偽物婚約者(5)

 ――卑怯……?


 その言葉は、アンリにはまるでそぐわない気がした。

 だけど苦々しい、笑みに似た表情が、冗談で告げた言葉ではないと教えている。


「アンリ様……」


 私はアンリを見つめたまま、ほとんど無意識に声を漏らしていた。

 知らない顔をする彼の様子に、嫌でも二年間の隔たりを感じさせられる。


「旅で……なにかあったのですか?」


 旅の間のアンリのことを、私は詳しく知らない。

 だけど彼の旅先での活躍は、すでに英雄譚となって吟遊詩人たちにも歌われている。

 どれも力強い、勇敢な物語だ。

 強大な魔族に立ち向かい、悲しむ人々を救い出す。人々は勇者に感謝し、最後はいつも、無事を祈って送り出すところで終わる。


 英雄譚を、そのまま受け取るつもりはない。

 英雄譚として、歌われることのない物語もあっただろう。

 アンリは強く優しい人だけど、万能ではない。救えない物語も、あったのだろうと思っている。


 それでも、アンリが人々のために剣を取り、命を懸けて戦ってきたことは、疑ったこともない。

 彼が自分を卑下する理由が、私にはなにも思い浮かばなかった。


「……なにかあった、か」


 アンリは私を一瞥し、静かに目を伏せた。

 笑みのような表情のまま、手だけが持て余したように握り合わされる。


「俺のしたことを知れば、君はきっと軽蔑するよ」


「――いいえ」


 思わず口から出たのは、強い言葉だった。

 私自身でも驚くくらいの否定に、アンリも驚いたように顔を上げる。


「ミシェル?」

「す、すみません! アンリ様の事情も知らないのに……!」


 訝しげなアンリの視線に、私は慌てて首を振った。

 旅の間になにが起きたのかを、私は知らない。

 魔王を倒すための過酷な旅で、正義だけでは進めなかったのかもしれない。自分を責めるような出来事があったのかもしれない。

 だとすれば、慰めの言葉はかけられない。アンリは悪くないとか、気にしないでなんて、私が口にしていい言葉ではない。


「――でも」


 その言葉もまた、思わずというようにこぼれ落ちる。

 たとえ、事情を知らなくても――。


「アンリ様は、理由もなく卑怯なことをする方ではないですから」


 旅立つ前までのアンリのことなら、よく知っている。

 彼の気難しいところも、繊細なところも――人を傷つけたがらない、優しいところも。


「アンリ様がされたことは、アンリ様にとってそれだけ重要なことだったのでしょう? だからこそ、そんなふうに思い悩まれていらっしゃるんでしょう? ……もちろん、悪いことをしたなら反省して、必要なら償いをしていただきたいですけど」


 そう言ってから、私はひとつ息を吐く。

 それから両手を握るアンリを見上げ、私は本心から言った。


「軽蔑なんてしません。アンリ様がどんなことをしてしまっていても、きっと」

「…………」


 アンリは私を見て、少しの間黙った。

 一度目を伏せ、ため息を吐いた理由はわからない。

 呼吸の止まるような、一瞬の静寂のあと――。


「ミシェル。……そういう君だから、俺は帰ってきてしまったんだ」


 告げた彼の言葉に、私は瞬いた。

 ……帰ってきて、しまった?


「返事を聞くだけでよかった。そう思っていたのに」


 くしゃりと顔を歪め、苦しそうに彼はそう言った。

 ためらうように一歩足を踏み出し、彼は私に手を伸ばす。


「どうして君は、俺に諦めさせてくれないんだ」


 押し殺したような、静かな声が部屋に響く。

 恨むような、胸を突くような瞳の色から、私は目を逸らすことができなかった。

 まるで、魅入られたように。


 アンリの手が近づいてくる。

 その指先が、立ち尽くす私の肩に触れる――直前。




「――――やあやあやあ! 私のかわいい甥っ子はここかな!」


 弾けるような明るい声が、部屋の中に響き渡った。

 同時に、勢いよく扉が開かれる音がする。


 驚いて振り返った先。

 扉の入り口に立つ人物の姿に、私はぎょっと目を見開いた。


 一言で言うのならば、フロランス様を男性にしたような美丈夫。

 黒真珠のような髪と、底知れない夜空色の瞳。アンリやアデライトにも面差しの似た、威圧感さえ感じさせる冷たい美貌――を台無しにする陽気な表情に、私もアンリも覚えがある。


 彼こそは、大国ソレイユの大貴族。現ソレイユ国王の弟でもある、コンラート・タイレ公爵閣下だ。

 あるいは、もっとわかりやすく言うのであれば――。


「叔父上!」


 アンリとアデライトの叔父。フロランス様にとっては弟。

 今回の計画で言うならば、偽婚約者マルティナの養父となるお方だった。


「姉上から話は聞いている! 面白いことになってきたな、アンリ!」


 部屋に満ちていた重たい空気もものともせず、閣下はそう言って、心底愉快そうに笑った。

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