第72話 聖地で見たアニメ
一時間前に遡る。
~ ~ ~
ここはJR
「もう改札をくぐろう。早めに行動したほうがいいんだ」
なにせ飛行機に3度も乗り遅れたことがある身だから、電車にはもっと遅れる自信がある。それの予防だ。
「…………」
百合香ちゃんと手をつないで歩いているから、すれ違う人皆に見られる。花火大会終わりで、人が大勢いるから恥ずかしいのなんの。
「百合香ちゃん、乗り換え間違えないように手をしっかりつないでおくんだぞ?」
「……」
「迷子になったら大変なことになるからな。って俺も迷子になるかもしれないんだけど。俺が迷子になったら必然的に百合香ちゃんも迷子にな……って、それを言うと百合香ちゃんが迷子になったら必然的に俺も迷子かハハハ」
「……」
俯いた百合香ちゃんは、全然前を向いてくれない。本当のことを言うと、前を向いてくれないから手をつないでいるのだ。盲導犬ならぬ、盲導人間。
「死にたい」
なんて言われて、どう接したら良かったのか。分からない。
あの時、何も言えなかった。仮に「それはダメだ」と言ったとして、そんなことは分かってるに決まってるし。「生きてればいいことあるよ」なんて言うのも、鬱陶しいだけだったろうし。他のどの言葉も、その両極端の間に収まってしまう内容にしかならない気がして、結局何も言えなかった。
「あ、この茶壺郵便ポストって聖地だ。撮ろう」
軽くつないでいた手を、しゅるんと放す。
またしても百合香ちゃんのスマホを勝手に使う俺。返してくれと言われてないから使ってもいいということだ。よって、めちゃくちゃ使っている。一言たりとも返すよう言われてないし、全然いい。むしろ百合香ちゃんのために写真を撮っているようなものだ。
「やっぱり何枚も撮っちゃうよ、どうしようもないわ。できるんなら全部のアングルから撮りたいなぁ」
パシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャ
こんなことしてれば百合香ちゃんを元気づけられるかもしれない。って考えてるけど、そんな思考は一割にも満たない。残りの九割以上は聖地に興奮して酔狂している。できることなら、この壺をひそかに盗みたい。ああっ、聖地よ!
パシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャ
「お兄さん、電車来ました」
「えっ⁉ 何で早く言ってくれな……あー」
目の前を、京都行きの電車が走り去っていく。
「うわ、くっそー。また乗り遅れかよ」
今、飛行機に3度も乗り遅れた愚民っぷりが治ってなかったと判明した。
「次は……二十分後か」
「お兄さん」
くい、と俺の服の裾が引かれる。服の表面にシワができ、体に締め付けられる感覚が。
「川に飛び込んで死にたいので、一緒についてきてほしいです」
「……」
どんな誘いだ。しかも、断れない系の誘い。自殺前の人間とは思えないほどの髪の毛のサラサラ具合で、どうしても触ってみたい。百合香ちゃんのセミロングこげ茶髪の毛は川の流れのように綺麗で、俺の手なんか一瞬で流されてしまうのだ。流されるということは、必然的に
「はぁ……サラサラ」
「ちょっ」
俺の手を跳ね飛ばす。普段はなでなでしてって言ってくるくせに。
「へんたい!」
「……それは、完全に正解だな」
綺麗なコバルトブルーの瞳で睨まれる。上目遣いで、可愛いことだ。
「本気なんです。私、本気で川に飛び込んで、死ぬんです。だからついて来て」
トゲのある口調で物騒なことをのたまい、俺の裾をぐいぐい引く。
「仕方ない、自殺補助でもするか」
びくっとした百合香ちゃん。引っ張られる服も震える。
「あ、ありがとうございます。絶対死ねるようにしてくださいね」
「川の中で溺死できなかったとしても安心するんだ。明日、高いところから落下させる」
「わ、私は、
「はいはい」
大きなため息を二度もついたせいか、単に動いているからか、クロップドTシャツの背面の生地にしわができて、はたはたと揺れている。
*
白い街灯がぽつんとあるだけの、暗いベンチ。そこは今朝、百合香ちゃんが独り占めしたせいでコンフリクトが発生し、結果俺がそそくさと逃げることとなった聖地だ。通称「
普通の木製ベンチに座った俺と百合香ちゃん。俺の左隣りに、百合香ちゃんが座った。
(あ! お祭り回の
なんという偶然。神の遊びか、俺たちの配置と百合香ちゃんの服装がまさかの一致。俺の服装がこんなじゃなければ完全一致だったのに……。
「川に飛び込まないじゃないか」
「焦らなくても川は逃げませんから」
「ったく」
ザアザアと流れる音だけが響く。さっきまであんなに花火がドンドン鳴ってたのに、まるで真夏の幻夢のように思える。
「百合香ちゃんの髪の毛ってサラサラだよな。死ぬまで触ってたいよ」
「摩擦熱で焦げます。へんたいお兄さん」
「今日は楽しかったか?」
「楽しかったです。昨日も。お兄さんと一緒だと落ち着きます」
「聖地巡礼っていうより、俺と一緒にいたかったのか?」
「僅差でお兄さんと一緒にいたい欲が勝ちました」
「接戦を勝ち抜けて嬉しいよ。ちなみに俺は大差で聖地巡礼
「なっ」
俯いている百合香ちゃんの横顔をずっと見ていたが、ようやくこっちを向いてくれた。
「ひどい! ひどいです、ひどい!」
バシッ、バシッと、相対的に重いしばきを加えられる。全然痛くないけど。
「ブラも付けずに勝手についてきて、何言ってる」
