レディー・ババの奮闘記/妻よ大志を抱け 

レディー・ババ

第1幕 プロローグ

*始まりはドラマのように

@青天の霹靂

トゥルルル トゥルル

良く晴れた日の午後、電話のベルが明るく家中に鳴り響いた。掃除の手を止め、(どうせセールスの電話ではないか)と思いつつ、重たい体を抱え電話に向かった。

「はい、大門です!」

受話器の相手に忙しさを漂わせながらそう答えると、相手の言葉を待った。

「あなたの旦那さん、浮気していますよ・・・」

唐突な言葉が、私の体に電撃のように飛び込んだ。若い女の声だ。

「あなた、どなたですか?」

女は名前を名乗らず話しを続けた。

「友達が悩んでいるので電話したんです!」

知り合いの顔がグルグルと頭の中を駆け巡ったが、思い当たる顔はなかった。

「会社の帰りにデートしたり、家まで来たりしていますよ。一緒になるって言っているそうです」

小さな声ながらも、気の強そうな口調だった。

(何をこの女は言っているのだ。さては、悪戯電話だな!)

「だれかと間違えているんじゃないですか? うちは大門ですよ!」

受話器から聞こえてくる文言とは正反対に、玄関越しに見えるアスファルトは、眩しいくらいに初夏の日差しをキラキラと輝かせていた。

「はい。御宅の旦那さんですよ!大門社長です」

(大門真一が!絶対にありえない!この電話の主の目的は何だろうか、嫌がらせか、それとも・・・)この時は一〇〇%疑う心など起きなかった。

頭の中は初めて遭遇する事態への対処に戸惑いながらも、今までの夫の生き様を思い出し、きっぱりと言い切れた。

「うちの主人はそんな事をしませんよ!あなた、どなたなの?もしかして、本人じゃないの!」

「・・・・・・・・・」無言が答えに思えた。妻の威厳を保ちながらも、事情聴衆のために、冷静に話を続けた。

「どうしてこんな電話かけてくるの!何か主人があなたに悪い事したのかしら?」

動揺しない私に腹を立てているかのように、いっそう強い口調で夫の浮気を主張した。

 女は、はっきりした声で、

「ご主人は『子供を産んでも良い』と言っています。『奥さんと別れて一緒に成る』とも言っているそうです!」

「・・・・・・・・・・」

(嘘だ!夫が浮気だなんて絶対にありえない。この女、頭でもおかしいのだろうか、それとも夫婦の仲を裂こうとする嫌がらせなのか・・・)

「そんなこと信じられないけど、あなた、誰なの?」

ガチャ プー プー プー 電話は切られた。 

人間は人の発した一言で、すべての考えを覆す時がある。

「社会に貢献したい!人々を助けたい!」等と口にするほどの夫が浮気をするなんて・・・。タバコも吸わず、お酒も飲まず、ギャンブルも大嫌いな夫に女の影などおよそミスマッチだ。しかし、受話器を置いてからも女の言った台詞が、何回も何回も繰り返し、お経のように頭の中を駆け巡った。

「あなたの旦那さん、浮気していますよ・・・」

「あなたの旦那さん、浮気していますよ・・・」

「あなたの旦那さん、浮気していますよ・・・」


暖かな日差しの中で、二人目の子供をお腹に抱え、新居の掃除していた穏やかな午後の出来事だった。

 まさに、晴天の霹靂とはこのことだ。


@シックスセンス

二才になる息子は、六時ごろに夕食を済ませて、早々と寝てしまっていた。

「ただいま!」いつも通りの、夫の帰宅だ。

「お帰りなさい!」

 ダイニングキッチンに入ってくる夫のカバンを甲斐甲斐しく受け取ると食事の仕度に戻った。

 「疲っかれたー!!」

 帰ってくると、よく開口一番に言う台詞だ。

「私だって子育てで疲れているのよ!3時間しか寝てないのよ!」

と、声を出して言いたかったが、不満を口にすることさえ私のプライドが許さなかった。

「お疲れ様!大変だったね」

と、何もなかったように食事の用意をしながら、私は心の中で、今日有った怪しげな電話の話をいつ切り出そうかとみそ汁の入った鍋をかき混ぜながら考えた。

ダイニングキッチンのテーブルの上に、夫が好物の大根おろし付きの焼き魚とキュウリのお漬物と味噌汁を並べ、夕食の支度を整えた。特に大根おろしは、ステーキより喜んでもらえる。簡単なメニューでありながら、結構大変なサイドメニューだ。

