第62話 とあるお茶屋さんにて

「ブラ、コンビニで買えたんだな…………」


 ここは辻実つじみというお茶屋さん。


 百六十年前に創業した辻実。宇詩うし茶復興のいしずえを築いた初代・辻実右衛門の志を受け継ぐ老舗である。伝統的なお茶からモダンなお茶まで、お茶のたくみが誇りとこだわりの味を届けてくれる。


「買えませんでしたっ」


 千利休は「守破離」を説いた。「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」の「守」「破」「離」を引用したもので、修行のプロセスを表している。

 第一段階、

 師匠や先生から教えられたことをちゃんと守る。

 第二段階、

 教えられた以外のことを探求してみて、より自分に合った状態を発見する。

 第三段階

 教えと自らの発見で得たことを自在に生かして、新しい境地へ至る。


「でも、胸が」


 昨日見えていた突起はない。ということは、買えたんじゃないのか?


「絆創膏は売ってました。前にも付け忘れてたことがあって、恥ずかしいなって思いながらゴミ捨て場に座ってたんですけど、あの鞭の人が大丈夫? って心配してくれて。本当のことをちゃんと話したら、絆創膏を貼ればいいのよって言ってくれて。無理矢理腕を私の胸に入れて、一瞬のうちに絆創膏を貼ってくれて。ちょっと痛かったし、すごく恥ずかしかったですけど、今では感謝しています」


 高さ五センチくらいの、歪みが入ったガラスコップに注がれた煎茶を、顔を赤らめてすすっている。


「今、絆創膏を貼ってるのか?」


 ぶはっ


「き、聞かないでくださいっ」


 お茶が机に吹かれた。


 ありがたいことに、店員さんがすぐにやって来てふきんを渡してくれた。


「ゲホゲホ……」


 むせている百合香ちゃんだが、ちゃんと台を拭いている。


 まだ服を買ってないから百合香ちゃんは昨日と同じTシャツ姿なのだが、大勢の巡礼者から逃げた俺を追いかけて走った上に、お茶を吹いたせいで一部がTシャツの上に染みている。


 つまり、絆創膏を貼っている胸がスケスケとなっている。突起は確認できないが、なんとも不自然な胸の稜線。貼り方が甘かったのだろう。


(生地薄っ。不良品か?)


 ある意味では高級品だが……。

 

 いかん、煩悩が。ほうじ茶を飲んで煩悩を死滅させよう。


 このほうじ茶は「にほん香り」という茶銘。宇詩うし独特の「砂焙法すないりほう」で焙じあげている。高い焙煎香と、まろやかでさっぱりした味。まるで、心の腐食部分が焙煎され、水に流されていく心地だ。


「百合香ちゃん、金髪くるくるヘアに鞭で打たれて本当に嫌じゃないのか?」


 なるべく百合香ちゃんの顔を見るために、強引な質問をした。


「え?」


 けろっとして顔を上げる。すごく一生懸命拭いていたんだろう。


「鞭で打たれたり、乞食扱いされたり、普通は屈辱だと思うんだが」


 すでに頭を下ろして、お盆を持ち上げ、机を拭いている。


「お兄さんがいるから平気です。それに、無視されるよりよっぽどいいです。ゴミ捨て場では、私の存在感が抽出されてるんです」


 お茶、というのを意識して「抽出」というワードチョイスをしたのかもしれない。でも、焙煎機または焙煎の場所がゴミ捨て場って最悪だ。


「抽出って表現はミスチョイスだったな百合香ちゃん」


「なんでですか?」


 けろっとして、顔を上げた。何も考えていなかったようだ。俺が無駄に思考した僅かな時間がもったいない。


「お兄さんが変なこと言うから、せっかくのお茶が無駄になっちゃいました。この煎茶、すごく美味しかったのに」


「ごめん」


 すでに店員を呼んでいる百合香ちゃん。百合香ちゃんは今、金持ちなのだ。あの金髪くるくるヘアのおかげで。


「この、つたじるし? 玉露ください」


 きっと正しく読めてない。


「かしこまりました、蔦院つたのいん玉露ですね」

「はい、つたのいん玉露です」


 キリッとして言い直した。時すでに遅しだろうに……。


 店員がフフッと鼻で笑ったような気がしたが、多分、鼻に抹茶の粉でも入ったのだろう。なにせここは老舗お茶屋さん。抹茶粉末の一つや二つ、客席に飛び交っていてもおかしくはない。


「読めなくても仕方ないよ、俺も読めなかったから」

「わ、私は読めてましたっ。でも、お兄さんを喜ばせるために、敢えて間違えました」


 またしても顔が赤くなって、慌てて俺のお茶を横取りして飲み干す。


「なっ」

「意地悪なこと言った罰ですっ。お兄さんのせいで煎茶が台無しになったんですから、横取りされても文句言わないでくださいね」


 それは別にいいんだが、


「でも間接キスになるんじゃないか? 気にしないならいいけど。俺もいちいち気にしないし」


 たかがJK。俺から見れば子供にすぎない。「轟け! ユーフォニアム」に出てくるしっかりした人間でもないし、むしろ平均より子供じみたJK。間接キスとか、別に気にしてねぇし。


