第7話
それから丸一日俺は錫とは顔を合わせなかった。教室へ戻ると錫は早退していて、下校時に門の所に待機していたリムジンの中にもいなかった。家に帰ってからも錫は俺の前に姿を見せなかった。屋上での事がずっと気になっていたが、わざわざ呼んで話す事でもないだろうし、何をどう話せばいいのかも分からなかったので俺から錫に対して接触しようとする事はしなかった。翌日になっても錫は俺の前に現れなかった。錫の指示なしで兼定が俺の身の回りの世話をしてくれ俺は昨日と同じように一人でリムジンに送られて登校した。
「なななな、なんだこりゃあああー!?」
リムジンが学園の正門前に着き開かれたドアから降りて何気なく正門を見た瞬間、俺は驚愕し絶叫し跳び上がった。人って本気で驚くと跳び上がるのだな。いや。こんなのは俺だけか?
「これはきっと世に言うバリケード封鎖という物だと思います」
背後から猫服先輩の声がした。
「先輩。おはようございます。それは見れば分かります。それよりもそのバリケードの前面に大きく書かれている文字の方が問題なのです」
「颯太君。おはようです。額を見せない物は登校するべからず」
猫服先輩が読み上げてから、この場合の物は者と書く方が正しいですよね? と付け足した。
「錫の奴だ。こんな事をするのはあいつしかいない。しかもあの馬鹿妹、こんな漢字の間違いを恥ずかしくもなく堂々と」
俺はバリケードに近付くと文字の書かれている大きな木製の板をはがそうとした。
「無理ですよ。これ、板がかなり頑丈そうだし、しっかりと固定されてます」
「本当ですね。まったく。だが、こんな物があっては俺は登校できません。こんな物を見たら誰もが帽子を被っている俺に何かあるのか? という目を向けて来るはずです。この額は絶対に人には見せられない」
「皆といえばおかしいんですよね。この時間で誰もここにいないんです。まるで私と君しか登校して来てないみたいです」
俺はそう言われて初めて周囲の事が気になり文字の書かれている板から離れると周囲を見回した。
「本当だ。誰もいない。明らかに不自然ですね。きっとこれも錫の所為です。あいつ、一体何を企んでいるのだ」
「そんなになんでもかんでも妹さんがするんですか? 妹さんの所為にばかりすると妹さんがかわいそうです」
猫服先輩が「額を見せない物は登校するべからず」と書いてある板に寄り掛かった。
「先輩は錫の事を何も知らないからそう思うのです。あいつにとっては、これくらいは造作もない事です。まだ何かあると思います。このまま終わるなんてありえません」
「妹さんの事よく知ってるんですね。なんだか妬けちゃいます」
猫服先輩って結構嫉妬深い人だよな。まあ、こういうのって悪い気分じゃないが。
「うんん。おほん。ごほん。あー、えー、テステス。ちょっと。これ、入ってる? え? 聞こえてる? 嘘? じゃ、じゃあやる。えー。兄ちゃまとそこにいる全然どうでもいい女子生徒に告げる。さっきから何イチャイチャしてるかな。だいたい兄ちゃまは平気なの? 錫と昨日から会ってないのに。錫はもう死にそうなんだよ。それなのに。それなのに。へ? あ。そうね。そうだった。兄ちゃま。今日の一時間目の授業で緊急テストをやる事になったの。受けないと退学になるテストなの。だから早く帽子を脱いで教室に来て」
唐突に校内放送が始まり錫の声が流れて来たと思うと好き勝手な事を言って始まった時と同じように唐突に終了した。
「君の言う通りでしたね、えいっと」
猫服先輩が苦笑しながら板から飛ぶようにして体を離した。
「馬鹿な奴です。こんな事をしてもなんの意味もない。仮に帽子を脱いで俺が額を見せたとしてもこんな状況ではあいつの悪口しか思い浮かばない」
「それにしても君に来て欲しいはずなのになんでバリケードなんでしょうね?」
錫の事だからどうせ何も考えていないのだろう。きっと兄ちゃまが乗り越える姿が見てみたいーとかなんとか言ってやったのだ。
「なんとなくでやったただの嫌がらせでしょう。先輩、先に行って下さい。恐らく先輩の方でもテストをやると思います。あいつはそういう意地の悪い事をする奴です」
「あー。ひょっとして、これは私を妨害する為の物なのかも知れません」
猫服先輩が合点がいったというような顔をしながら頷いた。なるほど。その可能性もないとは言い切れない。
「先輩。すいません。その可能性も否定できません」
「今、妹さんの代わりに謝ったんですか?」
猫服先輩が唇を尖らせると拗ねたような声を出した。
「一応、兄ですから。妹の不始末には責任があると思ったのです」
猫服先輩が不意に持っていた鞄を開けると中に手を入れて探るように動かしてから手を止めた。
「どうしたのです?」
「ナイフを出そうと思ったんです。そういえば昨日返してもらってなかったですよね?」
そうだった。俺の鞄の中には猫服先輩のナイフが入ったままになっているはずだ。
「ナイフなんて探してどうするのですか?」
言ってから聞くだけ無駄だったかも知れないと思った。
「うーん。どうしましょっか。君を殺すと寂しくなるし、傷を付けるのは君が着ぐるみになってしまうし」
猫服先輩が予想通りにそんな物騒な事を言いながら考え込み始めた。
「なんでまた急にそうなるのです?」
一日一回やらないといけないとかそういう決まりか何かなのか?
「なんだかもやもやするんです。嫉妬をしてるという自覚はあるんです。けど、この気持ちをどうすればいいのかが分からないんです。君以外をナイフでどうこうするのはどうも違う気がしちゃって」
うーん。なんなのだろう。
「先輩。ちょっと意味が分からないのですが。俺以外をナイフでどうこうするのは違う気がするとはどういう事なのです?」
猫服先輩がなんでそんな事をわざわざ聞くんですか? というような不思議そうな顔になりながら言った。
「だって、私は君に嫉妬してるんですよ。君に嫉妬してるのに君以外の誰かや物をナイフでどうこうしてどうするんですか?」
ああ。そういう事ですか。まあ、分かるよう気がするかな。なんて納得できるか!
