さんは空かさず言った。
「この値段ら三掛けになりますよ!」
(三掛け?)
「三掛けって七割引きですよね?」
「はい、卸値でやらさせていただきます」
(なんだか大きな割引きだけど、毛皮ってそんなに上乗せして定価を決めているの)とすごく驚いた。
私の一番欲しかったコートは、桁違いの値段なので、手ごろな黒のロングのサガミンクにした。北欧産の雄。艶が良く毛並みも綺麗でシンプルなデザインだった。
私への〈慰謝〉の気持ちからなのか、このコートを買ってもらうこととなったのだが、世間では動物愛護団体のデモやらで、ミンクの毛皮に冷たい視線が注がれているようで、なかなか着る気になれなかった。
それでも、ここぞとばかりにミンクを着て出かけていくと、友人達が誉めてくれたのだが、
「これ、主人のお詫びの印なの!」と、嘘とはいいがたい冗談を言ってみた。
もう一つのプレゼントは、ダイヤの指輪だった。これも又、夫の友人でダイヤの粒を売る宝石商を家に呼んで買って貰ったのだが、キラキラ光るダイヤの粒をダイニングテーブルの上にバラバラっと置いて選ぶというダイナミックな方法だった。
「この粒は、カットグレードの最高品質で、エクセレントというクラスです。この粒は、もっと大きな1,2カラットのベリーグットです。カラーは、ほとんど無色に近いEです。透明で綺麗でしょ」
ほとんど説明は頭に入らず、目の前にある三十粒ほどのダイヤの輝きに心が奪われた。
女は何故にこんなにもキラキラしたものに心が惹かれるのだろう。ただのガラスでも、
アクリルでも、キラキラしていれば心が弾む。
「これはいくらですか?」
1.2カラットのダイヤを摘まんで聞いてみた。いくら私が支払わなくても値段は気になった。
「六十万円です。小売りで買えば百万はしますよ」
驚きはしたが、これに決めた。これも夫のお詫びの印なのだから・・
贅沢な本心を言えば、赤いバラを手に、リボンのついた箱を渡して欲しかった。
〈愛の証しは、プレゼントで決まる〉というが、プレゼントには往々にして下心が詰まっているのかもしれない。
@シナリオ
我が家では、家族構成に似合わないスポーツカーを乗っていた。きっと、夫にとっては似合っていたのかもしれないが、二人の子持ちともなればスポーツカーも卒業しなければならないと思ったのか、ワゴン車に買い変えた。
八人乗りのため、かなり広く使えた。レジャーの時に、子供達を乗せて出掛ける恰好の車だった。
(オムツを取り換える時に、子供を寝かせられて便利だな)
そんなことしか私の頭にはなかった。
夫が出かけるある日の朝、
「ティッシュペーパー! 車になくなっているから入れといて!」
と夫が大きな声で私を呼んだ。自分で補給すれば良いのに、必ず私に用を頼む。
夫の茶碗を下げる事も、脱いだ洋服を畳むのも、全て私の仕事となり、まるで大きな子供の様に手が係る。
しかし、この時は少し趣が違った。車にティッシュがなければ私だって、とても困る。鼻をかんだり、子供の食べこぼしを拭いたり、無いと困るのはあたりまえの事だが、夫は一生懸命に説明をしたのだ。
「ティッシュがないとほんと困るよな。鼻水が出ちゃってさ。鼻かんでばっかりだよ。この前なんかお客さん乗せて『ティッシュ』って言われてないんだもの、困ちゃったよ。ちゃんと入れといてくれよな!」
何にも聞いていないのに、その必要性を一生懸命に説明するのだ。
いつもなら、「ティッシュを車に入れておいて!」としか言わない筈なのに、何かの理由が夫を饒舌にさせたのだと思う。
下着の購入を頼む時も、
「こんなヨレヨレのパンツ履いていたら、会社の人に笑われちゃったよ。『今どきブリーフはないだろ!』とか言われちゃって、今度トランクスに変えようと思うんだ! サウナに行った時まずいからさ、新しいの買っておいてくれよ!」