貧しい農家に生まれた夫からは、

「3品以上のおかずを出すな」と倹しい暮らしを旨とするよう指示されていた。

 夫は着替えを終えて食卓の席に付くと、いつものように、

「ご飯!」のコール。

 帝主関白な夫は、美辞麗句など男にとって愚の骨頂とでも言わんばかりに、単語を並べ、命令調にものを言うのであった。

会話をしながらの食事など稀な事で、大概は、新聞を広げるか、巨人戦に熱中してテレビに釘づけだった。私に猛アタックして結婚した癖に、今や恋人は「読売巨人」と化してしまった。野球のどこがあんなに男達を熱くするのか、少し男の純粋さを羨ましくも思った。テレビ観戦に夢中な夫の真正面に座り、それとなく昼間あった電話の話を切り出した。

「ねえ、今日変な電話があったのよ!驚いちゃった」

「何の・・・」まったく興味を示さない口ぶりで答えた。

「あなたが浮気をしてるなんて言ってきたの。若い女の人だったよ!」

 実際、この時までは、私を困らす為のいたずら電話だと思っていた。

「誰かのいたずらだろ!そんなの放とけ!」

 夫の声がいきなり大きくなった。何でこんな伝達事項をしただけで声を荒げるのだ。

(へん、変、何か変・・・・・)私の第六感が動いた。

(これは唯の嫌がらせではないかもしれない)と。


女は微かな変化にも反応する生き物らしい。子供を産み、命を繋ぐには、些細な変化にも敏感にキャッチできる能力を天は与えたのだ。子育ての経験から産まれた洞察力は、夫の変化にも鋭く反応するのであった。声の響き、匂いや動作、体温、色の変化等々、太古から培ったこの能力を男たちは見くびっている。

夫は憮然とした顔で、

「そんなの誰かのいたずらに決まってるじゃないか!」と数分後にまた言った。

なんだか私のことを怒っているようだ。

「他愛もない悪戯を取り上げて人の顔色など見るな!」とでも言いたげだ。

 プライドの高い男ほど自分の弱点をつかれると怒る。いわゆる逆切れというやつだ。

「別に悪戯だとは思うけど、誰が掛けてきたのかしら?」

誰が掛けてきたのか、夫に話せばその糸口が見つかるのではと思っただけのに、再び意外な言葉が返って来た。

「お前の友達じゃないか!」

なんと、恰も私の中にトラブルがあるとでも言いたげだ。

矛先の転換にしては屁宅な返答だった。この目の前の夫が浮気をしている確証はないが、(秘密を持って私と生活をしていることは確かだ)との思いが、初めてこの時私の心に宿った。

こんな衝撃的な出来事も目殴るしい生活に押し流され、いつしか私の中で影の存在となって逝った。


@昭和の陰り

そもそもこの男と出会ったのは、

昭和五十年。三億円強奪事件の時効が十二月十日に迫っているとのニュースが流れていた初夏、友人に誘われフォークソングのサークル集会に湾岸沖の公民館に向かった時だった。そこには三十人ほどの男女がギターをつま弾きながら、輪をつくり思い思いに歌っていた。

そして、友人に、このサークルの中心者、大門真一を紹介された。黒い革ジャンに丸坊主。おまけに前歯が1本抜けていた。

(私の大嫌いなタイプだ)

「僕たちのようなクズでも、みんなで力を合わせれば社会の役に立つんです」

と、学生運動家のようなコメントには驚いたが、私もこのクズの一員となり音楽活動を始めたのだった。

フォーク全盛の風の中、ラッパズボンにチューリップハットを被り、井上陽水や吉田拓郎の歌を口ずさみながら、ヒッピーの真似をして青春を謳歌していた。

たまに足を踏み入れる喫茶店には、インベーダーゲームがテーブル変りにドカンとスペースを取り、席に着くなりガラス板越しのカラフルなインベーダーの動きに釘付けとなっていた。

まだ世間には貧しさの空気が漂い、よれよれのTシャツを着ていようと其れは其れなりの文化となっていた。

そして貧乏を自慢すれば、この中にいる若者たちは群を抜いていた。

 経済面だけではなく、平仮名を書く練習をしている十八歳の文盲の青年や、引き篭もりになった盲目の青年、それに造船会社が倒産し無職になってしまった男等、サクセスストーリーからはほど遠い若者たちの集まりだった。

その中心に居たのが、前歯の一本抜けたこの男「大門真一」だった。

職業は屋台を引くラーメン屋。自宅のアパートにはラーメンのタレを入れた大きな瓶が置いてあり、異臭を放っていた。ここが時々フォーク仲間の集合先となったのだが、六畳一間の畳の部屋に、ラーメンのタレが入った大きな瓶と、沢山の本と、ピアノが置いてあるような、摩訶不思議な部屋だった。

