第59話 宿へ向かう
「一枚残さず消すことないだろ、めっちゃ頑張って撮ったのに!」
俺たちは橋の手前にある交差点で言い争っている。
「だから、恥ずかしくなったんです。さっきからそう言ってます」
「どっかで復元できないのか?」
「したくないです、恥ずかしいから」
電車に乗っている間、俺は恥ずかしげもなく百合香ちゃんのしでかしに抗議していた。「あそこでの生足は二度と撮れないかもしれないのに」とか、「転ぶ前のはっとした顔と転んだ後の半泣きな顔を聖地で拝むことはもうない」とか、冷静になればあまりにも痛々しいことを電車内でしゃべりまくっていた。
この交差点は、
また、この橋は、絵組が唐突に顧問から吹かなくていいと言われた日の夜、「うまくなりたい」と川に向かって叫んだ聖地だ。特別になりたいという思いを持つことの意味、そしてそれを成し遂げるのがいかに大変なことなのか、絵組はまさにここで知ったのである。
時間帯は夜で、街灯と、宇詩橋の路面からにょきっと突き出たライトのオレンジめいたほの熱い光が、夜という舞台で彼女たちの熱した心を照らしていた。
今、街灯はナトリウムイオンのアーク放電によってオレンジめいた光を発している。確実にアニメに出てきた色合いなのに、なぜか景色が安っぽい。
「ああああ!」
「いきなり大きな声出さないでください! うるさいです!」
「ごめん……」
いつもうるさい美少女JKに、うるさいと言われてしまった。「うるさいです」というその声のほうが圧倒的に大きかったのに。
「いやその、いいこと思いついたんだ。ここの交差点で交差火澪が髪を掻き上げてさ、謎めいたほほ笑みで『応間さんらしいね』って言っただろ? あれやってみて」
聖地と百合香ちゃんの組み合わせ写真がすべて消失した今。俺のスマホに残された僅かな容量を、聖地と百合香ちゃんの組み合わせ写真に捧げたい。
「できるわけないですっ、私と澪を比較するのはやめてくださいっ」
ばしばし肩を叩かれる。デニッシュより大事なスマホを落とされるわけにはいかないから、強く握る。
「そんなつもりは」
「結果的にそうなるじゃないですかっ。もし澪がここにいたら、白い目で見られますよっ」
「確かに……」
白い目どころか、見向きもされないんじゃないだろうか。
「それじゃあ、この橋を撮影しよう。聖地だから」
「言われなくても撮ります。30枚くらい」
「多すぎだろ」
数分後。俺たちは橋の上を歩いていた。
60枚もの写真を撮ってしまい、またしても聖地とは関係ないものをバシャバシャ撮りまくってしまった。
「これ、いる?」
真っ黒い空の写真。
「いらない……ですね。この10枚の写真はどうですか?」
同じアングルから撮影された宇詩橋。
「1枚だけで十分だな。なんでこんなに撮ったんだ?」
「分からないですけど、多分興奮してたんだと思います……」
実は、百合香ちゃんが狂ったように撮影していた背後で、俺は百合香ちゃんが撮影に没頭する背中を撮影できた。でも、顔が写ってない上に、暗いせいで生足が肌色じゃなくなっている。この写真で満足することはできない。
「明日また撮ろう。今日の反省を生かして、明日は撮り過ぎないようにしような」
「はい。明日はちゃんと服を着て、お兄さんに撮影されても恥ずかしくない格好をします」
「服、それしか持ってないけどな」
はっとして、橋の上で立ち止まる百合香ちゃん。
「今気づいたのかよっ」
そう言った途端、俺もはっとする。
「百合香ちゃん、宿はどうしてるんだ?」
百合香ちゃん、二度目のはっ。
「百合香ちゃん、下着はどうするんだ?」
百合香ちゃん、三度目のはっ。
旅行には準備が必要だ。そして百合香ちゃんは、全く準備をして来なかった。それもそのはず、ただ単に俺を追いかけてきたのだから。
「ど、どうすれば…………」
