第6話
恐らく錫の仕組んだ嫌がらせなのだろうが学園まではリムジンで送られた。門の前で降りる時、クズどもの好奇の視線に激しくさらされたが、そんな物は苦にならなかった。
「昨日といい今日といい奇跡ですね。こんな風に君に会えるなんて」
猫服先輩とすぐに会えたのだ。猫服先輩は俺を遠巻きに見ているクズ連中の中から躊躇う事なく一人で出て来ると俺の方に向かって真っ直ぐに歩いて来てくれた。
「先輩。おはようございます。確かにこんな偶然が二度も続くと奇跡と言いたくなります」
俺と猫服先輩が並んで歩き出すと、周囲のクズ連中ががやがやと騒ぎ出した。
「私といると目立っちゃいますね」
猫服先輩が申し訳なそうに言った。
「いえ。今日は俺も相当目立っていますよ。リムジンで門の前に横付けですから」
俺の言葉を聞くと猫服先輩が急に周囲をきょろきょろと見回し始めた。
「どうしました?」
「妹さん。今日はいないんですか?」
「安心して下さい。あいつはここの生徒ではないですから」
猫服先輩が不意に前方にある昇降口を指差した。
「でも、ほら。あそこ」
まさか!? 錫がいるのか? 俺は目を凝らして昇降口にいるクズどもの姿を見た。
「嘘です。君は妹さんが大好きみたいなので正直嫉妬しています」
妹さんが大好きみたい? 俺が? 錫の事を大好き?
「先輩。それは笑えない冗談という奴です。俺はあいつが大嫌いです。しかも、あいつは本当の妹かどうかまだ分からないのです」
猫服先輩が不思議そうな表情をした。
「君が死んだ後、戸籍を見せられましたよ。間違いないなくあの子は君の本当の妹さんだと思います」
戸籍か。確かに説得力はある。だが、あの錫の事だ。戸籍の偽造くらい平気でやるだろう。
「先輩。騙されてはいけません。あいつは戸籍の偽造くらい平気でやる奴です。というか、あんな奴の話はどうでもいいのです。折角こうして二人でいるのです。何か別の話を」
猫服先輩が不意に悲しそうな表情を見せた。
「どうしました?」
俺にはまったく分からないが二人でこうして歩いている間に何かがあったのだろうか?
「残念ですが、もう下駄箱です。君とは学年が別ですから、後少しでお別れです」
これは俺と離れたくないという意味だよな?
「先輩。何もそんな顔をしなくても」
「そんな顔になりますよ。君は妹さんを妹さんだと認めない上にもうお別れなのですから」
どういう事だ?
「錫が俺の妹の方がいいのですか?」
「いいに決まってます。他人だったら君を取られちゃうかも知れないじゃないですか」
おおう? 朝からがつんと来るじゃないか。
「俺としては、あんな頭のおかしな奴が実の妹だったら嫌だったので認めなかったのです。先輩がそう言うのならあんな奴でも実の妹で構いません」
うん。まったく問題ない。錫は俺の実の妹だ。
「実の妹なのに好きなんですか?」
ええー。そういう展開? さっき大嫌いだって言ったよな?
「先輩。さっきも言ったと思うのですが、俺はあいつの事は好きではありません。大嫌いです」
猫服先輩がすっと目を伏せた。
「嘘です。いえ、本当だとしても、信じられません。そんな言葉だけじゃなんの証にもなりません」
あれ? この流れは。嫌な予感がする。殺す死ぬに発展しそうな流れだ。
「いや~。難しいですね。この気持ちをどうやって表現すればいいのかな」
俺はすっとぼけながら猫服先輩からとりあえず離れておこうと自分の下駄箱に向かった。「今、逃げましたよね?」
下駄箱の中にスニーカーを入れ代わりに取り出した上履きを履こうとしているといつの間に傍に来たのかすぐ後ろから猫服先輩の声がした。
「びっくりした」
思わず言いながら振り向くと猫服先輩が提げていた鞄を持ち上げ口を開いて中を俺に見せて来た。
「見えますか? ナイフが入ってるんです。これがあればいつでも君とうふふふです。一晩自分なりに考えたんですけど、やっぱりこれが一番だと思うんです」
そうなりましたか。駄目だ。怖い。猫服先輩の嬉しそうに笑うかわいい顔がとても怖い。
「こんな危険な物を持って来て。抜き打ちで持ち物検査があったらどうするのです? 大変な事になりますよ?」
ナイフをなんとかしようと思いそう言ってみた。猫服先輩が不安そうな顔になった。
「持ち物検査ですか。着ぐるみの時は中に隠してたんですけど、どうしましょう」
隠していたのか。実に恐ろしい。いやいや。今はそんな事よりナイフだ。
「今日は俺が預かります。明日からは持って来ないようにして下さい」
さすがに鞄の中に手を入れるのは憚られたので俺は渡して下さいと示すように手を差し出した。
「検査があったら君はどうするんです?」
猫服先輩が鞄を胸の前で抱くようにしながら言った。
「俺の事は心配しないで下さい。ナイフは没収されてしまうかも知れませんが」
ふっ。ちょっと格好を付けてしまった。そしてナイフはぜひ没収されてしまえ。
「駄目です。ナイフが没収されたらいざとなった時に使えないじゃないですか」
先輩、そこですか? 心配しないで下さいとは言ったが、それはちょっとなんというか。
「それに、君が叱られてしまいます」
そうそう。そうですよ。うん? おかしい。猫服先輩がなぜか嬉しそうな顔になったぞ。
「先輩? なぜ嬉しそうな顔を?」
「だって、私の所為で君が怒られるんですよ? 嬉しいじゃないですか。これって愛ですよね? 愛がないとできない事です」
猫服先輩が鞄の中に手を入れると黒いプラスチック製の鞘に収められた小型のナイフを取り出してまだ差し出したままでいた俺の手の上にのせた。
「ま、まあ、そうかも知れませんが」
うーん。確かに愛だが、なんか違うよな? 昨日のあの会話はなんだったのだろう。さすが猫服先輩というべきか。この人の中ではどんな風にでも傷が付けば愛なのかも知れん。