まさか、この部屋の住人と結婚する事になるとはこの時、夢にも思わなかった。

この家の柱にぶら下がっていた状差し中に(大門真一様)と書いたハガキが目に留まった。

(大門めぐみ。いい名前だ)などと自分でも信じがたい連想をしていた。


@プロポーズは突然に

 ある日、フォーク仲間の澄子と私は、真一から近くの喫茶店に呼び出された。坂の途中にある古びたウエスタン調の店だった。

 私は、約束の時間にその喫茶店に行くと、彼女と大門真一の他にもう一人、バンドのメンバーが座っていた。この青年は、誰からも好かれる好青年だった。いつもは快活な彼も、私と顔を合わせるでもなく黙って下を向いたまま真一の隣に座っていた。何の話があるのか全く想像もつかず、3人の中に加わった。真一は、自分の将来の構想などを吶々と語り始めた。

 そして、私達ふたりに、まじめに且つ慎重にこう話した。

「二人のうちの、どちらかと結婚したいと思っている」と。

心の中で(なんで二人の中・・・)と呟いた。

世の中に、こんな身勝手なプロポーズを受ける女性がいるのだろうか?

「ふざけないで!女を何だと思っているのよ!」と普通の女性なら怒るところだ。

ましてや、職業が屋台のラーメン屋ともなれば大概の女性はこの申し出を辞退するはず。しかし、私たちはこの奇妙なプロポーズを受け止めた。

その深層は、真剣に生きたいとの思いからであろうことを私達二人は理解していた。

そして、少なからず二人の中にあった真一に対する尊敬の念とでも云うべきものが、この奇妙なプロポーズを納得させたのだ。

私はこの無礼なプロポーズを心の中で受け止めていた。


自宅へ帰った夜、そんな事など知る由もない母から、

「真一さんとの結婚は賛成もしないし、反対もしないよ!」

と、突然に言われたのだ。恐るべき母親の直感・・・。まるで予言者のように。

アイロンをかけながら唐突に切り出した言葉に、母の長い間の思索を感じた。

 私には、その時の母の言葉は「反対」と聞えた。


〈聡明で優しく、正義感とユーモアのある人〉これが私の理想のタイプの男性だった。

なのに、嫌いなタイプを凝縮したような、粗雑で無神経で、自尊心が強く自画自賛をし、おまけに背は低く、田舎訛りで、いつもセンスの悪い服を着ている、そんな真一に、私は少なからず興味を持っていた。この男の何が私を引き付けたのだろうか。

決して私はブスとまではいかないと思うが、恋愛からはかなり遠い位置に立っていたからかもしれない。

真一は、人々にどうしてここまで優しくできるのかと思う程、ヒューマニストでもあり、真実だと思った事に一歩も妥協をしない正義感をも持ち合わせていた。        

世界的な民族紛争、核問題、環境破壊。どれをとっても私達の小さな存在から手の届かない問題であったが、真一は自分の事として真剣に捉えようともしていた。

始めは、(この男のやっている事は、パフォーマンスではなかろうか?)と疑った。

しかし、接して行く内に、心底から人を放って置けない性格であることを徐々に理解し、この純粋な気持ちに、第七感ともいうべきものが共鳴したのかもしれない。

(嫌い)と思える要素は数多く有ったが、(好き)と思える要素は少なくとも、その比重は大きかった。自身では、コントロールしにくい深層の自身がこの男を選んだのかもしれない。


あの日以来、「結婚しよう」とも「愛してる」とも、一度も言われたことなどなかったが、日に日に、母一人、子一人で住む我が家に荷物を持ち込まれ、まるで押しかけ亭主のように我が家に棲みついた。何故こんなことが許されたのかというと、母は無類の麻雀好きで、メンツが一人足りないのをいつも真一で埋めていた。それ故に、いとも簡単に朝まで居座ることができたのだ。

白いブリーフやシャツの洗濯まで図々しく洗濯機の上に置いていき、我が家から出勤していった。(この男と結婚したら、ジェットコースターのような人生になるだろうな!)と直感しながら、だんだんと真一の荷物は増えていった。


@神田川

私にも大門真一の他に好きな人がいた。

 まだ私が学生の頃、近所の友人宅で、その人を初めて見た時、(この人は、私と結婚する人かもしれない!運命の人かも)と、妄想させてくれるほど優しさが顔に溢れている男性だった。一級建築士でありながらひょうきんで、さわやかで、「知る者は言わず」。まさに知性をひけらかさない理想の人だった。何処かで会ったような気がするくらい懐かしい人でもあった。

ある日、新宿でばったりと会い、目の前の喫茶店に入り、私はジンジャエールを、その人はコーヒーを注文した。千載一遇のチャンスだと言うのに、これと言って何も話す事ができなかった。

「好きです!」とも、「私のことをどう思っていますか?」などとも聞けず、私は殆ど黙って座っていた。おしゃべりな私をそうさせたのは、この時すでに、大門真一との結納を一か月後に控えていたからだ。

時、既に遅し! 