「間接キスより、直接キスがいいです。でもお兄さん、条例とかなんとか言っちゃって、どうせしてくれないの分かってますから。お兄さんの初・間接キスを奪いました。そういうことです」


 ごくごく。ぷはっ。


「……」


「あれ、お兄さん? 眉間が大変なことになってますけどどうしたんですか?」


 純朴な瞳で質問してきた。何の違和感も、何の恥じらいも抱いてないっぽい。


「くっ……不健全娘が」


「私決めてるんです。高校の卒業式が終わった日、絶対お兄さんとセックスするって。お兄さんのこと大好きですから、痛くても平気です。お兄さんに処女を奪われるわけですから、痛みは強烈な記憶となって……いたっ!」


 思わず脚を蹴ってしまった。


「痛いです! 生足蹴らないでください! いたぁ……」


 周りの視線が、すべて俺に向かっていたのだ。あまりにも恥ずかしい。


 俺にだけなにかと積極的な娘に、また辱められた。結局いつも俺が恥ずかしい思いをしている。いい匂いさせて抱きつかれたり絡みつかれたり、無防備な胸の突起を見てしまったり。

 ゴミ捨て場に座っているところを拾わされたり。


蔦院つたのいん玉露でございます」

「あ! ありがとうございます!」


 すでに嬉しそうに玉露をごくごく飲んでいる。


 周囲の人はつつましげにちびちび飲みながら、耳障りにならない程度の声でおしゃべりを楽しんでいる中で。


「うっ!」

「こ、こらっ」


 玉露の渋みと深みが理解できなかった子供。あまりにもハードルが高すぎたのだろう。


「ごくっ」


 鼻をつまんで、勢いよく飲みこんだ。まずい給食を食べる時の術だ。


「これ、変な味ですっ。なんか、お茶じゃないです」


「まったくこれだから子供は。ちょっと飲ませて」


「あっ」


 歪み一つないグラスを横取りする。


「うむ」


 じっくりゆっくり、玉露の深い味を口に広げる。


「青海苔みたいな味、だな。確かに、そこらへんの自販機で売ってるお茶とは違う。玉露入りとか書いてるペットボトルのお茶もあるけど、本物の玉露とは全然違うなぁ」


 ちびちびと飲む。玉露に秘められた深い味を、さらに舌上ぜつじょうで分析するために。


「ちょ、お兄さん勝手に……」


「ああ、まろやかだ。甘味もある。なにより高級感が口にあふれる。市販品が飲めなくなりそうなくらいに」


 ちびちびと飲む。


「お、お兄さんやめて」


「ん? どうしたんだ?」


 またしても顔が赤くなっている。間接キスには動じなかったし、何か別の要因があるのだろうか。


「あ! 絆創膏がはがれたのか? そりゃ大変d……」


「違いますっ。そんなの私の胸を見れば、分かることですっ」


 髪の毛をくるくるして、目を横に向けている。机の下でつんつんと俺の脚を踏んでいるし、肩がもじもじうごめいている。

 何だ? そんなに恥ずかしがって。


 とうとう俯いた百合香ちゃん。そのまま数秒して、


「え、何やってるんだ?」


 机の下に潜ってしまった。


「初期微動を感知しただけです……お兄さんの感覚器官は鈍ってるから、感知できなかったみたいですけどね!」


「何言ってる、出てこい」


「こ、こい⁉」


「ふざけてないで出てくるんだ、人が見てるぞ。お茶も返すから」


 百合香ちゃんの席にグラスを戻す。


「い、いりません! で……でも」


 机に潜ったまま、俺のチノパンをぎゅっと握る百合香ちゃん。


「お兄さんも、飲んじゃダメです……」


「わけわからん!」


 ごく、ごく、ごく。 コト。


「え……え? 飲んじゃったんですか⁉」


 コカンの下から顔を出してきた百合香ちゃん。

 

 何度かいかがわしいビデオで見た状況に、また煩悩の種が芽生える。玉露の甘味がまだ口に残っているせいで、甘い気持ちが俺を襲う。


「こ、こら! 早く出てこい、他のお客さんに迷惑だ!」


 なるべく小声で言う。俺の声がもともと小さいから確かに小声ではあるものの、内容が全然ダメだ。あの人たちとかお茶の歴史について語ってるのに、なんだ俺たちのこの会話は。


「なんで机の下に隠れたんだ? 説明くらいしてくれ」


 机の下をのぞき込み、そこにいる美少女JKにやんわり話しかける。上から見ると、それなりにある胸のふくらみに目が移動してしまい、さらなる煩悩が俺を襲う。


「う、」


 俺のチノパンを右手でぎゅっと握ったまま、左手の親指と薬指をこすりあわせている。つむじの下に見える頬がぽぉっと赤く染まり、さらに下にちょっぴり覗くくちびるがピクッと動いたかと思うと――


「奪われるのって、恥ずかしい…………」


「!」


 思わず息をひゅっと吸い込んでしまった。店内に香っているお茶の、深くて甘くて香ばしい匂いが、鼻に一斉に流れ込む。


 

 後ろでシャカシャカシャカと抹茶を立てる音が小刻みだ。

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