偽物婚約者(2)

 翌朝。

 突然の呼び出しに出向いた私へ、フロランス様が開口一番にこう言った。


「――ねえミシェル。あなた、アンリと本当に婚約する気はなくって?」


 はい?


 挨拶しようと開きかけた口もそのままに、私はフロランス様の顔を見やる。

 場所はいつものフロランス様の部屋――ではなく、普段は使われない上等な客室だ。


 使われない割には手入れが行き届いていて、部屋には埃一つない。

 ベッドのシーツは真新しく、暖炉の薪もきちんと補充されてある。

 南向きの窓からは中庭の姿が良く見えて、吹き込む風が心地よい――――などと、現実逃避はしていられない。


「フロランス様……今、なんと……?」


 なんだかとんでもない言葉を聞いた気がした。

 聞き間違いだろうか。

 昨夜遅くまでアデライトに付き合っていたせいで、幻聴でも聞こえてしまったのだろうか?


 恐れながら尋ねる私に、フロランス様はいつもの氷の美貌を歪ませる。

 扇子を片手に私を見据えながら、「ふん」とどこかアデライトに似た表情で再び口を開いた。


「二度は言わなくてよ。ミシェル、あなたアンリと本当に婚約しなさい」


 幻聴じゃなかった……!

 というか、さっきよりも命令口調になっていらっしゃる!?


「ど、ど、ど、どう、どうしたんですか急に」


 動揺のあまり言葉を詰まらせつつ、私はどうにか疑問を絞り出す。

 本当に急すぎて、思考がまるで追いついていない。


「私が、アンリ様と? い、いえ、そもそも私は今日、ソレイユ語の勉強のために呼び出されたんですよね!?」


 フロランス様の使者から『ソレイユ語の教師を呼んだから、客間へ来るように』との伝言を受けたのは、今日の朝早くのことだった。

 歴史や文化は本から学べても、ソレイユ語の会話――それも現地人らしい話し方なんて、私一人の力では学べない。

 だから、フロランス様の計らいは非常にありがたかった。

 私は感謝をしつつ、急いで部屋を訪ねて来た。

 だというのに――。


「き、教師の方はいらっしゃらないんですか? 勉強は……」

「もちろん、勉強もしてもらいます。教師役も、今こちらへ向かっているところでしょう」


 私の疑惑を、フロランス様は短く断ち切る。

 それから澄ました顔で、なんともないように言葉を続けた。


「それはそれとして、婚約の話をしてはおかしくて?」


 おかしい!!!!


「そ、それはそれとして、で話す内容ではないかと思います!」

「そうかしら? アンリもいないし、いい機会でしょう」

「アンリ様ご本人がいないのにする方がおかしくないですか!?」


 婚約というからには、普通は当人同士を交えて話をするものだ。

 まあ、王家ともなれば政治的な関係も絡み、当人の意思とは関係なく結婚をする必要が出てくるが――今回に限っては、政治的な意図はまったくない。

 なにせ、相手が私だ。罪人の娘――ということは置いておいても、フロヴェール伯爵家自体がたいした力を持っていない。

 そうなると、重要なのは当人同士の意思である、はずなのだが。


「いいのよ、アンリは。どうしてか知らないけど、最近あなたのことを避けているでしょう?」


 フロランス様は気にした様子もない。

 涼しい顔で扇子を開き、優雅に仰いでいる。


「様子がおかしいから話を聞いても、はぐらかされてばかり。あんなに夢中だったあなたのことも、『もういい』ですって。どうにも納得がいかないから、あなたの方からくっつけちゃおうと思って」

「…………は」


 は?


「どうせ、あなたから押せばアンリなんて簡単に落ちるのよ。いいから、まずはちょっと婚約してきなさい。それで、なんで避けていたのかを聞き出してきなさい」


 彼女の口調は、まるでただの世間話だ。

 私は唖然とフロランス様の顔を仰ぎ見る。

 呆けた私の姿を見て、フロランス様はニヤリと不敵に微笑んだ。


「そのために、あなたを婚約者役に選んだのだから」


 オレリアと婚約破棄をさせるまでは、アンリも逃げられないでしょう?――と言って、フロランス様はからからと笑った。


 この偽婚約、他意しかない。


 アデライトとよく似たフロランス様の笑みに、私はくらりとめまいがした。

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