「先輩。普通の人はそんなナイフを使うような事はしません。嫉妬をしたら、何よー。私以外の女子に優しくしないでー。などという感じでかわいく怒ったりすればいいのです」
俺はどうこうされてなるものかと思い女子の声真似をまじえつつ力説した。
「そういう趣味なんですか?」
どういう趣味ですかっ。駄目だ。先輩を普通の女の子にする事は重要な事だが、今やる事ではない。今は目の前に迫る脅威に対抗せねば。ってあれ? それって猫服先輩の事じゃなくって錫の仕掛けて来た事じゃないのか?
「先輩。ナイフは今は我慢して下さい。今日の帰りに必ず返します。そんな事より今はテストです。早く教室へ行って下さい」
猫服先輩が鞄の中に入れていた手を出したと思うと嬉しそうに微笑んだ。
「じゃじゃーん。実はもう一本あったのでした」
うわーん。さすが猫服先輩!!! 俺はさっと猫服先輩に近付くと有無を言わさずに猫服先輩の持っていた折り畳み式のナイフを奪い取った。
「あ。何するんですか」
猫服先輩が俺の手の中にあるナイフを奪い返そうと手を伸ばして来た。
「これも今日一日預かります。帰りに返しますから」
俺は猫服先輩から逃げるように横に少し跳んだ。
「それもですか。もう」
猫服先輩がしゅんとなったので俺は猫服先輩の傍に戻り掛けた。
「なんて諦めませんよ」
猫服先輩が俺に飛び掛かるように跳躍するとナイフを掴んで来た。
「危ない」
「へ?」
猫服先輩の勢いが強過ぎて俺は二人分の体重を支える事ができなかった。俺と猫服先輩は縺れ合うようにしながら倒れて行きバリケードの前面に据え付けられている板にぶつかって地面の上に投げ出された。
「あいたたた。大丈夫ですか? ごめんなさい。まさかこんな事になるなんて思わなくって」
仰向けになっている俺の上にのっている猫服先輩が先に口を開いた。
「大丈夫です。先輩こそ怪我とかはしてはいないですか?」
俺の顔を見ていた猫服先輩が目を大きく見開いた。
「君、なんて事を。私の体ってそんなに柔らかいですか?」
猫服先輩の顔がぼっという音が聞こえて来そうなほどの勢いであっという間に朱に染まった。
「はい? 先輩、急にどうしたのです?」
猫服先輩が上半身を起こすと自分の体を隠すように抱くようにして両手で覆った。
「これ、なんでしょうか? 私に衝撃走るっていう感じです。こんな感覚初めてです。なんだかもっと君と触れ合っていたくなって来ました」
何が起こったというのだ? 猫服先輩は急にどうしてしまったのだ?
「先輩? 衝撃走るはいいのですが、俺には何がなんだかさっぱりなのですが?」
猫服先輩がはっとした顔になると、顔を上げて前を見た。
「君はそのままでいいんです。いいですか? そのままですよ?」
猫服先輩がゆっくりと恐る恐るといった感じで起こしていた上半身を倒れていた時のように俺の体の上にのせて来た。
「あー、うん、なんでしょうか、これは。はふー。なんだか、とってもいい気持ちです」
猫服先輩が心なしか艶っぽいような声色をまじえながら言い、俺の顔をちらちらと盗み見するように見て来た。
「先輩? さっきからなんなのです? いい加減にして下さい」
早く起き上がらないと。こんな事をしている場合ではないのだ。
「もう。なんですか? 早く起き上がらないと。こんな事をしている場合ではないのだって。そういう事じゃないですよ。今、君と私はこんなにくっ付いてるんですよ? 何も感じないんですか?」
猫服先輩が急に怒り出した。
「さっきから本当にどうしたのですか?」
猫服先輩がちらっと俺の顔を見て向けられた視線が俺の額に、額? 額だと? ま、まままさか。俺は電光石火の早業で額に手を当てた。
「先輩。酷いいぎぎいいぃぃー」
変な悲鳴が出た。
「ええー。隠しちゃうんですか?」
当たり前ですと俺が言う前に俺と先輩の周囲から何人かの男子生徒達の声が聞こえて来た。俺はもう一度悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえながら両手を額に当て何があっても放すまいとぎゅっと手と腕に力を入れた。
「錫様~。すんごいイチャコラってますよ」
「うん。これ、ラブラブっすな」
「もはやほっといた方が正解なレベル」
「猫服先輩って、こんなにかわいかったんだ」
「いやいや。佐井田殿もなかなかどうして」
なんだ? いつの間にか囲まれている?
「なんですか君達は?」
猫服先輩が俺に体を密着させたまま不思議そうな声で聞いた。
「拘束っすか? でも、これっすよ?」
「人の恋路をなんとかって言いますしな」
「ラブラブっすもんな」
「もっと見ていたいレベル」
「猫服先輩の不思議そうな様子もまたこれ。こんなにかわいかったんだ」
「いやいやいや。佐井田殿が一番」
さっきは空耳かと思って聞き流したがなんで俺? しかも一番ってなんだよ、怖いよっ。
「ういーっす。錫様~、分っかりました~」
「先輩何かやばそうな感じです。とにかく離れて。この格好じゃ何もできません」
俺は額を隠したまま周囲を見回しつつ猫服先輩に声を掛けた。
「そうですね。凄くもったいない気がしますけど離れましょう」
猫服先輩がゆっくりと上半身を起こした。
「すいません。先輩。失礼します」
不意に女子生徒の声がしたと思うと、猫服先輩に向かって数人の女子生徒達の手が伸びて来た。
「え? なんです? ちょっと」
猫服先輩が数人の女子生徒達に体のあちこちを掴まれ立たされた。
「佐井田。暴れたりすんなよ」
どこかで聞いた事のあるような気のする声がしたと思うと数人の男子生徒達の手によって俺も立たされた。
「お前ら、どういう事だ?」
俺は額を隠しながら怒鳴った。
「錫ちゃんの命令~」
「錫さんも恋してるからな」
「錫っちもラブラブっすもんな」
「妹さんはすべてが高レベル」
「錫姉さんもかわいいんだ」
「いやいやいやいやいや。佐井田殿最強」
最後の奴。もうやめろ。本当に怖いから。頼むから。
「錫の命令だと? お金か? 買収されたのか?」
きゃーっという女子生徒達の悲鳴が上がった。何事かと顔を悲鳴のした方に向けると猫服先輩の姿とその周りを遠巻きに囲むようにしている女子生徒達の姿が見えた。
「先輩。どーどーどー」
「そうですよ。どーどーどー、です」
「それはナイフですよね? ナイフは超どーどーどー」
ナイフ? ナイフだって? そうだ。ナイフ。俺は自分の手を見ようと額から手を放しそうになったが、この状態で持っているなんてありえないと思うと俺と猫服先輩が倒れていた辺りを見た。ない。どこにもない。まさか、猫服先輩がナイフを持っているのか?