白いブリーフをみっともないなどと考えるような人ではなかった。きっと、
「そんなオジンくさいパンツ履いて!」
と会社の人ではない誰かに笑われたのだろう。今までなら、何でも 私の買ったものを喜んで着てくれる人であったのに。
私は、近所のスーパーへ行ってとびきり派手なブルーに黄色のトラの絵が書いてあるトランクスや、アメリカの国旗のような赤と青の縞に碇が書いてあるパンツを買って帰った。
(まるでヤクザみたい)と、思いながら、ささやかな復讐をした。
その後、いつの間にか、それらのパンツは、行方も分からず箪笥から消えてなくなっていた。ならば、お気に入りのトランクスにマジックで「しんいち」とウエストのゴムに大きく書いた。夫には、
「誰にも見せるわけじゃないし、サウナで間違えないでしょ」
と嘯いた。
そして、帰宅が遅くなった時も、
「やあ、今日専務に捕まっちゃってさ、奥さんの実家で、もめ事が有るらしくて色んな事相談されちゃったよ。なんだか、奥さんが借金を作っちゃたらしいんだな。本当にまいっちゃったよ!」
「『帰ろう帰ろう』と言ったって、なかなか帰らないんだ。だから、飲ん兵は嫌だよな!」
誰かの所為で帰りが遅くなったことを強調して説明をした。
とても無口な人なのに妙に帰宅が遅くなった理由を解説するのだった。きっと家路に着くまでの間、シナリオを作成していたのだと思う。
@顔は口ほどに物を言う
夫は本来正直な人間なのだと思う。その証拠に嘘をつくとすぐ顔に出る鼻から左右に放射線状のシワが寄る。帰宅が遅くなった理由を私に報告している時も、まるで、猫のヒゲのような線が正直に顔に現れるのだ。
自分を 批判された悔しさが絶頂に達した時などは、小鼻が締り、鼻がとんがる。その反対に嬉しい時は鼻の下が伸びるのだ。
行きつけのスナックのママなどに、ちやほやされているだろう事を指摘すると、嬉しくて否定しながらも、ほんとに鼻の下が長くなる。
「スナックのママは仕事だから誉め捲るけど、本当の事は私しか言わないのよ!」
と、水を注しても一向に目が醒めず、毎週スナック通いをしているのだ。きっと、
「社長は歌が上手いわねー。なかなかこんな難しい歌、唄いこなせないわよ」
とか言われているのだろう。私たちとカラオケに行っても「マイウェイ」とか「群青」を大きな声で自慢げに唄っている。信じやすく騙され易い純粋な人間なのかもしれない。そして嘘を言っている時などは、目の玉が左右にキョロキョロ動いて落ちつきがなくなるのだ。焦った時には瞬きの回数も多くなり、実に分かり易い人だ。
心の動きは身体に現れ、それ以上に顔に現れ、顔以上に目に現われるのだ。
一寸の眼には隠された内面が映し出されるのだった。
「目は口ほどに物を言う」という訳で、これを見られまいと無意識に目を伏せたり、顔を合わさなくしてしまう。女性の視野は、男性より広く、異変を察知することができるらしいが、聴覚・視覚・味覚・臭覚・触覚・知覚・観覚・本能を駆使して、女は夫の浮気を見抜くのだ。
大門真一の観察はこの後も続き、まるで探偵のようになっていたのだが、子育て介護に身も心も捕らわれていたので、決定的証拠を掴む機会もなかった。
しかし、誤解がある事も否めない。私が高校生時代に、これに関する嫌な思い出があった。クラスの中でお財布が無くなり、ホームルームに犯人捜しが行なわれた。
「誰が取ったの。言いなさい!」と、
担任の女教師から生徒全員に向かって自白を迫られた。私はこの時、前の席に座っている私と同姓の幸子がやったのではないかと直感した。目撃したわけではなく、この直感もあてにはならなかったが、彼女には日頃から少々被害を被っていた。
自分勝手に人のノートや鉛筆を拝借され、私が気付き請求をするまで返してはくれなかった。お金の貸し借りでもとてもルーズだった。