この世の終わりみたいな顔をして、地面にぽすっと座り込む。
「私、財布とスマホしか持ってない、です…………」
カタカタ震え始めた。熱帯夜の中、凍えそうなほどに。
「安心するんだ。チェックインしたら百合香ちゃんが部屋を使えばいい。俺はネカフェ行くから」
「服がないです……」
「安心するんだ。俺の服とチノパンを貸してやるから」
「嫌ですっ。ほ、本当は着たいけど、でもせっかくお兄さんと聖地に来てるんですから、可愛い私を見て欲しいですっ」
窮地に立たされてもなお強欲な娘が、ここにいる。そして驚くべきことに、彼女は高校生なのだ。そう、「轟け! ユーフォニアム」に出てくる彼らと同じ、高校生なのだ……。
「そうですね、夏祭りのとき
「明日、服屋で買えるだろうけどさ。でも俺としては和装がいいな」
お茶で有名な観光地でもあり、事前に調べた情報によると、日中多くの女性観光客がゆかたなどの和装をして出歩いているらしい。ぜひ百合香ちゃんにも着てほしいものだ。
「でも、それだと巡礼しにくいんじゃ」
「確かに」
聖地の中には、山もある。山を登らなきゃならないのだ。そして、上り坂もある。聖地である
「それで、下着はどうするんだ?」
「……コンビニ」
パンツは、コンビニで売っているだろう。
しかし……
「コンビニでブラって売ってるかな」
「……」
なぜ百合香ちゃんが寝間着姿を恥ずかしいと思ったのか。様々な理由があるだろうが、最も大きな理由は多分、胸だ。
寝間着は、寝やすい格好である。Tシャツの下にブラを付けるのは、寝にくい格好である。したがって百合香ちゃんは、一日中ノーブラだったと考えられる。
「う、売ってます! ほら!」
スマホの画面を突き付けてきた。何やら、カップ付きのキャミソールというのが売っているらしい。
「もし売り切れてたら、明日も何も付けづに過ごすことになるな」
考えられる、というのは、推測。
実際にはどうだったかというと、今日一日ずっと百合香ちゃんを撮影していたから分かる。あの中国人がほほ笑んでいたのも、おばちゃんたちが脚についてばかり言及していたのも、百合香ちゃんの胸に謎めいた二つの突起があったからだ。
皆、百合香ちゃんがノーブラであることを気づかないように気遣っていたのだ。目的は異なるだろうが……。
今更、うずくまって胸を隠す百合香ちゃん。
俺が撮影した写真には、もちろん謎の突起も写っていた。そこにフォーカスした写真も、何枚か撮った。
怒らずに恥ずかしがっただけなのは、俺が百合香ちゃんに認められているからだろうか。それはさておき今日、百合香ちゃんに認められていない赤の他人たちが、こっそり見ていたはずだ。許せない。くそっ。
「安心するんだ。……きっと売り切れてないさ」
「うう……」
荷物はキャリーバッグに全部詰め込んでいる。背中は空いているのだ。
持ち手からすっと手を離し、しゃがむ俺。
「ほら」
すささ、と、背中にくっついてきた。胸を俺の背中に隠すためだろう。
「お兄さん、本当は絆創膏持ってたんじゃないですか」
「ごめん、持ってなかった」
「やっぱり、私の胸、見られてたと思いますか」
「見ないようにはしてたかもな。……あの巨人はガン見してたけど」
つぷん、とした感触が、背中の左右に伝導する。
「今度会ったら殺します、あの中国人」
「逆に殺される。簡単に抱えられて、どこにも勝ち目なかっただろ」
「勝てますっ! お兄さんと一緒ならっ!」
「嫌」
百合香ちゃんが背中で動き回るもんだから、くりくりとした感触が背中の左右を振動させる。
旅行において準備が必要だということを理解してくれたところで、俺たちはようやく橋を渡り終えた。川が、ザアザアと鳴っている。
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