おじいさん 初めてのお買い物
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おじいさん 初めてのお買い物
二〇二〇年、夏、おじいさんはついに、初めての買い物に行くことになった。
この歳になるまで買い物なぞということはしたことがなかった。すべて妻に任せていたのだ。会社では出世したのに。
妻が膝を椅子の角で打ち骨折をした。おじいさんは妻を激しくののしった。「要領が悪い」と。
しかし実際生活はせねばならないから、おじいさんは皿を洗って皿を全部割ったり洋服をたたんで間違って妻のシミーズを自分の洋服箪笥にしまってしまったり風呂を空焚きしてボヤ騒動になったりして、もう毎日滝の汗だった。
妻はそれを見て微笑んでいた。
とうとう買い物に行く時が来た。おじいさんはスーパーの場所を妻に聞いた。
妻は笑いながら「駅前のあのお店よ」と言った。
おじいさんはその店がまさかスーパーだとは思わなかったが、言われてみればスーパーなのかもしれないと思い直した。
駅前までは歩いて行ける。ずっと会社に行くために歩いてきた道だからだ。
しかし初めてスーパーに行くので、何かあいまいな感じがした。突然目の前を黒猫が横切ったし、これまでに見たことがない浮浪者がリアカーを引っ張って行ったりもした。
スーパーの前に着いた。緊張した。
妻に言われていたはずだ。「まずカゴを持つのよ」
おじいさんは出かけるとき、妻にカゴを出せと言ったが、妻曰くカゴはスーパーの入り口に置いてあるという。
確かにスーパーの入り口にはカゴがあった。しかし灰色と青色のカゴだ。どちらを使えばいいのか。どちらでもいいのか。
おじいさんは戦慄した。脂汗がにじんでくるのがわかる。
ええい、ままよとおじいさんが青いカゴを手にした途端であった。そこを通りかかった店員が「お会計前の品はそちら(灰色のカゴ)をお使いください」と言い残して去っていった。
おじいさんはプライドを傷つけられた。
青いかごを叩きつけ、横にいた大音量で歌謡曲を聞いて体を揺らしている若者をなぐりつけようかと思った。
が、辞めた。若者の袖口に刺青があるのをみてとったからである。怖くなった。
それで少し落ち着いた。さて買い物を始めなければならない。
妻からは「買い物メモ」をもらってきている。ここに書いてあるものを買えば万事解決である。
・バナナ(安いもの)
・納豆
・豆腐と油揚げと厚揚げ
・タコ
・お刺身
・お肉(豚がいいわね)
・牛乳(二本)
・パン
まずはバナナである。安いバナナはいかにも安そうであった。
なぜ安いバナナを買わなければならないのかと思う。そんなにお金がないわけではないはずだし、そもそも安いバナナは三本くらいしか房についていないのに、いいバナナは十本くらいついている。こちらのほうが得だろう。
ということで、大きなバナナを買うことにしたのである。
次は納豆だ。納豆はいろいろな種類があり、どれを買えばいいかわからない。
ただ、とにかくおいしいのが食べたい。
ということでおじいさんは近くにいた若い店員にこれを尋ねた。曰く「一番おいしい納豆はどれか」と。
店員はよく返答を考えた。なぜなら目の前にいる老人は、いかにも頑固そうで、回答を間違えれば面倒なことになりそうだったからだ。
「これがいいと思います」店員が指し示したのは、一パック三百円もする(一般的に言えばかなり高い値段)納豆だった。
おじいさんはなぜこの納豆がよいのかと店員に聞いた。ほら来た、と店員は思った。
店員はこの納豆がなぜそれだけいいのかを心を込めて説明した。というか、パックに書いてあった売り文句をそのまま、ドラマティックに話しただけなのだが。曰く「極めて大粒の、厳選された豆のみを用い、素材のうまみを最高に引き出す製法で作っております」。まるで自分が作ったかのように。
おじいさんはすっかり機嫌を直した。なんとこの店員は明快に自分の質問に答えたことだろう。
先ほどのカゴの件での怒りもどこへやら、おじいさんは上機嫌で、この若い店員に心づけを渡そうとした。
若者はそれは受け取れないと断ったが、おじいさんはしつこい。
それでは店長に聞いてきます、という言葉を飲み込んで、若者は握らされた千円札を懐にしまったのだった(後でスケベな動画をレンタルしたという)。
次は豆腐と油揚げと厚揚げである。
これは全部おじいさんの好物であるから、どれを買えばいいのかはわかる。