「誰なの、この中にいるのは分かっているんですよ!」
攻められる教師の言葉に
(やだ、どうしよう。幸子がやったのかしら?)と思っているうちに、私の顔はみるみる赤くなり、その赤くなっている自分に気が付き、更に、耳まで真赤になってしまった。
気まずくなっている私を見た教師は、
「判ったわ。早く手を揚げなさい」
と私を見て言うのであった。
(絶対に私じゃない)という事は、私が一番良く知っていた。
その件は、そのまま有耶無耶に終ってしまったが、時に勘違いがあることも肝に銘じなくてはならないのだ。
*穿った眼(まなこ)
@日曜出勤
夫婦なら日曜日の午後、手を繋ぎ近くの公園を散歩したり、買い物に出かけたり、映画を見に行ったり。春には、桜を愛でる旅へ、夏には、浴衣を着て朝顔市へ、秋には紅葉を求め渓谷へ、冬には、雪の露天風呂へ。
こんな姿が私の描く理想の夫婦生活だったのに、およそかけ離れた毎日が過ぎていった。たまに旅行へ行ったとしても、夫はゴルフ場へ、子供と私は旅館に置いてきぼりを食わされ、その周辺で遊ぶしかなかった。この時は、近場にあったスネークセンターへ出かけて行ったのだが、蛇がこの世で一番嫌いな動物なのに、胃が痛くなる思いで観光をし、具合が悪くなった思い出が残っている。
夫は、最近では残業や付き合いが増え、帰宅時間もどんどん遅くなり、日曜出勤などと云うものも飛び出してきた。
接待ゴルフと称し、地方のゴルフ場に朝早くから出かる事も多くなった。
「大事なお客だから行かない訳にはいかないんだ。無理だって言ったんだけど、ゴルフ好きで付き合いが大変だよ! せっかくの日曜だってゆうのに本当に疲れるよ。まったく!」
本当に接待なら、私は、もっと喜んで行って欲しかった。
例え、密会でなくても私に気を使い、こんな事を言う人ではあるが、何だかこの日は言い訳がましく聞こえた。
ゴルフに行くと、朝六時頃から夜の九時頃まで、空白の時間、いや自由な時間が得られる、浮気には絶好の隠れ蓑となった。
そして、ゴルフから帰宅すると、たまに下着を裏返しに着て帰ることもあった。
何万回となく下着を洗い畳んでいる主婦にとって、下着の裏表の違いなどは瞬時に目に付く。
「下着裏返しだよ!」
と、疑惑の想いを込めて指摘すると、
「朝から裏返しに着ていたんだよ!」
と、苦笑いをしながら答えた。
ゴルフ場のお風呂に入った際に裏返ったのかもしれないのに、朝から裏返しに着ていたなどと分りもしないのに弁明するのだ。こんな時は私のワンポイント勝ちであった。
疑惑が深まると、どうしても所持品検査をしたくなるものである。
スコアー表を探すと、以前の表はバック入れたままであったが、今日のプレーを記したものはなかった。
「今日のゴルフ、誰と行ったの?」
「うん!金井社長だよ。あと社長の取引先の人」
「あなたの成績は良かったの?」
「まあまあかな」当たり障りのない返答をした。
「じゃあスコアー表見せて!」とは、言えなかった。どうせ「忘れてきた」とか「捨てた」等と、言うに決まっているからだ。
争っても無駄なことでも黙っていられないこのジレンマは、浮気の疑惑を持った妻に共通して言えることなのかもしれない。
そして、夫にも出張と称する外泊が増えるようになった。仕事と言えば、何でも許されるという男の手段なのかもしれない。
その日は、服の買い付けに京都へ行くというのである。出張日程は三日間。行程を聞く暇などない私は、
「そう」と答えるしかなかった。
「四条河原町に行って、それから大阪に立ち寄って来るから」
(東京で商売していて、京都なんて関係あるのだろうか)と思いつつも聞き流していた。