「君達? ああ。そうですか。じゃあ、私に近付くと危険ですよ?」
猫服先輩が折り畳み式ナイフの刃を鞘を兼ねている柄から取り出した。
「先輩。さすがにそれはまずいですよ、どーどーどー」
「そうですよ。ナイフはどーどーどー、です」
「どーどーどーって、こういう時に使うの? けど、なんかどーどーどーって感じがするから、いいか。先輩お願いします。どーどーどー」
猫服先輩がすすすっと動くと、女子生徒達も俺を囲んでいた男子生徒達も猫服先輩から逃げるようにして離れた。
「先輩。駄目じゃないですか。脅したのですか?」
俺は傍に来た猫服先輩に向かって片手を差し出した。
「えへへへ。なんかそんな感じになっちゃったのでやっちゃいました。ん? この手は?」
「ナイフを俺に貸して下さい。なんとかごまかして俺がやった事にします」
猫服先輩がへ? という顔になり動きを止めた。
「先輩がナイフで脅したなんて事が広まったらどんな扱いを受ける事になるか分かりません。先生達は皆錫が買収していますから俺なら大丈夫です。だから俺に貸して下さい」
猫服先輩が我に返ったらしいはっとした顔をしてからナイフを俺に渡そうとしたが途中でその手を止めた。
「君にこれを渡せば丸く収まりそうな気がしますけど、なんだか負けた気がします。面白くないので、やっぱりやめます」
何を思ったのか猫服先輩がさっと俺の背後に回って来た。
「急になんです?」
「ふふふーん。またいい事思い付いちゃました。君は今から人質です」
猫服先輩が空いている方の手を俺の首に回して俺を拘束すると、もう片方の手に持つナイフの刃先を俺の喉元に突き付けて来た。ぞくぞくとした悪寒が背筋を走り体から力が抜け俺は一瞬倒れそうになるほどの激しい眩暈を感じた。
「先輩、やめて、下さい」
呼吸がおかしくなりあえぐような声が出た。
「大丈夫ですか? 苦しそうです。おかしいですね? 首はそんなに締めてはいないはずです。一度座りましょうか」
猫服先輩がゆっくりとその場に座った。俺もその動きに合わせてその場に座り込んだ。
「急に体調が悪くなったんですか?」
あなたがそれを言いますか。ナイフを突き付けられたからです。自分でも驚くほどに俺の体と心の奥底には刃物に対する恐怖心が植え付けられていたらしい。鞘に入っているナイフを見たり持ったりしている時は全然平気だった体が刃先を突き付けられた途端にこんな風になってしまうなんて。
「どうしましょう? これでは逃げられません」
心配そうにしながらもなぜか嬉しそうに猫服先輩が言う。
「先輩。お願いです。ナイフを突き付けるのはやめて下さい。それと、ナイフを早くこっちへ。ナイフを突き付けられなければ俺の体調はよくなると思います」
「今日は凄いです。またまたいい事を思い付いちゃいました」
猫服先輩が弾んだ声を出した。嫌な予感がする。いや、予感じゃない。これはもはや経験則だ。
「先輩。それはやめましょう。絶対にいい事じゃないと思います」
「いい事ですよ。ここで死にましょう。私が君を刺してそれから自分を刺します。ああ! そうでした。君、私のナイフを持ってるんでしたね。ならお互いを刺せます。こうなったらお互いを刺して自殺です。それしかないんです」
やっぱりだ。どうしろっていうのだ? この状況下で、猫服先輩がこれで。俺はこんなだし。これが万事休すという奴なのか?!
「先輩。自殺は、ちょっと。こんな事で死ぬなんてどうかと思うのですが」
いかん。こんな事こんな風に消極的に言っても意味がない。せめてちゃんと体が動けばなんとかなるかも知れないのに。猫服先輩がきらきらと光る瞳を俺に向けて来た。
「君の鞄、どこにあります?」
俺の鞄? そうか。さっきからのごたごたでどこかに行ってしまっているのだな。ラッキーだ。このまま見付からなければ猫服先輩が鞄を探しに行くかも知れない。いや。探しに行ってもらうようにしよう。ナイフが離れれば俺は動けるようになるはずだ。
「先輩。探してる鞄ってこれですか?」
おいっー。誰だお前。何をしているー!!!