「でも君が叱られるところを想像したらなんか嫌な感じです。やっぱりそのナイフは返して下さい」
猫服先輩。それですよ! これからはずっとそういう方向性で行って下さい。
「それは駄目です。ナイフはこのまま預かります。放課後になったら返しますから」
そうだ。どうして嫌な感じがしたのか説明してみようか。それが分かれば少しは猫服先輩が変わるかも知れない。
「おー。颯太。それに、先輩も」
祐二が大声を上げながら昇降口の中に入って来たので俺は慌ててナイフを自分の鞄の中に突っ込んだ。
「おはようございます」
猫服先輩が祐二の方を向いてぺこっと小さく頭を下げた。祐二のクズが。最低のタイミングで出て来たな。仕方ない。今猫服先輩に説明するのは諦めよう。そんな事を考え祐二を無視していると祐二が何かを大げさに理解したというような顔をした。
「わりぃ。折角二人きりだったのに邪魔しちゃったか。俺は先に行くからよ」
祐二がそそくさと自分の下駄箱に向かう。ええーい。あの表情もいらぬ気遣いも何もかもが鬱陶しいわっ。
「山柄君。恥ずかしくなるじゃないですか。変な事言わないで下さい」
猫服先輩が言うと祐二が足を止めて猫服先輩の方に顔を向けた。
「変な事? 何言ってんですか先輩。二人っきりになるのは大切な事っすよ」
「先輩。こんなクズは放っておいて行きましょう」
上履きを履き終えた俺は猫服先輩に声を掛けた。
「クズ? ですか?」
「はいクズです。さっさと行きますよ先輩」
「あ、はい。じゃあ、行きましょう。山柄君、また」
「ういーす。先輩、颯太の事よろしくでーす」
うん? 今、猫服先輩がどことなくつまらなそうな顔をした気がする。ま、まさか。祐二の事が気になるのか?
「先輩。どうしました?」
「え? 私、何かしました?」
「気の所為ならいいのですが、今、つまらなそうな顔をしたように見えたので」
俺の言葉を聞いてきょとんとした顔をしていた猫服先輩が笑顔になった。
「君との関係の事を言われたのが嬉しかったんです。もう少しああいう会話をしてたかったなーなんて思ってました」
がつんまた来たあー。猫服先輩ってかわいいんだなあ。
「そうですか。だが気を付けた方がいい。あいつと話をしていると馬鹿がうつります」
「もう。颯太君ったら馬鹿はうつりませんよ」
二人だけの世界を形成しつつ俺達は歩き出した。
「そうだ。颯太。さっき朝練やってる連中が言ってたの聞いたんだけどよ。うちのクラスに転校生来るんだって。しかも女子らしいぜ。ちいぃー。無視ですかい。くうぅー。冷てえー。前からそういう冷たいとこあったけど、今日はいつもより冷たく感じるー」
背後から追いすがって来る転校生の話も悲嘆にくれる言葉も祐二の言う事はすべて聞き流しながら俺は猫服先輩と昼休みを一緒に過ごす約束を交わしていた。
「では、昼休みに屋上で」
「はい」
三年生である猫服先輩の教室は三階にあるので階段の所で猫服先輩と別れると俺は一人自分の教室へと向かった。
「佐井田。お前、今度は猫服先輩かよ」
「復活したと思ったらこれだよ。うらやましいねー」
教室に入ると、クズどもが嬉しそうに冷やかして来た。
「お前ら猫服先輩に迷惑は掛けるなよ」
俺はクズどもを威圧するように言った。
「おい。お前、どうした?」
「前は付き合ってた奴の事、あんなクズどうでもいい、とか言ってただろ」
教室内がしーんとして何やら変な空気になった。
「お前ら聞いたかー? 転校生だってよ。しかも女子」
祐二が叫びながら教室の中に入って来た。
「おーい。なんだよお前らー。嬉しくないのかよー?」
誰も反応しないので祐二が再度声を上げた。
「気になるけどー今はこっちだ。佐井田の奴、猫服先輩の事大切にしてるっぽいんだけど」
「先輩に迷惑掛けるなよーとか言っちゃってんだぜ」
俺は発言をしたクズ二人を睨み付けた。殺すぞ、こら。
「今回は本気で好きだって事だろ? 何かおかしいか?」
いや。その考え方はおかしくないとは思うが、俺、本気で好きだったのか?
「なんだよそれ」
「佐井田だぜ? 本気とかあんのかよ?」
お前は俺の何を知っているというのだこのクズめが!
「やめろやめろ。人の恋路をそんな風に言ったってつまんないだろ? なんの得にもならない。それともあれか? お前ら猫服先輩の事好きとかなのか? だったら先に声掛けとけよ。どう見てもどの付くフリーだったんだぞ。颯太はあの状況で攻めたんだぜ。お前らにできたか? つーかやる気もなかったんだろ? なら茶化すなよ。そんな事より転校生だー。気になるだろー?」
そうだな。うん。そうだそうだ転校生だ。佐井田と猫服先輩なんかの事より転校生だな、なんて感じになってすぐに転校生の話題で皆が盛り上がり始めた。俺は自分の席に座ると、クズどもと転校生の話をしている祐二の方に目を向けた。祐二の奴、さっきは俺の事を庇ったのか? 何が狙いだ? うーん。うむむむ。ああ。あれか! 兼定におかしな事をされていたからな。余程、刺激的だったのだな。それでまた兼定に会いたいのか。
「颯太。なんだその目。俺の事が気になんのか?」
俺の視線に気付いたらしい祐二が群れの中から抜け出て俺の傍に来た。
「お前の相手は兼定だろ。気色の悪い事を言うな」
「兼定さんか。あの人、なんか、凄いよな」
祐二が窓の外に目を向けると溜息まじりに静かな声で言った。
「会いたかったらいつでも錫に言ってやるぞ」
「妹ちゃんか。かわいかったな。お前にあんな妹がいたなんてな」
「錫はやめとけ。何もかも最悪で最低だ」
「なんだ? 妹ちゃんがそんなに大切なのか?」
からかっているのか? 違う! 真剣だ。この男真剣に言っている。こいつ、馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、いよいよ日本語が理解できないほどに馬鹿化が進んで来たのか?