白い街灯に、百合香ちゃんの開いたコバルトブルーの瞳が光る。
「それはもういいでしょ! いちいち蒸し返さないでください、恥ずかしいです!」
「じゃあ、ノーブラ旅行より恥ずかしいものはないよな?」
「あ、当たり前です……」
警戒するように、身構える百合香ちゃん。暗がりで、花火大会終わり。見る人が見ればアオカンの開始に映るかもしれない。
ふと川面を見れば、真ッ黒い。だくだくと豪快に流れていて、人を呑み込む気満々といったところか。
「じゃあ、ノーブラ旅行の次に恥ずかしいことも言えるよな? 例えば、さっき山で言ったことの意味とか」
「……」
「もし俺が百合香ちゃんだったなら、言えるぞ? だって、フルチンで電車乗ってフルチンで保安検査場抜けて、フルチンのまま空港で名前呼ばれて、最後に相手の年上お姉さんに見られるんだろ? それって、もはや死んだようなもんだ。何もかもどうでもよくなって、もう何でも言える状態になってる。ある意味最強の状態だな」
川に向かって口笛を吹く。川蛇なんてものはいないからノープロブレム。
「……へ!」
またも俯いた。さっきとは違い、膝の上で固く拳を握っている。拳と肩がプルプル震えている。
「変態!」
バシッと肩を叩かれる。
そのまま、手のひらが俺の肩を離れない。
「……アニメは青春を疑似体験できて幸せに浸ることができるものです」
湿った声。ようやく本題に入るようだ。
「でも実際は、そんな理想の世界はない。だって
「テニス部の人としか会ってないぞ?」
「分かるんです! テニスのユニフォームも、校舎から聞こえたユーフォニアムの音も、学校で一生懸命に過ごしてる姿の一部だって!」
実際にはテキトーにやってる部活もあるかもしれないのに。ま、
「私なんか、私なんかッ。ゴミ捨て場なんかに座ってゴミ捨て場で高校生活送って、何も頑張ろうとしてない! 何もしようとしないで、……、何とも関わろうとしない、ただのゴミで!」
ゴミ捨て場に座る勇気はある意味才能だろうに。
「あの人たちの生活を目の当たりにして、実際に自分と他の高校生が、違いすぎることを認識して、苦しくなって」
俺の肩に、圧力がじわじわ加わっている。
「現実を思い知らされて、そのうえでアニメ見て、……登場人物が、自分とは比較にならないくらい濃密な時間を過ごしている人に見えてしまって……」
肩にかかる圧力がどんどん強まる。そろそろ痛い。痛いって伝えるべきだろうか。
「アニメなのに、アニメの中で生活してる人たちが」
だらり、と肩から手が落ち、ぐぐぐ、と手が二の腕を圧迫しながら下り進む。
「アニメの中で生活してる人たちが、初めて現実の人に見えて……アニメの中で生活してる人たちが、なんか、すごく……赤の他人に見えて……」
頭が肩にのしかかる。
「アニメって架空じゃないんだって……現実なんだって……現実にも普通にあることなんだって……。現実の高校生もアニメの高校生も、マトモな高校生で、私はゴミで、自分からゴミ捨て場に捨てられて、こんなの高校生ですか?」
ぐすっと鼻をすする音が、川のざあざあとうるさい音に混じって消える。
「普通の高校生と比べて私、かけ離れてる。
サラサラした髪の毛を、一陣の風が乱暴に混ぜる。何本か、髪の毛が俺の目に入る。
思わず瞬きしたら、もう一回瞬きしたくなった。もう髪の毛は入ってないのに、それでも足らなくて、もう一回瞬きする。
イライラしているのとも違う。同情とも違う。悲しいのとも違う。何なのか分からないが、瞬きをしたい自分がいる。
川はざあざあとさっきから同じ音を立てて、音に一つも変化がない。
「何もない人って死んでもいいと思いませんか。だって何もないんですから! 何もないってことは、もう、死んでるってことです! でも……私生きてる……だから死にたい!」
崩れ落ちた百合香ちゃん。思いっきり俺の膝に顔をぶつける。
「なんもないなら死んだ方がいいでしょ! ねぇ! 何もないのに私は、どうして生きてるの! 死にたい! 今すぐ、死にたい!」
何発もの拳が膝に振り下ろされ、ドンドンと衝撃が走って痛い。神経が反射を起こして、つま先が上がったり下がったりしている。
泣き声が、川の音をかき消す。膝の痛みは、百合香ちゃんのやりきれない思いをどれくらい反映しているんだろう。俺なんかの膝の中で泣いて、百合香ちゃんの気持ちがどれだけ吐き出されたんだろう。
俺には解決するすべもなく、特効薬も持ってなく。ただ、サラサラした百合香ちゃんの髪の毛を、焦げる寸前まで撫でるしかできず。
(電車……また乗り過ごしちまった)
電車のことをわざと思って、自分が無力だと悟った現実をみずに流す。
しばらく百合香ちゃんは泣いた。俺は百合香ちゃんの頭がほんのり熱を帯びるほど、撫でていた。
~ ~ ~
『次は、
今、百合香ちゃんは対面座席で舟をこいでいる。
「……ごめん」
俺は、どうしてあげれば良かったのか分からない。ただ撫でるしかできなくて、ごめん。そんなしょうもないことしかできなくて本当にごめん。
また、サラサラの髪の毛を撫でる。気持ちよくて、落ち着ける。撫でるしかできないって俺、もしかしてただ単に気持ちいい髪の毛で落ち着こうとしてただけなんだろうか。
そんなつもりは毛頭ないけど、実際には、バカみたいに、なでなでしかできなかった。
大人で、9歳も上なのに、何も分からない。
何も……
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