私は迷いながらも、着実に真一との結婚に向けて背中を押されながら前に進んでいた。それでも、この目の前の人が諦めきれず、もしかしたら

「めぐみちゃんのことが好きだよ。一緒になろうよ」こんな言葉を聞けるのではと、一抹の期待をしたが、

「めぐみちゃんのお婿さんは、僕が探してあげるよ!」と、

初めてのデートで悲劇的な言葉を投げつけたのだ。

なんて優しく、なんて悲しい言葉なんだ!私は、咄嗟に

「この世で二番目に好きな人と結婚します!」そう言って席を立った。

私はこの時、出会うべきして出会った人との糸を無理やり切った気がした。


夏のある日、我が家で結納が執り行われた。仲人は取引先の社長に頼み、主人側からは両親が高齢の為、長男の兄が、こちら側からは父が他界している為、母が出席し質素ながらも厳粛に結納が行なわれた。この席で、義兄は詩吟を披露してくれた。

そして珍しいことだと思うが、「私にも歌を」と義兄から要望され、促がされるままに「喜びの歌」を立って独唱した。

「晴れたる青空漂う雲よ 小鳥は歌えり 林に森に 心は朗らか喜び満ちて・・・」

(この結婚を幸せに満ちたものにしよう!)との、私の決意でもあった。


「あなたはもう忘れたかしら、赤い手ぬぐいマフラーにして・・・・・・」

 この「神田川」の歌が流行る頃、私達は結婚をした。

新居はお風呂も水洗トイレもベランダもない、古いアパートだったが満足していた。家賃も三万五千円。どこの新婚家庭の家賃より安かったと思う。

お膳もママゴトで使うような折りたたみの小さなテーブルであったが、新婚当時の私たちにとっては、何も気にならなかった。

結婚後も夫が共同経営をする紳士服店に共働きをし、帰宅すると九時近くになっていた。それから、夕飯の支度をし、お膳を整えた。

「おかずは三品以上出すな」と主人の忠告通り、お魚と煮物とお漬物という、質素な献立も心掛けていた。

夜には、二人で石鹸と風呂桶を持って近くの銭湯へ行った。昔ながらの番台のある銭湯だ。お風呂から上がる時には、夫が男風呂から唄う合図の歌を待った。

演歌を歌っているのだろうが、大きな声でまるで軍歌を唄っているように聞こえたが、それを聞くと私もお風呂から上がる用意をしたのだ。照れ臭かったが、大勢の中で二人だけの秘密を楽しんだ。

 お風呂のない古いアパートであろうと、「神田川」の歌にある新婚生活そのものだった。寝る時はシングル布団を一枚だけ引き、お互いに窮屈だとも思わず、毎日一緒に寝ていた。


*育(いく)自(じ)

@寧々様

大門真一と結婚して二年の歳月が流れた。

「赤ちゃんはまだなの?」と、隣に住んでいる人の良さそうな婦人から声をかけられたが、新妻にとって、何気なく発せられるこの言葉ほど、重く圧し掛かる言葉はない。

「ええ、未だできないんです。なかなかできなくて・・・・」

と笑って答えるしかなかった。

「大丈夫よ、あまり悩まないことよ」

と言っては貰っても、新婚から二年も経つと些か悩まない訳にはいかなかった。

今度こそ赤ちゃんができたのではないかと、急いで産婦人科に行くと、

「お目出たではありませんよ!」と、

悲しく恥ずかしい宣告を何回となく受けた。挙げ句の果てに、同僚の男達からは、

「作り方知らないんじゃないの!教えてあげようか!」などと、からかわれるのだった。一緒に経理を担当していた老齢の経理部長からも、なかなか子供ができない私に、留めの一言、

「まるで、ねね様みたいだね」と。

子供のできなかった豊臣秀吉の正室、寧々様のようだというのだ。

まったく、無神経な男どもである。男は女である事の辛さを理解しようとした事があるのだろうか。子供の頃から、大変な思いをして生理日を迎えては乗り越えなければならない。腹痛、腰痛はもちろん、貧血や頭痛、発熱、あらゆる痛みに耐え、歩行すらできなくなる事もあるのだ。