「大切なものか。こうしてここに来る事は許されてはいるが俺はあいつに拉致監禁されている状況なのだぞ。家に帰らせてもらえないのだ。そうだ。帰りに家に寄れるかも知れないな」
「なんだと? お前、今、あの妹ちゃんと一緒に住んでるのか?」
「監禁だ。監禁されていると言っただろ」
祐二が顔を俺の顔にぐっと近付けて来た。
「先輩の事、好きじゃないのか?」
なんだこいつ。面倒臭い奴だな。
「顔が近い。そんな事どうでもいいだろう? お前には関係ないじゃないか」
俺が顔を引くとまた祐二がぐっと顔を近付けて来た。こいつ。邪魔だっ。俺は手を動かすと祐二の顎を掌で横に向かって押した。
「お、おい。いきなりなんだよ。手は出すなっての」
祐二が思い切り体を引いたので自然に俺の手は祐二の顎から離れた。
「殴られないだけましだと思え。お前が無駄に近付いて来るからだ」
祐二が適度な距離に戻って来ると、顎の俺の手が触れていた部分をさすりながら口を動かした。
「関係はあるぞ颯太。お前、忘れてんのか? お前が猫服先輩と出会えたのは俺のお陰なんだぞ。あの賭けがなかったらこんな風にならなかったんだ」
すっかり忘れていた。そうだった。今のこの状況はすべて祐二の所為だった。よくお礼を言っておかないとな。
「そうだったな。そういえば、賭けは俺の勝ちでいいのだよな?」
祐二がしまったという顔をした。
「いや、ああ、あれは、あれだよ」
このクズ、とぼける気か? せこい。実に祐二らしい。
「あれとはなんだ?」
「あれは、あれだよ。つーか、そんな話をしたいんじゃないんだよ。猫服先輩だよ。お前、あの人相当お前に惚れてんぞ。ちゃんとしてやれよ。あの人凄くいい子だぞ」
猫服先輩がいい子か。確かに、いい子だな。あの性癖がなければな。
「余計なお世話だろ。お前に言われなくてもちゃんとする」
「妹ちゃんはどうすんだ?」
こいつ。今日はやけに絡んで来るな。
「妹は妹だろ? 付き合う事なんてない」
「いや~。今時は分からんぜ。そういうラノベとかアニメとか結構あるしな」
なんだそれは。そんな事が理由になるか。まだこんな時間なのにどうーんとした疲れを感じる。もういい。今朝はもうお前とは話をしたくない。
「もう自分の席に行け。先生が来るぞ」
俺は会話を終わらせにかかった。
「そんな時間か? とにかく先輩とはちゃんとしろ。先輩は着ぐるみを脱いだんだ。あれだってきっとお前の為だぞ」
念を押すように言ってから祐二は自分の席に向かった。着ぐるみか。祐二は本当の事は何も知らないからな。猫服先輩が両親を殺していて更に俺を殺している事を知ったらなんと言うのだろうな。ちょっと言いたいかも知れない。いやいやいやいかん。言ったら猫服先輩が逮捕される。うん? 逮捕されるよな? 俺は今生きているからともかくとしても両親は死んでしまっているからな。言えない。やっぱりこの事は黙っていなければいけないな。チャイムが鳴ったので俺はぼんやりと祐二の背中に向けていた視線を教室の前の扉に向けた。転校生か。どんな奴が来るのだろうか。今更だが俺だって気にならない訳ではない。女子か。かわいい子だったらいいな。ん? んん? んんん? 待て待て待て。このタイミングで転校生だと? 祐二の阿保阿保思考の真似じゃないが、ラノベやアニメでよくあるぞ。あの扉が開いて先生が入って来て転校生を紹介する。すると、兄ちゃま~、とか言いながら錫が。
「兄ちゃま~。来ちゃった~」
教室の前の扉が開き中に入って来た錫の姿を見て俺の思考は停止した。兄ちゃま? 兄ちゃまって誰だ? 兄ちゃまって兄貴がいるって事か? などという言葉が飛びかい騒ぎ始めたクズどもの声で我に返った俺は弾かれたようにして椅子から立ち上がると錫に向かって怒鳴った。
「お前、何をやっている」
「転校して来たんだよ。ほら。どう? 制服似合う?」
錫がツインテールの髪をなびかせながら扉の前でくるりと体を一回転させた。
「妹ちゃん。妹ちゃんじゃないか~」
祐二が嬉しそうに叫んだ。錫が祐二の姿を見ると目を細めた。
「兼定」
錫が扉の外に向かって言う。
「はい」
傍に来た兼定に錫が何事かを耳打ちした。兼定が祐二の方に目を向けると、当たり前のようにすたすたと教室の中に入って来た。
「あうあうあう。兼定さん? どうして兼定さんがここに?」
祐二がおろおろし始め慌てた様子で好きな男子の前に出た女子のように制服を整えながら言った。
「祐二。こっちへ。しばし二人で過ごしましょう」
兼定が祐二の傍に来るとじっと祐二の目を見つめながら優しい声で囁くように言った。おお?! きゃあああー。薔薇か? BLとお言いなさいな。教室内が錫の登場の時よりも更に騒がしくなった。
「皆静かにしなさい」