新婚旅行の時も、折角の海外旅行予定を取り止めて、京都へ仕事のお供で行く事となったのだが、一石二鳥とほくそ笑んでいたのだろうか、今思い出しても腹が立った。すべてが、仕事中心の夫であったが、新婚旅行の時ぐらい、仕事を忘れて過ごしたかった。
それから、半年後ぐらいにハワイへ新婚旅行のやり直しに行ったのだが、ワイキキの海辺でウキウキしている私に夫はポツリと呟いた。
「仕事どうなっているかな、早く帰りたいな」
この一言で、すっかり〈バラ色の新婚旅行〉は色褪せてしまった。
〈ムード〉とか、〈デリカシー〉等と無関係な男と結婚をしたのも私の意志なのだが、すでにこの時、後悔していたのかもしれない。
出張はその後も増え、「仕事」の名のもとに近県や大阪に行き、家を空けることが多くなった。出張、イコール浮気は短絡的な考えかもしれないが、穿った目で見てしまうとすべてが疑惑となった。
アリバイ用の駅のホームアナウンスが入ったカセットテープや、地方のお土産などが、東京駅で手に入るらしいが、夫はそこまで豆な人ではなく、普段からお土産も買ってこない事を習慣づけていた。ただ、私に、着もしない着替えのYシャツや、ネクタイを鞄に詰めさせた事ぐらいだった。
良き妻を演じるはずの私は、家庭や育児を放棄し自由に飛び回っているこの男に憎しみを感じるようになった。それでも、ひたすら介護、子育ての毎日は、間断なく続いた。
@携帯電話
携帯電話が普及するようになると、夫も早々と購入をしていた。家族を介さず会話のできるプライベート性の高いアイテムとして活用できるし、緊急性を要する連絡にはとても便利だ。
しかし、疚しい事があれば、証拠物件となり、着歴や発歴、メールは常に消去しなければならないし、知られて困る名前は、アドレスにイニシャルで入力したり、存在しない社名で入力したりと、常に気を使っていなければならず、携帯の傍も離れられない。絶対に触れさせたくないし、身から離さない。
夫は、着信があると、おもむろに席を立ち私から離れ、声高で返答した。
「はい、大門です」
今までなら私の前で受けていたのに、受話器の向こう側から漏れる声を心配し、席を立たずにはいられないようだ。
妻に面と向かっての会話では、プレシャーが大き過ぎる為なのかもしれない。
「はい、それじゃまた電話するから・・・・・・わかった、じゃあね」とこんな会話で終わった。具体的な固有名詞や名前は出てこない。でも、
(あの女だ)
時には、外から大した用事でもないのに家に電話を掛けて来る事があった。
「この前のあれだけどさ、どうなった?」
「そんなこと、家に帰ってからでいいじゃない。今日は何時頃帰ってくるの?」
「遅くなりそうだから、よろしく!」
何とも変な会話だが、これは、所在確認なのだと思う。妻が今、何所に居るのか確認する事によって、鉢合わせの恐怖感から逃れ、安心して密会を楽しむ為なのだ。
近所に住む友人の旦那さんなどは、寒い日でも、雨の日でも、度々屋外で携帯電話を掛けているところを何度も近所の主婦に目撃されている。
こんな事をすれば、大概の主婦は、
(あ!怪しい!きっと浮気相手に電話をしているんだ!)とピンと来るはずである。
女同志の横のつながりを考えれば、奥さんにバレルのは必至だった。
この旦那さんは〈生臭坊主〉と言われるような、下半身優先の僧侶だった。人は、職業や学歴では計り知れない〈H心〉を持っている。
むしろ、堅い職業の人ほど、日頃の鬱憤が蓄積し、〈H心〉に火が着くようだ。
その旦那さんのお相手は外国人だったが、やがて奥さんは子供を連れて家を出ていた。
@お風呂
夫はお風呂好きでもあった。でも今夜は少し違った。
「今日、サウナに行って来たから風呂はいいや!」
「珍しいね」
「ああ、取引先の人が無料のチケット持っていて、誘ってくれたんだ。」
「どこのサウナ?」と突っ込みを入れてみた。