「これは? このニット帽も落ちてましたけど」
おおおうぅ! そっちのお前はいいぞ。ニット帽の存在をすっかり忘れていた。
「そのニット帽を俺にくれ」
「鞄を渡して下さい」
俺と猫服先輩の声がかぶった。
「鞄です」
猫服先輩が優先されたか。まあ、しょうがない。俺でもきっと女子の方を優先するはずだ。鞄を見付けて持っていた男子生徒が恐る恐るといった感じの動きをしながら猫服先輩と俺に少しずつ近付いて来た。
「ありがとうございます」
猫服先輩が立ち上がると俺から離れ鞄を受け取りに行った。猫服先輩が離れ、ナイフの刃先が離れると俺の体調はすぐに回復した。よっし。チャンスだ。
「ニット帽を早くこっちにくれ」
俺はすかさず立ち上がり叫ぶように言った。
「おい。待て。そのニット帽は渡すな。この板にある文字が見えないのか?」
また声がかぶった。くっそう。余計な事を言う。どこの馬鹿野郎だ? 声のした方に視線を向けると、祐二がやけに爽やかな顔をして立っていた。
「すまないな。颯太」
俺の視線に気付いた祐二がやけに爽やかな笑みを顔に浮かべた。
「祐二隊長。ニット帽です」
「ありがとう。お前の働きは錫様に報告しておく」
「はは。ありがたき幸せ」
祐二隊長? 錫様? なんだ? いやいや。今はそんな事よりニット帽だ。
「おい。祐二。それは俺のだ。返せ」
祐二がニット帽をワイシャツのやけにはだけている胸元からワイシャツの中に入れた。
「これは兼定さんに渡す。俺はもうお前の親友だった頃の祐二じゃない。今は、錫様親衛隊の隊長の祐二なんだ」
うえへぇ~。こいつ、なんて事をしたのだ。本当の本当に最悪だ。なんでよりにもよってニット帽をそんな所にしまったのだ。祐二の肌に直に触れて祐二の体温が移ったニット帽なんてもういらん。
「分かった。ニット帽はもういい。お前もいい。目障りだから俺の視界から消えてくれ」
俺は吐き捨てるように言うと祐二の顔など見ていたくもなかったので顔を横に向けた。
「颯太。なんだよそれ。その扱いは、いくらなんでも酷くない?」
祐二が何か言っているがどうでもいい。無視だ無視。
「おーい。颯太。いろいろあったんだよ~。話を聞いてくれよ~」
知るかクズ。死ね。今すぐ死ね。
「颯太君。ナイフ。これで自殺です」
ああ。すっかり忘れていた。次から次へともう。ストレスで頭痛が痛くなりそうだ。間違えた。ストレスで頭痛がして来そうだ。
「先輩。俺の体調は戻りました。ええっと、何をしていたのでしたっけ。そうだ。先輩。ナイフを二本ともこっちへ。先輩は早く自分の教室へ行って下さい」
「嫌です。自殺なんです」
猫服先輩がかわいく拗ねるように言い俺に近付いて来ようとした。俺はまたナイフを突き付けられたら困ると思い咄嗟に後ろにさがった。
「颯太君? 今、逃げたんですか?」
猫服先輩の顔に信じられない物を見たというような表情が浮かび、すぐにその表情が一変して悲しみや絶望といった感情を表すような辛そうに表情に変わった。
「なんでですか? なんで逃げるんです?」
しまった。猫服先輩の刺激してはいけない部分を刺激してしまったっぽい。
「逃げたのではありません。なんとなくさがっただけです」
苦しい。実に苦しいが、猫服先輩ならごまかせるか?
「そうだったんですか。それならしょうがないです。なんとなくさがっちゃう時ってありますもんね」
そんな時あるか? と思ったが折角ごまかせたのに余計な事を言ってまた猫服先輩を刺激してはいけないと思い言葉を変えた。
「すいません。誤解をさせるような事をしてしまって」
「じゃあ、自殺です」
猫服先輩がまた俺に近付いて来ようとした。
「あれ? またなんとなくさがっちゃいました」
今度は反射的に体が勝手に動きまた後ろにさがってしまったので俺は慌ててごまかした。
「もう。君は困ったちゃんですね。けど、そういうとこもかわいくていいです。ますます君と自殺したくなりましたよ」
猫服先輩。あなたという人は。そんな事を言われたら俺も一緒に死にたくなるじゃありませんか。って。そんな事あるかー。こうなったら、しょうがない。またまたなんとなくとか言いながらもっとさがって距離をとってやる。
「体がまた」
「もう。逃がしませんよ。うふふふふ」
猫服先輩の動きは素早かった。言いながらさがろうとした俺は猫服先輩に正面から抱き付かれた。
「あ、あの? 先輩?」
不意に抱き付かれた事により戸惑った俺の唇に猫服先輩がナイフの刃部分をぴたっとくっ付けた。おおふ。また体から力が抜けて行く。ナイフはらめええぇー、ああぁぁー。
「かわいくってつい抱き締めちゃいました。うふふふーん。やっぱりくっ付くとなんかいいです。ほわわーんとしていて、それでいて体の芯がぼっと熱くなって、もっと君が好きになります」
猫服先輩が至極嬉しそうに微笑んでからナイフを俺の唇から離した。
「ちょっとこれを持っていてくれませんか?」
俺の唇から離したナイフを片手で持ったまま器用にくるっと回して逆さまに持ち直すと柄の部分を俺に向かって差し出して来た。
「はい」
ナイフが離れしゅぱっと瞬間回復した俺は思わず返事をして手を途中まで伸ばしてからはっとした。これはいかーん。受け取るとまた猫服先輩が勘違いを加速させてしまう。
「すいません。やっぱり駄目です」
「え? 急になんでですか?」
なんでですか? そんなの自殺をしたくないから決まっているでしょうが。まったく。だが、これからどうしよう。猫服先輩には何を言っても駄目だ。何か決定打になるような事はないのか? ないよな。とりあえず額から手を離せないとかなんとか言っておくか。おお? 額? そうか。その手があったか。周りから見られてしまうがやるしかない。前にやった時は一応効果があったような気がするしな。
「先輩。俺、死にたくないです」
「ええ! なんでです? 私と死にたくないんですか?」
「はい。先輩も死なせたくないし俺も死にたくないのです」
「そんな。じゃあ、どうすればいいんですか? 私と君の愛はどうなるんですか?」
あれ? 話の方向が変な方に行ってしまったぞ。ここは猫服先輩が君は嘘をついています。君がそんな風に思うはずがありません。みたいな事を言い、俺がでは本音を見せますと言って額を見せて俺の本音はこうなのですとなりなんとかなるはずの予定だったのに。
「君は、私の事嫌いなんですね。なんとなくそうなのかなって思う事が何度かありました。そんな事ないって思おうとしてそんな思いに気付かない振りをしていたんです。もう終わりなんですね? 二人の恋はここで終わりなんですね? 終わったんですね? もう取り返しがつかないんですね?」
猫服先輩が手を動かしたと思うとナイフの刃先を俺の首筋に突き付けた。
「ひ、ひ、ひ、ひいぃぃぃ。せせせせ先輩?」
俺は思わず裏返った声を出してしまった。
「こうなったら略奪愛です。君を殺して私達の愛を永遠の物にします」
うわー。やっぱりこの流れなのですね。どっちにしてもこれかよ。これじゃ蟻地獄じゃないかー。うわーん。とか思っている場合じゃないな。どうでもいいが、俺凄いな。体は力が抜けてへろへろだが、精神的にはもう冷静になっている。こういう状況に慣れて来ているのだな。全然まったく嬉しくないけどな。
「兄ちゃまー。もうー。本当に酷いよ。我慢できなくなって来ちゃったじゃん。兄ちゃまが迎えに来てくれるのを校長室で待ってたのに。そうなるような流れもちゃんと考えてたのに。こんなんじゃ全部台無しだよ」
不意に錫の声が聞こえたと思うと俺と猫服先輩は黒づくめの男達に囲まれ引き離された。
「やめて下さい。放して。ああ。颯太君。颯太君」
猫服先輩の悲痛な声が聞こえて来る。そんな声を聞きながらも俺は正直ほっとしていた。これで蟻地獄から解放されると思っていた。もちろん、悲しさもあったが、それよりも命が助かったという思いの方が強かった。
「兄ちゃま。額。もう問答無用だから。見せてもらうから」
錫の前に連れて来られた俺に向かって錫が決意を込めた強い口調で言った。
「錫よ。いい加減に気付け。こんな物にはなんの意味もない。見ても無駄だ」
「じゃあ見てもいいじゃん。それにそういうならなんで兄ちゃまは隠すの?」
おろ。錫のくせにいい返しをするじゃないか。そう言われるとうーん。どう返そうか?
