王妃の反旗(8)
フロランス様の視線を前に、私は無言で瞬いた。
――私の人生を、変えるようなこと。
頭の中で、フロランス様の言葉を反芻する。
無茶で、私が絶対にやりたくなくて、人生さえも変わってしまうようなこと。
――まさか……。
私は息を呑み、微笑み続けるフロランス様を見やった。
嫌な予感がする。
背中を冷や汗が流れる。
思い返すのは、今朝のこと。
フロランス様から下された、『ソレイユの歴史と文化、言語を学ぶように』という命令だ。
現地人並みに――なんて、なんのためにと思っていたけれど――。
――まさか……まさか…………。
「まさか……私に、そのマルティナという人物になれ、とおっしゃるのですか……?」
静寂の満ちる部屋の中。私は震える声でフロランス様に問いかけた。
そんなわけないでしょう――と否定されるのを期待して、縋るようにその美貌を見上げる。
が――――。
「ええ、もちろん」
フロランス様は躊躇もなく、当然と言わんばかりに頷いた。
「他にいないでしょう? あなたがアンリの、正当な婚約者になるのよ」
「ぜ、ぜんぜん『正当』じゃないじゃないですか!」
フロランス様の前ということも忘れ、私は声を荒げて叫んだ。
だが、フロランス様は咎めもしない。
かえって楽しそうに私を見下ろし、ころころと声を上げて笑ってみせる。
「邪道には邪道で対抗するものです。あちらが無茶なことをしているのですから、こちらだって多少は」
「多少どころか! すべて偽りですよね!?」
アンリの正当な婚約者――どころか、経歴から名前から、生まれた国に至るまで偽りである。
いっそ、陛下の宣言した聖女オレリアとの婚約以上にむちゃくちゃだ。
「無理です、無理! 私にそんなこと――――」
「できない、とは言わせません」
私の言葉を先に奪い、フロランス様は口の端を曲げる。
「アンリと聖女オレリアとの婚約を撤回させるために、アンリには『本当の婚約者』が必要なのです。――だいたい、『どんなことでもする』と言ったのはあなたでしょう」
「い、言いました。言いましたが!」
アンリのためにどんなことでもする。その気持ちは嘘ではない。
どんな大変なことでも、危険なことでもする覚悟はあった。
最悪、この命を賭してでも――とさえ思っていたけれど、これだけは話が別だ。
「いくら偽者とは言え、私がアンリ様の婚約者というのは……! 私では不適格です! きっと、もっと相応しい方がいるはずです!!」
「あなたより適格な相手がいるものですか」
どことなく呆れたようにそう言って、フロランス様は息を吐く。
「いいかげん、観念なさい。だいたいこれは、あなたが思うほどなにもかもが偽りというわけではなくってよ」
「ですが――――」
「母上」
観念しきれず、どうにか抗議しようとした私より先に、低く押し殺したような声が割り込む。
思わず声に目を向ければ、険しい顔をしたアンリが見えた。
彼は私より一歩前に出て、フロランス様と対峙する。
「ミシェルもこう言っています。無理強いをさせるべきではありません! たしかに、オレリアとの婚約をどうにかできないか相談したのは俺ですが――」
一度言葉を区切り、アンリは手のひらを握りしめる。
ぎり、と音がしそうなくらいに握りしめたまま、彼は小さく首を振った。
「俺はもう、ミシェルのことは……」
「なら、聖女オレリアとこの婚約を受け入れるつもりですか?」
「まさか! そんなつもりはありませんが――だからといってなにもミシェルを巻き込む必要はないでしょう!」
「アンリ。……言っておきますけれど」
フロランス様はあくまでも落ち着き払った様子で、抗議するアンリを見下ろした。
「ミシェルを選んだのは、別にあなたを困らせたいからではありません。合理的に考えても、結局のところ彼女が一番適役だったからです」
適役――と言われても、当の本人である私はピンとこない。
戸惑う私を一瞥し、フロランス様は「ふう」と一つ息を吐き出した。
「アンリと年が近くて、貴族の令嬢としての振る舞いができて、ソレイユ語を話せる人間がどれくらいいて? いきなり偽の婚約者になれなんて無茶を言われて、承諾してくれる相手がどれだけ思い浮かんで?」
ぐ、とアンリが言葉に詰まる。
反論できずにいるようだが、私も同じだった。
――たしかに。
フロランス様が言った条件をすべて満たす相手を、すぐに見つけるのは難しい。
特に、『偽の婚約者になれ』なんて言われて、そう簡単に頷く相手はいないだろう。
うかつな相手を選んでしまえば、相手にも嘘がばれてしまうし――『ばらされたくないだろう』と脅してくるような、不届きな人間が出る可能性もなる。
だけど、すでに婚約の宣言がなされてしまった今、時間をかけて相手を見繕っている余裕はない。
本当に『正当な婚約者』がいるのなら、すぐにも名乗りを上げないとおかしいのだから。
「――――おわかり?」
無言の私とアンリを見て、フロランス様は満足そうに目を細めた。
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