先生が教室の中に入って来た。兼定と祐二がその横を通って教室の外へ出て行こうとするが先生は何も言わなかった。
「それでは、坂籐さん自己紹介をどうぞ」
兼定と祐二の事など見えていなかったかのように先生が言い錫がにこにこと微笑みながらはいと返事をして黒板に自分の名前を書き始めた。
「坂籐錫です。佐井田颯太の双子の妹兼恋人です」
佐井田の妹兼恋人だと! 猫服先輩がいるくせに。どういう事だ? 苗字が違うぞ馬鹿野郎。かわいい。佐井田君私女だけど譲ってえぇー。錫の馬鹿、なんて事を言うのだ。
「せーんせい。席はあそこがいいな」
錫が俺の隣の席を指差した。
「加藤さん。そこを空けなさい」
加藤さんがかわいらしくおさげにした髪を揺らしつつ、は、はあ、私ですか? と少し困ったように言いながら自分の顔を自分で指差した。
「加藤さん。お願い」
錫がぺこっと頭を下げた。加藤さんがやっぱり少し困ったように、は、はあ、別にいいですけど、私はどこへ? と言うと先生が祐二の席を指差した。
「そこを使いなさい」
は、はあ、分かりましたけど山柄の鞄とか教科書とかどうすればいいですか? 触りたくないんですけど。後、机と椅子消毒してもらっていいですか? と今度は心底嫌そうに言いながら加藤さんが立ち上がった。祐二、お前。クラスの女子にこんな事言われるような立場にいるのか? 知らなかったよ。今まですまなかった。俺、これから少しお前に優しくしようと思う。
「しょうがないですね。先生がやります」
先生が教科書やノートを机の中から出したり机や椅子をなぜか持っていた消毒液を使って拭いたりした後に加藤さんが祐二の席に移ると錫が俺の隣の席に来て座った。
「兄ちゃま~。今日は~、教科書とかないから~、全部~、見せてね」
甘えるような言い方をし、これでもかというくらいの笑顔を錫が見せて来た。
「どういうつもりだ?」
俺は冷たく言い放った。
「だって兄ちゃまとずっとずっと一緒にいたかったんだもん」
錫が先ほどとは打って変わって泣きそうな顔をする。
「佐井田君。坂籐さんと仲良くするように」
朝の連絡事項を伝えていたはずの先生が不意に俺に向かってそんな言葉を投げて来た。
俺は一瞬何を言われたのか分からずに反射的に先生の顔を見た。
「佐井田君。私の方ではなく坂籐さんの方を見なさい」
なんだ? なんなのだこれ? この先生は一体どうしたっていうのだ?
「兄ちゃま。先生もああ言ってるよ? だから錫だけを見てっ」
錫が俺の腕に腕を絡めて来た。俺は錫の腕を振り解くと錫を睨み付けた。
「何をした?」
「何もしてないよ」
錫が明らかに不自然に視線をそらす。俺が睨み付けたままでいると錫が唇を尖らせ息を吹き吹きフスーフスーと間抜けな音を鳴らし始めた。こいつ。わざとなのか? 俺に叱られたいのか?
「錫よ。バレバレだ。今すぐに何をしたか言え」
錫が酷く驚いた顔をした。
「どうしてバレバレなの? 兄ちゃまと違って錫のおでこには何も出ないのに」
俺は咄嗟に錫の口を手で押さえた。誰も聞いていないだろうな? 折角ここまで誰も額を隠す為に被っているニット帽の事には触れて来なかったというのに。
「馬鹿。その事を人前で言うな」
「ふあがもがはふが」
「言うなよ?」
「ふんふんがふん」
錫が頷いたので俺はゆっくりと手を放した。
「先生が兄ちゃまのそのニット帽の事何も言わなかったのだって錫のお陰なんだよ」
俺は錫の視線がニット帽に向かったのを見るとすぐにニット帽を脱がされないようにとしっかり両手で押さえた。
「ニット帽と額の事は言うなと言っているだろうが」
錫が嬉しそうにいたずらっ子がするような笑みを顔に浮かべた。
「え~? 何~? 聞こえな~い」
なんて奴だ。
「そんな事言っていいのだな? 本気で嫌いになるぞ」
俺が凄むと錫が慌ててすがるような声を出した。
「ごめんなさいー。嫌いにならないでー」
「今後のお前の態度次第だ」
「じゃあ、錫は兄ちゃまに従順になる。なんでもする。今ここで裸になれって言われたら裸になる」
なんだそれ。こいつ、まさか脱ぎたいとかじゃないよな? 変態痴女だからな。
「錫。お前の裸なんて見たくもない。今俺が望んでいるのは」
「話す。話しますー。買収したの。この学園の先生全員買収済みなの。だから錫の言いなりだよ。という事は。兄ちゃまも好き勝手にやっても平気なんだぞ~」
買収だと? 本当にそんな事ができるのか? だが、あの先生の様子を見ると信ぜざるをえない気がして来てしまう。
「あー。兄ちゃま信じてないでしょ? そういう目してるもん。前に言ったじゃん。兄ちゃまのラッキー人生は錫がやってんだよって。同じような感じでやったんだよ」
そういえばこいつはそんなような事を前に言っていた。あの時はまったく信じていなかったが、あれは本当の事だったというのか?