「皆。兄ちゃまの手を」
「はは」
数人の生徒達が殺到し額を隠す俺の手を引きはがしにかかった。
「やめろ。お前ら。錫。やめろ。俺はお前の事を本当に嫌いになる。いいのか?」
「もうなんでもいいよ。あの女には見せてたくせに」
くっそう。手が。手が離れる。
「おい。お前ら。いい加減にしろ。やめろって」
俺は大声を張り上げながら渾身の力を両腕に込めて抵抗した。
「うおおおおおおおお」
歯を食いしばり自分でもこんな声が出せるのか? と驚くような唸り声まで上げて抵抗したが所詮は多勢に無勢。抵抗虚しく俺の手は額から引きはがされた。
「さあー。兄ちゃま。見せてもらうからね」
錫が勢い込んで俺の目前にいる生徒達をかき分けながら俺の傍に来た。
「うえええ。汚される。俺の心の中が覗かれる。もう嫌だー。は? 何これ。兄ちゃま。錫が見たいのはこんな事じゃないの。錫への気持ち。早く切り替えて」
無茶な事を言いやがって。だが、そんな事は今はどうでもいい。周りにいる生徒達の目が痛い。俺はもう生きてはいけない。こんな事になるのなら猫服先輩と一緒に死んでいた方がまだましだったかも知れない。
「あえー? 兄ちゃま? なんでよ? そうじゃない。錫の事を考えて。もう酷いー。あの女と死んでた方がましだったとかないよー」
錫が大声で嘆いた。
「錫様。すいません」
兼定の声が聞こえたと思うと錫が背後から現れた兼定にお姫様抱っこをされた。
「何よ。兼定。何してるの?」
錫が怒ったのとほとんど同時に俺を取り囲んでいた男子生徒達が悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「近付ないで下さい。近付くと怪我をしますよ。颯太君。颯太君。今です。早くこっちに来て下さい。一緒に死にましょう」
猫服先輩の声だ。俺はあちゃーと心の中で呟きながら声のした方に顔を向けた。
「おふうー。やっぱりー」
猫服先輩がナイフを一本ずつ持った両手を威嚇するように左右に伸ばしながら俺の方に周囲を警戒しつつゆっくりと近付いて来ていた。なんて事だ。これじゃまるで究極の選択じゃないか。猫服先輩と死ぬか。それとも、額をさらして生きて行くか。ああ。神様。いつもは信じていないが、お願いします。どうすればいいのですか? 教えて下さい。あー。神様だー。ほえほえー。かわいい天使とお花畑が見えて来ましたー。追い込まれ混乱した俺は現実逃避をし始めた。
「颯太君。何をしているのです? 早く」
「ナイフを捨てなさい」
「捨てないと強制的に拘束します」
猫服先輩と猫服先輩を取り囲んでいる黒づくめの男達の緊迫した声が現実逃避真っ最中の俺の頭の中に入って来る。
「颯太君。どうしたんですか? あ。まさか、怪我でもしました? 動けないんですか?」
猫服先輩が本気で俺を心配してくれているのが声から伝わって来た。
「早く取り押さえちゃって。錫と兄ちゃまの邪魔ばっかりして。本当に最低な女」
錫の罵倒する声が聞こえて来る。
「危ないですよ。本当の本当に斬りますよ」
しゅんっという風切り音がし、猫服先輩が近付こうとした黒づくめの男を斬ろうとした。いけない。このままでは取り返しのつかない事になってしまう。
「先輩。駄目です。やめて下さい」
俺は現実逃避から覚めるとすぐに駆け出し猫服先輩を囲む黒づくめの男達の合間を縫って猫服先輩の傍まで行った。
「あー! 兄ちゃま。兼定。錫の事はいいから。早く兄ちゃまを捕まえて」
「そう言われましても。お嬢様の身の安全が第一ですので」
少し離れた所から錫と兼定の会話が聞こえて来る。俺はそれを聞きながら捕まるのは嫌だが、殺されるのはもっと嫌だ。どうしてこっちに来てしまったのだ、うわーん俺の馬鹿野郎と早くも後悔し泣きそうになっていた。
「颯太君。怪我はしてないんですか?」
「はい。大丈夫です。そんな事より、何をしているのです。こんな事をしてはいけません。今すぐにナイフを両方とも俺に渡して下さい」
「嫌です。でも、片方だけならいいですよ。それでお互いにぶすっと」
猫服先輩が言い終えると恥ずかしくなったのか、それとも興奮してしまったのか、顔を赤らめた。さすが猫服先輩。ぶすっととか言いながら赤くなるなんて実に恐ろしい。
「先輩。俺の顔、いえ、額をよく見て下さい」
こうなったら強硬手段だ。無理矢理に俺の本音を見せ付ける。くらえっ。
「こうなったら強硬手段だ。無理矢理に俺の本音を見せ付ける。くらえっ。って書いてありますよ?」
それじゃなーい。
「それじゃなーい? 何がです?」
いかん。早くしないと。
「いかん。早くしないと? 何をです?」
「先輩。すいません。いちいち読まないでいいです。考えた事が全部出てしまうのです。伝えたい事を出せたと思ったら言いますから」
「ああ、はい。分かりました。じゃあ黙って額に集中しときますね」
猫服先輩が小さく頷いてからじいーっと音が聞こえて来そうなほどに俺の額を凝視し始めた。うう。そう見つめられるとなんだか出し難くなるな。はっ。いかん。きっと今のこの言葉も出ているはず。ええと。ええーと。なんだよ。いざとなったら何を思えばいいのか分からなくなったじゃないか。あれ? 本当になんだったっけ? などと混乱を来たし始め俺がおろおろしている間もじいーっと猫服先輩は見つめ続けている。駄目だ。もう無理。
「すいません。先輩。出したら教えますので、違う方を見ていて下さい」
「違う方、ですか? うーん、と。どこを見てましょうか?」
猫服先輩がきょろきょろと周囲を見るように顔を動かした。ようーし。まずは何を出そうとしたかを思い出すぞ。
「颯太君の額を見る会は一時中断です」
猫服先輩が叫ぶように言ったと思うと俺の背後に回り込み俺の首に片手を回した。額を見る会? そんな会は絶対に開催したりなんてしませんから! ん? あららら? これって、まさか?
