■アルスト山
第5話
そろり。崖下を覗いてみる。自分が足場としている岩石は、遥か奥まで垂直に、切り立った壁のように続いている。悪魔の唸りみたいな風が吹き上げてきて、内蔵が縮み上がる感覚に襲われる。
恐怖。どうせなら、恐怖は盗んでくれて良かったのに。
もう、半分ほど来ただろうか。気をつけて歩きながらも、周囲への警戒は怠らなかった。どこにコルロルが潜んでいるか分からない。あの真っ黒な翼を休め、うたた寝でもしてようものなら、そこに矢を打ち込んでやる。そのために、弓は大男に預けていない。
「ねえ、どうするつもり?」、前を歩くリーススが、こちらを振り返って声を潜めた。「どんぐりのこと、早くライアンに説明してよ。あれはガルパスおじさんに渡すんだから」
先頭に二人の大男、ガルパスおじさん、あたしとリーススを挟んで最後尾にライアンがいる。一列にならないと歩けない道幅なのだ。後ろのライアンの様子を伺ってみる。彼は体力があるようで、この崖道にも息を上げず、目が合うと笑ってみせた。
「それよりもリースス、おじさんのところに住むつもりなの?」
「もしそうなら、あなたはどうするの?」
「分からない。やつを仕留めるまでは、なにも決められない」
「そうそう! リースス、レーニス!」、リーススの前でおじさんが叫ぶ。この辺り一体に響き渡る声だった。「どんぐりは持ってきたかね?」
「ええ、持ってきたわ。リュックに入ってる」、リーススも叫び返す。
「えー? なんだってえー?」、声がでかいのは、耳が悪いせいなのかもしれない。
「リュックに入ってる!」
「そうか。あれはねえ、君たちが持ってないといけないよ。君たちの父さんが言ってたんだ、必ず二人の手元に置いとくようにってね」
「なんでえー?」
「えー?」
「なんで私たちが持ってないといけないのー?」
「はあー?」
リーススは大きく息を吸った。
「どんぐりは、なんで私たちが持ってないといけないのー?」
「知らん」、たぶん、リーススはおじさんを崖から落とそうか、一瞬迷ったと思う。「君たちに持ってて欲しいと、そう言っていたよ」
「なんだ、おじさんが欲しかったわけじゃないんだね」
「そうみたいね」、彼女は少し息を切らして答えた。
「大丈夫?」、一連のやりとりを見ていたライアンが、後ろから顔を近づけて言った。
「大丈夫。あたしたちのものなら、あたしたちが誰に渡したって問題ないはず。それよりあなた、本当にあのバケモノを殺せるの?」
「はは、俺を誰だと思ってるんだ?」、彼は右の口端だけ上げて、自信満々に笑ってみせた。よく、笑う人だな。あたしもリーススも、笑うことなく暮らしているから、新鮮だ。でも彼が誰かは知らない。
「誰なの?」
「ライアンと言ったら、地元じゃ知らないやつはいない英雄さ。馬にまたがり、伝説の剣を振るう!」、ライアンは颯爽と剣を取り出し、敵を切りつける素振りをした。
「バッサバッサと敵をなぎ倒し、わっ!」
彼の姿が、煙のごとく消え去って見えた。足を踏み外したらしく、崖から落っこちそうになっている。両手で崖端をなんとか掴んでいるが、指先だけを引っ掛けて全身が投げ出されている。あたしは素早くマニュアル千五十八を引用した。『崖から人が落ちそうなところに遭遇した場合、』
「ライアン―――……!」、『名前を叫び、腕を伸ばす』。あたしは力の限り腕を伸ばした。一拍置いて、前を向く。「よし、いくか」
「違う」、前進しようとしたところで、リーススに額を叩かれた。「『よしいくか』はマニュアルにないわ。引き上げるの」
「は、早くしてくれ頼む!」
大きな男を引き上げるのは、大変な労力がいるものだった。あたしとリーススで左右から腕を掴み、彼は崖に足を滑らせながら引っかかりを探し、なんとか這い上がってくる。
「ふうーーー」、登ってくると、ライアンは胸をなでおろし、軽快に息を吹いた。「死ぬかと思った」
「あなた、本当に英雄なの?」、あたしは訝しむばかりだ。
「おいおい、今のはちょっとしたヘマだが、ヘマは誰にでもある。さっきも言った通り、俺はこの剣で悪党を」
不自然に言葉が途切れる。彼の剣は崖下だ。ライアンは一度崖を見たが、さっと髪をかきあげて笑った。
「どうやら君が二つの武器を持っているのには、こういう理由があったらしい」
「今の労力で、どんぐり半分減」
「そんな、ちょっと待ってくれよ。英雄は嘘にしても、やる気はあるんだ」
「やる気だけあってもねえ」、あたしは首を傾ける。
「なぜそんなに、どんぐりにこだわるの?」、こんな危険を冒すことの報酬が、一升のどんぐりなんて割に合わない、というニュアンスで、リーススは尋ねた。
「そりゃあ、ロマンさ」、彼は鷹揚と腕を広げる。「危険にこの身を晒して手に入れたものを、なんでもないもののように姪っ子に渡すんだ。もちろん、それを手に入れるためにどんな危険があったかなんて話しはしない。だって無粋だろ? そんなのは英雄のすることじゃない。大変な思いで手に入れたものを、ただそっと差し出す。豪華絢爛な建物が、日夜汗を流す男たちの地道な勤労によってできているように、はたまた美しい女性の身に付ける宝石が、水にさらした砂の中から手探りで発掘されるように……」、ライアンは自嘲めいた遠い目をする。「影の努力にはロマンがある。いかすだろう?」
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