その度に会社を休む訳にもいかず、立ち仕事だろうが、社員旅行だろうが、付き合わなければならないのだ。ざっと計算しても五〇〇回以上繰り返すのだから、強くもなるし、我儘にもなる。こんな女の険しい道のりを男は理解しようともしない。

(もう私には子供はできないかもしれない)

そんな思いが増幅してくると、何気ない冗談や一言が致命傷になる。

一般的には、女性の排卵は二十八日に一回やってくるのだが、私は九十日に一回という妊娠の確率の低い体であった。だからこそ尚更、(子供は一生できないかもしれない)と思っていた。

毎月毎月やってくる生理に、期待を打ち砕かれつつ、妊娠しやすい体操を教わったり、逆立ちをしたり、骨盤のゆがみ矯正の整体に通ったり、あらゆる努力をした。

この頃、すれ違うお腹の大きな女性が次々と私の目に飛び込んでくるようになった。

今まで気にも留めていなかった子連れや妊婦なのに、私の頭の中の最優先項目として、その映像を真っ先にキャッチした。

私には、今、「妊娠」という事実が最も欲しかった。


ある真夏の午後、近所の主婦が私を見つけると、声を掛けてきた。

「ねえ大門さん、ずいぶん感じが違うけど、赤ちゃんができたんじゃないの?」と。

 子供を産んだ女性の目は凄いもので、本人も知らない妊娠を言い当てたのだった。

(もしかしたら、今度こそ出来ているかもしれない)微かな期待を胸に、産婦人科を訪ねると確かに医師から、

「大門さん、おめでたですよ!」と、初めての診断を得た。

(やった!やったー! ねね様もご懐妊。これで皆、喜んでくれるぞ!)

天にも昇る気持ちとはこのことだ。病院からの帰り道、自分へのご褒美にケーキを買って帰った。私のお腹の中に人間がいる。この神秘を噛みしめながら、生まれてくる子供を想像した。女の子だろうか、男の子だろうか?やっとできた感謝の気持ちで小躍りをしながら夫の帰宅を待った。


@離乳作戦

七か月後。初産は散々なものだった。予定日の二週間を過ぎても陣痛が来ない。強制的に産ませる手段を医師は敢行した。陣痛促進剤というものを点滴して産ませるのだが、これが苦しい。約二十九時間、嫌というほど陣痛を味わって、やっと翌日の陽の沈むころ、第一子が産まれた。 

〈一姫二太郎〉とは良く言ったもので、〈初めにおとなしい女の子が生まれれば、子育てが楽だ〉という古き格言だが、我が家は、〈一太郎〉だった。

母乳で育てるのが一番だと信じていた私は、なかなか出ないおっぱいを一生懸命に吸わせた。息子はお乳の出が悪くても必死で吸い続け、とうとう私の乳首には血豆まで出来てしまった。息子の努力の甲斐もあり、お乳は溢れるほど出るようになり、お風呂に入ると、ミルク風呂になってしまうのではないかと思うほど、豊満なおっぱいからお乳が浴槽にピューと放射するのだった。

しかし、母乳はお腹持ちが悪いらしく、毎晩、空腹に夜泣きを繰り返された。一時間おきに起こされる夜もあった。粉ミルクだとお腹持ちが良いので朝まで寝てくれるのだが、息子は、絶対にミルクを口にしなかった。哺乳瓶のゴムの感触が嫌らしく舌で押し出し最後まで抵抗した。この授乳戦では私の方が根負けをする事となった。

泣き止まない時は、保健所のマニュアル通り、(オムツは塗れてないか)(お腹が空いてないか)(熱はないか)(何処か痛い所はないか)等と、調べては見るが一行に泣き止まず、息子をおぶって夜道を散歩することもあった。

初めての子育てをする中で、どんなにマニュアルを頭に入れて対処しても、自分自身が泣きたくなるほど困惑する場面に何度も遭遇した。

「何で泣いてるの? 何で泣き止まないのよ!」

こんな毎日を何とか乗り越えてこられたのは、夫ではなく近所に居た実母のお蔭だった。この真夜中の攻防戦は約一年間続いたのだ。

 

毎日の子育てに疲れきり、(嗚呼!今日一日がやっと終わった!)と叫びたくなるほど、肉体的にも精神的にも限界だった。睡眠不足と疲れから、(本当に私に育てられるのだろうか)との重圧感に覆われノイローゼ寸前の毎日でもあった。