「ひぐうー。らめえぇぇ」
俺、最近、変な声出してばっかりだな。でも、しょうがないね。またナイフの刃先が喉元に突き付けられているからね。あはははは。力が抜けるううぅぅ。
「近付かないで下さい。近付いたら颯太君を刺して私も死にます」
「もう~。何やってるのー。チャンスだったのにー。兄ちゃまー。すぐに助けてあげるからね」
いつの間にやら黒づくめの男達が俺と猫服先輩のかなり傍まで近付いて来ていた。直接見てはいなかったので推測になるが、俺の額に集中していた猫服先輩を取り押さえようとでもしてそれに猫服先輩が気付きこうなってしまったのだろう。ファッキン野郎どもめが。猫服先輩を変に刺激しやがって。これじゃ俺の心を削ってまでやろうとした作戦が台無しじゃないか。
「おん? 兄ちゃま? 作戦って何?」
「おいおい。さっきの話、本当だぞ。佐井田のおでこに文字が出てる」
「あれが噂の本音が出るという超兵器だな」
「すげえ。マジか?」
「何々~? ふむふむ。妹と猫服先輩二人とエッチな事がしたいよーだって? うらやまけしからん」
嘘を言うな嘘をって。ぐげえええええぇぇぇぇぇ。やめでー。お願ぎひいー。額の事が生徒達の間に広まってりゅうるうう。俺は額を隠そうと思い腕を動かそうとするが、ナイフを突き付けられている為に力が入らず額を隠す事ができなかった。なんだよ。さっきは隠せていたじゃないか。どうして今は駄目なんだよ!
「颯太君。どうしたんです? そんなに体をよじらないで下さい」
「せせせせせ先輩。お、おお。おおお願いです。おおおれれおおの俺の額を。ひひひのひ額をすぐにかかかっくかく隠して下さい」
「はい?」
「ひひひの額をぐすに、じゃない。すぐに隠してー」
「ひひひの額ってなんです? それにぐすって。かなり面白いです」
猫服先輩がかわいくくすくすと笑った。
「そんそんそんな事より早くっくっくして~」
「はいはい。これでいいですか?」
猫服先輩の繊細かつ柔らかい指の感触が額に触れた。
「ああ~。ありがとうございます。先輩は最高ですー」
俺が心底ほっとしながらほふうーと長く息を吐いた。
「あー。何やってんだよ。この泥棒雌猫。なんで額を隠すんだよ。兼定。早くなんとして」
「お嬢様。兼定さん。ここは親衛隊隊長の俺に任せて下さい」
今までどこにいたのか姿の見えなかった祐二が錫をお姫様抱っこしている兼定の前にやけに気合の入った様子で現れた。
「祐二。来てはいけません。君にはまだこういう危険が伴う仕事はさせられません。さっき言ったようにいいと言うまで皆の後ろで待機していなさい」
「大丈夫です。俺は危険はないと思ってます」
祐二がやけにはっきりと言い切った。
「祐二。そう断言する理由なんですか?」
兼定が愛弟子の意見に真摯に耳を傾ける時の師匠のような表情になると今までよりも優しい声を出した。祐二がやけにわざとらしく俺の方をちらりと見てから口を開いた。
「猫服先輩は人を傷付けるような事はできない人です。あれは全部ただの脅しです」
「嘘だね。兄ちゃまの事があるもん」
錫が馬鹿にしたような目を祐二に向けた。
「錫様。俺を信じて下さい。猫服先輩を見てて気付いた事あるんです」
「祐二。何に気付いたというのですか?」
「猫服先輩の颯太を見る目付きです。なんとなくだし、勘みたいなもんなんですけど、自信はあるんです。猫服先輩は颯太を見る時だけ特別な目をするんです。なんというか、狂気に駆られているような、愛に泥酔しているような、なんかそんな目なんです。俺達を脅してる時は絶対にそんな目はしてないんです。普通なんですよ。だから、大丈夫だと思うんです」
「言ってる事滅茶苦茶じゃん。意味分かんない。兼定。なんでこんなの拾ったの?」
「我々よりも祐二の方がお兄様やあの女子生徒と接している時間が長いと思ったからです。祐二の今の言葉、信頼してもいいと思います」
「じゃあ、いいんですね。俺、兼定さんの為に頑張ります」
祐二が俺も見た事がないようなやけに嬉しそうな笑みを顔に浮かべやけに颯爽と俺達の方へ向かって来ようとした。
「待ちなさい。祐二は駄目です。他の者達にやらせます」
兼定が素早く動いて祐二の前に立ちはだかった。
「そんな。どうしてですか?」
やけに悲しそうな声を出した祐二に兼定がぐっと体を近付けた。
「ちょっと。兼定? 錫がここにいるんだけど? 間に挟まって暑苦しんだけど?」
錫が喚くが二人にはその声が届かないらしくじっと見つめ合っていた。
「祐二。君に何かあったら困ります」
「か、か、か、兼定さん。俺、俺。すいません。分かりました」
祐二がやけに嬉しそうに声を上げ兼定に抱き付こうとした。
「ド級鬱陶しいんじゃー。この衆道系男子がー」
不意に突き出された錫の右の拳がカウンター気味に祐二の鳩尾にヒットした。
「がっはっ。兼、定さん。すい、ま、せん」
祐二がその場に崩れ落ちて倒れ死に掛けた蛙のようにぴくぴくと痙攣し始めた。
「祐二。祐二。誰か、早く祐二を。誰かー」
兼定が大声で叫んだ。
「何このホモホモ劇場。兼定。錫は腐ってないの。だからこういうのを見ても嬉しくないから。分かった? いい加減にしないと怒るからね」
酷く冷めた様子で錫が言う。
「お嬢様。申し訳ございません。少々取り乱してしまいました。祐二はとても大切な存在なのです」
