第116話 大聖不動明王伝
その夜は宿にて。なかなか寝付けず、ヒミカは風に当たろうと縁側へ出た。
そこでハインと鉢合わせになる。
「……あら? ハイン殿」
「奇遇だな。あんたも眠れないのかい」
彼は湯飲みを傍に置き、ぼんやりと月を眺めていた。
「今夜はよく晴れとる……西方でも、同じ月が見えるらしいな」
「もっと東の島国に、そんな歌を詠んだひとがいましたね」
それを思い出し、ヒミカはしとやかに口ずさむ。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
ハインは目を閉じ、静かに聞き入っていた。
「……あんた、意外に男も口説けるんじゃないか」
「そ、そんなつもりでは……」
暴れん坊のはずの巨漢が、今夜は金色の月光に照らされ、敬虔な僧にも思えてくる。
「ロベルト殿は寝てらっしゃるんですか?」
「調子に乗って、つい飲ませちまってな。まあ強ぇみたいだし、大丈夫だろ」
彼はふうと息をつくと、まるで独白のように囁いた。
「……シャガルアに行かねえとなあ」
ヒミカははっと顔をあげる。
「その通りです! 力を貸してください、ハイン殿。都を救うために」
たとえラムーヴァの仕業であって、法王らに企みがあろうと、苦しい思いをしているのは都の民。彼らを救うことはヒミカの純然な願いでもあった。
「ハイン殿ならきっと多くのかたを救えるはずです」
「持ちあげるなって。おれは道を踏み外した『破戒僧』なんだぜ」
おそらく彼もなすべき使命を感じている。
シカログの件においても、やりかたはどうあれ、ハインのおかげで農民たちは困窮を免れた。またシカログに引導を渡すことはせず、反省の機会を与えている。
「聞いてもいいですか? どうして、あなたは牢の中に?」
ハインは懲りない調子ではにかんだ。
「凶作だってのに商人が米を独占してやがったから、米蔵を襲ったんだよ。ありゃあ傑作だったぞ? 商人のドラ息子が村人から必死に逃げまわってよぉ。わははっ!」
粗暴なようで優しくもある。
(これでお酒を飲まなかったら、いいひとなんでしょうけど……)
不覚にもハインに男気を感じてしまったのが、悔しかった。
再びハインは月を仰ぎ、上の句を口ずさむ。
夜風吹き 酒酔う友へ また勧め
下の句はヒミカが詠んだ。
木々赤に枯れ 美しき哉
顔を見合わせて、ふたりは笑いを堪える。
「……ふふっ、ごめんなさい。せっかくの歌が凡作になってしまいましたね」
「悪くねえさ。おれも下の句は考えてなかったしな」
そして一緒にもう一度。
夜風吹き 酒酔う友へ また勧め 木々赤に枯れ 美しき哉
これは友人と飲んだあと、秋の夜景を眺めてのもの。しかしハインの上の句には、彼の本心が見え隠れしていた。
さけようともへ、またすすめ。
避けようとも進め。
ハインほどの力があれば、いつでも逃げ出せる。それでもヒミカとともにシャガルアを目指すのは、彼にもまた何かしらの理由があってのこと――かもしれなかった。
調子が狂わないうちにヒミカは腰をあげる。
「それじゃあ、私はそろそろ……ハイン殿も早く休んでください」
「おうよ。また明日……ぬ?」
ところがハインは俄かに顔色を変え、ヒミカの肩を掴んだ。
「待て、ヒミカ。ちょっと脱いでみろ」
ヒミカはあんぐりと口を開ける。
「……は? ななっ、何を言ってるんですか!」
「そういう意味じゃねえ。あんた、自分の背中がどうなってるか、知らんだろ?」
ハインの言動には鬼気迫るものがあった。男が女を、などという雰囲気ではなく、かえって一抹の不安に駆られる。
ヒミカはおずおずと寝巻をずらし、彼に少しだけ背中を覗かせた。
「あ、あの……私の後ろに何か?」
「……まずいな」
ハインは溜息をつき、坊主頭をぱしんと叩く。
「起きてくれ、ロベルト! こいつは厄介なことになったぞ!」
「う~ん……どうかしたんですか? ハイン殿……」
真夜中に叩き起こされ、ロベルトは眠そうに目を擦った。しかしヒミカの背中を目の当たりにするや、一気に覚醒する。
「こっ、これは! アザが梵字に……?」
「ご丁寧に『贄』と書かれとるんだ」
背筋にぞっと悪寒が走った。ヒミカは青ざめ、肩越しに尋ねる。
「ハイン殿、梵字のアザとは……まさか、私の身に何か起こってるんですか?」
梵字とは神聖な文字であって、悪鬼の類が易々と使えるものではなかった。文字そのものが魔力を持つため、シャガルアでも一部の僧にのみ使用が許可されている。
「ヒミカさんを狙ってのものでしょうか? この呪いは」
「いや、旅の途中で『転嫁』された可能性もある」
ただの呪いではなかった。聖なる梵字を使っている以上、これは『神罰』に近い。
「そんな……神様のお怒りを買うなんてこと、私には身に覚えがありません! 何かの間違いではないのですか?」
「残念だが、あんたは標的にされとる。……シャガルアはあとまわしだな」
巫女の背中には恐るべき宣告が刻まれている。
『うら若き生娘よ。我が贄となれ』
夜空の月は厚い雲に覆われ、闇の気配が濃くなった。
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