「先生は俺の言う事も聞くのか?」
「うん。でも、先生にも立場があるからあんまり変な事は言っちゃ駄目だよ」
俺は黒板に向かって文字を書いている先生の方に顔を向けた。
「先生。ちょっといいですか?」
「うん? どうした佐井田君」
先生が文字を書く手を止めて俺の方を見る。
「こっちに来てもらえますか?」
「あ。ああ」
束の間逡巡してから先生が俺の傍に来た。
「佐井田君。皆の目がある。こういう呼び付け方できればしないで欲しい」
先生が俺の耳元に顔を近付けると聞き取れるか聞き取れないかくらいの小声で言った。
「先生はこいつに買収されているのですか?」
気を使って俺も小さな声で言った。俺の言った言葉の意味を理解したらしい瞬間、先生が不自然なほどに目を大きく見開いて俺の顔を見つめて来た。
「私を辱めたいのか? 君はそういう趣味の持ち主なのか? ま、まあ、あれだな。それならばそれでいい。買収されている。私はお金をもらう代わりに坂藤さんと佐井田君の言う通りに動く事を約束している」
「そうですか。話はこれだけです」
「もう終わりか? 戻っていいのか?」
「はい」
先生がちらちらと俺の方を見ながら黒板に向かって歩き出した。俺はその視線に何か言い知れぬ気色の悪さを感じて思わず身震いした。
「ね。そうだったでしょう?」
錫が嬉しそうに微笑みながら得意気な声で言った。俺は錫の顔をまじまじと見つめた。
「俺のラッキー人生と同じようにやったと言っていたな?」
「うん」
「俺が言うのもなんだが、俺は相当ツイていたぞ。生活費だけじゃなく遊ぶお金にすら困った事もなければ、好きだと告白した子と付き合えなかった事もない。金遣いが荒くて目立つから同年代の不良や悪い先輩に目を付けられる事が何度もあったがどいつもこいつも知らぬ間に怪我をして長期入院をしたり転校してどこかへ行ったりしていた。他にもいろいろある。雑誌の読者プレゼントの抽選に何度も当たった。こんな事もあった。何も考えずに電車に乗って何駅も何駅も通り過ぎて遠くに行って迷って途方に暮れていたらどこからともなくパトカーに乗った警官が現れて何も聞かずにただ優しくしてくれて家まで送ってくれた」
俺は今までにあったツイていた思える出来事を思い出しながら言葉を紡いだ。
「それ全部錫がやらせてたんだよ。兄ちゃまが幸せに過ごせて、楽しそうにしてるのを見るのが錫の一番の幸せだもん」
なんて事だ。俺の今までの人生に起きた出来事のほとんどすべての事が錫がやらせていた事だったなんて。俺は錫の顔を見ているのが嫌になり顔を下に向けた。
「俺はお前に生かされていたという事なのか?」
体の奥底から絞り出すように声を震わせながらそう言った。
「それは違うよ。兄ちゃまは自分で生きてたよ。ずっと一人で生きてたよ。錫はお金もあって大勢の使用人とか会社の人とかに囲まれてたけど、兄ちゃまはずっと独りぼっちだったんだよ」
錫が椅子から立ち上がり俺の傍に来ると俺の体を包むように抱き締めて来た。
「放せ。お前にそんな風にされるほど俺は落ちぶれてはいなーい」
俺は立ち上がると錫を振り払った。
「ええー? 兄ちゃま? そうじゃないでしょ? 今はそういう流れじゃないってば。今は兄ちゃま~、錫~、からの~、がばあぁーって抱き合うところだよー」
俺は椅子に座るとふんっと言ってふんぞり返った。
「恩着せがましい奴だ。今更そんな事を言って俺に何かさせる気か? お前の行為はただの自己満足だ。利己主義だ。見返りを求めての優しさなんて優しさじゃない。そんな物はただの取引だ」
「あ、あ、兄ちゃま? ここは怒るところなの、かな?」
錫が珍しく困惑した様子を見せた。
「どう考えても怒るところだろ。お前は言うべきじゃなかったのだ。言ってしまったらすべてが台無しだ」
「え? え? なんで? どうして?」
俺は錫の方に顔を向けると錫の目を覗き込むようにして見た。
「自分で考えろ。それが分からないようではお前はずっと自分勝手なままだ」
「ええ? そんな。教えてよー」
俺は錫の顔から視線を外すと黒板に目を向けた。黒板には一時間目を受け持つはずの先ほどまでいた担任の先生の文字で自習とだけ書かれていた。
「ねえ、兄ちゃまー。教えてよー」
錫が俺の視界を塞ぐように目の前に立った。
「錫よ。兄ちゃまの愛が分からないのか? 俺はお前に成長して欲しいからあえて突き放しているのだぞ」
錫が目を見開いて驚いた顔をしてから蕾だった花が開いて行くように驚いていた顔を笑顔に変えた。
「愛なの? これが愛なの?」
「しつこいぞ。そういう事を言うから俺はお前の事が嫌いなるのだ」
「分かった。じゃあ、黙ってる」
錫がにこにこと微笑んだまま自分の席に戻ると椅子に座った。座った錫と入れ替わるようにして俺はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「兄ちゃま? どうしたの? 鈴の事、急に抱き締めたくなっちゃった?」
「そんな事は明日人類が滅亡するという事になってもないから安心しろ。トイレだ」
行ってらっしゃいという錫の拗ねつつも寂しそうな声を聞き流しながら俺は歩き出した。教室から出ると俺はトイレには向かわずに屋上に向かった。うちの学園の屋上は高く頑丈なフェンスに囲われているので基本的にいつでも行けるようになっている。生徒達の間に伝わっている真偽の定かではない話によると理事長の屋上こそ青春の一ページを飾るに相応しい場所であるという考え方のお陰でそうなっているらしい。階段を上がり終え屋上に続くドア開けると、校舎内にはない解放感と眩いばかりの午前中の日差しが俺を迎えてくれた。俺はそんな光の中に包まれるようにして屋上に出ると後ろ手にドアを閉め顔を巡らせて屋上を一通り眺め回した。