(喫茶店でゆっくりとコーヒーが飲みたい!)このささやかな願いを叶える事もこの時はできなかった。


親を育て、母性を育て、共に人間形成の長い階段を上ってゆくのが育児ならぬ育自なのだと感じた。


*陰徳あれば陽報あり

@決断

夫は、結婚当初より給料の封を切らずに持ってきてくれた。そんなまじめな働きぶりが功を奏してか、若くして四DKの我が家を手にする事ができた。実家から徒歩五分、新婚時代を過ごしたアパートからも五分ぐらいの所に新居を構えた。

新築の家と小さな子供のいる家庭、幸せを絵に書いたような人生だったが、お気楽な生活はそうは続かなかった。


ある日、群馬に住んでいる義妹から、何か重大な要件と察知できるような荒げた声で電話が入った。

「あんちゃん所で、父ちゃんと母ちゃんの面倒見て欲しいんだけど!母ちゃんは寝たきりだし、父ちゃんも母ちゃんの看病で寝込んでしまってるんよ」と、

子育て真っ最中の我が家へ、義母と義父の介護のオファーがかかった。


義母と義父は、農作業をして生計を立てていたが、周りに店などない山奥で、食事も自給自足の野菜のみを食べ、栄養も行き届かない状態になってしまったのだと思う。

 夫は、末っ子なので社会通念からすれば、両親の面倒を見なくても良いのかもしれないが、何処の兄弟も色々な事情をかかえ、私達のところに御鉢が廻ってきたのだ。

 末の妹も義母と義父の面倒を見ていた為、両親を引き取る事など到底無理だった。何よりも義母が、

「真一のところへ行きたい」と夫を指名した事が一番の決め手となった。

この言葉は私に摂っても嬉しかった。

この頃の私は、自我自讃ではあるがとっても良い妻だったと思う。夫も周りの人に、私のことを臆目もなくべた誉めをしていた。

同居に関しても、私に何の相談もなく決めていたが、きっと相談されても決して断りはしなかった。こんな大事なことでさえ(妻は自分の跡について来るのがあたり前)との傲慢さで押し切った。結果は同じでも過程が大切なのに、そんな事は夫の頭にはなかった。

 

義父は東京に来る事をとても嫌がっていた。

「この土地を離れることなど、絶対にできん!」と、頑として東京行きを拒んだ。

「母ちゃんに良い病院があるから検査の為に東京へ行こうよ」と偽り、頑固な義父と寝たきりの義母を何とか我が家に連れて来た。

都会とはいえ駅までは徒歩十五分。どこへ出るにも坂を上がらなければならない辺鄙な場所が意外と気に入ったらしく、義父は東京への移住を受け入れていった。住めば都というが、一ヶ月のお試し移住にすっかり慣れ、東京を住居とすることとなった。

 そして、我が家に、七〇才の義母と七十五才の義父を迎え、真一と私と息子の五人暮らしの生活が始まった。まだ手の係る息子や、これら産まれる子供の事を考えると不安ではあったが、精一杯良い嫁を務めようと意を固めた。

〈陰徳あれば陽報あり〉という格言を私は信じていた。

 そして、もしもこの両親を連れてこなければ、私の人生の中に汚点を残す大変なことが待っていた。

 

お試し移住から一か月後、思いもよらないニュースが、群馬から飛び込んできた。

「今、大門さん家が燃えてるんよ!」

「何よ!家んちが燃えとんの?」

受話器を取る義母は仰天しながらも、さすが六人の子供を育てた女性だと思うほど、電話の向こうからの声に冷静に応答した。

「何で燃えてるのよ?じいちゃんも私も東京に来てて、誰も住んでおらんのよ。付け火なの?」

近所の人からの連絡だった。私は、慌てて夫に電話をしてこの一大事を伝えた。

「田舎の家が火事になってるそうよ。今、隣町の銀ちゃんから連絡が入ったの」

「群馬の家が燃えてるの? 分かったすぐ帰るから。じいちゃんに田舎へ行く支度するように言っといて」

夫もさすがにこの報を聞いて慌てていた。

その日のうちに群馬へ向かってもらった。実家に到着した時には、もう全焼して焼け落ちた家の残骸しかなかったと言う。家財道具はもちろんの事、思い出の品まで全部焼けてしまった。近所の人や親戚が家財道具を持ち出そうとしたが、パニック状態となり、炊飯器や、どうでもいい餅つき機を運び出したそうだ。

我が家の近所で火事があった時も、住人が慌てて持ち出したのは枕と布団だったという。もっと大切な物が有ったのだろうが、突発的な異変に思考回路は混乱をきたし思いもよらない行動を取ってしまうようだ。その反対に、「火事場のバカ力」というように潜在能力を引き出す場合もあるのに、今回の火事では前者だったようだ。