「ああ、あの近くの、あの浅草の・・」
可愛そうなくらい、しどろもどろになった。
サウナに行って来たのなら、家で入らないのは当然であるし、確かに風呂上りのようにさっぱりしているし、石鹸の匂いまで微かにする。
(自宅では石鹸など絶対に使わないのだが)
夫は、いつ頃からの慣習か、風呂に入っても石鹸を使って体を洗ったことがなかった。
そのうえ、いつの日か嗅いだ事のあるヘアークリームの匂いがした。
(・・・・・・・ああ、思い出した!これは以前、主人と行ったことのあるラブホテルのヘアークリームの匂いだ!きっとそこへ行ったに違いない)と確信した。
安心の為か、昔、私と行き慣れたホテルを選んだようだ。蒲田駅の奥まった処にあるホテルで、少し料金が高いためアメニティには高級品を使っていた。そのヘヤークリームもビジネスホテルでは置いていない代物だ。乳白色をしたクリームは変わったデザインの小瓶に入っていた。
部屋もロココ調を真似た豪華な装飾で、ベットもやけに大きかった。
風呂は、二人が十分入れる大きさで、湯の出る蛇口はライオンのような恰好をしていて、お湯にライトで色も付けられた。
(あんなところで密会をしていたのか)
そして帰宅後、真っ先に風呂へ直行する事もあった。アンテナを張ってきた妻の臭覚から逃れる為に、風呂へ飛び込むのだろう。もちろん証拠隠滅の為である。
彼女の香水の匂いとか諸々であるが、逃れる為に焦り、お風呂へ直行する姿はあまりのも滑稽だった。
鞄をリビングに投げ置き、背広も脱がずそのまま脱衣所へ行き、
「今日は疲れたなー」
と、私に聞こえるように声高に湯船に浸かった。
それからも、風呂好きは続き、外出事には風呂に入ってから何処かへ出て行くことも度々あった。おまけに歯磨きもしていった。
もしデートならば、女性は外食をこよなく愛し、必ず食事をすることになる。好きな人と一緒に食事をすることで、愛が満たされている様な気がするくらい欠かせない行為だ。
外食をする事が分かっているなら、朝から妻に知らせてくれれば良いのに、疚しい思いは、それを成さない。
妻に知らせれば、
「今日、何かあるの?」
「誰と会うの?」
「何食べに行くの?」と質問攻めに合うのは必至である。
平和に朝の出勤を終えるには、その日、偶然食事をする事になった方が、都合が良いのだ。例え、帰宅後に質問を受けるとしても、時間稼ぎと成るし、運よければ妻が寝ているというささやかな期待も持てる。
夫の食事を作らなくて良い事が、妻にとってどれほどの開放感を与えるものなのかを夫は知らない。
〈彼女との楽しい晩餐〉を終えてきても、なかなか食べてきたとは言えないのか、夫が帰宅すると、
「ご飯は?」の私の問い掛けに対し、
「食べて来ないに決まっているだろ!」と、横柄な返答が帰ってくる。
(こんなに遅く帰って来たら、食べて来たに決まっているでしょ)
この「決まっているだろ」という言葉が私たち夫婦の関係を物語っていた。夫が私に相談をしなくとも、正しいと夫が判断したことは、決定してゆく。それに妻が従うのは当たり前なのだ。
私は急いで簡単な食事を用意したが、一向に食が進まない。
外でいくら腹八文目に食べてきても、夕食を二回食べるのは、とても無理というものだ。
心の奥に疑惑を抱きながら、些細な行為も穿った目で観察をしてしまった。
私は、あの日の電話から、まるで探偵のようになっていった。
匂いは付いていないか脱いだ服を嗅ぎ、髪の毛はないか、車の中を、目を皿のようにして探したり、「信じるという大切さ」の微塵もなくなっていった。
しかしこの時までは、夫の行動を観察できる妻の余裕とでもいうべきものが、まだ残っていたのだった。
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