「ん? 誰かいるのか」
俺の立っている場所から見て一番奥のフェンス際にあるベンチに女子が一人座っていた。屋上にあるベンチはすべて外側に向かって設置されているのでこの位置関係ではお互いに顔を見る事はできない。俺は一人になりたかったので少しがっかりしつつ奥に向かって縦に長い屋上の真ん中辺りのフェンス際に設置されているベンチの一つに腰を下ろした。
「錫の奴」
俺はぼそりと呟いてから投げ出すようにして背中を背もたれに預けると顔を上に向け抜けるような青空を見た。錫の前では動揺を見せないようにしてはいたが、正直かなり動揺していた。錫にほとんど何もかも操られていて、その事に一喜一憂していた事に腹が立っているという事もあったが、錫が俺の事をずっと見守り俺が何不自由なく生きて行けるようにしてくれていた事に対する思いもあった。俺はこんな気持ちを久しく忘れていた気がした。
「感謝、か」
そうなのだ。俺は錫に対して感謝していた。
「何が感謝なんです? 私とこうして偶然会えた事にですか?」
ふっと視界に影が差し、誰かの顔が覗いたと思うと猫服先輩の声がした。
「先輩」
「はい。先輩です。授業サボっちゃ駄目じゃないですか」
猫服先輩が俺の隣に座って来た。
「いつの間に?」
「君が来る前からいましたよ。君がここに座るのが見えたから来たんです。気付きませんでした? 私、あっちのベンチに座ってたんですよ」
猫服先輩が顔を先ほど女子が一人座っていた奥にあるベンチの方に向けた。
「あそこにいた人が先輩だったのですか」
「知ってたなら声を掛けてくれればよかったじゃないですか」
「背中が見えただけです。誰かまでは分かりませんでした」
「そうなんですか? 私はちらりと見ただけで君だってすぐに分かりましたよ」
不満そうに猫服先輩が言った。
「気付いて欲しかったのですか?」
「当たり前です。君に気付かれないなんて私の存在意義がありません」
「あまり笑えない冗談です。俺に気付かれなくっても先輩にはじゅうぶんに存在意義がある。大丈夫ですよ」
猫服先輩がじいーっと俺の顔を見つめて来た。
「何かあったんですか? いつもの君ならそんなクールな対応はしないはずです。いつもの君なら、そうですね。なんかもっと慌ててくれるような気がします。存在意義なんてそんな大げさな事は考えない方がいいですとかなんとか言いながら」
いつもの俺らしくない? そうなのだろうか? だがもしそうなのだとしたら錫の事があったからなのだろうと思った。
「ちょっとありまして、一人になりたくなったのです。それでここに来たのです」
猫服先輩が驚いたような顔をしてからすまなそうな顔をした。
「それは、ごめんなさい。邪魔しちゃいましたね」
言い終えてから不意にくすっと猫服先輩が笑ったので俺は何事かと思い猫服先輩の顔を二度見した。
「今、なぜ笑ったのです?」
ここは笑うところではないはずだ。だが、猫服先輩なら笑うのかも知れない。猫服先輩が普通の人とは違うサイコパス、いや、少しだけズレた感性の持ち主だという事を俺はすっかり忘れていた。
「嬉しいんです。だって、君の悩みが聞けるかも知れないんですよ? 相談に乗ります。こういうの初めてです。なんか青春って感じがしますよね?」
猫服先輩がふすーふすーと鼻息を荒くしながら身を乗り出して来た。
「いえ。結構です。相談するような事じゃないですから」
俺は猫服先輩から離れるように身を引いた。
「ええー? どうしてですか? 私じゃ不満なんですか? 好きな人の悩みを聞くのは重要な事だと思うんです。君だって好きな私に聞いて欲しいはずなんです」
猫服先輩がずいずいっと更に身を乗り出し俺に近付いて来た。
「先輩。落ち着いて下さい。先輩は誤った情報を元に行動している可能性があります。例え恋人同士でも話す事のできない悩みという物が存在するのです」
俺がまた身を引きつつ言うと俺に近付く為に動こうとしていた猫服先輩が動きを止めた。
「そうなんですか?」
「はい。それがまた二人の恋愛感情に新たな火を付けるのです。なんでもかんでも簡単に話していたらあっという間に相手に飽きてしまうとは思いませんか? 秘密の悩みがあるというのも実は大事なのです」
猫服先輩が感心したような顔になってふーんそうなんですか、と小さく唸った。錫との事を話したくないあまりにかなり適当な事を言ってしまったがしょうない。それにしても。好きな私か。まあ、好きだが、猫服先輩には問題があるからな。
「分かりました」
ふう。分かってくれましたか。そろそろ教室へ戻った方がいいかも知れない。錫がここに来たら面倒な事になりそうだ。
「いい事を思い付きました」
猫服先輩が唐突に言い嬉しそうに微笑みながら俺の顔を見つめて来た。
「どうしたのです?」
俺は猫服先輩の事だから何を言い出すのか分からないぞと思い警戒しつつ聞いた。
「そんなに構えないで下さい。額です。額を見せて下さい。君の額には思った事が出るんですよね?」
俺は額と聞いて反射的に両手でニット帽を押さえた。
「すいません。それはできません。先輩だって自分の思っている事をなんでもかんでも人に見られたくはないでしょう?」
猫服先輩がすっと動いたと思うと一気に俺との間にあった距離を詰め真横に来た。
「私の事、嫌いになったんですか? それならそうとはっきり言って下さい」
猫服先輩の黒色の瞳が俺の目を射るように見た。俺は蛇に睨まれた蛙のようにぴくりとも動けなくなってしまった。