しかしここでおじいさんに疑問が浮かんだ。
これは全部大豆製品ではないか。先ほど選んだ納豆だって大豆だ。なぜ自分はこんなに大豆製品を購入せねばならないのか。厚揚げなど、豆腐を揚げただけだ。家でもできる。そもそもこの商品の原料の大豆から自分はちゃんと選っていきたい。そうでないのに、中身が全く変わらないものを購入するのなど嫌だ。
ということで、おじいさんは大豆製品の購入をすべて放棄した。なんと気持ちがいいことか。深呼吸をした。周囲はざわついた。
タコと刺身を買う。
まずはタコである。おじいさんはタコの刺身が好きである。いつもスライスしてあるタコを食べるし、それしか見たことがなかった。
だからスライスする前のタコがこんなにずんぐりむっくりしていうとはおもわなかった。
特に頭の部分だ。丸くなっている。スライス前のタコはこんなにグロテスクなのかと思い、おじいさんはタコの購入を悩んだ。スライスしてあるものもあったが、リアルなタコを見てからでは、食べる気が起きない。
結局はうなぎを買った。刺身のこともあわせてだ。大体ここに売っている刺身は安すぎる。
安いということはうまい保証はないということだ。そしてうまくないなら食べる必要はない。
一方でうなぎは高かった。他の小分けの刺身の三倍以上の値段がした。これならまずいはずがないし、妻はうなぎが嫌いだとか言っていたが、それは妻のわがままであり許せるものではない。自分で勝手にけがをして食べ物にまでわがままを言うのは許されないのである。
次は肉であった。メモには「豚がいいわね」などと書いてあった。
絶対に豚を買ってやるものかと思った。何が「豚がいいわね」だ。ふざけおって。
しかしどれが牛か豚か鳥かはたまた他の肉なのか見当がつかないおじいさんであった。結局、名前は知っている「ベーコン」と「ハム」を購入することにした。ともかくどちらも肉であるから、問題ないであろう。
次は牛乳である。おじいさんは牛乳がそんなに好きではない。妻が好きなのである。
牛乳を一パック持ち上げた。なんという重さだ。うでがもげる。
こんなのを二本も買わせるとは、ふざけおって。おじいさんはまた怒り心頭になってきた。
牛乳はやめだ。同じ値段でもっと軽くて栄養価の高いものを買えばいいのだ。
おじいさんは周囲を見回し、「ノンアルコール甘酒」のミニサイズを二パック買うことにした。発酵食品は体にいい、たとえば甘酒はとてもいいです、とさっきテレビ番組で見てきたからだ。
パンを買おう。しかし、食パンコーナーには「売り切れ」の文字が。
おじいさんは先程の心づけを渡した店員を探した。彼であればきっとパンをに入れてくれるだろうと思ったのだ。
若者は見つからなかった。バイトが終わって帰ったのだった。
しかし、おじいさんは我慢できなかった。他の店員を見つけると、既に激昂して若い店員の容姿を話して連れて来るように話した。彼はもう帰ったと聞くとおじいさんはそれでは貴社では責任を途中で放棄させてでも帰宅を許すのかとものすごい剣幕でまくし立てた。
もう一人の店員が警察へ通報するボタンを密かに押した。レンタルビデオ屋から出てきた若者の携帯電話が鳴った。店員から電話を取り上げたおじいさんは電話越しに「君ならパンを見つけられるね」と優しく言った。若者は「店長に聞かないと」という言葉を飲み込んで、機転を利かせて近くのコンビニで食パンを購入すると、すぐに店に戻ってそれをおじいさんに渡すつもりであった。
しかし、おじいさんはそれを受け取れなかった。なぜなら騒乱罪によって警察に手錠をかけられていたからである。
そのあとおじいさんの妻がスーパーに来て、おじいさんの代わりに買い物をしていった。骨を折ったというのはうそであった。おじいさんにもう少し優しくなってがんばってほしいという気持ちでついたうそだったが、まさかおじいさんが牢屋に入って出て来られなくなるとは思わなかったのだ。
しかしその際に仲良くなったスーパーの若い店員とねんごろになり(おじいさんと妻はかなり歳が離れていた。資産狙いの結婚だったのである)、今は楽しくやっている。
おじいさんにはもう少し牢の中で反省してもらうとして、今は若者としばしの蜜月を楽しもう。
そのころおじいさんは牢屋の中で、買い物は言われたとおりにちゃんとしないといかんなあと、ちゃんと反省していたという。
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