 

後日、警察の調べで、火災原因は農納屋に置いてあった石灰窒素よる自然発火である事が判った。

 私がもし二人の受け入れを拒んでいたら、二人とも寝たまま焼け死んでいたのは確実だったと思う。その焼け跡から、イタチの死骸が二匹見つかったという信じられない報告も受けた。(本来動物は火に敏感なはずなのに・・・)

自然物が身代わりなるという話を聞いたことがあるが、この事実は私へのメッセージに受け取れた。そして、夫と自分自身の決断に感謝をした。

そうでなければ、二人を見殺しにしたという後悔の念が、きっと一生付き纏ったに違いない。


@アル中と介護

 それからというもの、義母と義父は、我が家を終の棲家とすることを余儀なく受けいれなければならなかった。そして、私には毎日の家事に二人の世話が加わった。

 義母の薬を貰うこともニ週に一度の家事となり、義母を連れて病院に行かなければ薬は貰えない為、息子を着替えさせ、タクシーを呼び病院へと向かった。買い物や食事の支度、洗濯とやる事は山の様にあった。

中でも一番大変なのは、義母は身障者二級の認定を受けているほどの難聴で、体も長い間の農作業で九十度に折れ曲がっていた。

「おばあちゃん、なんだか今日はとっても暑いね!」

との何気ない問いかけにも、

「ええ、何よ?」

「おばあちゃん、今日は暑いね!」

「はあ、何だって!」

「あ・つ・い・ね!」

同じ部屋の中に居て、気軽な天気の挨拶も儘ならなかった。実母より優しいと思える義母であったが、毎日、朝から晩までの会話に魂が吸い取られるような疲労感があった。リュウマチでもあった為、体の節々の痛みも時折訴えた。

体を動かすのもままならず、小柄だったが、私より重く感じるほど骨格がしっかりしていた。毎日、何回ものトイレへの移動は、我が身の腰をかばいながら、

「うんとこしょ!どっこいしょ!」「うんとこしょ!どっこいしょ!」」

と心の中で、唄いながら義母を抱えた。

「お母さん、悪いね」

義母は私のことをお母さんと呼んでいたが、なんだか可愛かった。

 

食事の支度も五人分となり、献立にも苦労をしなければならなかった。義父は、カップラーメンやスパゲティ、パンなどの洋食が大嫌いで、目の前に置いても手付かずにするほどだった。

(この頑固者!)と思いつつ、嫁として朝、昼、晩、時には和と洋の二種類の献立を頑張って作った。その点、女は脳みそが柔らかいと云うか、義母は何にでも挑戦して食べてくれた。ピザとかグラタンなども大好物となった。

特に、ベーカーリーで買ってくる菓子パンが大好きだ。障害者年金から私にお金を渡しては、このパンの購入を依頼してきた。山奥にいたら食べられないパンが、この町ではいとも簡単に手に入る。生活していくには、どんな食が手に入れられるか。これが幸福感の大きなウエイトを占めるようだ。


そして、この食に全く興味のない、お酒が大好きな義父が私たちを悩ませた。

義父は、夫が学生のころからお酒を飲むようになり、近所でも有名な酔っぱらいだったらしい。時には、バットを振り回し、山まで追いかけてきたという。

東京に余儀無く引っ越しをしてきた義父は、食の豊富さが功を奏してか、元気になって来たのだが、酒好きが頭を持ち上げてきた。庭の片隅に菜園を作り、ナスとキュウリとトマトを育て余暇を楽しんでいたが、それだけでは余りある時間に、ついついお酒に気持ちが向いてしまい、何もしない時間は全て焼酎のグラスを手にしていた。

朝から四十度の焼酎をストレートで飲んでしまうほどのお酒好きであった。もはや、(アルコール中毒)だった。義母と私で、あまりの飲みっぷりに、

「じいちゃん、体に毒だからやめなよ!」

と忠告しようものなら、尚更、煽るように焼酎を飲んだ。酔った時のご乱交は尚も許しがたかった。トイレの後、廊下に「ぽっとん」と汚物の落し物をしたり、時には近所の酒屋さんから、