「どうして何も言ってくれないんですか? このままでは、えっと、なんでしたっけ? 痴情のもつれ? よくあるじゃないですか? 恋人同士で殺し合ったりしちゃう奴です」
俺の目を射るように見つめ続けている猫服先輩の瞳の奥にほの暗い光が灯ったように見えた。
「先輩こそ、どうしたのですか? なんか、さっきから変じゃないですか?」
俺はなんとか乾いてひりついて来た喉の奥から絞り出すようにして声を出した。正直、猫服先輩に別段変な所はないとは思うのだが、なんでもいいから何かを言わなくてはと必死に考えた結果こういう状況の時に使う常套句はこれではないか? と思ったのでそう言った。
「分かりますか?」
今までよりも少し明るい感じのトーンの声で言ってから猫服先輩が恥ずかしそうに目をそっと伏せた。これは、危機を脱したかも知れん。俺は自分がいつの間にかニット帽から放していた手で拳をぎゅっと握り締めつつおかしな汗を体中から流している事に気が付いた。どうやら俺は猫服先輩に真の恐怖を感じているらしい。好きな気持ちは嘘ではないが、体や心の奥底ではあの時、猫服先輩に刺された時の事をしっかりと憶えていてそれを思い出して来ているようだった。
「もちろん。分かりますよ」
しまった。思わず言ってしまった。全然何も分かってなんていないのに。
「転校生が来て一年生の教室が凄い盛り上ってるっていう話が伝わって来たんです。なんでもその転校生の子は双子のお兄さんを追い掛けて来ててしかも恋人宣言をしたらしいんです」
うおっ。それは、俺と錫の事だ。もう三年生の教室までそんな話が伝わっているのか。
「恋人宣言? 二股?」
猫服先輩が伏せていた目を上げ俺の目を見つめると小首をかわいく傾げながら俺を優しく責めるように聞いて来た。怖い。生理的に怖いってこういう事の気がする。これが猟奇的って事なのだと思う。出て来ている。猫服先輩のどす黒い部分が外に出て来ているうっ。
「あれが勝手にやっている事です。気にしないで下さい」
俺が叫ぶように言うと猫服先輩が静かに諭すように言った。
「じゃあ、それが本当だという証を下さいな」
これは。この流れは。刺すのか? また刺されるのか? おお。そうだ。ナイフは俺の教室だ。だが、待て。猫服先輩の事だ。ナイフをもう一本持っているのかも知れない。
「まただんまりですか? やっぱり、私の事、嫌いになったんじゃないですか?」
俺はぶんぶんと否定するように頭を激しく左右に振った。
「証は、ええっと、ないですが、本当です。信じて下さい」
猫服先輩が小さく頭を左右に振った。
「駄目です。証です。そこにあるじゃないですか。ニット帽を脱げばいいんです」
なるほど。それか。それがあった。だが。自分でもどんな言葉が表示されるか分からないのにそれを見せられるのか? 怖いとか殺されるとか、そんな言葉が表示されたら猫服先輩はどう思う? 猫服先輩を取り返しのつかないほどに傷付けてしまうのではないか?そして、そうなった時、俺はどうなってしまうのだ?
「きえいっ」
猫服先輩が気合の入った鋭い声を上げたと思うと素早い動きで俺の被っていたニット帽を奪い取ってしまった。
「先輩、何を」
俺は咄嗟に両手で額を覆い隠した。
「もう。しぶと過ぎです」
猫服先輩がニット帽を投げ捨てると、俺に圧し掛かって来て俺の両手を額から引きはがそうとして来た。
「放すんです」
「だ、駄目です」
「どうしてですか?」
「それは、どうしてもです」
「どうしても見せないつもりなんですか?」
「はい。どうして見みせないつもりです」
猫服先輩が俺の手から自分の手を放した。
「分かりました。最終手段です。この手だけは使いたくありませんでした。君が悪いんです。素直に言う事を聞いてくれてればよかったんです」
猫服先輩が唇をすぼめてにゅっと突き出すと、じゅるじゅると音を鳴らしつつ口の中から唾を出したり引っ込めたりした。
「な、なんですかそれ?」
じゅるりっという音とともに唾が引っ込むと猫服先輩が口を開いた。
「手を放さないと唾を垂らしますよ」
おおうっ?! なんだ? なんだこの拷問。こんなの初めてだ。
「ああう? どういう事です?」
あまりの事に二度聞きしてしまったいっ。
「唾を垂らされたくなかったら手を放せという事です」
猫服先輩がまたじゅるじゅると音を鳴らしつつすぼめて突き出した唇の中から唾を出したり引っ込めたりし始めた。
「あのー、先輩。俺が唾を垂らされて喜ぶ系の人だったらどうするつもりなのですか?」
はっきり言って、猫服先輩の唾なら垂れて来ても嫌ではない。でへへへへと変態チックに喜ぶ事はさすがにないが、本当だぞ。本当に喜んだりはしないぞ。しょうがない人だな先輩はと思える程度の事だ。
「でえええー? 今なんて言いました?」
猫服先輩がじゅるんっと唾を勢いよく引っ込めると酷く狼狽した様子で言った。
「すいません。もう一度言うのはちょっと」
これはもう一度言うと絶対に誤解されるパターンだ。
「じゃ、じゃあ、再会しますよ?」
猫服先輩がまた唇をすぼめて、もういちいち説明するのも面倒なのでこの拷問の事を唾じゅるじゅると命名する、を始めた。
「もう垂らしていいですよ。俺は受け止めますから」
なんだろう? 猫服先輩の桜の花弁のように淡いピンク色をした唇から垂れた唾が俺の顔に触れた瞬間、自分の中にある新しい扉が開くような気がする。いかん。ぞくぞくして来た。ああーん。もう垂れるうぅー。もうすぐ顔に唾がああぁー。
「何してんだこら。このクソ女。兄ちゃまを拉致ったのか? そうなのか?」
錫の怒鳴る声がして、猫服先輩の顔が俺から遠ざかって行った。錫の馬鹿。もう少しで俺は。はっ。俺は何を言っているのだ?
