撤退
「んだよ、もう朝かよ……」
あの日から、三週間後。
ルーグは顔面に張り付いた羽虫を払いながら、塹壕の中で伸びをした。
見渡す限り雪景色だった前回とは違い、今回は密林の中の基地だ。
ルーグは着て来た正規の軍服なんてどこかにやって、今は半袖に改造した古い型の迷彩服を着崩している。
懲罰部隊に来る前は、毎日欠かさず手入れをしていたウェーブのかかったベージュの髪の毛は、より地毛に近い茶髪に戻り、まともな散髪も出来る環境ではないので、伸び切った髪を後ろで縛っている。
そして、何よりも目立つのが、頬に刻まれた稲妻のように走る弾痕だ。
以前の顔を知っている物は、今の彼の顔を見て、せっかくの美形が台無しだとがっかりするかもしれない。だが、どこか危険な魅力が増えたとも感じるものも少なくないだろう。
「おはよう、ルーグ。
全く、昨晩の砲撃は酷かったな、寝てる最中に土を被されちゃあ、死んでも死にきれねぇぜ!」
「どうかな?
案外、葬式の手間が省けて楽かもしれないぜ」
「ん? ああ、土葬ってことか!
がはははは、違いねぇ!」
「おい、あたしに葉巻くれよ」
「残念、もうねぇよ」
懲罰兵と談笑を交わすルーグ。
彼は色々変わったが、何よりも変わったのは、内面だ。
以前までのルーグであれば、話を交わすどころか、眼さえをも合わすことに嫌悪感を覚えたことだろう。
確かに、貴族の世界も素晴らしい。何もかもが、美しく着飾った煌びやかな世界だ。その暗面、その裏は醜い。
対して此処は本当に醜い。泥臭いし、血生臭い。
昨日まで居たやつが今日は居なくなっているなんてざらだ。
だが、その分、単純だ。
戦場に審判は居ない、本当に結果しか残らない場所だ。
生きるか、死ぬか。きわめてわかりやすい。
だから、ルーグにとって此処は存外居心地のいいところになっていたのだ。
いろんな戦場を回り、敵兵の死体から戦闘食や葉巻等の嗜好品を奪い去ったりして、それを物々交換するなど、それなりに楽しんでいた。
だが、物事は上手くは進まない。
簡易的な指揮所から、ルーグたちを眺めていたのは、ジークと事務的な副官フォッグマンだ。
「しかし、隊長殿は予想外のことをしてくれますな」
「何の話だ? 」
「あのルーグとかいう貴族です。
……隊長殿、もし、あの男に射撃の才能が無かったらあそこで見捨てていたのでしょう?
射撃の才能を見抜いたからこそ、ああやって彼を嗾けた。
そうでしょう? 」
「ああ、そうかもな」
遥かに年上のフォッグマンの問いに対し、生返事を返すジーク。
例のあの出来事が起きる半年前、その頃にはジークは隊長としての地位を築き上げていたのだ。
「私ならば、教本通りのやり方しかできなかったでしょうな。
上官の言うことを聞かない人間は、鉄拳制裁に限る。
……ですが、こんなやりかたではあの男、いえ、此処にこれだけの人間は残っていなかったでしょうな。
ジーク隊長殿、背中に気を付けた方が良いかもしれませんぞ」
「……何だ、突然?」
「いえ、此処はろくでなし揃いです。
正規部隊で、何かをやらかして此処に来た者も少なくありません。
そういった生真面目な無能にとって、不可思議なやり方でものごとを解決してしまうあなたはとても不愉快に映るかもしれませんので」
「随分と、自分事のように語るんだな」
「ハハハ、まさか……ああ、ともかく。
ルーグ・アインリッヒ、せっかく才能が開花して、少しばかり感情的な面もありますが、中距離射撃は中々、頭も良い。なにより勝利に対する根性はかなりのものとなったというのに……もったいないですな」
「さぁな」
ジークは事務机の上の書類に目を移した。
「ルーグを呼んできてくれ」
◇
「おお、隊長!
今度はどんな地獄に連れて行ってくれるんだ!?
塹壕戦か、突撃戦か、奇襲戦なのか!?」
ルーグはてっきり、次の出撃命令が下されると思い、嬉々としてジークに食らいついた。
だが、ジークの口から出た言葉はルーグの願っていたものでは無かった。
「一応、祝福しておこうか。
おめでとう、お前の罪は血で浄化されたようだ」
「……は?」
ジークが机に投げ落とした一枚の紙切れにはこう書かれていた。
ルーグ・アインリッヒは直ちに原隊へと帰還せよ。陸軍本部、と。
あんなに簡単に放り出されたのに、今度は戻ってこいと言うのだ。
ルーグは呆然とした。
「稀だよ、こんなことは。
この部隊から、戻って来いだなんて」
「いや、でも……! 今更、戻りたくねぇよ!
貴族の作法なんて忘れちまったよ!」
「……何を言ってるんだ。
一か月いたかどうかなのに、しかも、あれだけ貴族がどうのこうのって言ってただろうに……」
「それは悪かったと思ってるよ!
だがな、たった一か月だけどな!
この一か月が、お前らとやって来たこの日常がよ、生まれて来た中で一番楽しかったんだよ!」
ルーグは事務机に何度も拳を叩きつけた。
だが、次第にその拳は弱くなり、最後に力なく机に手を置き、書類を手に取った。
ルーグだって、軍人は命令に従わなければいけないという基本的なことは良く知っていた。
「……世話になったな、隊長」
「いや……別に」
「まぁ、色々と変わったからな。今度はあっちで上手くやるさ。
またな、隊長」
◇
今度は、来た時と逆にトラックに拾われ、そして煌びやかな王都に戻って来た。
ルーグが元々いた基地、そこで待っていたのは、彼の義理の弟だった。
「ク……ククク……これは、これは兄上。ご無事で何より。
それにしても、それは田舎風の着崩しという奴ですかな?」
「お二人がご兄弟だなんて……ふふふ……」
「まさに面汚し……おっと、失礼」
どうやら、彼も軍に志願したらしい。
だが、ルーグと違い、既に大勢の取り巻き達を持っていた。
必死に生きて来た戦場帰りのルーグの姿を彼らは嗤った。
以前までのルーグであれば、すぐに激高してしまっただろう。
だが、今のルーグはただ、淡々と押し黙っていた。
全ては上手くやる為に。
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