ポケットの小さな消しゴム

 小さくなった消しゴムはどこへ行くんだろう?


 これまで使ってきた消しゴムのことを思い出してみても、最後まで使い切ったことは一度もない気がする。

 たくさん文字を消して小さくなった消しゴムは、いつもどこかへ消えてしまう。

 まるで自分の存在を消してしまうかのように……。



 ――ある日、小さな消しゴムが、私の足元に転がってきた。

 前の席の男の子が落とした小さな消しゴム。


 私はしばらく迷ってから、勇気を出して男の子の肩をトントンと叩いた。


「落としたよ……消しゴム」

 私はそっと消しゴムを差し出した。

 手の平の上の小さな消しゴムを見た男の子は、すぐに私の目を見て微笑んだ。

「ありがとう。でもそれ、小さくなっちゃったからあげるよ」

「……えっ……うん」

 断るのは悪い気がした私は、ポケットの中にその小さな消しゴムをしまった。


 ――私はこの時、中学に入ってから初めて、男の子と話をした。

 もともと男子と仲良くできる方でもないし、一人っ子なので、男の人とはお父さんぐらいしか話す機会がない。

 なので自分から男の子に話しかけるなんて、とてもじゃないけどできない。


 そんな私を知っててなのか、気遣ってなのか、その日から彼はプリントをまわしてくれるとき声をかけてくれるようになった。

「消しゴム使ってる?」

「今日もいい天気だね!」

「宿題やってきた?」

「テスト良い点とれるといいね!」

 ……私はそう話しかけられるたび、上手く返事ができなくて、ポケットの消しゴムをキュッと握りしめながら、ぎこちなく笑うことしかできなかった。


 それでも彼は毎日話しかけてくれた。毎日プリントが配られるたび、違う話題で……。

 そのおかげで、私もだんだん言葉を返せるようになった。

 ……まだ自分から話しかけることはできなかったけど。


 そうして私は、ポケットに消しゴムを入れたまま過ごしてきた。

 ところが一学期の終業式の日、帰りのホームルームが終わった瞬間、急に寂しさで胸がいっぱいになってしまった。

 明日から私に話しかけてくれる人はいない……と。


 夏休みが始まることで浮かれ気味の生徒たちが下校する中、私は一人、肩を落とし、校門に向かって歩いていた。

 ――すると遠くの方で、見知らぬ女の子が、あの彼と一緒に体育館の裏へ歩いていくのが見えた。


 急に鼓動が早くなるのを感じた私は、たまらず体育館の方に向かって駆け出していた。

 体育館の陰から、少し離れたところにいる二人の様子を、そっと覗いてみると、ちょうど見知らぬ女の子が彼に告白するところだった。


 二人が向かい合って立っている姿を見た瞬間、目に涙が溢れてきた。

 なぜだかわからないけど、ぬぐってもぬぐっても涙が止まらなかった。手の平も手の甲も涙で濡れていた。

 涙を抑えきれなくなっていた私は、ポケットからハンカチを取り出した。

 ――その時、あの小さな消しゴムがポケットから落ち、地面を転がっていった。


「あっ……」

 私は反射的に消しゴムを追いかけて、飛び出していた。

 向かい合っていた二人は、同時に私の姿に気付いた。

 私は勇気を振り絞り、少し離れたところにいる彼に向かって、涙まじりの大きな声で言った。

「……あっ、あのっ!!」

 二人はその場に立ち、次の言葉を待っていた。でも私は次の言葉を出すことができなかった。

 何も言うことができなかった……。


 すると彼は、目の前の女の子に深々と頭を下げてから、私のところに走って来た。

 彼は泣いている私の顔を見ると、驚いた表情を浮かべた。

「どうしたの?そんなに泣いて……」

 そう言って、私の頭にポンと手をのせてくれた。

「目が真っ赤だし、ほっぺにも線がついちゃってるし……」

 私はこれ以上、泣いた顔を見られないように、顔を伏せた。

「大丈夫だから、ね」

 彼は優しく頭をなでながら、笑いかけてくれた。


 ――その瞬間、足元に落ちている小さな消しゴムに気がついた。

 彼はその消しゴムを、大事そうにそっと拾いあげ、私に差し出した。

「ほら、落としてるよ、消しゴム」

 私は顔をあげて、精一杯の笑顔で答えた。

「ありがとう。でもそれ……あげるね」

 彼は少しだけ消しゴムを見つめてから「うん」と微笑み、ポケットにしまった。


 ――初めて彼からもらったもの。

 ――初めて彼にあげたもの。

 ポケットの中にあった消しゴムは、小さな勇気と、たくさんの消すことができない思い出をくれた。

 そして今、私の心に書かれたこの二文字は、もうどんな消しゴムを使っても消すことはできない――

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