「うわー。そんな風に言っちゃう? マジ?」
「はい」
「ふ、ふーん。そこまでなんだ。でも、後でやって。今はこっちの事だから。この衆道の言葉信じるんでしょ? だったら早くやってみて」
兼定が真剣な眼差しで俺と猫服先輩の事を見つめて来た。
「お嬢様。ここでじっとしていて下さい」
「なんで? さっきは他の者にやらせるって言ったじゃん。どうして兼定が行くの?」
「祐二の為ですから」
錫が目を細めると兼定をじとーっと見つめた。
「なんか面白くない。ねえ兼定。錫の為にじゃないの?」
兼定が錫の方へ視線を向けた。
「お嬢様。この兼定、お嬢様に仕えるようになってから身も心もすべてお嬢様に捧げて来たつもりです」
「祐二の為って言った」
兼定が優しい笑みを顔に浮かべた。
「お嬢様。この兼定めに嫉妬をしてくださっているのですね。これは。ああ。なんとも。ありがたい事です。ですが。ですが、今は。この兼定断腸の思いで、今だけは、祐二の為に働きとうございます」
言葉の途中から兼定の表情はこれから死地にでも赴こうとするかのような精悍な物に変わっていた。
「すっごいどん引き。兼定。それやり過ぎだよ。そこまで思わなくっていいってば。兼定がいくら錫の事を思ってくれても錫は兄ちゃまの物じゃん。もっと軽くっていいから」
「お嬢様。お心遣いありがとうございます。では、行って参ります」
「あー。そうなっちゃうんだ。うん。まあ、気を付けてね」
「どうしよう。本当にそっち系だったんだ。兄ちゃまに手出しされたら嫌だから、他の奴と替えよっかな」
錫が俺の耳に届くほどの声で心ない独り言を言った。だが兼定には聞こえていなかったのか兼定は精悍な表情を崩さずにずんずんと俺と猫服先輩に向かって歩いて来ていた。
「お兄様。申し訳ありませんが、その女子生徒を拘束させてもらいます」
「兼定さん。やめておいた方がいい。先輩は本気だ。祐二の奴はあんな事を言っていたが、近付いたら斬られる」
「祐二の言葉を信じています。それにお嬢様はああ言ってくれています。この兼定。今はハイパー無敵モードなのです」
ハイパー無敵モード? 何それ? なんか凄く恥ずかしい。聞いた俺の方が恥ずかしい。
「でも、いいんですか? お嬢様は替えよっかなって言ってましたよ?」
猫服先輩が遠慮がちに言った。さすが猫服先輩。遠慮がちとはいえ言い難い事を平然と。
「先ほどの言葉はちゃんと聞こえていました。ですが、お嬢様は俗にいうツンデレなのです。本音は別の所にあります。ですので、何を言われても問題はないのです」
兼定さん。あんたって人は。俺よりあんたの方が錫との付き合いは長かったな。そうだよな。あんたが言うのならきっと錫はツンデレなのだろう。俺は兼定さんみたいないい人には幸せになって欲しいと願いながらそんな風に思おうとしたが無理だった。兼定さん。いくらなんでもそれは都合よく考え過ぎだ。錫は言いたい事を言っているだけだ。兼定さん、あんた、不憫過ぎるよ。
「では。申し訳ありませんが、あなたを拘束してお兄様を解放させてもらいます。できればへたな手出しは無用に願います。へたな事をされると手加減ができなくなりますので」
兼定が言い終えると足を止め拳を握った両腕を前に出しファイティングポーズをとった。
「あの。何か勘違いしてませんか? 私があなたを傷付けられないとしても私は颯太君を殺せますよ?」
兼定の精悍だった表情が一瞬にして崩れ、あ、しまったという表情が顔に浮かんだと思うとその場で彫像のように固まって動かなくなった。
「錫も勘違いしてた。兄ちゃま人質だった。どうしよう。これじゃ駄目じゃん」
おい。お前ら。ありえない勘違いをするなよ。困った奴らだなあ、あははははは、はあ。うう。俺も自分の事なのに勘違いしていた。そうだったよな。俺人質だった。というか祐二馬鹿だろ。全部あいつの所為だ。死ね。とっとと死んでしまえっ。ふう~う。それにしてもどうしよう。
「あの。なんか、すいません。なんかいろいろ私、台無しにしちゃったみたいですね」
猫服先輩が心底すまなそうに言ってから頭を深く下げた。
「ねえ、どうして兄ちゃまを殺そうなんてするの? 普通は愛してる人を殺したりなんてできないんだよ?」
錫が急に泣きそうな声になり情に訴え掛けるように言った。錫の奴、考えたな。だが、相手は猫服先輩だ。そんな方法では無理だと思うぞ。
「愛してるからこそです。好きな人と永遠にいる唯一の方法はその好きな人を殺してしまう事なんです」
猫服先輩がゆっくりと顔を上げるとなんでもない至極当たり前の事を人と話すような感じで平然と言った。
「はあ? 何言ってんの? そんな事ある訳ないじゃん。死んだ終わりだよ。もう会えないんだから」
錫。そこで怒ってどうする。
「別にいいです。分からない人には分からないんです」
猫服先輩が少し拗ねたような声を出した。
「お嬢様。あまり刺激をしてはいけません」
いつの間にか動き出していた兼定が言いながら錫のいる方へと戻って行った。
「何があまり刺激をしてはいけません、よ。勘違いして格好付けてたくせに。断腸の思いです、なんて言ってたけど、今の錫のがよっぼど断腸だよ」
錫の奴、容赦ないな。兼定さん、ガンバ。はっ。いかん。俺は何を。自分の事を考えなくてはいけないのに。