「急になんですか? 放して下さい。今、大事な所なんです」
「放すかボケ。何が大事な所だ。お前、兄ちゃまに何してた? あれだろ? エッチなビデオとかでやってる奴やろうとしてたろ? このクソビッチがさせねえぞ。ぜってえーさせねえからな」
「今時エッチなビデオなんて見ません。見るならインターネットかブルーレイかせめてDVDで見ます」
錫と猫服先輩がプロレスの力比べのように手と手を合わせて組み合い睨み合う。
「何をしている。錫。やめろ。俺と先輩は変な事はしていない」
俺は立ち上がりながら言った。
「兄ちゃま。そう言わされてるんだね。もう大丈夫。錫が守ったげる」
「いい加減にして下さい。私はただ颯太君と話をしていただけです。おかしな事はしてません」
「嘘つけ~」
錫がぐいぐいと猫服先輩を押し、猫服先輩がブリッジの要領で背中をそらし始める。
「嘘なんてついてないです~」
猫服先輩がぐいーんとそらしていた背中を真っ直ぐにしてから逆に曲げて行き今度は錫が背中をそらし始めた。
「先輩もやめて下さい。冷静になりましょう。錫ももうやめろ。俺は大丈夫だから」
俺は二人に近付くと二人の肩に手をのせた。
「今やめたら負けてしまいます」
「兄ちゃま。こうなったからにはとことん」
俺の方に顔を向けた瞬間、錫が目を真ん丸くして口を、んと発声した時の形にしたまま動かなくなった。
「錫の奴、どうしたんだ? 急に動かなくなったぞ?」
「颯太君。額、見えてますよ?」
「ぐええええ」
俺は死に掛けた魚のように叫びながら、魚は叫ばないが、もし叫んだらこんなだろうという感じの叫び声を上げながら慌てふためきつつ額を手で隠すと猫服先輩が投げ捨てたニット帽を探す為に視線をあちこちに走らせた。
「兄ちゃま? なんで?」
錫が放心状態のようになりながら呟くように言い猫服先輩から離れると俺の方に向かってすがりつこうとするかのように両手を伸ばしながら近付いて来た。
「あ。逃げましたね?」
猫服先輩が少し怒ったように言った。
「兄ちゃま? どうして?」
錫が伸ばしている両手を俺は思わず受け止めるように片手だけで集めるようにしてそっと掴んだ。
「錫? どうした? 変だぞ? 大丈夫か?」
錫の目は俺の顔に向けられていたが、どこか虚ろ感じで本当に俺を見ているのかどうかは分からなかった。
「兄ちゃま。どうして? なんで? おかしいよ。錫の前であれだけ嫌がってたのに。なんで? なんでこの女の前で帽子脱いでるの? 錫は駄目なの? 錫の事嫌いなの?」
言葉の途中から錫の目に生気が戻って来て、錫の声が叫ぶような声になった。
「落ち着け。そんな事ない。俺は」
俺はそこで慌てて口を噤んだ。俺は、今、なんて言おうとした? 錫の事が大事だと言おうとしたというのか?
「何? 兄ちゃま何? 今なんて言おうとしたの? 見せて。見せてよ。おでこ見せて。錫にもちゃんと見せてよ」
錫が俺に掴み掛って来て俺の額を隠す手を引きはがそうとして来た。
「駄目だ。やめろ錫。こんな物見せられるか。離れろ」
俺は相手が錫だという気安さから少し乱暴に錫の両手を払い除けた。
「痛い。痛いよ兄ちゃま。なんで、錫には、冷たいよ。兄ちゃま酷いよ」
錫が顔を俯けて静かなかすれた声で言った。
「そんなに痛いようにはしていないはずだ。錫。もう教室へ戻れ。俺も戻る」
「そうですね。教室へ戻りましょう。颯太君、さっきは投げてしまってごめんなさい。ニット帽拾って来ますね」
猫服先輩が俺達から離れて行く。
「兄ちゃま、あいつの事好きなの?」
相変わらず俯いたまま錫が言った。
「あいつって誰の事だ?」
猫服先輩の事だという事はもちろん分かってはいるが、答えたくないのでそう言った。
「あいつだよ。あのクソビッチ」
錫が少しだけ顔を上げると猫服先輩の方を睨んだ。
「錫。そんな言い方はするな。お前だって女の子だろう? そういう言葉遣いはやめろ」
「なんで答えないの? そんなに言いたくないの?」
錫がまた顔を俯けた。
「しつこいぞ。お前には関係ないだろ? 俺が誰かの事を好きだろうが嫌いだろうがお前に口を挟まれる言われはない」
錫が顔を上げると真っ直ぐな目で俺の目を見つめて来た。
「好きなのに? 錫は兄ちゃまの事が世界で一番好きなのに? それでも関係ない?」
俺は錫の真摯な眼差しの圧力に耐え切れなくなって顔を横に向けた。どう答えろと言うのだ? これだけの想いとあれだけの物を俺に与えてくれた錫に対して俺の答えは残酷過ぎる。俺にはそんな残酷な答えを伝える事なんてできない。
「兄ちゃま。何も言ってくれないんだね。あ、あ、兄ちゃまのホモ鬼畜変態野郎」
錫がだーっと駆け出した。
「あばっ」
屋上の床の所々にある継ぎ目の小さな段差に躓き錫がびたんと派手な音をたてて転んだ。
「錫」
俺は錫に向かって走り出した。
「うわーん。鼻血ぶー。こうなったら全面戦争だあー」
俺が錫の傍に行く前に叫ぶようにそう言いながら立ち上がると錫がまた走り出してそのまま屋上から出て行ってしまった。俺は足を止めるとあの様子なら大した怪我などはしていないだろうと思いながら錫の出て行った屋上の出入り口の扉を見つめた。
「早く傍に行ってあげた方がいいと思います。それと、これ」
いつの間にか俺の横に来ていた猫服先輩がニット帽を差し出して来た。
「ぎえええっ。忘れていたー! ありがとうございますありがとうございます」
俺は自分でもどこからそんな声が出るのだろうか? と思うような叫び声を上げながら急いでニット帽を被ると、ちゃんと額が隠れているかどうかを何度も手で触って念入りに確認した。
「大丈夫ですよ。ちゃんと隠れてます」
「ありがとうございます。まったく。錫の奴と来たら困ったものです」
猫服先輩がゆっくりと歩き出したので俺も足を踏み出した。
「額の事、妹さんに夢中になって忘れてたんですね。君が駆け出して名前を呼んだ時、妹さんが振り向けばよかったんです。うん? やっぱりよくないかな? 私としては君と妹さんの仲が悪くなれば嬉しいんですけど、でも、それはそれで駄目な気もします」
猫服先輩が言いながら小首を傾げた。
「先輩は錫の事を意識し過ぎです。錫はただの妹です。それ以上でもそれ以下でもない」
「そうですか? じゃあ、今はそれを信じちゃいましょう」
猫服先輩が嬉しそうに言ってきらきらと瞳を輝かせながら微笑んだ。
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