偽物婚約者(4)

 嵐のようなフロランス様が去って行ったあと。

 アンリと二人きりで取り残された私は、ひどく気まずい思いをしていた。


 ――ええと……。


 一気に静かになった部屋の中、私はそっとアンリの様子を窺い見る。

 彼はフロランス様が消えた扉の先を見つめたまま、唖然と立ち尽くしているようだ。


 ――無理もないわ。


 だって昨日の今日である。

 偽婚約者だって本心ではやりたくないだろうに、さらには強引に二人きりにまでされてしまったのだ。

 それにこの様子だと、たぶんソレイユ語の件もアンリの了承を得てはいないのだろう。

 完全にフロランス様の騙し討ちである。


 ――フロランス様は、アンリを心配してのことだと思うけれど……。


 アンリの旅立ち前の私たちは、父の件でぎこちなくはあったけれど、別に互いに避け合うようなことはしなかった。

 むしろアンリは私に気を使って、以前よりも気にかけてくれていたくらいだ。

 勇者として修行に明け暮れる忙しい日々の中でも、時間を見つけては私の様子を見に来てくれた。


 そんなアンリの様子を、フロランス様はよく知っていた。

 だからこそ、今の私たちの状態を不審に思われたのだろう。


 ――でも、アンリが私を避けるのは不思議でもなんでもないわ。


 フロランス様は『しっかり会話をするように』と念を押されたけど、むしろこうなってしまったのは、昨日アンリと話をしたからのはずだ。

 アンリとしても、きっと蒸し返されたくはないだろう。

 いくらフロランス様の言いつけだからって、彼にソレイユ語を習うのは、さすがに――――。


「ミシェル」

「ひゃい!」


 唐突に声を掛けられ、口から変な声が出た。

 どうやらすっかり考え込んでしまっていたらしい。

 慌てて呼び声に振り返れば、こちらを窺うアンリの姿が目に入る。


「あ、アンリ様……ええと、その」

「母上にどんなことを言われた?」


 妙に焦ったようなアンリの表情に、私はしばし瞬いた。

 変なことは言われていないような――と考えかけ、内心ですぐに否定する。

 変なことしか言われていない。


 ――アンリと本当に婚約するように、とか。アンリの執着心を甘く見るな、とか。


 他には――。


「この婚約が、最初から俺が考えていた計画だった――ということも、言われた?」

「…………言われました」


 おそるおそる尋ねるアンリに、私はうなずく他にない。

 陛下の婚約宣言とは無関係に、アンリが計画して、すでに根回しもしていたらしい――と。


 私を見つめるアンリの顔が、みるみる強張っていく。

 苦さと恥ずかしさの入り混じったような複雑な表情で、彼は大きく首を振った。


「……ごめん。君の答えも聞く前から、勝手に」


 ばつが悪そうに髪を掻き、アンリはどこか観念した様子で息を吐く。


「断られないと思っていたんだ。……俺が魔王を倒して帰ってくれば、きっと」


 気まずそうに笑うアンリに、私はなにも言えない。

 居心地悪く目を伏せれば、アンリの笑みはますます苦々しさを増す。


「世界よりも、君のことばっかり考えて旅をしていた。魔王を倒せば、結婚を反対する人間を黙らせることができるだろう。英雄になれば、君の心だって得られるはずだ――って」

「……それで、実際に英雄になってしまうんですから」


 アンリは本当にすごい人だ。

 二年もの長く険しい旅を終え、誰にも倒せないと言われた魔王を倒して帰って来た。


 そんな立派な人だからこそ、私には――――。


「いいや」


 うつむきかけた私に、アンリの短い否定が聞こえた。

 思わず顔を上げれば、私に向けて目を細める、端正な顔が見える。


 金の髪がさらりと垂れる。

 窓を背にしたアンリは、逆光を受け、顔に暗い影を落としていた。


 口角がかすかに持ち上がり、青い目がゆっくりと瞬く。

 その表情に、ぞくりとした。


 私を見据える彼の笑みは、心を奪うほどに美しく、蠱惑的で――それでいて、突き放すように冷たい。


 息をのむ私に、アンリはくすりと――自嘲的な吐息を漏らした。


「俺は、ただの卑怯者だよ」

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