「颯太君。どうしましょっか? このままここにいてはまた何をされるか分かりません」
猫服先輩は何もされないと思います。危険なのは俺だけです。それも猫服先輩の所為で。なんて事はさすが言えん。
「そうですね。このままではあまりにも危険過ぎます。どこかに逃げましょう。先輩。そういう事なのでナイフをどけて下さい」
なんとなく思い付いた事を適当に言った瞬間、俺の脳内に閃きが走った。猫服先輩がナイフをどけてくれたら逃げてしまおう。俺という人質を失った猫服先輩は兼定達に取り押さえられるはずだ。そうなれば、俺は晴れて自由の身になれる。
「どけないと走れないですもんね」
猫服先輩が俺の喉元に突き付けていたナイフを引いた。チャンス到来だ。さっさと逃げ出してしまえ。おっといかん。その前に額、額っと。
「先輩。もう額の手をどけてもらって平気です。自分で隠しますので」
ナイフという脅威が去りしゅっと回復した俺はしっかりと両手で自分の額にあるディスプレイを覆い隠した。
「はい。じゃあ、手を握って下さい。離れ離れにならないようにしましょう」
そんな事を言いながら走り出そうとしていた俺の正面に猫服先輩が回って来るとすっと、片手を差し出して来た。何を考えているのだこの人は。俺が本気で一緒に逃げるとでも思っているのか? 俺は深く深く溜息をついた。俺の溜息を聞いた猫服先輩がなんですか? と問うように小首を傾げた。
「先輩。俺が一人で逃げ出すとかそんな風には思わないのですか?」
その仕草があまりにも無防備でかわいかったので俺は思わずそう聞いてしまった。
「君が一人で逃げ出すんですか? どうして?」
どうして? どうしてってナイフで脅されていたし、脅されるだけじゃなく殺されそうになっているし。前に一度殺されているし。理由なんてたくさんありますよ。
「でも、もしも君が私を置いて逃げて行ってしまったら、私はきっと生きてはいられないと思います。君に殺されないのは不本意ですが、自殺して君と一つになろうと思います」
そう来ましたか。それはもう呪いか何かですな。やっぱり猫服先輩はどうしようもない。最悪だ。ここで自殺なんてされたら後味の悪い事この上ない。それに。俺も駄目だ。こんな風にぐだぐだやっている暇があったら逃げればいいのだ。それなのにこうしてここにいる。とんだ茶番だ。最初から俺は一人では逃げられない事なんて分かっていたはずだ。こんな人と一緒にいようと思うなんて俺も猫服先輩並みに頭がいかれて来ているな。
「自殺なんてやめて下さい。走り出す前にどこに逃げるのかだけ決めておきましょう」
「君が変な事言うから言っただけです。決めるのはいいですが、どこに逃げてもまたすぐに囲まれてしまいそうです。それに、この状況では逃げ切る事は難しいかと思います」
猫服先輩が腕を胸の前で組むとむむむむと小さな声で呟きながら思案顔になった。
「教室の中に立てこもるとかはどうですか?」
おっと、これは我ながらいい発想だぞ。立てこもって、そうだな。錫と交渉でもしてみるか。猫服先輩の今後の事と、今のこの状況の打開、それと額を隠す為の新しいニット帽か何かを手に入れよう。こうやって手で押さえているだけだと不安でしょうがない。また猫服先輩にナイフでも突き付けられたら困るからな。
「立てこもる、ですか。いいかも知れません」
猫服先輩が思案顔から打って変わってぱっと花を咲かせたような笑顔になった。
「あ。でも、どの教室にします? 放送室、視聴覚室、理科室、音楽室、家庭科室。今、頭の中に浮かんだだけでもこれだけありますよ?」
どの教室か。それはわりと重要かも知れないな。
「兄ちゃま。何やってるの? こっち逃げて来てよー」
錫の叫ぶ声が聞こえて来た。
「どうしましょう。もう一度ナイフを突き付けた方がいいですか?」
早く移動した方がいいか。あまりもたもたしていると、さっきの祐二みたいな馬鹿がまた出て来て余計な事をするかも知れない。
「とりあえず校舎内に入りましょう」
俺は片手を額から放すと猫服先輩の方へ差し出した。
「はい。明日に向かって走りましょう」
猫服先輩が俺の手を握って来た。
「なぜに、明日ですか?」
俺は言いつつ猫服先輩の繊細で柔らかい指を包み込むようにそっとその手を握り返した。
「ボニーアンドクライドです。「俺たちに明日はない」ですよ」
確か、映画のタイトルだったよな。
「映画の中の台詞か何かですか?」
俺と猫服先輩は走り出した。
「いえ。違います。でも、きっと私達には明日は来ますから。そういう意味でなんとなく」
何が言いたのかよく分からないがなんとなくならしょうがないか。おお? でも、これはひょっとすると猫服先輩は生きようとしているという事なのか?
「先輩。じゃあ、もう自殺なんてしませんね?」
「はい? どうしてそうなります?」
「だって、死んだら明日はないじゃないですか」
「じゃあ明日よりも一緒に死んで一つになる事を優先しちゃいましょう」
俺はあなたと一緒に普通に生きていたいです。なんて言葉が頭の中に浮かんだが、俺はその言葉を言わずにおいた。というか、こんな言葉恥ずかしくって言えるかっていうの。ああー。我ながら酷いな。超赤面物だ。
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