「おじいちゃんが道端で寝ていたよ」との報告を受け、

「すいません、どこですか?迎えに行ってきます」

と、救助にも行った。どんどんと酒が義父を変貌させていった。

ある日、私は義父の酒乱に堪り兼ね、焼酎の入った一升ビンを手に取り、義父の前で泣き叫びながらキッチンの流しにぶちまけた。

「何でお酒ばっかり飲むのよ!」私の凶変ぶりに義父は驚いたようだが、

「いいよ、又買って来るから」

とぼそぼそと言いながら外へと出ていった。帰宅時にはなんと二本の焼酎の一升瓶を手にしているという偏屈ぶりだ。

「何でじいちゃんはそうなの、真一にお世話になっているのに、少し考えな!」

と義母も声を荒げた。

酔っていないと優しく思いやりのある人なのだが、酔うと別人になった。あまりの素行に腹が立ち、(よし!この姿を見せてビックリさせてやるぞ!)と、酔っぱらいの義父を被写体にビデオを廻した。翌朝、義父をビデオの前に呼んで、昨日の姿を、テレビ画面を通し上映をしたところ、

「ありゃまあ!これ俺かい?ぶったまげたな!」

と、自分の姿に驚き、まったく悪気なく頭を抱えたのだった。その落ち込んだ反省の姿を見て、なんだかあまりの素直さに拍子抜けがした。これを記念に、飲酒に関する川柳の公募に応募したら、この詩が入選し本に載ってしまった。

「ベロンベロ ビデオにおさめ 朝を待つ」

本当に、酔っぱらっている人間は変わるものだと思うが、心の底に眠っていた思いが濁流のように流れ出てくるのかもしれない。 


私の実父もアル中であった。酔っ払いの怒鳴る声が夜道の遠くから聞こえたかと思うと、その声は我が家に入ってきた。耳を塞ぎながら布団を被るのが癖となるほど、毎日、毎日、父の酒乱に怯えていた。包丁を持って、母と私の前に立たれたこともあった。この子供時代の記憶が、(ぜったい酒飲みとは結婚しない!)との強い決意を生み、お酒もタバコも吸わない夫を選んだ筈なのに、やはり酒飲みと関わる運命となったのだ。

毎日七人の子供の食い扶持を得るため、雨の日も風の日も畑作業に生を出し、病気や怪我さえも押し退けて働くほど武骨な義父であったのに、自身の役割が無くなった時、酒に寂しさを溶かしていたのかもしれない。

その時、義父の心の寂しさを理解してあげる余裕など私には無かった。 


この「毎日」は同じ繰り返しの中にも、ふとイレギュラーな出来事が出現して来るのだったが、お昼ご飯に、いなり寿司を食べている時の事だった。

義母は器官が狭くなっている為か、よく食べ物を喉に詰まらす事があった。

「クックッ!カァカァー」という声に振り向くと、義母が苦しそうに顔を歪めていた。

私は慌てて背中を叩いた。顔がだんだん青くなっていき、一向に治まらず(このままでは死んでしまう!)と思い、慌てて救急車を呼んだ。

日頃、良い嫁を務めようと思っていても、喧嘩をすると義母は、

「あたしゃ、どうせもうすぐ死ぬんだからさぁ」、

「ああ!早くあの世へ行きたいよ」などと、悪態を付くことがあった。

それでいながらしっかりと欠かさず薬を飲む義母を見て、(早く死んじゃえばいいのに!)と思う時もあったのだ。誰にでも訪れる老いなのに、邪魔者のように毛嫌いをしてしまった。なのに、いざ死にそうな義母を前にして、必死で助けようとしている自分がまだいてくれたことに、自分でも嬉しく思った。119に電話をし(早く、早く助けて!)祈りながら救急車の到着を待った。息子を実母に預けると、長く待った救急車に乗り込み、酸素マスクと応急処置を受けながら、やっと病院へ到着。

診察が終わると、中年の担当医が開口一番、気だるそうな声で、

「おばあちゃん!物はゆっくり噛んで飲まないと!」と、

(困ったお婆さんだなあー)と言わんばかりに諭した。

義母は素直に小さな声で

「はい」と答えた。

私には決して、医師として思いやりを持っての言葉には聞こえなかった。


救急車に付き添いで乗ったのはこれで三回目だが、初めて乗った時は、実家にたまたま行った時、トイレで母が苦しみ真っ青な顔をして便器の上で呻いていた。

私は死んでしまうかもと思い、戸惑いながらも思い切って救急車を呼んだ。

診察の結果は驚いたことに便秘が原因だった。


この後も義母は、何回となく衰弱で入退院を繰り返したが、はっきりした病名を持たないと、入院もさせてくれず、たとえベットの空きを待って入院できたとしても期間付きで出されてしまうのだ。

この病弱な義母や、アル中の義父、息子の面倒、これから生まれるお腹の子。

これが私の肩に圧し掛かかった。

それでも、ノー天気が功を相し不幸せなどと、一度も思った事が無かった。 

後ろには、私を愛してくれているであろう夫と、可愛い子供、そして多くの友人がいるのだから・・・。





 







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