遠雷

@Lazyer

第1話

 遠くで空を割るような爆音が聞こえる。闇夜に街並みは紅く燃え、あちらこちらで黒煙がもうもうと立ち上っていた。


 吹きさらしの白銀の大地は降り注ぐ灰のヴェールに包まれ、少女は一人、小高い丘の頂上を目指す。その足取りはおぼつかず、背後には朱色の轍がどこまでも続いている。


 吹きすさぶ寒風の中で、しかし寒さはもう感じない。肘から先の無い左腕の激痛を堪え、短く息を吐きながら、着実に、着実に歩みを進める。


 やがて丘を登りきると、そこには葉を失った一本の木が力強く屹立していた。少女はその幹に体を預けると、脱力するように座り込んだ。


 霞がかった意識の中でぼんやりと眼下に広がる街を見やる。

つい先ほどまで自らもその渦中で逃げまどっていたはずの惨状が、こうして俯瞰してみると驚くほど現実味の無い光景に思えた。しかしそれでも、頭上を通る爆撃機と耳にこびりつく悲鳴が否が応にも彼女を現実へ引き戻す。

 

 少女は一つ大きくため息を吐くと懐の拳銃を取り出した。煤けた無機質な銃身が、わずかに届く炎の明かりに照らされ鈍く光る。


 感覚もないほどに冷え切った手で、どうにか安全装置を安全装置を外す。幾度となく我が身を守った鋼鉄の守り人。その銃口を口に咥え、瞳を閉じ、おもむろに引き金を引いた。だが聞こえたのは撃鉄の起きる音だけであった。


 瞼を開けると再び惨憺たる光景が目に飛び込む。死の淵に立つ少女にとって、それは地獄とさほど変わり無いように思えた。


 死出の門を叩く権利すらも失われた半死人は、生と死の曖昧な狭間で立ち往生し、最早力なく乾いた笑いをこぼす事しかできない。自ら手放すことすらも許されぬ命を、せめて奪われることなく逝けることが慰めなのだろうか。


 生への執着も、死への拒絶も持たない少女は、やがて座っているすらも億劫になり、やがて力なく倒れこむ。すっかり灰に包まれた雪原は、驚くほど柔らかに彼女を抱きとめてくれた。


 ふと、何者かの視線に気づく。


 ぼやける眼を懸命に凝らし、そうして見えたのは痩せぎすのオオカミだった。左半身は炎に焼かれたようにケロイド化しており、その醜さと対比するかの如く薄い黄色の毛並みが艶やかになびく。背後には二匹の子供が、親の影から恐る恐るこちらを見つめていた。


 忙しない様子の子を傍らに、親はじっとその場を動かず、ただ少女を遠巻きに見つめている。その両の眼は寧もうな野生の光を湛え、そこには一切の慈悲も憐憫も含まれてはいなかった。


 失われていく一つの世界を他所に、彼の者は実に泰然としている。風下の得物を意識の中心に据え、オオカミは眼下の惨状には一瞥もくれない。その誠実さが少女にとっては救いであった。

 

 壊され、奪われ、穢された人生の果てに再び純粋な命に還ることが出来るのだ。激痛もいつの間にか消え失せ、少女は解脱にも似た開放感を感じる。祖母を看取った時の事がふとよみがえり、こんな気持ちだったのだろうかと想う。


 やがて短く速かった呼吸も徐々に緩やかになり、その視界は最早何も捉えることはできなくなった。

 

 街の方ではひときわ大きな光が辺りを照らし、爆風は灰を巻き上げながらこちらへと迫ってくる。地を這う風は降り積もった灰を一掃すると、大地は再びその無垢な白銀の輝きを取り戻す。さながらそれは、死化粧であった。


 

 そして少女は愛しき者を抱きとめるかのように、死を迎え入れたのだ。



 灰舞い落ちる冬のある日。終わる世界の傍らで、一人は一匹に、一匹はひとつに。


 

 月の無い夜の下で、一つの大きな咆哮と、後を追う二つの小さな方向が、峰々に響き渡った。

 


 


 


 

 


 


 

 

 


 

 

 

  






 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遠雷 @Lazyer

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る